第23話 帰宅
月が高く登り切った頃、三人はやっとの事で城の裏門に辿り着いた。
遠くに聞こえる蹄の音や かすかな悲鳴を除けば、白い月を映した湖はいつもと変わらず美しかった。
リワンは時々視界がぼやけた。はぁはぁと息を上げ、古びた裏門に手を付いて身体を支えた。
リワン (出血が多いな…)
アイラ「大丈夫…?」
アイラは心配そうにリワンを見た。エイジャもチラと彼を見た。
リワンは答えず、アイラの砂だらけの顔や服を、弱々しい手でポンポンと叩いた。
幼いアイラは、擦りむいてヒリヒリする顔を、無意識にリワンの手から反対側に背けた。
リワン「あなたをこんな目に遭わせてしまって…、王様や王妃様に何て言ったら良いのか…」
エイジャはそっぽを向きながら、バツ悪そうに僅かに頬を膨らませた。
アイラ「リワンのせいじゃないもん」
エイジャは、ピクリと片眉を上げた。
三人は、ひっそりとした裏口から城内へ入って行った。
三人が裏門から入ってヨロヨロと坂を上がって行くと、衛兵が三人を見つけた。
月の光でそれが、よりにもよって異民族が襲撃に来た今日、行方不明になった王女達だと解ると、彼は目を飛び出さんばかりに見開いて、
衛兵「か、か、か、帰って来ましたーっっ!!」
と叫びながら、走って行ってしまった。
・・・・・・・・・・
王妃は悪夢にうなされていた。
ゼダ「父さまーっ! 母さまー! 姉さまーっ!」
泣き叫ぶゼダが、 江の役人に抱っこされて連れていかれる。
王妃「ゼダ!! 嫌! 私の子を連れて行かないで!! ゼダーっ!!!」
アイラ「母さま! 助けて!!」
草馬人の大男が刀を振り上げ、アイラが身体を伏せて目を瞑っている。
アイラ「〈悲鳴〉!!」
鮮血が飛ぶ。
王妃「アイラ!! アイラ!! アイラーっっ!!!」
・・・
王妃は跳ね起きた。
身体中に汗をかき、心臓はバクバクと跳ね、息が苦しい。
王妃 (…夢…?)
彼女は荒い息をしながら、胸に手を当て、目を見開いた。
その美しい頬には、涙が伝っていた。
窓から煌々と白く明るい月の光が入って、床にぼんやりと光っていた。
カルファ「王妃様、大丈夫ですか?」
部屋の外で座って待機していた王妃付きの護衛カルファは、主人の声を聞きつけ、サッと薄く戸を開け、影のように声をかけた。
カルファは、薄く開けた扉をもう少しだけ開いて、主人の様子を確認した。
王妃は、今にも崩れてしまいそうな顔で 八年の付き合いになる腹心を見ると、涙でドロドロになった顔を両手で隠した。
器用なカルファは、主人の心に自らの心を寄せて、目を伏せた。
カルファ「……。入って…宜しいでしょうか?」
王妃は突っ伏して、手に顔を埋めたまま、力なく頷いた。
近付いてくるカルファに、王妃は顔を上げて聞いた。
王妃「アイラは?」
カルファ「まだ…何も…」
王妃は再び 顔を手に埋め、肩を震わせた。
王妃「何の…知らせも?」
カルファ「街に居る草馬人は、北門から続々と引き上げて、昼間よりだいぶ減っているとのことです」
王妃「そう…」
彼は寝台の横の椅子にそっと腰掛けると、脇の机に置いてある薬湯を手に取り、王妃に差し出した。
カルファ「リヤンさんが持って来てきてくれました。気持ちが落ち着くそうです」
王妃は器を受け取った。器はまだ、ほの温かかった。
王妃「温かいわ…」
カルファ「先程また温め直しました」
王妃は、涙で濡れた瞳を僅かに見開き、目を伏せたまま礼を言った。
王妃「…ありがとう…」
カルファ「いえ…」
彼女はそれを飲み干すと、頬の涙や 口の周りを細い指で拭った。
薬湯は甘苦く清涼感があり、王妃は心なしか 胸の辺りが爽やかになってきた気がした。
彼女は大きく一つ息を吐くと、目に決意をこめて寝台から立ち上がった。
カルファも横の椅子から立ち上がった。
王妃は薄紫色のジャンパースカートのリボンを解きながら、カルファに言った。
王妃「すまないけど、着替えるからまた外に出ていてくれる?」
カルファは一瞬目を伏せると、答えは分かっていたが尋ねた。
カルファ「どちらへ?」
王妃「アイラを探しに行くのよ。草馬も引いたなら、丁度良かったわ。〈カルファを見て〉カルファ、あなたもついて来てくれる?〈首を振って〉いいえ駄目だわ…、あなたを巻き添えにする事はできないわね。居なくなっていた、と報告してくれればいいから」
