柊宗一郎との会話1
新宿のけたたましい喧騒から少し離れた、神楽坂。
石畳の路地裏には、表通りのネオンとは無縁の、仄暗くも風情ある街灯が静かに影を落としていた。
隣を歩くギルドマスターの背中は、一切の迷いなく夜の路地裏の奥へと進んでいく。
俺はその背中を追いながら、これから対面する男のことを思い、少し前の苦い記憶を思い出していた。
やがて片桐が立ち止まったのは、看板すら出ていない、隠れ家的な小料理屋の前だった。
外観は古びた古民家だが、一歩暖簾をくぐると、ふわりと香る上質な出汁の匂い。
そして静寂が支配する洗練された空間が広がっていた。
店主とおぼしき初老の男は片桐の顔を見るなり、何も言わずに奥の座敷席へと顎でしゃくった。
「行くぞ、結城くん」
「……はい」
ギシッと鳴る廊下を進み、一番奥のふすまの前に立つ。
片桐が静かにふすまを開けると、そこには既に、一人の男があぐらをかいて座っていた。
「――遅かったな」
上質な和装で冷酒を煽っていた男。
『黒犬』のボス――柊宗一郎が、鋭い眼光をこちらに向けていた。
「……それと、久しぶりだな、結城」
宗一郎が、冷ややかな、しかしどこか探るような声で俺に言葉を投げかけた。
俺の胸の内に、複雑な感情が渦巻く。
俺はかつて、この男の組織である『黒犬』に身を置いていた。
だが、ある事件をきっかけに、俺はこの男から「裏切り者」「無能」の烙印を押され、組織を追放された身だ。
怒り、後ろめたさ、そして底知れない相手への警戒。
様々な感情を無理やり押し殺し、俺は短く息を吐いた。
「……お久しぶりです、柊さん」
俺の硬い挨拶に、宗一郎は小さく鼻を鳴らした。
座敷に上がり、片桐と並んで宗一郎の対面に座る。
張り詰めた空気が漂う中、俺はずっと気がかりだった一つの問いを口にした。
「本題に入る前に、一つだけ聞かせてください。……まどかは、無事ですか?」
柊まどか。
彼女は、俺が命がけで救い出した女性だ。
彼女は龍牙に拉致され、人質として監禁されていた。
俺が彼女を見つけ出した時、彼女は自力で立つことすらままならないほど衰弱しきっていた。
あの細く冷たくなっていた体が今どうなっているのか、ずっと気がかりだったのだ。
宗一郎は手元の猪口を置き、淡々と答えた。
「ああ。すぐに信頼できる身内の病院に入院させた。
監禁による衰弱が酷く、一時は危険な状態だったが、今はすっかり回復に向かっている。
……お前には、礼を言わねばなるまいな」
「……そう、ですか。よかった」
俺は深く、安堵のため息をついた。
少なくとも、彼女が生き延びて平穏を取り戻しつつあるという事実だけで、あの時の俺の苦渋の決断は無駄ではなかったと思えた。
「さて」
宗一郎が視線を俺から外し、隣に座る片桐へと向けた。
「この前以来だな、豪」
「ああ。そうだな宗一郎」
かつてSランクパーティー【銀の天秤】で共に死線を潜り抜けた元冒険者同士。
表の世界のトップであるギルドマスターと、裏の世界のトップである黒犬のボス。
二人の間には、何十年という歳月と立場の違いを超えた、当人たちにしか分からない重い空気が流れていた。
「皮肉はよせ。お前が俺を呼び出すなんて、よほどの事態だろう。
しかも、一度俺が組織から追放した男を連れてくるなんてな」
宗一郎の言葉に、片桐は表情を引き締め、単刀直入に切り出した。
「お互い、探り合いをしている暇はない。単刀直入に聞くぞ、宗一郎」
片桐の声が、一段と低く、鋭く響いた。
「お前の率いる『黒犬』は――大罪スキルを擁する闇の組織、【NULL】に関わっているな?」
その問いに、座敷の空気がピタリと凍りついた。
俺は宗一郎の僅かな表情の変化も見逃すまいと、彼を強く睨みつける。
宗一郎は、冷酒の入った徳利を持ち上げ、ゆっくりと自分の猪口に酒を注いだ。
トクトクという澄んだ音だけが、不気味なほど鮮明に部屋に響く。
そして、猪口を飲み干した宗一郎は、一切の悪びれる様子もなく答えた。
「――ああ。関わっている」
その瞬間。
俺の頭の中で、何かがブチッと弾ける音がした。
「ふざけるなッ!!」
気づけば、俺は座布団を蹴り飛ばして立ち上がり、身を乗り出して宗一郎の胸ぐらを掴み上げていた。
「お前らが資金洗浄して、素材を流してる組織が、裏で何をしてるか分かってんのか!? 人の記憶を奪い、精神を破壊し、化け物に変えるような外道どもの集まりだぞ!
お前は、自分の利益のためにあいつらに手を貸してたのか!」
俺の怒声が座敷に響き渡る。
俺が流したドロップアイテムの金が、結果として茜を奪った憎き組織を潤していたという事実が、俺の臓腑を焼くような怒りとなって爆発していた。
「待て! 待て結城くん、早まるな!」
片桐が慌てて立ち上がり、俺の腕を強引に引き剥がした。
「離してください、ギルマス! こいつはッ……!」
「落ち着け! 宗一郎の目を見ろ、こいつはまだ全てを話していない!」
片桐の叱責に、俺は荒い息を吐きながら宗一郎を睨みつけた。
胸ぐらを掴まれ、皺だらけになった服の襟を、宗一郎は鬱陶しそうに手で払いながら、薄く笑った。
「……血の気が多いな。ただの末端だったお前が、随分と牙を剥くようになったじゃないか。だが、勘違いするな」
宗一郎は再びあぐらをかき直し、深い溜め息を吐いた。
「俺自身が、あるいは『黒犬』という組織のトップとして、NULLの連中とビジネスをしているわけじゃない」
「……どういうことだ?」
「言葉通りの意味だ。黒犬は確かにNULLと繋がっているが……それは、組織の名前と裏ルートのインフラを『貸している』に過ぎない。
俺の預かり知らぬところで、組織の内部の人間が勝手にNULLと癒着し、主導して動いているんだ」
宗一郎の言葉に、俺と片桐は顔を見合わせた。
「お前ほどの男が、組織の内部での勝手な動きを黙認しているというのか?」
片桐の怪訝な問いに、宗一郎は自嘲気味に笑った。
「裏社会のシンジケートなんてものは一枚岩じゃない。
複数の派閥が常にシノギを削り合っている。
……NULLと強固なパイプを作り、今の黒犬の裏稼業を牛耳りつつある派閥のトップ。
それが誰か、結城、お前なら察しがつくはずだ」




