表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
砂漠の月(第一部 碧沿)  作者: kohama
第二章 春
45/48

第6話 迷い

これまで、人の血や死を怖いと思った事は無かった。

幼い頃から十六になる今日まで、血も、人の死も、いつだってすぐそばにあった。


あぁ この人はもう助からないなと思ったら、死んでいった。

次から次へと、生命を維持できなくなった身体から魂が離れていくのを見てきた。

もう慣れっこだ。

いちいち悲しんでいたら、助けられる人まで助けられない。



だが、妹の息の根が止まった時から、死がいきなり怖くなった。

俺が今まで経験した死は全て、処理すべき"仕事"に過ぎなかったのだと知った。


どうしても、失いたくない。

どうしても、繋ぎ止めたい。

これを執着と言うのかもしれない。

恐ろしくなかったのは、失うことを知らなかったからだ。


・・・


リワンは、眠る主人あるじの顔にへばりついた、酸化して赤茶色になった血を水拭きしながら思った。

夕方の薄暗くなった医務室は、どこか物悲しい。

その日 身体を失った魂が、まだ名残惜しくウロウロしているみたいだ。


水拭きした布をタライで洗うと、水が赤茶色く濁った。

あの、首を貫かれた男か、腕を斬られた男の血液だった。

リワン (何て酷いことを…。どんなに痛いか…)


ー お前もやっただろう?ー


リワンはハッとした。

頭の中にその声が聞こえた時、リワンは咄嗟にタライから手を引っ込めると、両方の手のひらを見つめた。

水に濡れた手からは鉄の臭いがして、リワンは嫌悪感に、近くにあった布で急いで手を拭き、椅子から立ち上がって 寝台に背を向けた。



アイラ「リ…ワン…?」

背中からかすれた声がした。

主人あるじが起きたらしかった。


リワン「姫? 気が付きましたか? 良かったです…」

リワンは振り返ったが、返り血を浴びたままのアイラが、一瞬 さっき自分が殺した刺客のように見えて、顔を背けた。


アイラ「? リワン…? …っ!」

アイラは、リワンをのぞき見て起き上がろうとしたが、首に手を当てて痛みに顔を歪めた。


リワンは近寄って腰をかがめると、アイラの血で汚れたままの首に指で触れながら言った。

リワン「骨が…折れていなくて良かったです」

アイラ「イタタ、そこ痛い…」

リワン「あっ、すみません。痛み止めの軟膏を塗りましょう」


リワンは棚へ行くと、軟膏の器を取りながら言った。

リワン「あの、姫…」

アイラ「ん?」

リワン「お顔や首が まだ汚れているのですが、その…、今日はご自分で拭いて貰えませんか? …いえ、着替えもありますし、今 他の者を呼びます」

リワンは、アイラに背を向けたまま言った。


アイラ「? いいよ。自分で拭くし、着替えられるよ。…リワン、どうしたの? 何か変だよ…? お…、怒ってるの? 私がまた、余計な事…したから?」

リワン「違うんです、そうじゃなくて…」

リワンは向こうを向いたまま、項垂うなだれて首を振った。


怒っていない筈だったが、リワンは軟膏を混ぜながら 先刻の刺客との戦闘を思い出すと、沸々(ふつふつ)としてきた。

リワン「いやでも、やっぱりさっきのは危なかった…。どうしてあんな真似を…」

アイラ「リワ…」

リワンは軟膏の器を持って、アイラの方をくるりと振り返った。


リワン「姫、一つ言わせて頂きたいのですが」

アイラ「ハイ」

リワン「いいですか、あなたは何かといえば 後先考えずに体当たりしますけど、金輪際 体当たりは禁止です」

アイラ「……。」

リワン「少し考えれば、至近距離でどうなるか、分かることじゃないですか。今回だって、殺される寸前でした。こういうの、もう何度目です? 僕はいくつ命があっても足りませんよ」

