第十二話 空のキャンバスに描くは希望の花 - 1
黒い雲が出ると、お父さんは、窓に板を打ちつけた。雨が、入ってこないように。
──ごろごろ、ごろごろ。
今度は、家じゅうの灯りを、ひとつ残らず消した。
灯りがついていると、ここに人がいるって、外からわかってしまうから。
外には、異能の人たちがいる。怒った大人たちもいる。見つかったら、扉を壊して、入ってくるかもしれない。
お父さんは、銃を持っていなかった。そんなお金は、どこにもなかった。入ってきたら、終わりなんだ。
真っ暗な部屋のいちばん奥で、お父さんは私を膝の上に抱えて、壁に背中をつけて座った。
「……外面危险,别出去哦。」(……危ないから、外に出ちゃだめだよ)
大きな手が、私の頭を撫でていた。雷が鳴るたびに、その手に、ほんの少しだけ力がこもった。
一度だけ、聞いたことがある。
私が眠ったと思ったお父さんが、暗がりの中で、誰にともなく呟いていた。
何をやっても、もう、だめなんだ、って。
聞こえなかったことにした。
晴れた日は、ときどき、お外に出られた。
銃を持った大人たちが、まわりを囲んで守ってくれるときだけ。ほんの少しのあいだだけ。それ以外の日は、だめだった。
家にあった、古い絵本。
ぴかぴかの、お日さま。どこまでも続く、お花畑。
ページをめくるたびに、きれいだなあって思った。
どれも、手が届かないところにあるものだった。
板の隙間から、少しだけ外が見えた。
空から氷の粒が降っていた。屋根を叩いて、地面を叩いて、跳ねて、また叩いて。空が泣いているみたいだと思った。
不安には、思わないようにしていた。
お父さんがいれば、大丈夫。お父さんの膝の上は、温かい。
ここは、安全。安全、なんだから。
──でも。
ほんの少しだけ。
もうちょっとだけ、お外に出てみたいなって。
もうちょっとだけ、自由が欲しいなって。
思ってしまったことは、ある。
お父さんには、一度も言わなかったけど。
──お空。
目を開けると、灰色が、どこまでも広がっていた。上にも。下にも。右にも、左にも。
ほどけていく風が、髪を、裾を、指先を、あちこちへ引っ張っていく。竜巻の名残の細い渦が、まだ耳元でひゅうひゅうと鳴っていた。雲の切れ端が、白い髪の毛の先をかすめて、後ろへ流れていく。手を伸ばすと、冷たい霧が、指のあいだを抜けていった。
足の下には何もなかった。床も。地面も。膝も。ただ、空が、あった。
昔は、いつも下に何かがあった。
お父さんの膝。硬い木の床。部屋のいちばん奥の、冷たい壁。
黒い雲が出れば、窓に板が打ちつけられた。灯りが、ひとつ残らず消された。真っ暗な部屋で、膝を抱えて、板の隙間から、細い外を覗いていた。
指一本ぶんの隙間だった。その向こうで、氷の粒が、屋根を叩いていた。あのころの空は、指一本ぶんの幅しかなかった。
今は、両手を広げても、端に届かない。
風の中で、ゆっくりと体の向きを変える。
ずっと遠くで、雷が光った。一瞬、雲の腹が白く照らされて、すぐに灰色へ戻る。
その光は、私の下で光っていた。
昔は雷が鳴るたびに、お父さんの腕に力がこもった。私はその腕の中で、耳を塞いでいた。
今は、耳を塞がなくても怖くなかった。
雷のほうが、私より、下にいた。
下を、見た。
灰色の浜が、ずっと下に、小さく広がっていた。
裂けた地面の痕が、黒い筋になって走っている。凍った水たまりが、白い点になって散らばっている。浜の縁で、濁った波が何もなかったように寄せては返している。
その真ん中に、影が、ふたつ。
ひとつは、灰の上に膝をついていた。
右腕を、まっすぐこちらへ伸ばしていた。
その目が光っていた。ここからでも見えるくらい、強く。灰色の世界の中で、そこだけ、火が灯っているみたいに。
