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第十七話 美しき無垢なる檻 - 1


 執務室に重い沈黙が降りていた。微細な塵さえも静止したかのような空気は、琴葉の最後の言葉──「ここにいて」という、魂の底から搾り出されたような慟哭の余韻でまだ震えているようだった。

 ルイは琴葉に床に押さえつけられたまま、彼女を見上げていた。間近で見る琴葉の表情には、先ほどまでの狂気じみた冷徹さはもうなかった。そこにあったのは──疲弊の果てにたどり着いた、ただの女の顔だった。深紅の瞳に宿っているのは、怒りでも憎しみでもなく、言葉にならない虚無と、積もり積もった自己嫌悪の色濃い影である。


(……なんで、そんな顔してるんだよ)


 ルイの胸の奥で、何かが強く疼いた。恐怖ではない。困惑ですらなく──もっと切なく、複雑で、名付けようのない感情が波打つ。


 琴葉の手が、ルイの胸からゆるやかに離れた。彼女自身が自らの行為に戸惑っているかのように、その指先はかすかに震えていた。


「……分かったわね」


 声は掠れていた。先ほどまでの機械的な冷たさとは対極にある、人間らしい震えを含んだ声。

 琴葉はよろめくようにして立ち上がろうとする。自らの体を支えることさえも困難な様子に、シアが思わず手を差し伸べるが、


「触らないで」


 その声音には、一切の憐憫を拒絶する強固な意志が込められており──シアは仕方なく、差し出しかけた手を静かに下ろした。

 ルイは慎重に体を起こした。肩や腕に走る鈍痛など、今はどうということもない。



 ──琴葉のことが、気にかかってならない。


 彼女はシアを深く傷つけた。ルイにとって許し難い行為であり、彼女はまだシアにすら正式に謝っていない。そんなのに、ただ去ろうとするのか、と非難の言葉が喉まで迫った。

 ……だが、違う。琴葉は単に傷つけたかったわけではない。魔法で威嚇したのも、ルイを組み伏せたのも、彼女の中では全て「必要なこと」だったのだ。ルイはそう直感した。


 琴葉はゆっくりと、慎重に、ルイから離れていく。その動作には、戦場で無数の敵を屠ってきたであろう精密さも、先刻まで見せていた感情の激流もなかった。ただ、深くどん底まで達した疲労だけが滲んでいた。

 そして、彼女は静かに背を向けた。その後ろ姿は、筆舌に尽くしがたい哀しみを帯びながらも、まるで見えない糸に引かれるように、ぴんと張りつめていた。執念だけでかろうじて立っているかのような、危うい均衡の上にいるようだった。


「外に出るわ。二週間ほどしたら戻る」


 業務的な報告。珠桜や律灯にとっては、幾度となく聞き慣れた言葉のはずだった。

 だが、今回は違った。その声の奥に、わずかに逃げるような響きが混じっている。


「響哉も律灯も、今回は着いてこなくていい。怪我の治療に専念して、次にいつでも出られるよう万全な状態にしておいて」


 琴葉は扉へと歩みを進めた。その足取りは、本来の彼女が持つ気高く凛としたものとはかけ離れ、まるで地面にしっかりと根を下ろせていないかのように、心なしか浮足立っていた。


「琴葉……」


 珠桨が声をかけたその瞬間、琴葉の足が止まる。



 ──しかし、彼女は振り向かなかった。


「……大丈夫よ。私は、貴方たちを守るために生まれてきたのだから」


 途端、彼女の声からは一切の感情のゆらぎが消え、冷たいほどに透明な響きを取り戻した。

 精密な機械が既定のプログラムを読み上げるように、揺るぎない事実を宣言するように。その声音には、もはや疲れの影も、人間らしい震えもなかった。あるのは、設計図に刻まれた通りの、完璧な無機質な整然さだけだった。


「使命を全うさせて。何が相手でも、私は貴方たちを守るため、必ず戦い抜くわ」


 ギィ──と、古びた木製の扉が重厚な音を立てて開く。執務室の壁に反響するその音は、あたかも長い間がんじがらめにされていた古い呪縛が解けたかのように、室内の重苦しい空気をわずかに和らげた。

 純白のドレスの裾を風になびかせながら、彼女は霧の向こうへと消えていった。


 残されたのは、琴葉の絶望の残響に包まれた四人だけだった。



 ルイは床に座ったまま、ぼんやりと扉の方を見つめていた。つい先ほどまで琴葉に押さえつけられていた胸のあたりが、まだ重く感じられる。あの絶望的な表情、震える声、そして最後の懇願──すべてが現実離れしているようで、同時にあまりにも生々しかった。


