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『灰色の境界線』

事務所の廊下は、昼間でも薄暗い。


リクは自室のドアに背を預け、ずるりと身体を滑らせそうになるのを、指先に力を込めて堪えていた。

荒い呼吸のたび、視界の端で火花が明滅する。


「……っ」


細く白い指が、強く胸元を掴む。

服の生地を握りつぶすほど力を込めても、内側からせり上がってくる鈍い痛みは誤魔化せそうになかった。


息が

吸えない


その時、廊下の突き当たりから、床を蹴る騒がしい足音が近づいてきた。

リクは弾かれたように、胸元に置いていた手を下ろした。


強張った背筋を伸ばし、壁から身体を離す。

乱れた前髪を無造作に払い、フォグ・グレーの瞳を正面に向けた。


「あー、腹減った! 今日、オムライスだって言ったよな?」


香太だ。


「……うるさい。事務所の中で騒がないで。聞こえてる」

「げっ、リク。お前、またそんな幽霊みたいな顔して……。ちゃんと寝てんのか?」


香太が足を止め、リクの顔を間近で覗き込んでくる。


「……寝てる。……ただの貧血……」

「嘘をつけ。お前の『寝てる』は、机で気絶してるって意味だろ」


香太が呆れたように笑い、リクの肩にポンと手を置いた。

その瞬間、リクの膝ががくりと折れそうになる。

厚い掌から伝わる体温は、冷え切っていた肌に、暴力的なまでの「熱」となって突き刺さった。


「……っ! ……触らないで……」


思わず上げた声は、自分でも驚くほど鋭く、廊下に反響した。


「おっと、わりぃ! ほら行くぞ。春さんが待ってる」


香太は短く謝ると、それ以上は深追いせず、リクの背中を促すように軽く押した。

リクは反論しようと開いた口を、そのまま閉じた。


重く沈んでいた身体が、

香太の何気ない言葉によって、

浮力を得たように少しだけ軽くなるのを感じた。


「……ごめん……香太」

「ん?」

「……ケチャップは、自分でかける」

「分かってるって。お前、変なところにこだわるもんな」


二人の会話が、薄暗い廊下に溶けていく。

リクが抱えている深淵など、香太はきっと、一生知らないままだろう。


——それでいい。


この、何も知らない熱だけが、今の自分を唯一、まともな人間にしてくれる。

リクは、微かに震える指先をポケットに隠した。

足元のふらつきを悟られないよう、一歩、また一歩と、香太の背中を追って賑やかな食堂へと向かった。


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