アイラ「だ…、だってチェンが…」

リワンはため息をつくと、またアイラの方へ寄って来て、枕元の椅子に座った。


リワン「チェンさんも僕も、そういう仕事ですから…。例え我々が命を落としたとしても、あなた方であってはいけません」

アイラは、リワンをまっすぐに見て言った。

アイラ「それはダメだよ。リワンが私に付いてくれる時に、ミーナおばさまに約束したじゃない。大事な息子を守るって」

リワンは、何だそれは という顔で、暫く口を開けたままアイラの顔を見ると、ガックリと項垂うなだれた。

リワン「いやいやいや…」


アイラは タライの水に浸かっていた布を絞って、自分の顔や身体を拭きながら聞いた。

アイラ「チェンは? 皆 無事?」

リワン「無事ですよ。ただ、ジンさん達は移動になるそうですけど…」

アイラ「移動? 良かった、殺されなかったのね?」

リワン「はい。でも、江との最前線に飛ばされるそうです。自分達の兵を連れて、明朝 出発とか…」

アイラ「…! そう…なの…」


アイラは、ジンの暖かく低い声を思い出した。

そして少しだけ心配していることに、自分では気が付かなかった。

アイラ (私の父さまも、あぁいう理解のある父親だったら良かったのに…)

アイラは ふとそう思い、ハッとした。

アイラ (やだ、何考えてるの。あの人は残虐非道な草馬そうま人じゃない)

リワンは、コロコロと変わる主人あるじの顔を覗き込んだ。


アイラ「何でもな…っ…あた、た」

リワン「……。踊れますか? あさっての夜」

アイラ「…踊るわ。母さまと…最後だもの」

リワン「はい」


リワンは綺麗になったアイラの首に、丁寧に軟膏を塗ってやった。

アイラは、首に触れる大好きなリワンの指にドギマギして、耳まで赤くなった。

リワンは頬を染めるアイラを見て、胸にじわりと安堵感と切なさが広がり、泣きそうになった。

そして気付いたら、アイラを 軟膏の器を手に持ったまま 抱きしめていた。

アイラ「…!」

リワン「あなたが…、生きていて良かったです」

アイラ「〈痛みにうめいて〉…っ」

リワン「あっ、すみません。…すみません、僕は何を…」

リワンは慌ててアイラを離した。

リワン「この所、心が揺れてしまって…」

アイラは真っ赤になりながら、どこか沈んだリワンを見つめた。



リワンは 無言でアイラの首に包帯を巻いた。

アイラは、バクバクいう胸の音が聞こえるのではないかと、急いで話題を探した。

アイラ「え…と、あ、ねぇ、ミーナおばさまに剣を習う話って…」

リワンはハッとして、一瞬 手を止めた。

リワン「……。申し訳ありません…」

アイラ「?」

棚の後ろから出て行こうとしたリヤンが、二人の話に足を止めた。


リワン「やっぱり、教えられません」

アイラ「? …どうして? だって おばさまに話つけといてくれるって…」

リワン「すみません…。リファが死んでから…、その…、少し考えが変わったんです」

アイラ「え…? で、でも、さっきみたいに必要な時があるじゃない!」

リワン「そうですが…、もうできる限り、誰かの命を奪うことはしたくないと思ったんです。少なくとも、あなたをそんな状況に置きたくない」

アイラ「お、置きたくなくても、あぁいう目に遭うわ。身を守る力が必要よ!」

リワンは困惑して、暫く黙った。


リワン「……。すみません、自分の中でも答えが出ないんです…」

アイラ「……。」

アイラは、薄暗い医務室の中で揺れるリワンの瞳を見つめた。

それは、人の生死にほとんど感情を交えなかった これまでの冷静沈着なリワンより、ずっと心許こころもとなく見えた。

リワン「私はあなたが無事にお嫁に行ったら、剣は捨てようと思っています。父のように医術に専念します。いや、それすらできるか、分からなくなってきたんです…。人が死ぬのも、殺すのも、急に恐ろしくなって…」

