形なき死神と、物理主義の霊体
「ゲホッ……、ガハッ……!」
肺から吐き出した血が、空気に触れた瞬間に赤い氷の粒となって床に散らばる。
Aランク上位フロアボス『コキュートス・レイス』が放つ蒼い霧に包まれ、俺は氷の床に膝をついていた。
外側からの攻撃を弾く【竜鱗装甲(極)】も、呼吸と共に体内へ侵入してくる「霊体(冷気のガス)」の前には無力だった。血管を流れる血液がシャーベット状に凝固し始め、心臓が凍りつくような激痛が全身を苛む。
【超速再生】が必死に細胞の壊死を防いでいるが、それはただ「死ぬまでの時間を引き延ばしている」に過ぎなかった。
『……足掻クナ、人間。貴様ノ無知ナル暴力ハ、形ナキ我ニハ届カナイ。……大人シク、氷ノ彫像トナレ』
広間を埋め尽くす蒼い霧の中から、地獄の底から響くような声が轟く。
直後、俺の頭上の霧が急速に凝縮し、巨大な「氷の戦槌」の形を成して振り下ろされた。
――ドガァァァァァァンッ!!
「ぐあぁぁッ!?」
とっさに交差した両腕でガードしたものの、凄まじい物理衝撃に身体が弾き飛ばされ、鏡の床を数十メートルも転がった。
ひしゃげた両腕の骨が【超速再生】でメキメキと音を立てて治癒していくが、激痛で視界が明滅する。
「マスター! バイタルが危険域です! トラ子ちゃん、魔法的な対抗策はないのですか!?」
「……現在、マスターの広背筋の80%を並列処理に回し、霊体への干渉術式を演算中。
ですが……マスターの【知力:20】という絶望的な基礎数値が足を引っ張り、術式の構築が間に合いません……!」
脳内で、二つのAIが悲痛な声を上げる。
形がない敵。殴れない敵。
知力20の俺にとって、それは文字通り「攻略不可能」なバグキャラに等しい。
(……クソッ。俺の脳筋戦法も、ここまでか……?)
薄れゆく意識の中で、美桜の顔が脳裏をよぎる。
俺がここで凍りつけば、あいつを救う特級エリクサーは誰が手に入れる?
歯を食いしばり、よろよろと立ち上がった俺の視界で、再び蒼い霧が蠢いた。
今度は、霧の一部が鋭い「氷の槍」へと実体化し、俺の心臓めがけて射出される。
俺は首を捻ってそれを躱した。氷の槍は俺の頬を掠め、後方の壁に深々と突き刺さって砕け散り、再び霧へと戻っていく。
「……ん?」
その瞬間、俺の鈍い脳みそに、一つの「違和感」が引っかかった。
「おい、トラ子。こいつ……『形がない霊体』なんだよな? 俺のパンチはすり抜けたよな?」
「はい。ヤツの本体は霧そのものであり、物理干渉を完全に無効化します」
「じゃあ……なんでこいつは、わざわざ『氷のハンマー』や『氷の槍』を作って、俺を物理で殴ってくるんだ?」
俺の素朴な疑問。
霊体であり、ただ周囲の温度を下げて俺を内側から凍死させる力があるのなら、そのまま霧として漂っていればいずれ俺は死ぬ。
だというのに、こいつは頻繁に霧の一部を「実体化」させ、俺を物理的に破壊しようとしてくるのだ。
「あっ……!! マスター、それです!!」
俺の疑問に、誰よりも早く反応したのは、インテリのトラ子ではなく、常に俺の戦闘(物理的挙動)をサポートしてきたAI――エク子だった。
「マスターの言う通りです! 普通の霊体魔物は、呪いや絶対零度の空間そのもので相手を殺します。
こんな頻繁に、しかも高密度の『物理攻撃』を仕掛けてくるなんて、霊体のセオリーから完全に外れています!」
「どういうことだ、エク子!」
「ヤツは、霊体でありながら『物理的に敵を叩き潰すこと』に執着している異常個体なんですよ! だからこそ、最初にあの巨大な『氷帝騎士の鎧』を纏っていたんですよ! ……そして、霊体がこれほど強力な物理干渉(実体化)を行うためには、絶対に不可欠なものがあります!」
エク子が視界に展開したホログラムに、一つの赤いターゲットマーカーが灯る。
