30.5話 そのときは
医務室に駆け込んできたのは全身黒いスーツに身を包んだ男、ブルーノだった。
校長から事の一部始終を聞き、リットが眠る医務室に駆けつけたのだった。
「坊ちゃま?!」
ブルーノはロイスの存在を無視するかのようにリットを目指した。
リットはスヤスヤと静かな寝息を立てていた。それを見てブルーノは安堵のため息をついた。
「大丈夫です。催眠作用のある薬草を少々ハーブティーに混ぜただけですから」
ロイスは自席から立ち上がりながらブルーノにそう説明した。
その瞬間、ブルーノはロイスの方をめがけズカズカと駆け寄った。
「貴様、何かあったらどう責任を取るつもりなんだ?!」
「お静かに。校長の指示の下動いただけですわ。あのまま冷静になれず他の生徒に手でも上げていたら、それこそ大問題になるでしょう?」
ロイスの冷静な言葉にブルーノは言葉を詰まらせた。
しかし、彼は頭をフル回転させ、ロイスに噛みつこうとした。
「それはそうだが。校長先生から話は聞いた。リット様はお前のために怒ったそうじゃないか。そもそもお前がリット様に近づかなければこんなことにはならなかったんだ!!」
「それは一理あるかもしれないですね。でもね、ブルーノさん。彼が私に頼らざる得ない状況を作ったのは誰なんでしょうか?人間はいつまでも心を押し殺していられるほど頑丈にできていないんですよ。その歪は段々と大きくなって、いつかとんでもない作用を及ぼします。少し前のリット様はまるで、いつ爆発するかわからない爆弾のようなものでしたわ」
ロイスは思いっきりブルーノを睨みつけた。その視線の鋭さと美しさにブルーノは一瞬息を飲んだ。
「何を。リット様は完璧なお方なんだ。爆発するなどあり得ない。それなのに!」
二人の口論は激しさを増していった。
「リット様は血の通った人間です。まだ16歳の少年なんです。たくさん失敗して少しずつ芯を育てていくべき年齢です。従者なのにも関わらずそんなこともわからないのですか?」
「だまれ、学校医ごときが!」
「だまりません。何なら彼のお父様にお越しいただきましょうか?今のシーズンなら議会でこちらにいらっしゃってますよね?きっと私の言ってることを理解していただけるはずですが」
「うるさい!ご主人様は今お忙しいんだ。リット様のことはすべて私が一任されている。余計なことはするな!」
ロイスの言葉にブルーノは激しく狼狽え、反論するかのように大きな声を上げた。
ロイスはそれでも冷静さを失わずに、冷たさを纏いながら言葉を紡いだ。
「もしもリット様がまた貴方のせいで殻に籠もってしまうことがあれば、そのときは」
ロイスはブルーノの黒いタイを掴んでぐっと引き寄せた。
ブルーノはロイスの思いも寄らない行動と、予想も出来なかった強い力にたじろいだ。彼の中の本能が警鐘を鳴らした。"目の前の男は只者ではない"と。
「貴方を許さない。絶対に」
ブルーノは目の前の恐怖に身を震わせそうになりながらも必死に堪えた。
「た、ただの平民出身の学校医に何ができる」
ブルーノの唯一の強みはそこだった。そう、目の前の男は平民出身で、ただの学校医なのだ。本来であれば恐れるに足りない存在のはずなのである。
強気に出たものの、それでも、ブルーノは底知れない恐怖を拭い去れなかった。
この男を怒らせたらとんでもないことになる、そう本能が理性に訴えかけ続けている。
ロイスはブルーノの恐怖に震える瞳を見透かしたかのように冷笑を浮かべ、タイに込めた力を弱めた。
「少なくとも貴方をリット様の前から消し去ることはできます。そのために手段は選びません」
消し去るという単語にブルーノは身がすくんだ。
しかし理性の部分である対抗策を思いつき、ほくそ笑んだ。
「百歩譲ってそれができるとして、お前はなぜそこまでリット様に肩入れするんだ?まさか、教員でありながら邪な気持ちがあるんじゃないのか?」
「ありえませんわ。この状況に置かれているのが他の生徒でも私は同じように手を差し伸べます」
ブルーノはロイスの瞳が少しだけ動いたのを見逃さなかった。
ニヤリと勝利の笑みを浮かべた。
「どうだかな。本当に気持ち悪い奴だ。やはりリット様からお前を遠ざけなければ。そうだ、そうしよう。その手があったな」
ブルーノはとっさに思いついた名案に心を踊らせた。これならば愛しい我が君から間違いなく学校医から遠ざけることができると。
ロイスは不愉快そうに片眉をピクリと上げた。
「どうかリット様の健やかな成長を妨げないでくださいませ」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。お前が近くにいたのではリット様は間違った道に進んでしまうからな。はは、返す言葉もないだろう?」
そう言い残すと、ブルーノはリットを背負い、足早に医務室を出ていった。
「そんなこと、言われなくてもわかってるわよ」
ロイスはそう言うと唇を噛み締めた。