アイラ「リワン…」

アイラは目を丸くしてリワンを見た。


リヤン「……。」

リヤンは、壁の後ろで息子の言葉を黙って聞いていた。



エイジャ「綺麗事だな」

いつの間にか医務室に入って来ていたエイジャが、嘲笑して言った。

アイラ「エイジャ…」

エイジャ「何が命を奪いたくない、だ。力が無ければどうなるか、思い知って始めたんだろうが」

リワン「そうだが…。救いたいのに奪うのは、矛盾している」

エイジャ「別に矛盾してねーだろ。敵の命を奪って、味方の命を救う。筋通ってるって」

リワン「分からない…」

エイジャ「ハッ! アホか! らなきゃられんだろが!〈アイラに〉じゃあやっぱり俺が教えてやるよ。お前の母ちゃんの送別が終わったらな」

リワン「……。」

リワンは不機嫌にうつむいた。

アイラ「う…、うん…」

母の送別と聞いて、アイラも俯いた。


・・・・・


<翌朝>

アイラはなぜか、夜明け前にパチリと目が覚めた。

長椅子を見ると、母はよく眠っていた。

まだ薄暗い中 そっと扉を開けると、エイジャも椅子に座ったまま いびきをかいていた。

アイラは寝巻きのまま、するりと部屋を抜け出した。


薄暗い廊下の角を曲がろうと先をのぞいた時、アイラはいきなり後ろから鼻と口を塞がれた。

アイラ「!!」

悲鳴を出したが、押さえつける力が馬鹿みたいに強く、声にならなかった。

サッと血の気が引いた。

後ろの誰かは、反対の手でゆっくりとアイラの首の包帯の上に指をわせ、大きな手で首を掴んだ。

アイラ (こ…んな力で絞められたら、今度こそ…!)

アイラは涙目になり、ガタガタと震えた。


チェン「〈声をひそめてアイラの耳元で〉王女ともあろうお方が、人気ひとけの無い中、敵に牛耳られた城を一人で歩くなど、昨日といい今日といい、随分と軽率ですこと。あなたの護衛が不甲斐無いのもありますけど、可哀想じゃありませんか、あの子も。あなたに、万一の事があったら…」

