第28話 約束
エイジャは、一帯に続く綿花畑を超えた先の、井戸の一つに居た。
アイラと王妃は、よくこんな都の端っこまで、エイジャ達 作業員の皆が歩いて来たものだと、馬に乗りながら思った。
アイラ達が到着すると、砂礫を運んでいたエイジャは、前回と同じくまたギョッとした顔をした。
作業員は十人程で、皆チラチラと馬から降りる六人を見た。
エイジャが正々堂々と知らない人のふりをしたので、アイラは仕方無く、ナザルと一緒に作業中のエイジャに近付いて行った。
エイジャは物凄く迷惑そうな顔をした。
エイジャ「…何?」
アイラは、"ちょっと気持ち悪いんだけど"という言葉がその後に聞こえた気がした。
アイラ「こないだの所に居なかったから。パン屋さんが、ここに来てるって、教えてくれたの」
エイジャ「……。」
エイジャは何も言わず、訝しげに二人を見ていたが、また口を開いた。
エイジャ「…何の用?」
アイラは何も言わずに、食糧の入ったカゴを差し出した。
アイラ「その包みはパン屋さんから。あんたに渡して、って」
アイラはカゴの上のパンの包みを指差して言った。
エイジャは片手でカゴを受け取り、早速 カゴに入っていた肉を口に詰め込みながら、眉をひそめて言った。
エイジャ「〈モハモハして〉…何で来んの?」
アイラ「今日は言うことがあるの。あんた、きんしんが終わったら、兵舎にまた住めるから。父さまが、そう伝えてって」
エイジャ「え…」
エイジャは目を見開いた。
アイラ「ねぇ、わかった?」
エイジャ「ん…? んあぁ…」
アイラ「それじゃあね」
アイラは母達が居る方へ踵を返して、行こうとした。
その時、井戸の方から声がした。
作業員「エイジャー! ちょっと手伝ってくれ!
中で壊れてる所、身体ちっこいお前の方が良さそうなんだわぁ」
エイジャ「うーす!」
エイジャは砂礫の入ったバケツを下ろして、井戸の方へ のそのそ歩いて行った。
アイラ「エイジャが中に入るのかな?」
アイラはやや心配そうに、ナザルに言った。
ナザル「そのようですね。修理ですかね…」
アイラは、エイジャの後ろから走って、彼に追いついて言った。
アイラ「ねぇ、危ないんじゃない? こんな仕事やめなよ」
アイラはエイジャの横から、心配そうに小さな声で言った。
エイジャはニヤリとアイラを流し見て言った。
エイジャ「自分の護衛になれとか言っといて? そっちの方が危ない仕事なんじゃねーの?」
アイラは一瞬ハッと足をすくませたが、またすぐエイジャの後ろに付いて行った。
エイジャは穴の側へ来ると、アイラから受け取った食糧のカゴを置いた。
彼は胴体に縄を結んでもらうと、小さなシャベルを入れたバケツとランプを持って、ひょいと身軽に狭い井戸の中へ入って行った。
王妃達も井戸の側までやって来た。
中を覗き込むと、深さは十メートル位のようだった。下に水の流れる音が聞こえる。
作業員達は何人かで、ゆっくりと木製の滑車を使って エイジャを井戸の中に下ろした。
暫くすると縄がビンビンと震え、作業員が滑車で引き上げると、砂礫の入ったバケツだけが上がって来た。
これが何度か繰り返される間、アイラは心配そうに見ていた。
暫くして作業員達が縄を引き上げると、
エイジャ「大体 狭い所のは取ったぜ」
と言いながら、エイジャが泥だらけになって上がって来た。
彼が引き上げられる時、アイラは滑車に乗りつつある縄の一部分が、ちぎれそうなのを目撃した。
アイラ「あっ!」
アイラは咄嗟に、エイジャの腰に巻かれた縄を両手で掴んだ。
エイジャ「あ?」
作業員達も"?"となった瞬間、ちぎれそうな部分が滑車に乗り、力がかかった。
撚り合わせられた縄は、一瞬の間にツ!ツ!ツ!ツ!と連鎖的に切れた。
エイジャの腰に結ばれた縄を持ったのが大人であったならば、彼の体重を支えられたのであろうが、ほぼ同じ位の体重のアイラでは、前屈みの体勢も手伝って、支え切れなかった。
アイラは、落下するエイジャに引き込まれるように、井戸の中にずるり落ちた。
それは本当に、一瞬の事だった。
ナザルが咄嗟に手を出し、アイラの片足を掴んだ。
アイラ「〈悲鳴〉」
が、惜しくもスポッと靴が脱げ、アイラはエイジャと一緒に井戸の中に落ちてしまった。
ナザルの手に、アイラの青緑色の片方の靴が残った。
王妃「アイラ!!」
母は目を見開いて井戸へ向かって叫んだ。
井戸は、二人が落ちた時の小さな衝撃で、元々不安定な崩れかけの部分がサラサラ、カラカラと砂が落ちていたが、次第にザザザザーとその音は大きくなり、とうとうドシャァっと崩落して、狭い井戸の底は見えなくなった。
カルファは驚いて、王妃を井戸から離した。
他の者達も、数歩 井戸から後ろへ下がった。
井戸の穴からは、砂煙が舞っていた。
王妃「?! アイラ!? アイラ!!」
母はカルファの腕の中で金切り声を上げた。
その場に居た皆は 度肝を抜かれ、崩落が一旦 落ち着いたのを見ると、ソロソロとまた井戸を取り囲んだ。
ナザルは、アイラの片方の靴を掴んだまま、呆然とした。
ナザル (姫…、なぜです…?)
