それは、犬でした
オグウェノが出ていったクリスの部屋のドアを、カリストがノックして入ってきた。
クリスが声をかける。
「犬の様子は、どうだ?」
「怪我は完治しているようです。この城の治療医師が診察しましたが、体に問題はないという診断でした」
「魔力はどうだ?」
「普通に生活できるぐらいの魔力はあります」
「それは犬の魔力か?」
人それぞれに個性があるように、魔力にも個性があり質がある。
「犬の魔力で間違いないかと。確認しましたが、犬の影への影渡りも可能です」
「間違いないか?」
「はい。以前、屋敷の使用人たちが面白半分で、犬と私の腕の力比べをさせたことがあります。その時に、犬の体と魔力に私の魔力を染みつかせました。ですので、有効範囲内にいれば犬の影への移動もできます」
「と、いうことは、体は犬のものということだな」
クリスが安心したように息を吐き、天井を見上げる。
「一番の懸念は晴れたか」
「何者かが犬とすり替わり、城で何かをする可能性ですか?」
「あぁ。それをされていたら、私は死体を探さなくてはならなかったからな」
淡々としているクリスにカリストが微笑む。
「探す前に、偽物を殺しているでしょうね」
「失礼だな。かろうじて話せるぐらいには、生かしておく」
クリスがジロリと睨むと、カリストが満足そうに頷いた。
「それでこそ、クリス様です」
記憶を失くしたクリスだったら、オロオロするだけで動けなかっただろう。ある意味、このタイミングで記憶が戻ったのは幸いだった。
そう考えながら、カリストはふと湧いた疑問を口にした。
「ですが、その可能性について、なぜ第四王子と話さなかったのですか?」
「あいつは無駄に優しいからな」
クリスが思い出したように笑う。
「私が失望で動けなくならないように、ワザと最悪の仮説だけは言わなかった」
「よく理解されているのですね」
「あいつの思考回路が分かりやすいだけだ」
「そうですか」
カリストが含み笑いをしながら、話を移した。
「ちなみに、犬はいつもと同じ量の朝食をとり、鍛錬をしております。記憶に抜けなどもなく、体の動きも犬そのものです。ただ……」
「ただ?」
「会話をした時に、多少の違和感があるかと。話し方、間の取り方、相槌のタイミングなど、ほとんど犬と同じなのですが、微妙な差があります」
「微妙な差?」
「こればかりは直接、話されたほうが分かるかと」
珍しくクリスが露骨に嫌な顔をする。
「あの犬の顔は見たくないんだが」
「ですが、それだと相手の目的が分かりませんよ?」
クリスが額に手を当てて俯きながら唸る。あまりに珍しい様子にカリストが訊ねた。
「どうして犬もどきの顔を、見たくないのですか?」
「目……だ」
「目?」
「あの、目。生気のない、冷え切った目。アレと視線が合っただけで体が凍る」
思い出したのかクリスの体がブルリと震える。それを振り払うようにクリスは椅子から立ち上がった。
「悩んでいても仕方ない。気分転換をしてくる」
「お気を付けて」
部屋から出て行ったクリスを、カリストは頭を下げて見送った。
クリスが外廊下を歩いていると、砂漠地方特有の乾いた風が吹いた。
「これだけ砂が多いと掃除が大変そうだな」
城内は外部からの物を遮断する結界が張ってあるため、承認されていない人や物はもちろん、虫や砂まで弾かれる。そのため、窓を開けていても城の中には砂は入ってこない。
だが、一般家庭はそうはいかない。部屋の中がすぐに砂だらけになりそうだ。
「あと、城を守る兵士も大変そうだな」
城に荷物を搬入する時は、兵士が出入口で異常がないか検査をしながら、承認の魔法印が押された箱に詰め替える。それから、城内に運び入れるため、不審物や不審者の侵入は滅多にない。
と、オグウェノが力説していた。
だが、これだけの城を維持するには、毎日莫大な量の食料や資材が運び込まれているはずだ。それを全て確認するのは、相当な労力になる。
「私には無理だな」
クリスがぼんやりと考えていると、黄色い声が耳をかすめた。ふと気になり、そちらに足を動かす。すると、そこには若い女性の使用人たちに囲まれたルドがいた。
「しまっ」
クリスが慌てて引き返そうとしたが、視線が背中を突き刺した。目どころか、顔も見ていないのに、こちらを見ていると分かる。氷の剣で背中を一突きにされたような感覚。