チェンの声だった。


アイラ「んん?!(チェン?!)」

アイラは安心して一気に力が抜けたが、背筋はまだガタガタと震えていた。

後ろから、誰かが走ってくる音が聞こえた。

チェン「……。お仕置きはここまでみたいですね」

チェンはそう言うと、ゆっくりとアイラを離し、走ってくる足音の方を気怠けだるそうに振り返った。

チェンの後ろには、エイジャが少し息を上げて立っていた。


チェンは、眠いのか機嫌が悪いのか分からないような顔でエイジャを見下みおろすと、チクリと言った。

チェン「おはよう、お寝坊さん」

エイジャ「今…、何してた?」

チェン「フフ。昨日のお礼を言おうと思ったのよ。誰かさんが爆睡してる横をすり抜けて、一人で出て行かれたから」

チェンは エイジャにニッコリとまた嫌味を言うと、胸に手を当ててアイラに頭を下げた。


チェン「姫、昨日はありがとうございました。あたくし、今頃 背中からパッカリ二つに割れている所でしたわ」

アイラ「ぶ…、無事で良かったわ」

アイラは、目を白黒させてチェンを見ながら言った。

チェン「おかげさまで。でも、助けて頂いて何ですが、もう あのような事は結構です」

アイラ「え…」

チェン「こちらも仕事ですから。宜しいですね?」

チェンは切れ長の瞳でアイラを見下ろしながら、淡々と言った。

アイラ「う、うん…」

アイラの返事を聞くと、チェンはいつものポーカーフェイスで持ち場へ戻って行った。



チェンが行ってしまうと、アイラはその場にぺシャンと座り込んだ。

エイジャ「何された?」

アイラ「あ…、うん。……何でもない」

アイラは目を泳がせて"お仕置き"の事は言わなかった。

自分の中でも、チェンに首を掴まれた事は よく分からなかった。

アイラは指先が震えているのを隠そうと、両手で自分の腕を抱いた。

エイジャ「……。」

エイジャは不審げに アイラのその様子を見た。


エイジャ「つかさ、起こせよ?」

エイジャは、ぶっきらぼうに手を差し出した。

アイラ「うん…、ごめん…」

アイラは、エイジャの小麦色の手を掴んでヨレヨレと立ち上がった。

エイジャ「いや、爆睡してたの俺だけどさぁ。それで? こんな朝早くからどこ行く気なん?」

アイラ「あ…、えっと…、その…」

アイラがまた言い淀んでいる所で、外から沢山のひずめの音が聞こえて来た。

アイラ「!」

アイラは二階のバルコニーの方をハッとして見ると、走り出した。

エイジャ「あ、オイ! 待てって!」



アイラとエイジャが二階のバルコニーへ走り出ると、下にジン達の一軍が集まっている所だった。

アイラはバルコニーから、カポカポというひずめの音と 馬のいななきが聞こえる中、ジンを探した。

アイラ (あの人…、草馬人だけど、何度も助けてくれたわ…)


ジンとタルカン、スレンが馬に乗って出て来た。

アイラ「あっ」

エイジャはアイラの視線の先を 怪訝そうに見た。

エイジャ (見送り? わざわざ…)


周りを見回していたスレンは、バルコニーに居るアイラ達に気が付いた。

スレン『あれ? あのじゃじゃ馬っ、居ますよ? こんなに早いのに、どうしたんだろ? おしっこに起きたのかな?』

ジンとタルカンも、バルコニーを見上げた。


アイラは、黒い馬に乗ったジンが気付いたのを見ると、胸に両手を当ててお辞儀をした。

ジン『フッ』

ジンは軽く笑うと、アイラに片手を上げた。


タルカンは馬に乗ったままジンの前に出ると、刀を抜いてアイラに向け、物凄い形相で睨みつけた。

アイラ「!」

アイラがエイジャの後ろに隠れると、エイジャは可笑しそうにケタケタと笑った。

アイラ「何よ?」

エイジャ「いや、あいつの主張も最もじゃね? 昨日 オメーが無駄に刺客に近付かなきゃ、ぶっ倒れて城に運ばれるなんてことにはならなかった訳で、そしたら ジン? あいつが責任取らされることも無かったんじゃねーの? 最前線なんて、死んでこいって事だろ?」


