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止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―  作者: 明石竜


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12/12

エピローグ

 柱時計が修理されてから、一年以上が過ぎた。

 祖父の家には、今も柱時計がある。


 二月の朝、ミオは目が覚めた。

 声はしなかった。

 しばらく前から、そうなっていた。朝の時間が来なくなった。昼の時間も、夜の時間も。ある日を境に、声は、しばらく聞こえなくなっていた。

 でも、時間は消えたわけじゃない。

 最後に話したのは、いつだっただろう。

 秋の終わり頃だったと思う。夜の時間が「そろそろかもしれない」と言っていた。

「時間の声が聞こえる人は、ずっと聞こえるわけじゃない。その人にとって必要な時間が終わると、声は遠くなる」

「わたしはもう、必要な時間が終わったってこと?」

「そういうことだよ。悪いことじゃない。ちゃんと次に進んでるってことだから」

「寂しい」

「うん。でも、聞こえなくなっても、時間はそこにある。ただ、声にならないだけで」

 それが最後だったかどうか、ミオには分からない。気づいたら聞こえなくなっていた。終わりの挨拶はなかった。

 でも、それでいい気がした。ミオは、もう寂しくなかった。


 制服に着替えて、階段を下りた。

 台所でお母さんが朝ごはんを作っていた。味噌汁のにおいがした。

「おはよう」

「おはよう。今日寒いよ、ちゃんと着込んで」

 いつもの朝だった。

 

 学校に向かう途中、商店街を通った。

 八百屋のおじさんが店先に野菜を並べていた。目が合うと、「おう」と言って手を上げた。ミオも手を上げた。

 魚屋のおばさんが「寒いねぇ」と言った。

「寒いですね」と答えた。

 文房具店の前を通ると、おじいさんがガラスを拭いていた。ミオに気づいて「学校か、頑張れよ」と言った。

 一年以上前、思い出を集めに来たとき、初めて話した人たちだ。今は、通り過ぎるたびに言葉を交わす。

 時間が流れて、それが残った。


 中学校の門のところで、トキが待っていた。

「ミオ、遅い」

「早すぎるんだよ、あなたが」

「時計職人は時間に正確じゃないといけない」

「もう職人みたいなこと言うね」

 トキは少し笑った。笑うと少し子どもみたいな顔になる。

 二人で並んで歩いた。

「春から、父さんの工房で週一回教えてもらうことになった」

「本格的だね」

「時間がかかるのは分かってる。でも早く始めたい」

「好きだから?」

「好きだから」

 迷いのない答えだった。ミオはそれが好きだった。

「柱時計、今も調子いいよ。先週父さんが点検して、問題ないって」

「よかった」

「あの時計、僕が一人で整備できるようになるまで、まだ時間かかると思うけど。でもいつかはそうなりたい」

「なれるよ」

「どうして言い切れるの」

「一年前も同じこと言ったじゃない。好きな気持ちが腕に出るって」

 トキはまた黙った。少し照れているのが分かった。


 昼休み、河村さんと屋上近くの廊下で話した。

 河村さんは最近、生徒会の活動を始めた。人に声をかけるのが苦手だったはずなのに、今では委員会の連絡を自分で回している。

「変わったね」

「変わった?」

「前は人に話しかけるの怖いって言ってたじゃない」

「今でも怖い。でも、怖くても話しかけてる人を見てたら、やってみようかって思って」

「誰を見て?」

河村さんはミオを見た。

「ミオちゃんを見て」

 ミオは少し驚いた。

「わたし、そんなに上手くないよ。今でも迷うし、うまくいかないことも多いし」

「それでも声かけてたじゃない。迷いながら、やってたじゃない。それでいいんだって思った」

 ミオは窓の外を見た。

 二月の空は青くて、遠くまで澄んでいた。

 誰かの時間が、誰かに渡っていく。そういうことが、静かに起きていた。


 帰り道、ミオは祖父の家の前に立った。

 今は誰も住んでいないが、荒れてはいない。お母さんが時々来て、掃除をしている。庭の金木犀は、去年の秋もちゃんと咲いた。

 玄関の前に、また花が供えてあった。

 白い小菊だった。誰かが今日も来た。

 ミオはその花を見た。

 一年間、誰かがここに来て花を供え続けた。知らない人が、今も続けている。あの時計の音を覚えている人が、まだいる。

 ミオは玄関に鍵を差した。

 中に入ると、奥の部屋まで行かなくても、かすかに音が聞こえた。

 カチ、カチ、カチ。

 柱時計は今日も動いている。蒼井さんが修理してから、一度も止まっていない。

 

