99
「――さん! お母さん! 起きて!」
「ん…………」
身体が重い。意識がハッキリとしない。手足は何かによって拘束されているのか、思い通りに動かせない。頭が上手く回ってくれず、何とも心地悪い寝起きだった。
怠さに包まれる肉体に二度寝したくなるが、何者かが声を掛けて肩を強く揺さぶり、それを許してくれない。
ミーナは強い眠気と倦怠感を覚えながらも、何とかずっと閉ざしていた瞼を開けた。
「……アンナ?」
瞼を開けば、そこには大切な一人娘であるアンナが不安気に顔を覗かせていた。名前を呼んでやれば、暗い表情が幾分か和らいで安堵の表情へと変ずる。
「ああっ、お母さんがやっと起きてくれた……。うぇええええぇんっ! 怖かったよぉ!」
そして、泣いた。幼い赤子のように感情を爆発させて、泣きじゃくりながら抱き着いて来た。
(一体、何が……)
怖かったという物騒な言葉と子供らしく泣き喚く姿に、ミーナの胡乱げだった頭がようやく回り始める。
娘を宥めようと動く身体とは裏腹に、冷静な頭の中では徐々に直前まで何があったのかを思い出していた。
人間からの襲撃を受け、主戦力であった狩人は魅了されて寝返り、心が折れ掛けた所に長老が助けに来てくれて――それ以降の記憶が無い。
(ここは……どこなの?)
ミーナは未だに胸元で泣くアンナを優しく抱き締めつつ、現状を把握しようと周囲を見回す。
……そこは、まるで牢獄だった。
壁や天井は岩が剥き出しになっており、床も最低限の整備しかされていないのか、木板が乱雑に敷き詰められているだけである。
何よりもこの部屋を牢獄たらしめているのが、眼前で無数に並べられた鉄柵だった。部屋を二分割するように細かな間隔で並び、我々をここから出さまいとしている。
外部からの光は一切入ってこず、鉄柵の向こうにポツンと置かれた燭台の灯火だけが、ぼんやりと部屋中を照らしていた。
風が全く吹かず、殺風景を通り越して不気味ささえも感じてしまう、狭苦しい密室。ふとした拍子に押し潰されてしまいそうな閉塞感を抱く。
そんな異質な空間にミーナとアンナの母娘二人だけが閉じ込められ、娘が啜り泣く音だけが虚しく響いていた。
「アンナ、落ち着いて? お母さんにここに来るまでに何があったのかを――」
「お母さん?」
「……っ!」
ミーナは娘への問い掛けを中途半端に止めると、驚きの余り息を呑んだ。
何事かと傾げた娘の華奢な首には、とても似つかわしくない無骨で銀色の首輪が嵌められていたのだ。燭台の灯火に照らされて、微かな銀の光沢を放っている。
「アンナ、首にあるそれは……」
実物を見るのは初めてだが、それがどんな物かをミーナは知っていた。子供の頃に本で読み、大人達に何度も聞かされたから。
これは人間が使う、奴隷化の首輪だ。
目覚めたら牢獄らしき部屋に閉じ込められていた事から薄々感じていた疑惑が、娘に嵌められた首輪によって確信に変わる。
その二つが意味するのは……。
「あのね、人間に負けてみんな捕まっちゃったの――」
泣き止んだアンナは、ポツポツと事のあらましを語り始めた。
あの後結局エルフは人間に敗れ、死ぬか奴隷になるかの二択を迫られたらしい。既に戦士共の心は折れており、大半は奴隷になる選択をしたようだ。
ミーナにその選択を責める事は出来ない。
そして襲撃の間行方不明になっていたアンナはと言うと、鐘が鳴る少し前から非常に嫌な予感を覚えて、一足先に逃げ出していたらしい。
恐らく勘が鋭くなるような素質を持っていて、彼女の中の危機察知能力が何かを感じ取ったのだろう。ここに居るという事は、結局捕まってしまった訳だが。
断片的ではあるが、中々に絶望的な内容だった。愕然として喉から声が出ない。
「里の外の世界に興味があって、密かに結界を抜け出す術を習得していたの。ごめん、なさい……」
汐らしい様子で謝るミーナ。
追及したい事は沢山あるが、それらは一旦置いといて、とりあえず娘が無事で良かった。いや、無事と言える状態なのかは怪しいのだが、目の届かぬ所で知らぬ間に殺されるよりは全然良かった。
ただミーナにはどうしても気に掛かる点が一つ残っていて、何とか声を絞り出す。
「えっと、アンナ。長老……お爺ちゃんはどうなったか知ってる?」
ミーナを窮地から救い出してくれた、父親でもあり里一の強者でもある長老。あれ以降の記憶が無いのだが、彼は果たしてどうなったのか?
「おじい、ちゃん、人間に、殺されちゃった……っ!」
「えっ……?」
アンナは途切れ途切れに答えると、その場で泣き崩れた。
ミーナはそれを呆然と眺めている。余りの衝撃に、娘に気を配るだけの余裕が無くなっていた。
(お父さんが、負けて……死んだ?)