ナザルは目眩がして、こめかみを抑えた。
ナザル (なぜあなたはこう、次から次へと、事件に巻き込まれるのですかね…? しかも、思いもつかないような事で…。
昨日の夜、どうしてあなたが今日 井戸に落ちるなんて想像できます? 普通落ちないでしょう、井戸に、王女が。
あぁこんな事なら、昨日の内から 今日は井戸に落ちると知っておけばよかった。そしたら対策が取れたのに…)
ナザルは混乱していた。
ナザル (俺のせいなのかな…? 俺…、そろそろクビなんじゃないかな…。何かもう…、今度という今度はちょっと…、心折れそうなんだけど…)
ナザルは、考えながら時折白目になった。それでも彼は、自分を奮い立たせようと ぶんぶんと頭を振った。
ナザルとカルファは動転しながらも、すぐに対策を打ち出した。
ナザル「ここの隣の井戸はどこだ?」
作業員1「水路の上流と下流に、それぞれ百メートル程だ」
作業員は前と後ろを指差した。
作業員2「この井戸の下は、上流の方が崩れていて、〈後ろを指差し〉上流側の井戸から降りても通れない。〈前を指して〉下流側の井戸から下りた方がいいだろう。水路を逆流して歩かないといけないがな」
ナザル「分かった。なら、俺がそこから降りて、地下水路からここの井戸の下まで救出に向かう。協力して貰えるか?」
作業員1「あぁ!」
カルファ「〈作業員に〉では、俺達はここを上から掘ってみようか」
作業員2「いや、振動でまた崩落する可能性がある。下にまだあの二人が生きているなら、今はここをいじらない方が良い」
カルファ「分かった。では俺達はここで待機する。ナザル、必要なら呼べ」
ナザル「あぁ」
大人達は二手に分かれた。
・・・・・・・・・・・・
エイジャ「う…ぅ…」
冷たい雪解け水で意識を取り戻したのはエイジャだった。地下水路を流れる水は、身を切るように冷たい。
水路の上流の方には砂礫が積もっていて、それが多少のクッションになってくれたらしいことはありがたかった。
エイジャは まだぼんやりする頭で、井戸に落ちる前の事を思い出した。
アイラが自分の腰の縄を両手で掴み、一緒に落ちてきた筈だった。
真っ暗で何も見えない中、エイジャは辺りを手探りで探した。
彼は、人の皮膚の感覚を手のひらに感じた。
両手で触ると、それはアイラの腕らしかった。
エイジャはそれを引っ張り上げると、顔を捉えて、揺さぶって呼びかけた。
エイジャ「おい! おい! 生きてっか? おい!!」
アイラの身体は冷たかった。エイジャは、冷たい水に浸かっていた為だと思いたかった。
エイジャ「おいってば!!」
彼は焦った。
エイジャ「ク…ソ…!」
エイジャ (何で掴んだんだよ! 俺の縄を掴まなければ、落ちなかったろーが! 本当に、何考えてんだよ! アホ!)
