第十五話 邂逅の朝、忘れかけた声に触れる - 1
──慣れ親しんだ、柔らかくて、温かくて、どこまでも澄みきった空気。
それは、目に見えるわけでも、音として聞こえるわけでもなかった。ただ、そこに在るということが、はっきりと伝わってくる。
息を吸う。
喉を刺すものは、何もなかった。灰の匂いも、鉄錆の匂いもしない。胸の奥まで吸い込んだ空気が、やさしく染み込んでいく。
吐き出すと、体の芯まで、ほどけていくようだった。
瞼の裏に、光が差していた。春の陽だまりのような、柔らかく揺れる光。水面のように、きらきらと瞬いている。
静かで、優しくて、決して無理に目覚めを促すことのない光だった。まるで「もう大丈夫だよ」と、そっと語りかけてくるような。
天井があった。
見慣れた木目。
その真ん中に、節がひとつ。ちょうど、人の目のような形をした節。眠れない夜に、何度も睨み合ってきた、あの目だった。
静月舎だ。
乾いた木の匂いが、鼻先をかすめた。
──また、ここにいる。
背中を、柔らかな寝具が支えていた。羽のように軽く、やさしく包まれる安心感。そのぬくもりに、思わずもう一度目を閉じてしまいそうになる。
けれど、ルイはそっと目を開けたまま、天井を見上げた。
どれくらいそうしていただろう。
時間の流れも、音も、何もかもが遠く、ゆるやかだった。
やがて、意識が、ゆっくりと体へ戻ってくる。
指に、ほんの少し力をこめてみる。動いた。右の指も。包帯に厚く巻かれた、左の指も。
左手の奥に、鈍い疼きがあった。胸の奥にも、息を深く吸うと、かすかな軋みが残っていた。それでも、あの浜で感じていた痛みとは、比べものにならなかった。
血が、指先まで、巡っていく。
腕へ。脚へ。
重たくもなく、痛みもなく。まるで生まれたばかりのような、清らかな静けさの中で、身体が目覚めていく。
夢の中にいるようだった。
でも、夢ではなかった。
首を、少しだけ横に向ける。机があった。その上に、二冊の手帳が、並んでいた。擦り切れた革の表紙。あの夜、押し入れには戻さずに、ここに置いていったもの。
置いておけば、戻る理由がひとつ残る。そう思って、置いていったもの。
その隣に、紙が一枚。白いままの。何も書けなかった、あの夜の。
「……帰ってきた」
言葉が、こぼれた。誰に向けたのでもない、ただの呟きだった。
その一言が、静かな部屋に滲んで、ほのかに、温もりを灯した。
帰ってきた。
この谷に。
この場所に、生きて──帰ってこられた。
「……っ!!」
喉の奥で、何かがせり上がってきた。込み上げる感情に、ルイは思わず肩をすくめ、震える腕で自分自身を抱きしめる。
心臓が、胸の内側を、強く、確かに叩いていた。張りつめていたものがひとつ、またひとつとほどけていく。
体温があった。息が、熱を持っていた。頬を伝う涙さえ、あたたかかった。
それは、紛れもない"生"の感覚。存在しているという、何よりも強い証だった。
夢じゃない。幻でもない。
本当に──ここにいるんだ。
「……っ、よかった……っ……!」
ぽろり、と。ひと粒の涙が静かに頬をつたうと、こらえていたものが堰を切ったように、次々とあふれ出していった。
目が熱くなり、視界がにじむ。けれど、それでも構わなかった。涙を拭おうとも、止めようとも思わなかった。
思い返す。
──突然、すべてが失われた"狭間"に引き込まれた。その中で、体が金に灼かれ、作り変えられて。確かにあの時、一度、自分は終わったのだと思う。
洞窟で目が覚ましたら、シアがいた。
立ち上がるのが、怖かった。未来が、怖くてたまらなかった。それなのに、シアを失うのも、傷つけるのも──怖くて。
怖さから逃げるように、たくさん酷いことを言った。彼女を傷つけた。自分でもわかっていたのに、止められなかった。