カルファはため息をついた。
カルファ「そんな事はできません」
王妃は、カルファを強い瞳で見つめて言った。
王妃「私は王妃である前に、ただの一人の母親なのよ!」
カルファ「仮に、お立場は置いておいたとしても、今 お一人で街に出るのは、死にに行くようなものです。そんな事、あなただって分かっているはずです!」
王妃は、月の光がぼんやりと光る床を見つめたまま、暫く黙った。
王妃「…構わないわ」
カルファ「…!」
王妃「もしあの子まで失ってしまったら、もう私に生きる希望は無いわ。死んでも構わない」
カルファ「! 王様はどうされるのです。難しいお立場で戦っておられるあの方の心を支えられるのは、妻である王妃様ではありませんか」
王妃は、困ったように俯いた。
カルファは、やや自嘲気味に王妃を見ると、更に続けた。
カルファ「それに、私の事もチラリとも思い出して下さらないのですね。あなたが十八でご成婚されてからずっと、あなたにお仕えしてきましたのに、悲しいものです。護衛なんて、代わりは幾らでもいる使い捨てですか?」
王妃は、驚いたように彼を見て言った。
王妃「そんなこと無いわ! 右も左も分からない私を辛抱強く支えてくれたのは、あなただわ。感謝しても し尽くせない位よ。心から、信頼してる。
でも、こればかりは譲れないの。子供は私の命なの!」
カルファはしばらく物憂げに目を伏せた。
窓からの月の光が、カルファの青い瞳にぼんやりと映った。
カルファ「……。それでも、ダメです」
王妃「あなたの立場も分かるわ。王様にそう命令されているのでしょうけど…」
カルファ「命令されたからではありません。私が、許しません」
王妃「…? いくら私が踊り手出身だからって、あなたに指図される覚えはありません。あなたと私は対等なはずよ」
カルファ「ダメです」
王妃「…?! もういいわ。こうしている間にも、あの子がどんな目に遭っているか…!」
王妃はカルファに構わず、金糸の刺繍の入った薄紫色のジャンパースカートを脱ぎ捨てた。薄い綿のブラウスとズボン姿になった彼女は、窓からの月の光で 身体の線が透けて見えていた。
彼女は、麻のベージュのジャンパースカートを羽織ると、装飾具を全て外した。それは確かに、街に居ても目立たない格好だった。
彼女が窓から中庭へ出ようとスカートの裾をたくし上げたその時、彼女はがしりと片方の手首を掴まれた。
王妃は、抗議の意を持ってカルファを振り返った。
王妃「離して!」
カルファはいつもと変わらず淡々と
カルファ「嫌です」
と答えた。
王妃は振り解こうとしたが、掴まれた腕はびくともしなかった。
彼女は片腕を掴まれたままジタバタと暴れた。
王妃「痛い! 離して!」
そう言っても、カルファは一向に腕を掴む力を弱めてはくれなかった。
王妃は終いには、泣きじゃくりながらカルファの厚い胸板を華奢な拳でドンドンと叩き、懇願した。
王妃「どうして…、どうして分かってくれないの?! 今 行かないと、私 また後悔する! もう二度と後悔はしたくないの! お願い! どうなってもいい! 行かせて! お願いよカルファ…!!」
カルファは また静かに言った。
カルファ「嫌です」
王妃「どうして…」
彼女がそう言った途中で、続く言葉はカルファの唇に遮られた。
王妃は、いきなりの彼の口付けを受け、目が飛び出る程 丸くなった。
カルファは執拗に深く口付けながら、王妃の細い腰を 逞しい腕で自分の方へぐいと抱き寄せた。
王妃は、掴まれていない方の手でカルファの胸を向こうへ押しやろうとしたが、両腕とも掴まれ後ろに回されてしまい、もはや抵抗できなくなった。
王妃「ん…!」
王妃の身体の芯が痺れてきて、立っている足がヨタヨタと怪しくなってきた所で、カルファは やっと、唇と 背に拘束した彼女の両手を離した。
王妃は、はぁはぁと胸で息をし、長年、陰からそっと自分を見守ってきてくれた腹心を、驚愕の瞳で見つめた。
そして、混乱した頭で咄嗟に、カルファの頬を思い切り平手で叩いた。
カルファは打たれたまま物憂げに目を伏せると、口紅がついた自分の口元を、白く繊細な手の甲で拭いながら、再び彼女を射抜くように見据えた。