誰よりも強くて優しい父親の姿は、私にとって憧れの存在であり、族長として働く私の心の支えでもあった。どんなに辛く厳しい状況でも、父親なら何とかしてくれるだろうと思えたから、安心して働けたのだ。戦いでどれだけ苦しくても、父親なら負けないと思っていた。
だけど、負けて殺されてしまった。
信じられない思いで一杯だ。受け入れられず、頭の中で死という単語だけが宙を彷徨っている。
ただ、長老が敗れたのならば里の誰もが敵う訳が無い。心が折れる者も出てくるだろう。こうして皆捕まり奴隷落ちするのを選んだこの現状も、長老が敗れたと言われれば頷けるものがあった。
長老は一人でも助ける為に、命を張って無理をしたのだろうか? ひょっとしたら、私を助ける為に……? だとしたら、自分にも原因はあった。
ミーナとて族長なのだから、命を張るのが上に立つ者としての行いだと理解は出来る。が、納得出来るかと言われれば別だ。やはりどんな形であれ、肉親が亡くなるのは悲しいものなのだ。
呵責の悲しみに襲われながらそこまで考え至った所で、ミーナは胸元で泣く娘に気付きようやく我に返る。
「ごめんねっ、アンナ! 貴方の口からそんな事を言わせて、ごめんね……。貴方達を守れなくて、本当に、本当にごめんなさい……っ」
里を襲い父親を殺した、人間共が憎い。
ただそれと同程度に、この結果を齎した己の弱さも憎かった。
――私にもっと力があれば。
――私がもっと里で起きた異変に早く気付いて、行動に移せていれば。
――私が無理に戦う判断を下さず、全員に散らばって逃げるよう指示をしていれば。
(未来は変わっていたのかな……)
憎悪と悔恨の念がミーナの心の中で渦巻いていた。
せめて、アンナだけでもここから逃がしてやりたい。
しかし虚しきかな、何も出来そうにない。その歯痒さが悔しくて悔しくて、堪らなかった。
アンナは悔やし涙を流す母親を気遣ってか、恐る恐るながらも柔らかい声色で話し掛けた。
「それでね、お母さん……。お願いがあるの」
「お、お願い?」
「うん。お母さんにも、奴隷になって欲しいの。そうしたら、私達二人を一緒に売ってくれるんだって」
「どっ……!」
アンナの頼みに、ミーナは言葉を無くす。
娘に奴隷になって、とせがまれる親がこの世に居るだろうか。目も当てられない光景に顔を覆いたくなる。
ただ、終始気絶していたが故に現実感が湧いて来ないだけで、我々は敗北しているのだ。命を奪わずに生かしてくれるだけ、まだ温情なのかもしれない。
苦しい立場に置かれている事を再認識して、見えもしない空を仰ぐ。
「誰に買われるか分からないけど、親子が一緒に居られるようにはする、って人間が言ってたの……。お願いお母さん、一人は怖いよ……」
血や泥が付いたままの汚い袖を、アンナはギュッと握り締める。幼気な顔に涙を浮かべ、縋るような目でこちらをじっと見つめている。
娘を守ってやらねば、という思いが込み上げてくる。
(奴隷……)
とはいえ、奴隷になる事への嫌悪感は拭い切れなかった。
人間界で我々エルフの価値がどれ程かは計り知れないが、こうしてわざわざ手間を掛けてまで生け捕りにする地点で、何となく察しは付く。
それなりに高価なのだろう。
ぞんざいに扱われる事は無いとは思う。が、易々と手放してもくれないだろう。仮に手放す事になっても高価で売れるのだから、再び別の所に売られて主人が変わるだけだ。
詰まる所、一度奴隷になってしまえば、奇跡が起きない限り一生奴隷として人間の下で生きる事になるのだ。
到底受け入れられる将来では無かった。そんな道を歩むのならば、自死した方が良いとまで思える程に。
(だけど……長老がむざむざ殺されてしまったのに、今更私が抵抗を見せた所で何になるのかな。ミーナを一人ぼっちにする位なら……)
奴隷になるのを断れば、殺されると言う。既に長老を殺しているのだ。最早向こうに躊躇いは無いだろう。
エルフを纏める族長としては、このまま誇り高きエルフとしての矜恃を保ったまま死んでも構わなかった。
「お母さん、一人は嫌だよぉ……」
だけど、アンナがどんな者に買われるかも分かっていないのに、それを放って先に逝く事も出来なかった。ミーナは族長である前に、一人の親なのだから。
「お母さん……」
アンナのか細い声がやけに耳に響く。
子供らしい一面を中々見せなかった風変わりな娘が、今こうして泣くのを堪えて必死に懇願している。
――ミーナの衰弱しきった心に宿った娘を憐れむ思いと同族を追い込んでしまった事への責任感が、普段であれば気付けてたであろう違和感を意識から抜け落とさせていた。
「安心して! ミーナっ! 私も奴隷になるわ。だから、これから二人で一緒に生きましょう? 生きていればきっといつか、幸せな事があるから……っ!」
族長として里やエルフ達を護る事は出来なかった。
ならば、親として命を賭してでも娘だけは護ろう。それが今の自分に出来る、せめてもの贖罪だ。
長老のように、目のつかない所で勝手に死なすような真似は絶対にさせない。もし死ぬ時は、一緒にだ。
ミーナはもう絶対に手放さまいと力強く娘を抱き寄せて、そう決意を固めた。
――胸中でアンナがどんな顔をしているのかを、気に掛けることもないままに……。