「『魔核』です! 現実世界に干渉するための、物理的なアンカー! ヤツは自身の核を、一番最初に破壊された『氷帝騎士の胸部装甲の破片』の中に隠し、それを霧の中で高速移動させているんです!」
俺の目が、カッ、と見開かれた。
トラ子の冷徹な声が、エク子の推論を裏付ける。
「……物理法則と魔力流動の観点から検証。エク子先輩の推論は100%正しいです。実体化のプロセスにおいて、霧の中心となる『重心』が存在します。……座標、特定しました」
視界の端。
広間を包み込む濃密な霧の中で、ひときわ蒼く、そして不自然に動いている「砕けた鎧の破片」がハイライトされた。
あれが、形なき死神の「唯一の心臓(実体)」。
『……チィッ! 下等生物風情ガ、我ガ理ニ気ヅイタカ……!!』
弱点を見破られたコキュートス・レイスの纏う空気が、明確な「焦り」と「殺意」に変わる。
広間中の霧が一斉に一点に収束し始め、コアを守るように巨大な氷の防壁――絶対零度の竜巻を形成し始めた。
「マスター! ヤツがコアを守りに入りました! あの竜巻の内部はマイナス200度近い極低温です! 飛び込めば、マスターの肉体でも数秒で活動停止します!」
「構うかよ。……殴れる場所が分かったんなら、あとは俺の仕事だ」
俺は、凍りついた息を細く吐き出し、深く腰を落とした。
右手に、まどかからもらった『魔法の黄色い袋(絶対破れない)』を固く握りしめる。
「……トラ子、俺の肉体のリミッターを全部外せ。細胞が壊死しようが知ったことか。
【超速再生】の治癒スピードを上回る速度で、あの竜巻をぶち抜く」
「……了解しました、マスター。貴方のその泥臭い生存本能に、私の全演算を賭けましょう。……右腕の筋肉スペック100%解放。対象の軌道予測、完了」
バキバキバキッ!
俺の全身の筋肉に限界を超える力を流し込まれ、悲鳴を上げる。
切れた筋繊維がコンマ数秒で再生し、その摩擦熱が、凍りついた体温を強引に引き上げていく。
血の滲むような蒸気を全身から吹き出しながら、俺は氷の大地を爆発させて前傾姿勢で突撃した。
『来ルナァァァァァッ!!』
コキュートス・レイスが、無数の氷の刃を竜巻から射出する。
だが、そんなものは見向きもしない。
俺は顔の前に『絶対破れない黄色い袋』を盾として構え、飛来する氷の刃をすべて強引に弾き飛ばしながら、絶対零度の竜巻のど真ん中へと身を投じた。
ピキンッ!!
凄まじい冷気が、俺の皮膚を焼き、細胞を凍りつかせる。
意識が白濁しそうになるが、舌を噛み切るほどの力で顎に力を込め、ただ前へ、前へと踏み込む。
「そこだァァァァァッ!!」
猛烈な吹雪の奥。
トラ子のマーカーが示す一点――霧の中で脈打つ、蒼い魔核を捉えた。
俺は盾にしていた黄色い袋をサッと退け、全魔力を注ぎ込んだ【竜鱗装甲(極)】の右拳を、限界まで引き絞る。
「形がねえなら……俺が、形ごと粉砕してやるよッ!!」
一切の妥協のない、魂の右ストレート。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!
俺の拳が、氷の装甲の破片ごと、その奥に隠されていたコキュートス・レイスのコアを正確に打ち抜いた。
絶対的な硬度を誇っていたはずのコアに、亀裂が走り、甲高い砕音と共に木っ端微塵に粉砕される。
『――――ア、ガァァァァァァァァァッ!?』
コアという「アンカー」を失った霊体は、形を維持することができなくなり、断末魔の叫びと共に急速に霧散していく。
絶対零度の竜巻が嘘のように掻き消え、鏡の広間に再び静寂が戻ってきた。
「ハァッ……、ハァッ……」
俺は右拳を突き出した姿勢のまま、ゆっくりと膝をついた。
全身から血と蒸気を上げながら、俺は確かに、Aランク上位の天敵を、己の物理の力でねじ伏せたのだった。