エイジャは井戸の上を見上げた。
エイジャ「おーい!! おーい!! おーいっての!!!」
彼は上に向かって何度か叫んでみたが、人の声が聞こえたり、光が漏れてきそうな気配は無かった。
それ所か、上からは僅かに 砂礫がサラサラと断続的に落ちてきていた。
エイジャ (やべ。ここに居たら、また崩れて来て生き埋めになっちまうかも…。ここに居たらだめだ…!)
エイジャは水の流れる方を、真っ暗な中 手探りで様子を調べた。その方向は幸運な事に、砂礫も少なく、障害物は殆ど無かった。
彼はアイラを背負って歩き出した。背負うと言っても、体格はほぼ同じだったため、彼女の両手を自分の首の前で持って、マントのようにズルズルと引きずる形になった。二人とも服が水を吸って、それがまた重たく冷たかった。
真っ暗な中、三十センチ程の深さのある狭い水路を、小さなエイジャがアイラを引きずって歩くのは、困難を極めた。雪解け水は切るように冷たく、エイジャの腿の辺りまで来ていた。
何も見えない暗闇と、冷たい水と、出られないかもしれないという恐怖は、図太く楽天的とはいえ まだまだ幼いエイジャの神経を強烈に抉った。エイジャは歩きながら、ぐしゅぐしゅと泣きべそをかきだした。
アイラ「あんたが泣くの…、初めて…きいた」
かすれた声が背中から聞こえた。
エイジャ「?! 何だよ、起きてたのかよ?! だったら早く言えよ! 自分で歩けよな!」
エイジャは泣きながら叫んだ。
アイラ「ごめ…ん。歩け…な…い」
エイジャ「?! 怪我したのか?」
アイラ「うん…。頭…いたい…」
エイジャは唇を噛んだ。水は冷たいし、アイラは重いし、怖いし、もうこれ以上 歩けない気がした。が、不思議な事に、話し相手が一人居るだけで、こんなにも不安が小さくなるものなのかと、彼は思った。
アイラ「エイジャ、先に行って…いいよ」
エイジャ「は?」
アイラ「助けを…呼んで…きてよ」
エイジャ「…お前どうすんだよ」
アイラ「ここで…待ってる…か…ら…」
エイジャ「……。」
エイジャは黙ったまま、アイラを引きずって歩き続けた。
エイジャは肩で息をしていた。
アイラ「ねぇ…、置いて行って…いいってば。その方が…早い…よ…」
暫くすると、アイラはもう一度言った。
エイジャは、今度は足を止めた。
彼の細い脚は、冷水で感覚がよく分からなくなっていた。
エイジャ (確かに、その方が早いかもしれない…)
彼はそう思い、唇を噛んだ。
エイジャは、アイラを水音だけが聞こえる真っ暗な水路に、手探りで座らせた。
壁にもたれかからせて座らせると、水は小さなアイラの みぞおち辺りまで来た。
エイジャ「じゃあ、ちょっと待ってろ。確か、隣の井戸までそんな遠くねーはずだから…」
アイラ「ん…」
彼は下流の方へ バシャバシャと歩き始めた。
アイラは朦朧とする意識の中で、エイジャの足音が離れて行くのを聞いていた。
心細かった。本当は、"やっぱり待って!"と言いたかった。
アイラ (大丈夫…。エイジャはちゃんと戻って来てくれる…)
アイラは、井戸水でスイカを冷やすように身体が冷えて行く中で、そう思った。
何歩か歩いた所で、エイジャは はたと立ち止まり、真っ暗な水路の後ろを振り返った。
そこは何も見えず、水の流れる音がするだけで、静まりかえっていた。
彼はまた前を向いた。もう一歩 足を前に出した。もう一歩。そしてまた止まった。
よく分からなかったが、エイジャはアイラを置いて行ってはいけない気がした。
彼は、アイラがこの水の冷たさの中で そのまま死んでしまうような気がした。
今 離れてはいけないと思った。
エイジャは後ろをまた振り返ると、アイラの所までバシャバシャと流れに逆らって戻って来た。
アイラ (…?)
アイラは どうしたのかと思ったが、涙が出そうな程 嬉しかった。
エイジャはしゃがんで、また彼女の両手を自分の首の前で持つと、再びズルズルと引きずり始めた。胸までびしょ濡れになったアイラの服が、エイジャの背中に滲みてきて冷たかった。
エイジャ (やっぱ、置いてったらダメだ。離れたら、どうなるかなんて分かったもんじゃねー!)