王妃は射すくめられたように固まり、言葉が出てこなくなった。
カルファは、窓からの月の光を その青い瞳にぼんやりと反射させながら、淡々と言った。
カルファ「どうしてか、お分かり頂けましたか? これが私の気持ちです。あなたに、死んでもらっては困るのです」
王妃「!!」
カルファ「少しでも可能性があるのなら、私だってあなたの意思を通したい。ですが、今 やみくもにほっつき歩いた所で、見つかるとは断じて思えません。
例え、あなたが分かっていてそうするのだとしても…、あなたが、子供を失くした喪失感や罪悪感で、自暴自棄になってしまいたいのだとしても、その意思は、私が通しません。あなたを、失いたくないのです」
王妃は ただただ驚いてカルファを見つめていたが、やっとの事で口を開いた。
王妃「おっ…、王様に…、ご報告します…!」
王妃が震える声で言うと、カルファは表情を変えずに言った。
カルファ「どうぞ。あなたのために縛り首になるのなら、それも本望です」
王妃「なっ…。い…、いつからそんな…」
カルファ「初めからです。あなたの舞に見惚れたのは、王様だけだとでも?」
王妃「…!」
カルファ「王様が、あなたの護衛に私を勧めたのが、私の気持ちを知ってか知らずか、そこは解りません。お聞きしてみたいものです。もし知っての事でしたら、お人が悪い…。
ずいぶんと苦しい思いをしてきました。何度辞めようと思ったことか…。でも、毎日あなたのお傍に居られるだけで、私は幸せだったんです。ですから今日までこうしてやってきました」
王妃は目を白黒させて、カルファを見つめていた。
カルファは、また自嘲気味に彼女を見て言った。
カルファ「ありがたかったのは、あなたが私の気持ちに一切気付いていなかった事です。この八年間、それだけが唯一の救いでした」
王妃「カルファ…、だってあなた…、少しもそんな…」
王妃はカタカタと細かく目を泳がせながら、いつも影のように傍に居てくれた彼を、穴が開くほど見つめた。
カルファ「そうですね。私は"器用"ですから」
カルファは、いつもの卒ない笑顔を王妃に向けた。
王妃は、息がかかりそうな程 近くに居る彼を、ただただ目を丸くして見上げるばかりだった。
廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。
侍女「王妃様! 王妃様!! 姫様が! アイラ姫が戻られました!!」
王妃「!!!」
扉の外から聞こえてくる侍女の取り乱した声に、王妃は大きく目を見開き、気付いた時には農民のような なりのまま、部屋を飛び出していた。
部屋に取り残されたカルファは、安堵にため息をついた。
カルファ (良かった…! もし姫まで居なくなってしまったら、あの人は本当に、どうかなっていたかもしれない…)
彼は、窓から見える中庭の、白く美しい満月を見ると、短く感謝を念じ、急いで主人の後を追った。
・・・・・・・・・・・
三人が一階の医務室前の広間にやっとの思いで辿り着くと、柱を背にして 三人はズルズルと座り込んだ。
叫び回っている衛兵の知らせを聞き、二階の広間に居たナザルは、階段から身を乗り出して一階の広間を見下ろした。そして、入口近くの柱にもたれて座り込んでいる子供達三人を見ると、驚愕した。
ナザル (ウソだろ?! 本当に帰ってきた!! この状況下で、こんな時間になって…、信じられん…!!)
ナザルが駆けて行こうとする横を、農民のような地味な格好をした王妃が、血相を変えて走り過ぎて行った。王妃付きの護衛も、少し遅れて階段を駆け降りて行った。
ナザル (ん…? 王妃様…か? 何だ今の格好は…?)
王妃「アイラ!! アイラ!!」
階段から走って降りてくる母の声を聞くと、アイラは一気に緊張が溶け、ボロっと溢れ出した涙もそのままに、母の胸に飛び込んだ。
アイラ「母さまー!! わあぁあああー!!」
王妃「アイラ!!」
母もボロボロと泣きながら、娘を抱きしめた。
王妃「どこに居たの?!〈顔を撫でながら〉こんなに擦りむいて…。スカートもボロボロじゃない! 城中どこを探しても姿が見えないから、外に出たんじゃないかって…!