(あの人は……本当は……)


 そんな時、ふと視界の端に映ったものに、ルイははっと我に返った。


 シアだった。

 彼女のアメジストの瞳は虚ろで、琴葉の恐怖がまだ彼女の心を支配しているのが見て取れた。


「っ、シア、大丈夫だったか!? 痛むところは……怪我は……!」


 ルイは慌てて膝をついてシアの傍らに駆け寄った。その声には、自分でも驚くほどの切迫感が込められていた。

 シアの肩が小刻みに震えていた。それは寒さからくるものではない。琴葉の氷のような魔法が放った、魂の奥底まで凍りつかせるような絶対的な恐怖の余韻だった。彼女の瞳には、まだあの時の恐怖が残っている。

 ルイはすぐに自分の上着を脱ぎ、まるで壊れ物を扱うかのような優しさで彼女の肩にかけてやる。


「ルイ……」

「ごめん、俺、何もできなくて……」


 ルイの声は震えていた。もしも琴葉が自分たちの命を本気で奪おうとする敵だったとしたら、シアはどうなっていたのだろうという恐怖が、後になって彼を襲っていた。


「絶対! アイツの言ったこと、全てを真に受ける必要はないからな!」


 ルイは必死に言葉を紡いだ。琴葉の絶望的な言葉が、シアの心を傷つけているのが分かったから。声は震え、言葉は途切れがちだったが、それでも止まることはなかった。


「だって、俺は何度もシアの魔法に助けられてるし──」


 手を握りしめ、シアの瞳を真っ直ぐに見つめる。


「あの異能者、ミレディーナと戦ったときだってそうだ! シアがいなかったら俺は死んでた! シアがいたからアイツが来るまで耐えきれたんだ!」


 言葉が溢れるように口から出てくる。まるで堰を切ったように、胸の奥に溜まっていた想いが一気に流れ出していく。


「シアの魔法はいつだって俺を助けてくれる。綺麗で、温かくて、勇気をもらえて……!」


 ルイの声がかすれた。それでも言い続ける。シアに伝えなければならない、どうしても。


「俺はアイツの魔法より、シアの魔法のほうが魔法らしいと思う! だから、そんな、本当……偽物なんかじゃ……」

「ルイ」

「っ……!」


 シアの声に、ルイの言葉が止まった。その声には、先ほどまでの儚さではなく、確かな強さが宿っていた。


「ありがとう。ルイのおかげで、だいじょうぶだよ」


 シアは力なく笑った。その声は確かに震えていたが、そこには確固たる温かさがあった。琴葉の氷のような冷たさとは対極にある、人の心を溶かすような優しさ。


「ありがとう」


 その表情を見て、ルイは久しぶりに心の底から安堵の息を吐くことができた。

 シアが無事でよかった。もし彼女に何かがあれば──自分は、琴葉に本当に銃を向ける必要があったかもしれない。しかし、それは想像するだけで胸が締め付けられるほど嫌なことだった。


「……ごめん。ちゃんと、助けられなくて」


 ルイの声は小さかった。あの瞬間、自分は何もできなかった。琴葉の圧倒的な力の前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 ──だが、シアにとっては違う。ルイは、シアを守るために、自分の身も顧みず琴葉にかかっていった。怒ってくれた。


「ううん。すごく、助けてもらった」


 シアの声に嘘はない。


「ありがとう、ルイ」


 ルイは静かに頷いた。シアの温かい笑顔を見ていると、先ほどまでの重苦しい空気が少しずつ和らいでいくのを感じた。



 ──それでも、心の奥にはまだ琴葉のあの表情が焼き付いている。


(──多分……敵、じゃ……ないんだよな)


 琴葉のあの絶望的な表情を思い出す。あれは演技でも狂気でもなかった。本物の、魂を削るような苦痛だった。彼女もまた、何かと──恐怖や絶望と戦い続けている。そんな気がしてならない。

 そう思った時だった。


「……追いますか?」


 ふと、威圧を感じさせるような静かで、唸るような声が響いた。響哉が珠桜を見て、問いかけていた。その声色は、普段の飄々とした響哉からは想像もつかないほど鋭く、危険な響きを含んでいた。

 問いに対し、珠桜は静かに首を振る。


「いいや……しばらくは彼女の言うようにしよう。四人とも、万全の状態になるまでは澄幽内に留まるように」


 響哉は窓の外を見た。何を見ているのかは分からなかったが、琴葉の姿を追っているのだろうということは想像に容易い。だが、その横顔に込められた表情、思いまで読み取ることができなかった。心配しているような、怒っているような──きっと、それだけではない。様々な感情が混じった、表情をしていた。


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