第二十一話 ウェルカム・トゥ・サンクチュアリ - 1
「エウクレイア。お掃除を。徹底的に」
キュルケーの声は、氷塊を滑らせるように冷たく、そして重く響いた。それは単なる指示ではなく、戦場への布告であった。
「承知いたしました」
アイスブルーの髪を揺らめかせ、エウクレイア・ストレフサが優雅に一手を掲げる。まずは清掃の準備から――そう呟くと、彼女はささやかな動作で、口元を覆う純白のベールを装着した。その一挙手一投足に込められた気品は、まさに数百年の歴史を持つ名家に仕える者の格式を感じた。
しかし、その瞳の奥には――「乱れ」そのものを根絶やしにするという、破壊への確固たる意志が宿っている。
「清掃係、エウクレイア・ストレフサ。ルイ様のために、穢れを徹底的に祓わせていただきます」
エウクレイアは恭しく一礼すると、その身を軽く旋回させながら、両手のひらを上へと押し上げるような優雅な動作を見せた。 まるで舞踏の一環のように美しいその動きと共に、彼女は宣言する。
「《Strephō》」
手のひらが天を衝く瞬間、現実そのものが軋んだ。
ゴゴオオオォォォォーーーーッ!!!
「きゃっ!?」
「うおっ!?」
地響きというよりは空間そのものの断末魔。賓客をもてなすにふさわしい、天井高く広々とした百畳以上の客間全体が、 巨神の手で揉み潰されるがごとく、ぎいぎいと唸りを上げて九十度回転した。暖炉や大きな窓、飾り棚が埋め尽くす四方の壁が、今や頭上と足元に迫り、 天井に描かれたフレスコ画が垂直の床面に、分厚い絨毯が覆う床面が巨大な壁へと変貌する。 質量を持つ全ての物体が、"落下"という名の嵐に飲み込まれていく。
分厚い大理石のテーブルが無残に宙を舞い、重厚なタペストリーが壁から剥がれ裂ける。床材が跳ね上がり、天井のシャンデリアが今や地面めがけて墜落していく。
ルイとシアは足場を奪われ、引きずり込まれるような自由落下に身を任せるしかなかった。
「お……落ちる……!?」
「これ、掃除って言えるのかよ!? 」
ルイの絶叫が、轟音にかき消されそうになりながらも響く。 しかし、ベール越しに見えるエウクレイアの表情は至って平静である。
「ご安心くださいませ、ルイ様。掃除とは、まずは塵を取り除くこと――『不要なもの』を徹底的に暴き出し、分別することから始めるのです」
そう言いながら、彼女はこれまで隠れていた家具の下や、固定されていた装飾の裏側に溜まったほこりやがれきを、逆転した重力に任せてことごとく落下させていった。 まさに"ひっくり返す"ことによる、徹底的な掃除の開始であった。
(さらに散らかってるだろ、これっ!? )
落下速度が増す中、必死にシアへ向けて手を伸ばすルイ。 しかし彼自身の体は、落下の途中でガクンと不自然な衝撃と共に、まるで何かに捕えられたかのように空中で静止した。
「あ、ぐっ……!?」
「ルイッ!!」
シアも大きく目を見開いて、こちらに手を伸ばしていたが――その手を摑まえることはできなかった。
静止点を軸に、シアとの距離が一気に開いていく。 シアの体が無防備に落下していく様に、ルイの胸は締め付けられる。
しかし、その時――一道の漆黒が、乱舞する家具の隙間をすり抜け、シアの落下軌道に滑り込んだ。
響哉だ。彼は落下する石材や家具を軽やかに蹴り、流れるような身のこなしでシアの腕を確実に掴むと、一気に自らの懐に引き寄せた。
その次の瞬間、ヒラヒラと舞い落ちる大きなタペストリーが、二人の姿をルイの視界から遮った。
(……響哉なら、きっと大丈夫だ。任せられる)
一瞬の焦燥を振り切り、ルイは確信に変える。