アイラは愕然として、下にいるジンを見た。

アイラ「…私、ジンさんに 恩をあだで返してしまったの…?」

エイジャ「ま、そういうこったな。後先考えないのが、何ともお前らしいわなぁ。でもよぉ、仕事ほっぽり出して帰った奴に言われたかねーわな」

エイジャは頭の後ろに手を組んで、またケタケタと笑った。

砂埃がもうもうと立つ中、ジンはやれやれとばかりにタルカンに何か言うと、タルカンはやっと刀を納め、アイラをもう一度 睨みつけてから、プイッと向こうを向いた。


アイラ「チェンを見捨てるなんてできなかったわ」

エイジャ「チェンを取るなら、ジンは最前線。ジンを取るなら、チェンはお陀仏。ま、味方取ったんだから、いーんじゃねーの?」

アイラ「私も剣を使えたら、チェンもジンさんも無事だったかも」

エイジャは呆れたようにアイラを見た。


エイジャ「めでてぇヤツ」

アイラ「何でよ」

エイジャ「腕力については、こないだ腕相撲して分かったんじゃねーの? 女のお前がちょっとやった所で…」

アイラ「あんたと同じにはできないし、やり方も違うかもしれないけど、できることだってあるわ」

エイジャは口を開けたまま、呆れて主人あるじを見た。

エイジャ「はーん? ま、じゃあせいぜい期待しとくわ。ビシバシしごいてやるよ。〈下を見て〉あ、行くみたいだぜ?」

日の出と共に、ジン達が率いる一軍は、砂埃を巻き上げて 碧沿へきえん城を後にした。


・・・・・


<その日の午前中>

中庭で宴の稽古が始まると、リワンとエイジャ、チェンは例によって東屋あずまやに座って見物を始めた。

エイジャ「あの親子の練習風景も、今日で見納めか」

リワン「そうだな…」

チェン「……。」

チェンは、首をかばいながら稽古するアイラを、黒い瞳で見流していた。


途中から城の舞い手達も合流し、楽師も合わせて総勢三十名弱の稽古となった。

王妃「できたわね。それじゃあ明日の夕べ、皆 宜しくね」

踊り手も楽師達も、別れを惜しんで王妃に寄って来た。

王妃は一人一人に笑顔で言葉を返した。


・・・・・・


<その夜>

アイラも王妃も寝床に入り、蝋燭ろうそくの灯りは既に消えていたが、二人とも目を開けていた。

王妃「寝た?」

アイラ「ううん」

王妃「ね…、そっちに行っていい?」

アイラ「え? うん!」


母は娘の寝台に潜り込むと、実家のあの一つしかない寝台で 昔 自分がしてもらったように、アイラを胸に抱いた。

アイラ「母さま…!」

アイラは母の胸の中で、その切ない暖かさに身を委ねた。


王妃「ね、もし私が…」

アイラ「?」

王妃「もしもよ? 向こうへ行って、その…何かあったとしても」

アイラ「何かって?」

王妃「んー、例えば、死んでしまったりとか…」

アイラ「やだ!」

王妃「〈笑って〉例えばよ。ずっと生きてる人は居ないわ」

アイラ「……。」


王妃「恨んではいけないわ。憎しみに振り回されないで、あなたの人生を生きてほしい」

アイラ「そんなの…、無理だよ」

王妃「ねぇアイラ、有名なお坊さんの言葉にね、 "怒りは焼けた石を胸に持っているようなものだ。抱えている自分自身を焼き尽くしてしまう" って言葉があるのよ」

アイラ「私 きっと、何もかも焼き尽くしてしまうよ」

王妃「勿体無いわ、あなたの人生が」

アイラ「……。」


王妃「ね、憎しみに支配された時は、自分を俯瞰ふかんして見ると良いんですって」

アイラ「俯瞰って?」

王妃「あぁ、自分は今 怒ってるんだなぁ、あの人を憎んでるんだなぁ、悲しいんだなぁ って、もう一人の自分が気付いてあげるの」

アイラ「気付いて、どうなるの?」

王妃「焼け石を心に持ったまま気付かないでいるのが、一番危ないじゃない。焼け石に気付いたら、少しずつ取り出せるわ。あぁ、熱いね、痛いね、苦しいね、ってね。それで、気付いたら、心の川に その想いをすっと流すんですって。お坊さんの知恵」

アイラ「ふーん…?」


王妃「なんてね。実は私も分からないのよ。憎しみに支配されたら、私も頭の中がその事でいっぱいになっちゃって、何ヶ月もずぅーっと、グルグル周り続けてしまうわ。今の所、そこから抜け出せるのは、時間が経つ事くらい。気付いて、流して、他の事に集中して、グルグルしたらまた気付いて、流して…。相手も何か事情があったのかもしれない、とか考えてみて…。それで、ひたすら時間が過ぎるのを待つ位よ。非力ね…。憎しみや悲しみから解放される知恵があるのなら、教えてほしいものだわ」

アイラ「そうだね…」 (大人でも、同じなんだ…)

アイラは 母の暖かい胸の中で、新鮮な驚きを受けながら相槌を打った。

そろそろ、眠気が襲ってきていた。


王妃「それとね、もう一つ。母さまがあなたに望むのは」

アイラ「?」

王妃「あなたらしく生きてほしいって事よ」

アイラ「うん…」

王妃「欲を言えば」

アイラ「?」

王妃「生き延びてほしい。それもできるだけ長く。だからアイラ、昨日みたいに、叶わぬ相手に刃向かってはダメ。例え相手が間違っていてもよ。上手くやらなくちゃ。正義やバカ正直だけでは、自分の命も、大事な人の命も守れないわ。生き延びてこそよ、分かるわね?」