ルイだった。
鼻から赤い筋が垂れていた。左手が、だらりと下がったまま動いていない。それでも、右腕だけは、下ろしていなかった。
胸の奥が、ぎゅうっと痛くなった。
もうひとつの影は、その隣に立っていた。
青い髪が、風に揺れていた。膝をついたルイを見下ろしている。
さっき、あの人はルイに手を伸ばしていた。白い掌を下に向けて、縋るみたいに。空に、青を。海に、澄んだ水を。大地に、花を。そう言っていたとき、あの人は、ここじゃないどこか遠くを見ていた。
きっと、私の知らない何かが、あの人にもある。
でも、あの人は、ルイの隣に立っている。
ルイの知らないルイを、全部持っているって顔をして。
今のルイまで、持っていこうとしている。
──だめ。
声には、ならなかった。ならなくても、風が震えた。
私のまわりで、ほどけかけていた竜巻の名残が、ぴたりと止まった。宙に散っていた氷の粒が、ひとつ残らず動きを止めた。灰色の空が、息を詰めてこちらを見ている気がした。
いつの間にか握っていた手を開いた。そこに、爪の痕が赤く並んでいた。
小さな手だった、と思う。あのころの私の手は。板の隙間に押し当てて、細い外を覗くことしかできなかった。雷が鳴れば、耳を塞ぐことしかできなかった。
お父さんが、出かけていった朝。
私は、お父さんの袖を掴んでいた。行かないで、とは言わなかった。言ったら、お父さんが困った顔をするから。
ただ、掴んでいた。
お父さんは、笑って、しゃがんで、私の指を一本ずつほどいた。すぐ戻るよ、って。
やさしい手だった。痛くなかった。痛くないまま、全部、ほどかれた。
小さな手には、それを止める力がなかった。
お父さんは、帰ってこなかった。
開いた手を、見下ろす。
あのころより、ずっと大きな手だった。
杖剣を握って。膜を張って。海を凍らせて、道を作って。落ちてくる岩を止めて、雷を弾いて。
ルイの手を、洗った。
今は、掴める。
欲しいものを。
もう一度、握った。ゆっくりと。一本ずつ。
指が閉じていくのに合わせて、止まっていた氷の粒が音もなく私のまわりへ寄り集まってきた。風が、向きを変えた。私のほうへ。
空が、私の手の形に、沿っていく。
下で、ルイが、腕を伸ばしている。
その隣で、あの人が、ルイを見下ろしている。
ルイを、連れていこうとしている。
だめ。
掴んだものは、もう、ほどかせない。
誰にも。
どんなに、やさしい手でも。
どんなに、辛そうな顔をしていても。
その邪魔をするものがあるなら、私は。
なんだって、できる。
◇◆◇
「──やぁぁああああああああ!!!!」
シアの叫びが、空を震わせた。
ほどけかけていた風の名残が、その声に弾かれて、四方へ散った。
──空に、氷の花が咲いた。
無数の氷華が、宙に舞い上がり、オーロラの虹色の輝きを反射しながら、まるで祝福のようにシアの周囲で広がっていく。ひとつ、ふたつ──いや、無数。天空そのものが、彼女のために咲き誇ったかのように。
その一瞬一瞬が、まるで永遠のように感じられる。光の粒が、氷の華となり、まるで星々のように輝きながら、静かに空を舞う。ふわりと落ちる氷の華一つ一つが、天を貫くように、眩い煌きを放つ。
シアの周囲には、色とりどりの氷の花が咲き乱れ、天空がその美しさに包まれたかのようだ。氷の花びらが、冷たくも温かく、柔らかく広がりながら、まるでシアの意志に従うかのように、空を彩っていく。
そして、その花畑を割って。
雲の奥から、巨きな影が現れた。
──龍だった。氷でできた、龍。
鱗の一枚一枚が、氷の結晶を敷き詰めたように精緻で、ひとつひとつが虹色に煌めいている。光を反射して無数の輝きを放ち、龍の全身が巨大なシャンデリアのように、空中で燦然と輝く。