それ以上に、今の自身の状況が尋常ではない。気持ちを入れ替え、視界を泳がせながら周囲を見渡すと、自分と同じ高さで、特に高級そうな家具や装飾品が、まるで何かに吊るされたように奇妙に静止していることに気づいた。
「浮いてる……?」
目を凝らす。
――糸だ。無数の、光の糸。 蜘蛛の糸よりも細く、しかしまばゆい光を帯びた無数の糸が、落下の衝撃でさえびくともさせない重厚な家具を、容易く捉え、固定していた。
それに気付いた時、ルイの体がグイッと無造作に引っ張り上げられた。 四肢には同じ光の糸が瞬時に絡みつき、蜘蛛の餌食となった虫のように、仰向けに固定される。
「ふふっ」
ふとルイの顔に影が差し、ピンク色の髪が逆さまから揺れ落ちてくる。
覗き込んできたのは、ひだまりに咲く花のような温かな笑みを浮かべたメイド、フィリア・ドゥ・コルドだった。 彼女自身もまた、幾重にも張り巡らされた自身の糸を軽やかに伝い、重力を無視した動きでルイの真上に立っていた。 その指先で踊る銀の縫い針が、彼女の異能《Fil》の媒体として微かに、しかし確かに振動するような微光を放っている。
「衣装係として、ルイ様にぴったりなお洋服をご用意いたします。これ以上、お清掃の邪魔をなさらないよう、そして髪やお頬に煤がつかないよう、さぁ、早くお部屋にお移りになりましょ?」
その言葉が終わるよりも早く、ダン!という空間を揺るがす爆発音が轟く。
ルイは首も動かせず、音の方向さえ確認できない。だが、確認するまでもなかった。
ルイの真横の空間が、瘴気をまとって歪む。 そこに屹立するのは、刃のごとき殺意をフィリアに向けた――響哉だ。
「《穿て》」
短い詠唱――いや、命令という響きのほうが近かった。
響哉の長槍が蛇のごとき軌道で宙を舞い、フィリアの光の糸を切り裂かんと迫る。同時に、彼の周囲から立ち上った漆黒の瘴気が炎となって燃え上がり、糸の網を一挙に焼き払おうとする。
なぜ、炎の魔法か。考えずとも分かった。
――響哉はファロンに火傷を負わされたことを、少しだけ根に持っている。
だが。
「メディ、お願いします」
フィリアの合図と共に、彼女の後ろで白銀の髪が優雅に揺れる。慈愛に満ちた微笑みの下で、その女は子守唄を歌うように囁いた。
「《従順なる狗は、主人の前で大人しくしているものです》……ね?」
メディア・アナグノシスの一言が、響哉にとっての新たな"理"として脳髄に直接刻み込まれる。 攻撃衝動は理に反するものとして根こそぎ否定され、瘴気も意志も霧散してしまった。思考が鈍り、四肢が鉛のように重くなる。
長槍を握る指の力が緩み、手から滑り落ちそうになる。炎の魔法も霧散し、浮遊の力も維持できなくなっていた。
落ちる。
「――響哉さんっ!!」
シアの絶叫が、遠く届きにくい音として響いた。響哉の体が重石のように落下し始める。
思考に霞がかかったようで、魔法が構築できない。抵抗の意思が生まれない。
「――ッ!」
だが、それで終わるわけにはいかない。意識や脳で考えるレベルではなく、本能からの確かな抵抗。縛られた意識の一端を、己の力で引きちぎるようにして解放することに成功した。
異能の力に打ち勝つなど、本来不可能な芸当なはずだ。それができてしまうというのは――
彼の落下速度が突然緩む。足元から広がる魔法が衝撃を吸収し、 本来ならば致命傷となる落下を、壁面を駆け下りるような滑空へと変えた。
そして、ゴツン、と鈍い音を立てて床に着地。ふう、と一息吐きながら、響哉はシアの横に並んだ。
「掃除は、まだ終わっておりません」
エウクレイアが、純白のベール越しに冷たく微笑んだ。再び彼女の両手が天を衝き、現実が軋みを上げる。