全身が凍り、足が止まりかけたところで、ルドが声をかけてきた。
「あ、おはようございます」
女性たちの間を抜け、一直線に歩いてくる。このまま無視するわけにはいかず、クリスは顔を背けたまま会話をした。
「体はいいのか?」
「はい」
「傷は自分で治したのか?」
「治療師ですから」
ルドが当然のように答える。クリスは横目でルドの首から下を観察した。
確かに見える範囲での傷はないし、魔力の流れもいつもと変わらない。こうしていると、大怪我をしたのが嘘のようだ。
クリスはルドの背後に集まっている、若い女性の使用人たちに視線を向けた。
「彼女たちと話している途中だったのだろう? 邪魔をして悪かったな」
とにかく立ち去りたいクリスは、急いで踵を返した。
「待ってください」
ルドがクリスの肩に手を伸ばす。それが、クリスには暗い不気味な物体が肩に迫ってきているように感じた。
「触るな!」
反射的に振り返り、ルドの手を弾く。視界にルドの顔が入る。
しまった。
そう思った時には遅かった。
ガラスの中に閉じ込められたように体が動かない。顔は固定され、琥珀の瞳から目を逸らせない。
頭から冷水を被ったかのように、血の気が引く。全身から、じわりと冷や汗が滲み出てきた。口が渇き、潤いを求めて空唾を飲みこむ。
ルドがクリスの様子を楽しんでいるかのように口角を上げ、一歩近づいてきた。
「どうしました?」
近づくな。
声に出したいが口が動かない。
「顔色が悪いですよ?」
もう一歩、ルドの足が動く。二人の間は拳一個分の距離。そこからルドの顔が迫って来る。
これだけ近くで見ても、どこをどう見てもルドなのに、なにかが違う。冷えた琥珀の瞳が牙をむく。
「お部屋まで、お連れしましょうか?」
ルドの手が伸びてくる。逃げたいのに逃げられない。恐怖に支配されているのに、目をつむることさえ出来ない。
クリスが理由の知れない絶望に包まれた時、ふわりと何かが覆い被さってきた。そのまま温もりに目を覆われ、視界が真っ暗になる。
「月姫のことは心配無用だ。おまえは体を休めてろ」
ルドの顔が視界から消えたことで、クリスの体から力が抜ける。ルドがどこか呆れたように話した。
「みなさん、心配性ですね。自分は平気ですよ」
「いいから、最低でも今日一日ぐらいは大人しくしとけ」
「……わかりました。では、失礼します」
黄色い声とともに、ルドの足音が遠ざかる。クリスは震えそうになる体にどうにか力を入れた。それから、目を覆っているオグウェノの手をどけて、振り返る。
「助かった。ありがとう」
クリスの真っ青な顔に、オグウェノが眉間にシワを寄せる。
「本当に赤狼がダメなんだな」
「……情けないがな」
クリスが両手で体を抱きしめるように腕を組み、視線を落とした。全身に鳥肌がたち、気を抜くと震えそうになる。
そこで全身が温もりに包まれた。顔を上げれば、オグウェノの腕の中にスッポリと収まっている。
「どうした?」
首を傾げ、不思議なモノを見る目をオグウェノに向ける。色恋沙汰の気配は一切ない。
まったくの脈なしにオグウェノの眉が下がる。
「体が冷えてるから温めようと思ってな」
「気にしなくても、この国は気温が高いから、すぐに温まる。それどころか暑くなる」
「そうだな」
オグウェノが名残惜しそうに離れる。クリスは顎に手を置いて考えた。
「だが、近くで見て確信した。あれは犬だ。それは間違いない」
「……まあ、月姫が言うなら、そうなんだろうな」
「だから、犬がああなった原因を探る。犬の動きを追うぞ」
「どういうことだ?」
「犬がこの国に来てから、どう動いたか。おかしなところがなかったか、全て確認していく」
「つまり、クリーマ王国で犬が歩いた場所や、立ち寄ったところ、全部行くってことか?」
面倒な気配を察知したオグウェノが後ずさる。クリスは逃がすまいと手首を掴んだ。
「行くぞ」
「オレも道連れかぁぁぁ」
クリスはオグウェノを引きずって街へと繰り出した。
カリストがルドに魔力を染み付かせた話については
「ツンデレ治療師は軽やかに弟子に担がれる」
第69話「使用人たちによる賑やかな午後のひととき」
にあります
やっと出せた裏話。゜(゜´Д`゜)゜。