その体躯はあまりにも巨大で、翼ひと振りで雲が裂け、風が地上にまで轟く。冷気を纏うその翼は、虹色のオーロラを裂きながら広がっていき、そのたびに霧氷が舞い、空を銀の華で満たしていく。
龍が、ひと声、鳴いた。
音というより、空気そのものの震えだった。氷の鐘を、何千と重ねて鳴らしたような。
赤いオーロラが、その響きに押されるように、色を失っていく。赤が褪せ、黒雲が散り、見慣れた灰色の雲が戻ってくる。
──その灰色の、ほんのわずかな切れ目から、光が差し込んでいた。
淡い、淡い、陽の光だった。
シアの瞳が、鮮やかに閃いた。その光は、空を裂いた雷すら霞むほどに強く、純粋で、透き通っていた。
彼女は、ゆっくりと右手を肩の高さに掲げる。まるで祝詞を捧げる巫女のように、静かに、厳かに──その手の中に、"何か"を握るような仕草を見せた。
次の瞬間。咲き誇っていた無数の氷華が、一斉に震えた。
氷の花々が、ひとつ、またひとつと解けていく。その欠片は光の粒となり、ゆらり、ゆらりと宙を舞い始める。
粒子たちは導かれるように、彼女の手元へと吸い寄せられ、集まり、螺旋を描きながら旋回し、やがて──結晶へと姿を変えていく。
きぃん──
氷が生まれる音。
氷の粒子が幾重にも重なり、星のように煌めきながら、ひとつの輪郭を刻んでいく。ゆっくりと、その形が姿を現していく。
──シアの手に、剣があった。身の丈ほどもある、氷の大剣だった。
空いっぱいに咲いていた花の、最後の一枚まで。それがすべて、ひとつの刃に重なっていた。
刃は透きとおって、向こうの空が透けて見える。灰色の雲も、その切れ目から差す淡い光も。けれど、透けて見えるものは、みな少しずつ歪んでいた。薄い氷が何百枚も重なって、光をわずかずつ曲げているのだとわかる。
刀身の奥に、花の紋様が浮かんでいた。咲いていたときと同じ形のまま、氷の中に閉じ込められて。
刃のまわりの空気が、白く凍っていた。触れれば、指の先から凍りついていきそうなほどに。
重いはずだった。あれだけの花を、ひとつに束ねたのだから。
杖剣しか握ったことのない、細い腕だった。その腕が、少しも揺れていなかった。
空に残っていた最後の花弁が、ひとひら、剣の切っ先をかすめて、落ちていった。
巨龍が、天を裂くような咆哮を放つ。その響きは稲妻すら震わせ、大気を揺るがせた。
龍が、翼を畳んだ。一息に──地上へと落ちてくる。
浜の上に立つ、青い髪の女へ向かって。
「ッ……!」
ミレディーナが、顔を上げた。
喉元に添えていた手が、空へ跳ね上がる。指先に、紫の火花が爆ぜた。
「そんなもの──!」
雷が、空を裂いた。
龍は、舞うように身を翻した。白い槍が、鱗のすぐ脇を掠めて、空へ抜けていく。降りる勢いは、少しも鈍らない。
彼女の指先に、次の光が集まりはじめる。さっきよりも太く、眩しく──
ルイは見ていた。ミレディーナの、すぐ隣で。
彼女の腕が、空へ向かって伸びている。その指先に、雷が膨れ上がっていく。
銃は、空だ。撃てるものは、何も残っていない。腕も、ほとんど上がらない。もう、何もかも使い果たした。
それでも、右手は、グリップを握っていた。
手の中で、回す。
カシャ、と。刃が、開いた。
首だ。凍った氷の膜の下に、さっき自分が撃ち抜いた傷がある。あの下を、太い血の管が通っている。外で、何度も教わった。止めを刺すなら、迷うな。一度で終わらせろ。
膝で、砂を蹴った。
立ち上がれなかった。膝が、体を支えきれずに崩れる。ほとんど、倒れ込むようだった。
その勢いのまま、刃を突き出した。白い首筋へ。
──届かなかった。
崩れた膝のぶんだけ、刃先が下がる。狙った首筋の、ずっと下。
空へ掲げられた、白い前腕に。
ダガーが、肉に沈んだ。