アイラ「どう…した…の?」
アイラの声は、さっきより小さくなっていた。
エイジャは何も答えず、進み続けた。
アイラ「ねぇ…?」
エイジャ「わっかんねーけど…!」
エイジャは歯を食いしばった。肩で涙を拭きながら、歩き続けた。
アイラ「……。ごめん…ね…」
エイジャ「ホントだよ! お前さ、何考えてるわけ?! 何で俺のこと掴んだの? あの時 手ぇ出さなければ、お前落ちないで済んだじゃん! 俺一人だったら、もっと早く歩けるっつの!」
エイジャは思っていた事を、泣きながらまくしたてた。
アイラ「だって…、あんた…、落ちちゃうと…思った…から…」
エイジャ「んだよ、またそれかよ! 何回目だよ! うぜーんだよ! お前に関係ねーだろが、俺がどうなろうと!」
アイラ「だから…、私の…ごえいに…なってってば…。そしたら…、関係…ある…から…」
エイジャ「だから! なってやるっつってんじゃん!」
アイラ「本当…? 〈笑って〉ちゃんと…やる…?」
エイジャ「……知らねーけど…」
アイラ「じゃあさ…、一つだけ…約束…してよ」
エイジャ「…何だよ」
アイラ「死なない、って」
エイジャ「……。」
アイラ「ねぇ?」
エイジャ「そんなん、分かんねーだろが!」
アイラ「じゃあ…、や…だ…」
エイジャ「はぁ?! お前、勝手な事言ってんじゃねーよ! ……? おい、…どうした? おい!」
エイジャは、肩に乗せたアイラの頭から、生暖かいものが垂れているのを感じた。
エイジャ「!?」
彼はそれが、匂いから血だと分かった。
エイジャは、アイラが死んだのではないかと、不安に押し潰されそうになった。彼の握るアイラの手は冷たかった。エイジャはしゃくりあげながら、歯を食いしばってアイラを引きずって行った。
前方から、ランプの灯りが小さく見えた。
エイジャは希望というものが光だという事を、まさにそのままの形で知った。
ナザル「姫ー! エイジャー! いるかー! おーい!」
それはナザルの声だった。
エイジャはまた肩で涙を拭いて叫んだ。
エイジャ「ここだ! ここにいる! おーい!!」
エイジャの声は、そのつもりは無かったのに、止めどもなく溢れる涙で震えていた。
前方の灯はハッとしたように、バシャバシャと流れに逆らって走ってきた。
足音は二人のようだった。
ナザル「エイジャ!! 良かった、無事か!」
ナザルはランプの灯りで、エイジャを照らした。
作業員の一人が、ナザルの後ろから付いて来た。
泥だらけで泣きべそをかいているエイジャを見て、ナザルと作業員は ほーっ、と一つ息をついた。
ナザル「姫は…」
エイジャは背中のアイラをランプの方へ向けた。
アイラはやはり泥だらけで、頭から血を流し、目を固く瞑っていた。
ナザルは、驚きと安堵と不安とがいっぺんに来て、また目眩がした。
エイジャ「さっきまで喋ってたんだけど…」
ナザルは、震える手でアイラの首の脈に触れると、また一つ 大きく安堵の息を吐いた。
彼の警護対象は、身体は冷え切っていたが、生きていた。
ナザルは ランプを後ろの作業員に渡すと、アイラをエイジャから引き受け、抱っこした。
ナザル「お前は? 歩けるか?」
エイジャ「おう」
エイジャは 腕で涙を拭いながら一生懸命に強がった。
ナザルは、エイジャの頭をガシガシと乱暴に撫でた。
ナザルは片手でアイラを抱っこし、もう片手でエイジャの小さな手を引いた。
エイジャは、初めて大人の有り難さを感じた。
これまで彼は、大人は自分をただ利用するだけのように思ってきた。
だが今、この暗闇の中、手を引いてくれるナザルの その大きくて温かい手は、自分を守ってくれる存在のような気がした。
彼は ランプの灯りの中に、自分の少しだけ前を歩く 大きくて広いナザルの背中を見た。
あぁ、自分にもお父さんが居たら、こんなに心強かったのかもな、とエイジャは思った。
そして、もしお父さんが居たのなら、思い切り甘えてみたいとも思った。
小さなエイジャは涙が止まらなかった。
安堵と、これまでの悲しさと寂しさに、涙が止まらなかった。