それでも──彼女は見捨てないでくれた。どれだけ突き放しても、シアはしがみついて、離れてくれなかった。離れないでいてくれた。
星骸とも戦った。全力で、全力で。生き延びたくて。シアを守りたくて。
ミレディーナとの戦いだってそうだ。何度も何度も、死を意識するたびに「生きたい」と、「守りたい」と、心の奥からそう叫んで、全力で足掻いた。
このたった数日が、あまりにも長かった。
果てしなく続く絶望の中を、もがきながら進み続けた時間だった。
ここを一人で出た時、戻ってくるつもりはなかった。
自分ひとりが離れれば、この谷は巻き込まれずに済む。それしかできないと、信じていた。
帰れなくて、当たり前だと思っていた。
それで、いいと思っていた。
なのに──
「……死にたく、ない……まだ……っ、俺は……」
誰にも、聞かれたくなかった。布団を口元に押し当てて、声を殺した。寝台の上で、小さく、小さく、体を丸めて。
「それでいい」と、思おうとしていただけで。
本当は──生きることを、諦めたくなかった。
まだ、やりたいことがある。叶えたい願いが、守りたい約束が、たくさんある。
明日の朝も、ちゃんと食べにおいでや。
はい、と答えた。その約束を、まだ、果たしていない。
この谷で、覚えている時間のほとんどを過ごしてきた。
みんな、もういない。でも、みんな、大好きだった。珠桜のことも、律灯のことも。
ここで出会った人たちも、風の匂いも、光も、空気も──全部が、大切だった。全部、大好きだった。
離れたかったわけじゃない。本当は、ずっと、ここにいたかった。
全部を失う覚悟をした、つもりだった。でも、そんな覚悟を貫けるほど、自分は強くなかった。
死ぬのは怖い。失うのも怖い。何もかも怖くて、だから、覚悟を決めたふりをしていただけだった。
ひとりで背負う、なんて。できもしないくせに。誰にも迷惑をかけずに済むと思っていたのに、結局は、みんなに、もっと大きな迷惑をかけた。
(……強く、なりたい)
胸の奥に、小さく、灯るものがあった。
もう、こんな思いは、したくない。
死ぬかもしれないと、怯えずに済むくらいに。
守りたいと思ったものを、わがままだと言われても、全部守れるくらいに。
いつか本当に、何かを背負わなければならない日が来たとしても、ちゃんと立ち向かえる自分に、なりたい。
その願いが、じわじわと熱を帯びていく。押し込めても、押し込めても、こみ上げてくる感情が、また一つの声になって、漏れた。
「……悔しい……っ」
今、こうして自分が光の下にいるのは。
──シアがいてくれたからだ。珠桜がいてくれたからだ。
そして、最後の最後で、世界の終わりを食い止めた、あの三人がいてくれたからだ。
銀の弓を引いた律灯。塵を撒いた槌の男。そして、海ごと断ち切った、黒い髪の女。
自分は、何もできなかった。灰の上に転がって、見ていることしか、できなかった。
窓の向こうから差し込んだ陽射しが、頬を、そっと照らした。
もう大丈夫だよ、と、また言われた気がした。
ルイは、鼻をすすった。手の甲で、ぐい、と涙を拭った。
泣くのは、もう、終わりにしよう。あの人たちなら、きっと、こんなふうに泣かない。
いや、泣いたとしても。泣いたうえで、前を向いて、立ち上がるのだろう。
なら、自分も。少しでも、あの背中に追いつけるように。
いつか、あの人たちのように、誰かを守れるように。
今は、まだ、届かなくても。
──それに、きっと"試練"は終わっていない。
「……よし」
小さく、けれど、はっきりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
ルイは拳をぎゅっと握り、ゆっくりと体を起こした。
その動きはまだ少しぎこちなく、決して力強いものではなかった。けれど、そこには確かに──歩き出そうとする意志が宿っていた。