アイラ「〈自信なさそうに〉うん…」

王妃「〈笑って〉心を隠すのは…、あなたの一番苦手な事ね」

アイラ「〈自信無さそうに〉気を…付けるよ…」

王妃「ん…」


親娘おやこの会話はそこで途切れた。

暫くして娘の寝息が聞こえてくると、王妃は娘の額に口付け、娘の寝台を抜け出した。

そして長椅子の下に置いておいた袋を持つと、そっと廊下へ出た。


・・・


椅子に座ってうつらうつらしていたリワンは、ハッと目を開けて王妃を見上げた。

リワン「〈立ち上がろうとして〉王妃様? お休みになられたのでは?」

王妃はリワンの両肩を押して、また椅子に座らせた。

王妃「あなたに、まだお礼を言っていなかったから…」

リワン「え…?」

王妃「リワン、いつもあの子を守ってくれてありがとう。ワガママな子なのに、本当に良くしてくれて…。あなたが あの子の護衛になってくれると聞いた日から、ずっと感謝しています」

リワン「いえ、そんな…。勿体無いお言葉です。…仕事…ですから…」


王妃「〈苦笑して〉…あの子は、そうは思ってないと思うわ」

リワン「……。」

リワンは気まずそうにうつむいた。


王妃はリワンをのぞき込むと、イタズラっぽく聞いてみた。

王妃「ねぇリワン、変な事聞いて良い?」

リワン「何でしょう?」

王妃「あなたは アイラの事…、どう思っているの?」

リワン「〈面食らって〉えっ?! ど、どうと言われましても…。大変 個性的な姫君かと…」

王妃「そう」

王妃は可笑しそうに笑った。


リワンはうつむいて言った。

リワン「僕は…、お礼を言って頂くような者ではないんです。姫を守れるか、自信が無くなってきてしまって…。あぁ、こんな事をご出立前の王妃様にお伝えしても、ご心配をかけるだけなのに…。申し訳ありません…」

王妃は、沈んだ様子のリワンを、微笑ほほえんで じっと見つめた。

王妃「守らなくても良いわ。あなたと一緒にいるだけで、あの子は一日一日が幸せよ。いつ来るか分からない不幸な結果よりも、毎日毎日の方がずっと大事だわ」

リワン「王妃様…」

王妃「あなたが 私の義理の息子になる日を、見てみたかったわ。孫の顔も」

リワン「…えっ?」


ギョッとしたリワンに、王妃はまたクスクスと苦笑すると、持ってきた袋を差し出した。

リワン「?」

リワンが受け取って中を見ると、分厚い本が二冊入っていた。

一冊は西方の書で解剖について、もう一冊は東方の書で薬草についてだった。

リワン「これは…!」

王妃「リヤンさんなら、もう似たようなものをお持ちかもしれないけれど…。二冊とも、その道の大家たいかの人達が書いたものらしいわ。良かったら、読んでみて?」

リワン「〈立ち上がって〉大変貴重なものです。ありがとうございます!」

王妃「良かった…」


王妃は嬉しそうに笑うと、手を差し出した。

リワン「?」

王妃「明日は忙しくなるかもしれないから、今の内にお別れを」

リワン「……。」

リワンは、王妃の柔らかく華奢な手を握った。

リワン (うわ、骨が細いな。すぐ折れてしまいそうだ…)

リワンは王妃の手の感触に驚いた。


王妃は、自分よりも背が高くなったリワンの、緑がかった瞳を真っ直ぐに見つめた。

リワンはドギマギした。

アイラの母と、これ程 近くで見つめ合った事は無かった。

三十三になるアイラの母は 息を呑むほどに美しく、その美しい茶色の瞳で見つめられると、心臓をギュッと鷲掴みにされたようだった。

リワン (姫は、あのしなびたジャガイモのようなお父上に似たんだな…)

リワンはポーッとして、思わず王にも主人あるじにも失敬なことを考えた。


王妃「リワン、今までありがとう。あなたと、ご家族の皆さんの幸せを、いつも祈っているわ」

リワン「ありがとうございます。王妃様も、どうかご無事で…」

王妃「えぇ」

王妃はにっこりと笑うと、

王妃「お休みなさい」

と言って、また部屋に入って行った。


暗い廊下にふんわりと、東方の香りが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