それは、戦いの始まりでした
泉から湧き出る水の音が響く。長い時間に感じたが、実際は数呼吸した程度だった。
頭を押さえたまま、ルドがゆらりと立ち上がる。
周囲が警戒を強めた、その瞬間。一言も発することなく黒づくめたち全員が倒れた。
反射的にオグウェノがクリスを自分の背中に庇う。
「なにをした?」
オグウェノの言葉に応えるように、ゆっくりとルドが顔を上げる。琥珀の瞳が月明かりに照らされ、顔は凪いだ海のように穏やかに微笑んでいる。
「お騒がせしました。お二人が争っているように見えたので、つい手を出してしまいました」
ちょっとした悪戯をしてしまった、という雰囲気を出しながら、一応申し訳なさそうに話す。そんなルドにオグウェノが王の威厳を放つ。
「城内で剣を抜くことは禁止されている。それなのに城内で、しかも王族に剣を向けた。その重大性は分かるな?」
「はい」
ルドが両手をあげ、攻撃の意思がないことを示した。
「牢に入りましょうか?」
予想外の申し出にオグウェノが言葉に詰まる。どう対処するか考えていると、クリスが背後から出てきた。手が微かに震えているが、グッと力を入れて堪える。
「おまえは、誰だ?」
「ルドですよ」
「ならば、私は?」
クリスの質問にオグウェノが首を傾げる。だが、ルドは一瞬だけ顔を歪めた。
その表情を見逃さなかったクリスがルドに詰め寄る。
「私を呼んでみろ!」
ルドがにこやかに微笑んだ。
「クリス」
その言葉を聞いたとたん、クリスの中で何かが切れた。
パァーーーン!
乾いた音が響く。
冷めた琥珀の瞳は恐ろしい。でも、それよりも怒りが勝った。ルドではないナニかが、ルドの体を自由に動かしている。まるで、ルドのように振るまっている。
「この偽物が!」
クリスは全身で右手を振り抜いた後、ルドを睨みつけた。
「あいつは、その名で私を呼んだことはない!」
「……知ってますよ」
ルドは叩かれた頬をそのままに、口角だけを上げた。耳慣れたはずのルドの声が、全ての者を屈服させるように低く響く。
「このまま、もうしばらく遊んでいようかと思ったが、気が変わった」
オグウェノがクリスの肩を掴み、自分の後ろに下げる。
「おまえは、誰だ?」
「駒にさえなれないヤツが、知る必要などない」
光のない琥珀の瞳がクリスを捕らえる。全身が震えそうになるのを一生懸命こらえているクリスに、下卑た笑みを浮かべる。
「おまえがいると、こいつの自我が刺激されるようだが……襲ったら、どうなるかな? 発狂するか、それとも崩壊するか……どちらにしても面白そうだ」
赤髪を揺らしながら一歩出る。
その瞬間、倒れていた黒づくめたちが一斉に起き上がり、ルドに攻撃を仕掛けた。
しかし、ルドは驚くことなく右手を胸の前に動かす。
「邪魔だ」
軽く手を払うだけで、円を描くように黒づくめたちが吹き飛んだ。その実力差を予想していたのか、オグウェノが驚くことなくクリスに囁く。
「月姫はとにかく逃げろ。場合によっては、セスナとやらを呼んで、すぐにシェットランド領へ戻れ」
「だが!」
「オレとイディで、どれだけ足止めできるか分からん。できるだけ遠くに逃げろ」
「……そんなに強いのか?」
オグウェノが息を飲みながら、こちらに歩いてくるルドに視線を向ける。
「……あぁ」
「王子!」
走ってくるイディの方へ琥珀の瞳が動く。その隙にオグウェノはクリスに魔法をかけた。
『風よ、この者をかの地へ運べ』
クリスの体がフワリと浮かぶ。そのまま城の中へと勢いよく飛ばされた。
城の中の廊下を転がったクリスが、急いで体を起こしながら自分の影を蹴る。
「クソッ! カリスト! カリスト、出てこい!」
反応はなく呼び声だけが虚しく響く。髪をまとめていた布が落ち、広がった金髪をクリスがかきむしる。
「どういうことだ!? なぜ、反応しない!? いや、今はカリストより犬だ。考えろ。あいつは何者だ? どうすればいい? どうすれば……最悪、動きを止めるだけでも……それか!」
