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一 ~旅路~

 

 なぜだ。なぜ俺は、歩き続けている。

 この暗闇の先に、何があるのかも分からないというのに。

 

 何かが聞こえてくる。左右から俺を囲むように、人混みの喧騒が迫ってきていた。

 それらは、テレビの砂嵐のようにまるで無機質で、歩き続ける俺には見向きもせず、肩をぶつけて通りすぎてゆく。

 今の俺は、道端の石ころだ。


 それでも俺は歩き続ける。どれだけぶつかられても、足を踏まれても、ただ先へと進み続ける。

 なぜだ。なぜ俺は、歩き続けている。


 やがて、人混みは消えた。

 ようやく立ち止まり、俺はふと後ろへ振り返る。なぜ振り返ったのかは分からない。

 そこには、顔の見えない誰かが、こちらを向いて立っていた。


 途端に、暗闇に響く、一発の銃声。

 放たれた銃弾は、俺の胸を真っすぐに貫いていた。



   ♢ ♢ ♢ ♢ ♢



「!!…………夢か」


 夢を見ていたらしい。それにしては、ずいぶんと生々しい夢だった気がする。

 だが、悪夢の余韻に浸ろうとする前に、俺の興味はすぐに外の世界に引き寄せられた。

 見覚えのない、深い森の景色。緩やかな川の流れる音。そして、三日月の心もとない光が染み込んだ、星の浮かぶ夜空。

 ここは、どこだ……。


「やっと起きたか。おい、最後の一人が起きたぞ」

 声はすぐ横から聞こえた。曲がった大木の幹に、一人の若い男が座っている。

 薄汚れた白い服、というより、ただの大きな一枚布を被せられたような恰好をしている。靴も履かずに、素足で土を踏んでいた。

「お前は、誰だ?」

「お気楽だな。ずっとお前が起きるの待ってたんだぞ」

 鋭い目つきのまま、男は気だるそうに反対側に視線を移す。その先には、さらに理解が進まない景色が映った。


「良かった、いつまでも起きないので心配でした……」

「とりあえず、全員無事みたいだね」

 一体どういうことだ。

 視界に映ったのは、さっきから音が聞こえていた、緩やかに流れる川。そして、その川辺で体を震わせている、三人の若者たちだった。

 女性が二人に、男性が一人。俺を含めた全員、隣の木に座っているあの男と、服装も裸足なのも同じだった。そのどれもが、俺には全く身に覚えのない状況だ。

 思考を動かそうとした途端、口から大きなくしゃみが飛び出る。さっきから体が震えていると思ったが、よく見ればそれもそのはずだ。

「まずいよ。こんなビショビショのままでいたら、全員凍え死んじゃうよ」

「分かってる。でもしばらくは我慢して」

「そんな~……」

 鼻水を垂らしながら、砂利の上を歩き回る細身の男。彼の言う通り、俺たちは全員、水浴びでもしたように全身びしょ濡れだった。

 状況から考えて、この川に入っていたとも考えられるが、さっきも言ったように、全く身に覚えがない。

 俺は真っ先に、目の前の姉貴肌な方の女に、問いを投げかけていた。

「おい、何でもいいから教えてくれ。ここはどこだ。お前たちは誰だ」

「それが分かったら苦労しない。ていうかその感じ、やっぱりあんたも何も知らないみたいだね」

「……まさか、誰も何も知らないのか」

「そう。目が覚めたら、この川辺でこの五人が気を失ってたの。誰もここがどこか知らないし、ここに来るまでのことも、何も覚えてない。あんたもそうでしょ?」


 信じたくはなかったが、彼女の言葉を聞いてから、自分の記憶を遡って確信する。

 自分が何者なのか、なぜここにいるのか。それだけでなく、これまで過ごしてきたはずの人生の何もかもが、記憶からすっぽりと消え去っていた。

「記憶喪失の五人の人間が、揃って同じ場所で目を覚ました、ということか」

「どう考えてもおかしいです。一体、何があったんでしょうか」

 後ろに座りこんだままの小柄な女が、体を震わせながら口を開いた。

「ねえ!もしかしてさ、僕たち誘拐でもされちゃったのかな?ほら、子供を誘拐して、他の国に売り飛ばすとかよくあるじゃん……!」