 ミオは縁側に座った。

 庭が見えた。冬の庭は枯れているけれど、金木犀の木はそこにある。春になれば芽が出て、秋になればまた咲く。

 祖父と並んで座った縁側だった。

 何も話さなかった夏の夕方だった。

 今は一人だけれど、それでもここにいると、何かが近い感じがした。

 声は聞こえない。

 でも、聞こえなくなっても、時間はそこにある。夜の時間がそう言っていた。

 ミオは空を見た。

 冬の青い空に、白い雲が一つ流れていた。

 おはよう、と思った。声には出さなかったが、思った。

 朝でもないのに、おはよう、と。


 風が吹いた。

 縁側を、冷たい風が通り過ぎて庭の枯れ草が揺れた。金木犀の枝も揺れた。

 その風の中に、かすかに何かがあった気がした。

 声ではない。でも、声に似た何かが。

 おはよう。

 ミオは少し、笑った。

 聞こえた気がしただけかもしれない。それで十分だった。


 柱時計が鳴った。

 

 ゴーン。



 低くて、少し丸い音が、部屋の空気をゆっくり揺らした。

 金色の振り子が、左右に静かに揺れている。

 止まっていた時計は、もう止まっていない。

 蒼井時計店で修理してもらってから、柱時計は毎日同じ音で時を刻んでいた。


 右へ。

 左へ。


 ミオは、しばらく振り子を見ていた。

 振り子の動きは、とても静かで、でも確かだった。



 窓の外では、冬の光が庭に落ちている。

 金木犀の木は、もう葉だけになっていた。

「いい音だね」

 久しぶりに声がした。


 夜の時間だった。

「うん」

 ミオは小さくうなずいた。

「長く眠っていたからね。時計も嬉しいんだと思う」

 柱時計が、また鳴った。


 ゴーン。


 その音を聞きながら、ミオはふと思った。


 最初にこの時計の声を聞いた日。

 振り子は止まっていて、部屋は静かで、何も動いていないみたいだった。


 あのときの自分は、まだ時間のことを何も知らなかった。

「ミオちゃん!」


 元気な声がした。

 朝の時間だった。

「今日も晴れだよ! 空、すごくきれい!」

「うるさい」

「うるさくない!」


 その後ろで、昼の時間がのんびり言った。

「まあまあ。朝はいつも元気だからね〜」

「昼は眠そうすぎる」

「眠いのは仕様だから〜」


 三つの声が重なって、少し賑やかになった。

 ミオは思わず笑った。


 前と同じだ。

 何も変わっていないみたいだった。


 でも、本当は少しだけ違う。

 ミオは柱時計の木に、そっと手を当てた。

 ひんやりした木の感触が、手のひらに伝わる。


 この時計を作った人。

 直してきた人。

 守ってきた人。


 その中には、祖父もいる。

 祖父はよく、この時計を見ながら言っていた。

 ——また時間が動いたな。

 その意味が、今は少しわかる。

 時間は止まらない。

 でも、止まっていた時間だって、また動き出す。

 ミオは振り子を見ながら、小さく言った。

「……また時間が動いたね」

 夜の時間が、やさしく言った。


「うん」


 そのとき、ふっと、もう一つの気配がした。

 遠くで、誰かが静かに笑ったような気がした。

 止まった時間だった。

 でも、声はしなかった。

 ただ、少しだけ離れた場所で、静かに見ているような気配だった。

 ミオはそれを感じながら、振り子を見ていた。


 右へ。


 左へ。


 時計は、正直に動いている。

 トキが言っていた言葉を思い出した。

 時計は嘘をつかない。

 窓の外で、冬の風が木の葉を揺らした。

 カチ、カチ、カチ。

 柱時計は今日も時を刻んでいた。

 ミオは、その音を静かに聞いていた。

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