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第十六話 紅が映す世界の真理 - 2

「『魔法が使える』……それは、あの氷の"お遊戯"のことを言っているのかしら」


 琴葉の声が、わずかに低くなった。シアの顎を掴んだまま、眉をほんの一筋だけ動かす。

 シアは、必死に頷こうとした。けれど、琴葉の指がしっかりと顎を押さえており、満足に首を振ることすらできない。震えるように、不格好に、ただ肯定の意思を示そうと努力する。小さなうめき声が、喉の奥から漏れた。

 琴葉はそれをしばらく無表情で見ていた。まるで、虫の動きを観察するように。その視線には、一欠片の憐れみも、一片の情も宿っていない。


 そして、ふぅ……と、ひとつ。深く、長い、異様なほど静かな溜息を吐いた。

 それは人の息というより、冬の風が岩の隙間を通り抜ける音に似ていた。


 そして。



 ――ヒュゥゥ、


 突如として、部屋全体の空気が一気に冷え込んだ。肺に流れ込んだ空気が鋭く、喉の奥を切り裂こうとする。

 響哉の手が、ゆっくりと琴葉の手首から離れていく。


「……ッチ」


 低い舌打ちと共に、彼は何かを諦めたかのように一歩、二歩と後退した。

 だが、その目は警戒を解いていなかった。まるで、いつでも介入できるよう身構えているようだった。彼の身体からは、獣のような警戒心が滲み出ていた。


 同時に、珠桜と律灯の周囲に青白い光が宿る。薄く透明な障壁が二人を包み込んでいく。氷の結晶が光を宿したような、幻想的な輝き。

 それを行っているのは琴葉自身。ただその意図は彼らを守るためではなく——彼らが介入できないようにするための結界だった。


「琴葉……」


 珠桜の声が、もはや届かないことを悟ったかのように、ただ無言で見守ることを選んだ。その表情には、懸念と理解が交錯していた。信頼と、その方法への躊躇の葛藤が、彼の瞳に浮かんでいる。



「――まず、熱を奪うのよ」


 琴葉の声は、どこか遠い場所から響いてくるようだった。それは誰かに教えるような声音ではなく、ただ"あるべき工程"を思い出して口にしているような、無機質な響き。


 足元。床に、水が滲むように広がっていく。

 どこから来たのか分からない。なのに確実にそこにあり、瞬く間に膝のあたりまで達していく。透明で、冷たく、執務室の床を覆い尽くしていく湖面のように。


「氷を作るには、水が必要。水を動かすには、冷気が必要」


 琴葉は、手を一切動かさない。けれど、水は――生きているかのように、冷気に従って這い広がる。壁へ、天井へ。空間を塗り替えていく。呼吸するたびに肺に入り込む冷気が、身体の芯から凍らせていく。



 ――パキィン!!



 澄んだ、そして鋭い破裂音。


 水は、一瞬で凍った。

 ただ凍るのではない。“美しく、正確に、過不足なく”凍った。余計な揺らぎも、膨張もない。冷却の瞬間、空間の分子すらその場で静止したような、完璧な氷結。

 霜が這い、壁面を這うように広がる。空気中の水分が凝結し、ダイヤモンドダストが静かに舞いはじめる。あの日、シアが見せた氷の花畑の様と似て、しかし本質的に異なる冷たさがそこにあった。


 白い結晶が、ひとつ、またひとつ――静かに、そして確実に、空気を染めていく。

 ただ、それは無慈悲な死を演出するための小道具ではない。秩序の中で空間の温度を下げるために必要な要素の一つ。魔法という「力」を効率的に行使するための、完璧な手続き。

 装飾のない氷。不気味なほど精密で、完璧だった。 決して咲かず、決して砕けず。そこにあるだけで、生命の動きを拒絶していた。光を通すその透明さが、一切の温かみを奪い去っていく。


 琴葉の声が、その中心で冷たく落ちる。


「花や龍、それに魔法の剣……そんなものは戦場には要らない」


 その声に、怒りも軽蔑もなかった。ただ、感情を排した事実だけを淡々と並べる、無機質な語り口。


「魔力は有限。環境に漂う魔力も、体内を巡る魔力も、すべて有限。すぐに枯渇する。だから、余計な形なんて削ぎ落とすべきなの」


 バキ、バキン――


 足元で鋭い音が響いた。まるで骨が砕けるような、冷たい破裂音。

 気づいた時には、もう逃れられなかった。氷が、ルイとシアの足を捉えていた。音を立てながら、無慈悲に、上へ、上へと這い上がってくる。太ももへ、腰へ、腹部へと。

 その氷は紙のように薄かった。肌を貫くわけでも、血を凍らせるわけでもない。ルイは動こうとした。だが――身体が言うことを聞かない。存在するだけで、抵抗する力が奪われていく。


(動け……動け……!)