「だったら、そんなデカい声出すもんじゃねえぞ。近くに誘拐犯がいたらどうする」

あの横暴そうな男の言葉に、細身の男は、整った顔を両手で覆い「しまった……」とこぼした。俺よりも、こっちの方がよっぽどお気楽に見えるのは気のせいか。


「ちょっと、どこ行くの」

 姉貴肌の女の声に振り向くと、横暴そうな男が腰を上げ、深い森の奥に足を進めようとしている。

「お前らといても(らち)が明かない。その辺を調べてくる」

「ダ、ダメだよ!誘拐犯がいたら、一人じゃ危ないだろ!」

「じゃあお前も着いて来いよ。いざとなったら囮に使わせてもらう」

 一度立ち上がった膝を、がっくりと落とす細身の男。地面の砂利から小さな石を拾い上げ、目の前の川に向かって弱弱しく投げつける。石ころが水面を割る音は、水流の音に呆気なく搔き消された。そして、そんな彼の様子を見る前に、横暴そうな男の姿は、森の奥に消えていた。

 ああいう人間の辿る末路は二つに一つだが、あいつはどちらに転ぶだろうか。

「まったく、自分勝手すぎてどうしようもないね」

「仕方ないですよ、まとめ役とかいないですし」

 いまだ声が震えている様子の小柄な女。砂利の上に腰を下ろし、頑張って背筋を伸ばしているようだが、残念ながら、余裕のなさが全身から滲み出ていた。そしてその背中を、姉貴肌の女が力を込めてさすり始める。

 こうなったら仕方がない。俺は一歩前に出る。

「なら、俺が今からまとめ役になってやる。それで解決だ」

 全員が、一斉に俺の顔を見上げる。だが、その表情はどれも冷たい。

 姉貴肌の女が、すぐに立ち上がった。

「別にいいんだけどさ、さっきからずいぶん上から目線だね、あんた」

 予想外の返答に、俺は一瞬言葉に詰まってしまった。後ろにいる二人の様子を見ても、どうやら同意見らしい。

「別に、見下しているつもりはない。お前たちじゃまとめ役は無理だと思って、」

「だからそういうところ。そんな態度じゃ、少なくとも、さっきのあいつの信頼は得られないんじゃない?」

 そう吐き捨て、彼女はまた、小柄な女の横に座りこんだ。

 正直、信頼を得る気など最初から無かったのだが、きっとこれも口に出せば、また意味もなく口論になるだけだろう。今は、彼女の正論を受け入れておくことにした。

「お腹減った〜……。お家に帰りたい」

「そのお家がどこかも分からないでしょ」

「帰りたいものは帰りたいんだよ!人として当たり前だろ?」

 ああまったく。この状況で、よくそんな言い合いをする元気が有り余っているものだ。こちとら、さっきから腹の虫を黙らせることに必死だというのに。

 そんなことよりも、今は他に考えるべきことが山ほどある。三日月の位置から見て、この肌寒い夜はまだまだ明けそうにない。濡れた体のままここに居座っていても、すぐに熱を出して倒れるのがオチだ。

 何か手を打たねばと考えていた時、近くの草木が揺れた。


「おい、全員ついて来い」

 木々の間から姿を現したのは、あの横暴そうな男。様子から見るに、ただ偵察から帰ってきたわけではないらしい。

「何か見つけたの?」

「いいから来い」

 細身の男の不安そうな問いに答えることもなく、またあいつはすぐに森の中へ消えていく。少なくとも、今だけはあいつの言葉は信用できると、なぜか確信を持った自分が不思議だった。

 後ろに腰を下ろしている三人に「行ってみよう」と声をかけ、俺は先陣を切って歩き出す。少し間をあけて、後ろから続く三人の足音が聞こえてきた。



 吹き抜ける風に呼応し、草木が(うた)い踊る中、俺たちは裸足で土の上を歩いた。

 近くには人気を感じることもなく、寝泊りできそうな小屋が見えてくるようにも思えない。あいつは何を見つけたというのだ。

 ほんの一、二分歩いたところで、前を歩いていたあいつは足を止めた。

 そして、その視線の先にあったものは、全く持って予想に反するものだった。


「……銅像?」

 そこにあったのは、二頭の牛の銅像と、その後ろにロープで繋がっている、布で覆われた馬車の荷台。牛も、荷台の車輪も動きそうにはないが、おそらく実物大のためかなりの大きさがある。