ミレディーナの喉から、悲鳴にならない音が漏れた。指先に集まっていた光が、形を失って、ばちばちと宙に散る。
彼女の体が、傾いだ。
見開かれたピンクサファイアの瞳が、すぐ間近で、ルイを見ていた。
氷の巨龍が、光を引き裂きながら降下する。
その巨体は、燃え尽きる前の流れ火のように、圧倒的な質量と輝きを伴って──ミレディーナを直撃した。
爆ぜるような衝撃が浜を打った。地が鳴動し、風が吠え、空気すら凍りつく。
周囲を覆い尽くす、冷気と光。眩い銀光の中で──氷の巨龍が、砕け散る。
鱗の一枚一枚が、銀の欠片となって宙に舞い、空気に淡く溶けていく。まるで、夢の終わりのように。美しく、儚く──
その銀の雨は、ルイの上にも降りそそいだ。髪に、肩に、爛れた左手に。
冷たくなかった。触れたそばから、雪が掌で溶けるように、ふっと消えていく。すぐ目の前で、女の体には白い霜が這い上がっていくのに。ダガーを握る指の、ほんの手前で、霜は見えない線に阻まれたように止まっていた。
──ルイには、当たらないで。
海の上の、滑らない氷の道と同じだった。
この冷たさは、最初から、ルイを避けて降るように願われていた。
その煌めきの中を、ひとつの意志が駆け降りてくる。
輝きの中心を、氷の大剣を携えて、空から一直線に。風が白い髪をはためかせ、それに合わせて銀の粒子が弧を描いて舞う。
瞳には、迷いも、恐れも、一つもなかった。
ただ、ただ進む。
誰かを終わらせるためではなく──ルイを、連れていかせないために。
──ミレディーナへ。一直線に。
「凍って……ぇぇええええっっ!!!!!!!!」
魂を振り絞るような絶叫と共に、氷の大剣が振り抜かれる。
斬撃が放たれた、その瞬間──
世界が、輝かしい白銀に染まった。
時が止まったように思えた一瞬ののち──炸裂する冷気。巻き起こる銀の嵐。空気が凍り、砂が凍り、そして。
ミレディーナの存在すら呑み込むように、氷の花々が、一斉に咲き誇った。
灰の浜を覆い尽くすように。空に咲いていたのと同じ、透きとおった花が、輪を描いて咲き広がり、女の体を足先から胸へ、喉元へと、柔らかく包み込んでいく。
誰も傷つけられない。ただ、心優しいだけの少女だったシアが起こした"奇跡"が、世界を塗り替えていく。
無数の氷の結晶が空間を満たし、光を抱き、屈折し、乱反射する。幾千もの虹色の光線が生まれ、灰色の雲の切れ目から降りてきた陽の欠片が、そのまま地上で咲いたかのように、煌めきが浜を満たしていく。
その中心で、シアの手にあった氷の大剣が、砕けた。
音もなく。すべてを使い果たしたように。静かに、花が散っていく。
同時に、奇跡のような氷の花畑も、ひとひら、またひとひらと、空へ舞い戻っていく。
それは儚くも、希望の形そのものだった。戦えないはずの少女が、最強の敵に向けて放った一閃。誰もが諦めたこの終末で、ただ一人、光を信じ続けた少女の祈り。
天から降りそそぐ淡い陽光が、氷の破片に触れて、七色の光へと姿を変える。凍りついていた時間が再び動きはじめ、氷の花びらが風に乗って、ゆっくりと解けていく。
どれほどの時が流れただろう。この灰色の星で、誰も見たことのない美しさが、荒れ果てた浜を包み込み、刹那の安らぎをもたらしていた。
祈りを成し遂げた"証"として、彼女を称えるかのように。美しい光はシアを包みながら、優しく、静かに溶けていった。
そこにあったのは、愛だけだった。
守りたい人のために振るわれた、小さな少女の、大きな勇気の結晶。
第十二話 空のキャンバスに描くは希望の花
1 - 2025.5.11 18:00
2 - 2025.5.14 18:00 投稿予定
となります。次回もぜひ、よろしくお願いいたします。