 脳は命令を発している。だが筋肉は凍てついたように硬直していた。身体を包む薄い氷の鎧は、思考すらも凍らせるように浸食していく。

 ミレディーナとの戦いでさえ、最後の最後まで動けた。剣を握る力も、叫ぶ声も、何かに掴まる指先さえも、残されていた。あの瞬間にはまだ抵抗する意思があった。


 だが今は——何もない。


 ほんの数ミリの氷の薄膜が、全身を覆いつくす。それは単なる冷たさではなく、生命そのものを否定する絶対的な支配だった。

 無数の微細な氷の結晶が、光を受けて刃のように輝いている。全身が、無数の小さな刀で覆いつくされているかのように思えた。


 呼吸が苦しくなる。肺に入る空気が冷たすぎる。胸の内側から、凍りついてしまう。

 意識が遠のきそうになる。それでも、琴葉の意思によって、目を閉じることさえ許されない。全ては見届けなければならないと、無言の命が下っている。


 シアの震えが、ルイの視界の端で見えた。

 彼女の唇は青ざめ、瞳から光が失われつつあった。絶対的な恐怖と絶望が、彼女の表情を覆い尽くしている。その顔は、もはや少女のものとは思えないほどに憔悴していた。


(ここでも――こんな、思いをするのか)


 絶望的な現実が、冷たく心に沁みた。


 琴葉は、まだ指一本動かしていない。

 シアの顎を掴んだままの右手。静かに立ち尽くすだけの姿勢。それだけで、この部屋の空気、時間、命そのものを支配していた。


 指導でも、説教でも、なんでもない。ただ、恐怖を植え付けることが目的の行為。彼らに、己の弱さを刻み込むための儀式。

 琴葉が一つ、「殺す」と念じるだけで、二人の命は消える。抵抗する手段も、逃げる道も、叫ぶ声すらも。何一つ残されていない。前回の死闘とは違う、絶対的な無力感。ただ、死を迎え入れるしかない。


「敵を殺す。終わったら、次の敵を探して、また殺す。それだけ」


 それは、彼女自身が見てきた、戦場の真実だった。

 琴葉の声は低く、乾いていた。冷酷というより――存在そのものが死を体現しているかのような虚無がある。


「派手な魔法はいらない。光も、色も、幻想もいらない。必要なのはひとつ――最低限で、確実に、殺す力」


 空気が、さらに冷え込む。声そのものが氷の結晶となって降り注ぎ、皮膚を裂くようだった。針のような痛みが、全身の神経を刺激する。



「急所を貫く」


 言葉と同時に、琴葉の前に無数の氷の針が形成された。どれも完璧に尖り、光を通さない透明な殺意の結晶。一本でも体に刺されば、内臓が凍り、死に至る。針は空中で浮遊し、わずかに震えながら獲物を待ち構える蛇のようだった。


「吸い込む空気を氷片に変えて、内側から破壊する」


 二人の口元に、微細な霜の粒子が集まり始める。次の呼吸で肺の中に吸い込まれれば、内側から凍りつき――窒息して、死ぬ。それが見えた瞬間、ルイは呼吸を止めた。けれど、どれだけ息を止めていられるだろう? 胸が苦しくなり、やがて強制的に空気を吸い込むしかなくなる。


「体内の血液を全て凍らせる」


 シアの頬についた小さな傷から、血の一滴が垂れようとした。それが途中で凍りつき、赤い氷の粒となって、重力に従って落ちる。血管という血管が凍りつく感覚が、幻覚のように全身を走った。体内の液体全てが凍りつき、結晶化する想像が、恐怖を増幅させる。


「周囲の温度を奪って、思考も、鼓動も、沈めていく」


 一つひとつが、処刑法の羅列だった。命を絶つ手段の、美しく整えられたカタログ。

 それを、まるで詩を朗読するように、琴葉は淡々と並べていく。どの一つをとっても絶対的な死につながるその技法が、整然と提示されていく。


「魔法は、"誰かを守るために大勢を殺す力"として創られたの」


 その言葉には、激情も高揚もなかった。ただ、揺るぎない"真理"だけ。

 魔法の真理を知る者として、悠然と語った。その声には、数え切れない死を見てきた者の、冷徹な諦観(ていかん)があった。


 琴葉の視線が、ゆっくりとシアの瞳を捉える。

 その目は、もはや人間のものとは思えないほど――ガラス玉のように、少しの影も感じなかった。あまりに鮮明な紅色の瞳が、シアの魂の深くまで侵食していく。



「――これが本物の"魔法"よ」



 語尾を切り捨てるように吐き、わずかに顎を上げた。

 その目には、シアの力の本質を見抜いた確信があった。


「あなたの力は"偽物"――自分が何を使っているのか、理解もせずに振り回しているだけ」


 その断言は、単なる否定ではなかった。

 明確な警告。力の本質を理解せずに使うことへの、容赦ない非難。それは否定であると同時に、生きるための残酷な真実でもあった。


 ふっ、と。空気が揺れる気配。何かが、一滴だけ落ちたような静寂のあと。



 ――すべてが、元に戻っていた。



 氷は消え、水気もない。霜も、冷気も、何も残っていなかった。執務室は、ただの"いつもの風景"に戻っている。陽光は穏やかに射し、窓の外では風が葉を揺らしていた。


 だが、一つだけ。

 シアの心に、確かに刻まれていた。


 魔法の美しさではない。

 魔法の力強さでもない。



 ――"魔法の恐怖"と、"自分の力への疑念"。



 守るための希望だったはずの魔法が――否定された。

 それが、彼女の中に、深く染みついていた。その瞳の光は消え、力なく伏せられた視線の先には、もはや明日への望みさえ見えなかった。

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