 見るや否や、小柄な女が突然「私知ってます!」と大きな声を出した。

「この形は確か『幌馬車(ほろばしゃ)』と呼ばれるもので、西部開拓の時代に、移動手段としてよく使われていた、」

「ねえ、馬車って言ってるけど、これ牛じゃないの?」

「実際は、馬よりも体が丈夫な、牛が扱われることが多かったらしいんです。大陸を移動する際は、荷物も多いし、途中で病気にかかってしまうリスクも高く、」

「うんちくはその辺にして。それで、この幌馬車の銅像が何なの?」

 小柄な二人の楽しそうな会話は、姉貴肌の女によって呆気なく切られる。記憶が無いとはいえ、やはり多少の知識は脳に残っているらしい。知識と記憶は紙一重、といったところか。

 横暴そうな男は、ため息を一つ吐いてから口を開いた。

「後ろの荷台がこの大きさなら、五人ぐらい中に入れる。一晩だけなら、土の上で寝転ぶよりマシだろ」

 確かに、この荷台の大きさなら、一夜を明かすには十分だ。この幌馬車が本物だったら、なお良かったんだがな。

 だがこの幌馬車、どこか違和感がある気がするのは俺だけだろうか?

 荷台の木材の小さな割れ目に、布が被さった骨組みの僅かな歪み。実によく出来ている。


「……妙だ。なぜ牛は銅像なのに、荷台の方はやけにリアルなんだ?」

「言われてみれば、確かに」

 牛は銅像なのに、荷台は見るからに本来の素材で作られている。これが銅像として作られたものなら、なぜこんな作り方をしている。そもそも、この場所になぜこんなものが。

「別にどうでもいいだろ。いいから早く入るぞ」

 俺の話に聞く耳も持たず、横暴そうな男はそそくさと荷台の方に歩いていき、後ろの布を手でめくり上げる。

 仕方なく、姉貴肌の女と共に、荷台の後ろの方へ足を進めたところで、俺たちは気がついた。横暴そうな男が布をめくり上げたまま、目を丸くして固まっていることに。

「ちょっと、どうしたの?」

「……何だよ、これ」

 奴の目は、布に覆われた荷台の中に向けられている。怖いもの見たさに、後ろから残りの小柄な二人も顔をのぞかせる。

 奴の興味に惹かれるように、俺たちは全員で、荷台の中をゆっくりと覗き込んだ。そして、すぐに自分の目を疑った。

「これは……」


 誰が言うでもなく、俺たちは気づけば、ゆっくりと荷台の中へと入っていった。



   __________



「何だこれ…………す、すごい!!」

 その景色を見るなり、細身の男は子供のように軽やかに駆け出す。

 さっきまでなら、首根っこを掴んで地面に座らせていたところだが、正直、今となってはそれどころではない。

「何なのこれ……」


 荷台の中にあったのは、明らかにあの外観には見合わない広さの空間。

 木造建築の暖かい色相に、中央に置かれた大きな円テーブルとたくさんの椅子。上には高い天井が広がり、奥の短い階段の先には、五つの扉が横に連なっている。さらに右を見れば、台所らしき設備までが整っていた。

 驚きのあまり声も出ないまま、俺は中央の円テーブルに手をつく。

「凄い!ねえ、こっちにベッドあるよ!」

 扉の奥に上半身を突っ込んだまま、細身の男が叫ぶ。少しはじっとしていられないのかと思ったと同時に、小柄な女が「一回落ち着いてください」と駆け寄っていった。あいつのお世話は、彼女に任せた方が良さそうだ。

 そして、横暴なあいつはというと、台所近くの低い椅子に腰を下ろし、表情は変わらず怪訝(けげん)なままだ。

あいつをどこか面白いと思い始めていた俺は、思わずあいつの方に足を進めていた。

「不思議なこともあるものだな。お前はどう思う?」

「……知るか。話しかけんな」

 答えではない答えを返し、奴はそっぽを向く。

 いまだ椅子にも座らず、整理がつかない様子の姉貴肌の女。再び彼女と言葉を交わそうかと考えたその瞬間、また不気味なことが、俺たちの目の前で起こった。



「ご乗車ありがとうございます、皆様」

 耳を疑う前に、自分の目を疑った。

 さっきまで誰もいなかった目の前の空間に、いつの間にか、黒服の女が二人立っている。

 短髪の女と、長髪の女。どちらも似たような白のワンピースを着ており、何とも美しい柔らかな笑みを口元に浮かべている。外見では二人ともに、この五人よりも幼い印象を受けるのは気のせいか。