それに今日は草馬が来たから、もしかして…、もしかしてあなたが…!!」
母の言葉は嗚咽に変わり、後は言葉にならなかった。
アイラは、母が娘のように泣きじゃくっているのを見て、驚いて涙が止まった。
アイラ (母さまが泣いてる…)
アイラは、母が農民のような格好をしている事に気付いた。
アイラ「母さま…、どうしてそんな格好をしているの?」
母はアイラを再び抱きしめ、肩越しに言った。
王妃「あなたを探しに行く所だったの」
アイラ「広いし くにゃくにゃしてるから、ぜったいみつからないよ」
王妃「そうね…。それでも、行きたかったの…!」
母は娘を抱きしめたまま、うっうっと声を震わせて泣いた。
アイラ (母さま…、心配かけてごめんなさい…。アイラ、悪い子だなぁ…)
アイラは、母を泣かせた事を後悔した。
ナザルも駆け寄って来ていた。
ナザル「よくぞご無事で…!」
アイラ「うん…」
医務室からリヤンも飛び出して来た。
リヤン「リワン!」
リヤンは息子の状態を見ると 血相を変えて走り寄り、抱きかかえて連れて行こうとした。
リワン「待って…、王様と王妃様に、一言 謝りたいんだ…」
リヤンは彼を抱えるのをやめ、じりじりとしながら息子を支えた。
王が足早に降りて来た。
父「アイラ!! どこへ行っていたんだ! 城中探したんだぞ! よりにもよってこの非常事態に…!」
アイラ「ごめんなさい…。少しだけのつもりだったの。そしたら草馬人が来て…、それで遅くなっちゃったの…」
父「! やはり外へ出たのだな?! 出るなと言っておいただろうが! 〈後ろの男子二人を見て〉その怪我はどうした! そんな危険な所にいたのか!」
リワン「王さま、王妃さま…、姫さまを危険な目に遭わせてしまって、大変…申し訳ございませんでした…」
リワンは荒い息で苦しげにそう言うと、頭を下げた。
王「むむ…」
王はリワンから娘に視線を移した。
王「アイラ、お前が言い出したのか?」
エイジャは後ろの方で、悪びれもせず 負傷した肩を抑えて突っ立っていた。
エイジャ (あーぁ、短ぇ夢だったなぁ…)
エイジャはポリポリと頭を掻き、諦めたように小さく息をついた。
アイラ「うん」
エイジャ (?!)
エイジャは驚いてアイラの後ろ姿を見た。
リワンも朦朧とする意識の中で、怪訝な瞳でアイラの背を見た。
王「やはりそうか。三人とも死んでいたかもしれんのだぞ?! いや、私は寧ろ、この状況で街に出たのなら、時間的にも もう死んでいると思っていた。う…たたた…(胃を抑える)」
王妃は、泣き腫らした顔に片手を当てて、また涙が溢れて来るのを隠した。
アイラ「ごめんなさい…」
エイジャ (……。)
父は厳しい口調で言った。
王「アイラ。良いか、お前は他国へ嫁ぎ、この国と他国を繋ぐ大事な架け橋になる身だ。野垂れ死にされては困る! 勝手に城の外に出るなと禁じていたであろう!」
リワンは、王の言葉に唇を噛んだ。
リワン (そうだ。本当に際どかった。ギリギリだった。もしあのジンとかいう男が現れなかったら、今頃 三人共 あの世行きの船か 人買いの馬に揺られていた。もしそうなってたら…)
彼はぐらりと目眩がするのを、痺れる手で 父の身体を掴んでやりすごした。
王「リワン、エイジャ、娘の勝手に巻き込んで申し訳無かった。だが本来、まず報告に来るべきであった」
リワン・エイジャ「…はい」
エイジャ (…あれ? 俺の名前知ってんの?)
エイジャは密かに驚いた。
王「エイジャ、お前は入ったばかりだが、謹慎処分とする。草馬が街から引いたら、一月城に来なくてよい。
リワン、お前は仕えてはいないが、やはりお前も一月は城の出入りを禁ずる。二人とも、怪我をしっかり治せ。さ、早く手当に行け」
リワン・エイジャ「はい」
リワン親子とエイジャは場を辞すと、横から聞こえる話に耳を傾けながら、医務室へ足を向けた。
王「アイラ、お前は護衛を付けると言っただろう! なぜ待てなかった!」
アイラ「どうしても行きたかったの…。 揚げパ…、あ…う…、アイラ、ごえい いらないことにしたの。死んだらやだからいらない。だから、今日行きたかったの」
王「…? 何の話をしとるんだお前は?! …他に…、何か他に申し開きはあるか」
アイラは下を向いて、口を尖らせて言った。
アイラ「…ありません」
王「分かった。この状況だ、急ぎお前付きの護衛も立てる。今後は、城の外に出る時は必ず報告しなさい。わかったな! お前への沙汰は追って下す。怪我の手当てをしてこい」
アイラ「〈しゅんとして〉…はい…」
ズルリ、と医務室の前で物音がした。
リヤンが中の寝台の空き状況を確認しに行った隙に、壁に手をついて身体を支えていたリワンが、壁伝いに倒れた音だった。
アイラ「!!」
アイラは驚いて駆け寄りった。
アイラ「リワン?! しっかりして! リワン!!」
アイラは涙目になって彼を揺さぶった。
リワンは荒い息をし、顔は真っ青になっていた。
エイジャ「……。」
エイジャは表情を変えずに 倒れたリワンを見ながら、肩を押さえて突っ立っていた。