何かを思い出したクリスは暗い廊下を走り出した。
飛んでいったクリスを眺めながら、ルドが楽しそうに笑う。
「逃げる獲物を追う、というのもよいな。久しぶりに高揚している」
「簡単には行かさねぇよ」
オグウェノの言葉に、ルドが諭すように言った。
「戦う者として、相手の実力を見極められることは重要だ。だが、それで負けを認めるような発言をしてはならぬ」
「なんだと?」
「簡単には行かさない、ということは、私が行くことが前提になっている。すなわち負ける未来を想定している」
思わぬ指摘にオグウェノは言葉が出ない。
「たとえ負けるほどの実力差があっても、それは口に出してはならぬ。あと、負けぬという気概も捨ててはならない」
「なにを勝手に……」
ルドがオグウェノの全身を改めて眺める。
「ふむ。先ほどは駒にならぬと言ったが、素質はありそうだな。なぜ、候補にあがっておらぬのか……」
「なにを訳の分からないことを言ってやがる!? 余裕ぶっていられるのも、今のうちだ!」
オグウェノの声を同時に、距離をつめていたイディが大剣を振り下ろす。しかし、ルドは顎に右手を置いて考えた姿勢のまま動く様子がない。
イディが容赦なくルドの頭上に大剣を下ろしかけたところで、動きが止まった。ルドが左手の指の間に大剣を挟み、固定している。イディは大柄な体を利用して大剣を振り下ろしているのに、微動だにしない。
その光景にオグウェノは唖然としながらも、すぐに頭を切り替えて攻撃をした。
『風よ、切り刻め!』
複数の風の刃が、地面を削りながら、ルドに襲いかかる。だが、ルドは剣を挟んでいる指を軽く弾いてイディを飛ばすと、そのまま風の刃も弾き飛ばした。
その動きを読んでいたオグウェノが、飛ばされたイディの影からルドに殴りかかる。
「ほう?」
ルドが感心したような声を出すと、顎に置いていた右手を動かして拳を受け流した。
「チッ」
横に流されたことで、オグウェノが体のバランスを崩す。だが、無理やり右足に体重をのせて踏ん張った。そこから、左足をルドの鳩尾にむけて繰り出す。
しかし、ルドは軽く体を傾けるだけで避けた。そこにイディが首を狙って大剣を突き出す。
「いい連携だ」
ルドが上半身をそらして剣を避ける。そのまま右手を地面につけ、足を上げる反動に合わせてオグウェノを蹴り飛ばした。
「グッ!」
受け身がとれず、オグウェノが吹っ飛ぶ。全身に痛みが走り、口の中に土と血の味が広がる。
「王子! がぁっ!」
気をとられた一瞬でイディの体が宙を浮き、背中が壁に叩きつけられた。衝撃で息ができず、呼吸が止まる。それでも体は空気を求めて口を動かす。
「ゲホッ、ゴホッ」
どうにか呼吸機能が動き出したイディが、咳込みながらも離さなかった大剣をかまえる。地面を転がっていたオグウェノも、口に溜まった唾を吐き出し、立ち上がる。
そんな二人を眺めながら、ルドは嬉しそう笑った。
「よいな。久しぶりに楽しめそうだ」
「余裕ぶっていられるのも、今だけだ」
オグウェノの言葉が終わらないうちに、イディが地面を蹴る。ルドが視線を向けると、予想より早くイディが目前にまで迫っていた。
「おっ!?」
ルドが慌てて下がるが、イディのスピードは落ちない。すこし焦ったルドが横へ飛び退くと、その先にオグウェノがいた。
「おりゃあ!」
オグウェノの渾身の一撃がルドの腹に入る。
「グッ……」
ルドが呻き声をあげながら数歩下がる。オグウェノは殴った手を軽く振りながら、ニヤリと口角をあげた。
「前は酔っぱらっていたが、今回はガチでやるぞ」
「……あまり図に乗るなよ。人間風情が」
琥珀の瞳が陰り、顔が醜く歪む。不気味な気配が地を這い、周囲にいる生き物が一斉に逃げ出す。
「やっと本性を出したか」
オグウェノの言葉に応えはなかった。