 俺たちの驚いた様子に触れることもなく、短髪の方の女が口を開いた。

「あらためまして。ようこそ、(まなこ)の馬車へ」

「眼の馬車?」

「私たちは、この馬車とともに皆さんを導く案内人。以後、お見知りおきください」

 申し訳ないが、全く理解が追い付かない。真っ先に問いを投げたのは、隣の姉貴肌の女だ。

「とりあえず教えて。この馬車は何なの?」

「大丈夫、ちゃんと説明するから」

 次に喋り出したのは、長髪の方の女だ。

「ここは眼の馬車。この馬車は、乗客の心が望む場所に向かって進むの」

「いやいや、牛は銅像だったじゃん」

「外を見てみて」

 小柄な女と顔を見合わせ、細身の男は出口の方へ駆け出してくる。その勢いづいた身体の首根っこを今度こそ捕まえ、俺は入ってきた時の布に、二人でゆっくりと近づいた。

 入口を覆う布が、微かに揺れている。そして自分の足元を、冷たい隙間風が吹き抜けていることに気がつく。まさかという感情を押し殺し、俺は入ってきた時と同じように、布をめくり上げ、外に顔を出した。


 彼女らの言う通りだった。

 馬車は、さっきまでいた深い森の中をとっくに抜け、川沿いに平野の道を進んでいた。一面の緑の空間に、川の水流が静かに響き渡る。馬車の古びた車輪が、道に転がる小さな石ころを踏みつけては、小刻みに車体を(きし)ませる。

 上を見れば、あの美しい三日月が、さっきとは別の天体のように輝いていた。

 一人でその余韻に浸っていると、脇から次々と顔が飛び出してくる。

「本当だ、本当に動いてる……」

「凄い。夢じゃないよねこれ!」

 俺の足を踏んづけたことにも気づかず、落ち着きのない二人が目をキラキラさせている横で、姉貴肌の女は一人、遠くの方を見つめ続けていた。



「ご覧いただいた通りです。この馬車は今、あなた方の心が望む場所に向かい、進んでいます」

 あらためて短髪の女から、円テーブルを囲んだ俺たちに説明がされた。あの景色を見た今ならば、理解は進む。

 一通り終わったところで、小柄な女が小さく手をあげる。

「あの、ちなみに、目的地に着くまで、どれくらいかかりそうですか?」

「このまま行けば、おおよそ三日ほどで到着するかと」

 目的地が果たしてどこなのかは置いておくとして、そこそこの旅になるらしい。三日と聞いて、細身の男が分かりやすくワクワクしているのに対し、一人だけ同じ場所に座り続けているあいつの方からは、小さな舌打ちが聞こえた。

「それと、注意点があります。ここは好きに使ってもらって構いませんが、食料や洋服はここにはありません」

「え、じゃあ食事はどうすればいいの?」

「途中で寄りたい場所があった時は、私たちにお伝えください」

「そんな感覚でいいんだ」

 小柄な女からキレの良いツッコミが聞こえたところで、今度は背後から、あいつの低い「おい」という声が響いた。あいつのことだ。何を言い出すかは、皆目見当がつく。

「だったら、今すぐ馬車を止めろ。こんな奴らと旅するなんて、俺はまっぴらごめんだ」

「どうして?帰りたくないの?」

「こんな胡散臭いもんに頼る必要が、どこにあんだよ」

 やはり、あいつらしい正論だ。これでも、ある程度本心は隠しているだろうが、漏れてしまっていることに気づいてはいないらしい。

 あいつの言葉に対し、意外にも反論にかかったのは、小柄な女だ。

「気持ちは分かります。でも、こんなところにあなた一人置いていくことはできません」

「例えば、この中に裏切り者でもいたらどうする?記憶喪失のフリをして、俺たちをどこかに連れて行こうとしている、とか」

 あいつの圧に押され、彼女の手と口が、小刻みに震え始める。割って入りたいところだが、今はあえて泳がせるとするか。

「……そんなわけ、」

「そうやって何でもかんでも信じてたら、足元掬われるぞ。正直者はバカを見る、ってな」

「その辺にしときなよ」

 先に割って入ったのは、姉貴肌の女の方だ。小柄な彼女の肩に手を置き、獲物を狙うハイエナの目で、あいつを睨みつける。

 仕方ない。あの男のことは、俺が面倒を見てやるしかなさそうだ。その場の凍りついた空気を掻き切るように、俺は椅子から立ち上がった。

「案内人。とりあえず、馬車はこのまま進めてくれ。今後のことは、明日あらためて五人で話し合う。同席はいらない」

「かしこまりました。では、ごゆっくり」

 そう言って軽く会釈をすると、案内人の二人は手をつなぎ、奥の方へと足を進めていった。その姿を見届けるなり、あいつはすぐに俺の前に立つ。

「なにリーダーぶってんだよ、お前」

「まとめ役だからな。今日は疲れたから、もう寝よう」

「……なんなんだよ」

 またあいつは、離れたところの椅子に、どっしりと腰を下ろす。

 今は焦る必要はない。自分の中に芽生え始めた、“不安”の二文字から目を背けるように、俺は自分にそう言い聞かせた。

 大丈夫、大丈夫なはずだ。


「ねえ、ちなみにだけどさ、」

 声の主は、姉貴肌の女だ。

「あたし、自分の名前は覚えてるみたいなんだけど、みんなはどう?」

 そうだ。状況に囚われすぎて、名前のことなど考えもしていなかった。

 俺も、細身の男も、小柄な女も、揃って首を縦に振る。

「よし。あたしは、ガーネット。よろしく」と、姉貴肌の女。

「僕は、パラット。よろしくね」と、細身の男。

「リマと申します。よろしくお願いします」と、小柄な女。

「俺は、エメラだ。よろしくな」と、俺も続いた。

 俺の番が終わるや否や、全員の視線があいつの方へと移る。

 ひたすら顔を背けているあいつに、仕方なく俺は近づき「お前の名前は?」と、肩に手を置く。正直、これでもあいつが折れるかどうかは分からなかった。

 やがて、あいつは俺にしか聞こえない程度に、小さく何かを呟いた。


「……ガル」

「よろしくな、ガル」

 俺はそう言って、ガルの前に右手を差し出してみた。俯きながらも、奴は横目で俺の右手を確認する。

 ガルは、この手を握る代わりにため息を残し、足早に奥の並んだ扉の方へと歩いて行く。迷いもせずに一番左端の部屋を選び、大きな音を立てて扉を閉じた。

 なんとかあいつを引き留めることはできたはずだと、また自分にそう言い聞かせる。そうして固まっていると、また、ガーネットが口を開いた。

「エメラ、そういうとこだってば。ガルは多分、一筋縄じゃいかないよ」

「分かってる。今はこれでいい」

 三人には申し訳ないが、今の俺には、そう答えるしかなかった。

 五人で旅路を共にできる手段が見つかった、今となっては。




   ♢ ♢ ♢ ♢ ♢




 やあ、こんにちは。突然、自我を出してしまって申し訳ないね。

 今、お前は誰なんだって思っているかもしれないけど、俺はただの作者だ。演劇に例えて言うならば、ナレーターってところか。

 この先も、少しだけ自我を出す時があるかもしれないけど、俺のことに関しては、今はあまり気にしないでほしい。時が来たら、ちゃんと話すから安心してくれ。


 あらためて。

 これからあんたに読んでもらうのは、彼ら五人の物語だ。別に、それ以上語ることなんて何もないんだけど。せっかくだし、俺から一つだけ頼ませてもらうなら。

 どうか、彼らの物語を、最後まで見届けてやってほしい。

 そうしてもらえたら、俺としても、これ以上嬉しいことはない。


 あ~でも、俺は知っているんだよ。物語の序章だけ読んで、ここで速攻リタイアしてしまう読者というのが、一定数いることを。

 てことで、最後まで読んでくれたそこのあんただけに、特別サービスといこう。




   ♢ ♢ ♢ ♢ ♢




 乾いた空気が蔓延(はびこ)る暗闇。

 そこに聞こえるのは、車体の軋む鈍い音。回り続ける車輪の音。そして、布が隙間風で擦れる小さな小さな音。


 その暗闇に、一筋の光が差し込む。

 三日月が染み込んだ夜空の、心もとない光の波。それが、めくり上げられた布の向こうから、この暗闇をわずかに照らした。


 視線は左に映る。その視線の先には、低く連なる建物群のシルエットがあった。

 三角屋根の連なりに、光の灯った高い塔。遠くから見ても、命の鼓動を感じる場所であった。


「……悪いな」


 やがて、彼は外へと身を放り出す。

 一筋の光が消え、馬車の中は再び、暗闇に包まれた。

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