27話 林間学習
俺はあの日以来、医務室に行かなかった。
稽古で怪我をしなかったからというのは建前で、先生と一緒にいたのが誰でどういう関係なのかというのを考えたくなかったのだ。
先生と話してしまえば彼のことを聞いてしまいそうな自分がいた。だからこそしばらく頭を冷やす時間を作ろうとしたのだった。
でも考えたくなくても考えてしまうのが人間で、俺もその中にちゃんと含まれていたらしい。なんと俺は人間らしくなったのだろうか。
カールと呼ばれていた彼は先生のことを相棒と呼んでいた。
それは先生の秘密に関することなのか、趣味仲間なのか、あるいは。
「生涯のパートナー、、って意味か?」
俺は無意識に呟いていた。
良かった。ここが自室で、かつ、ブルーノがいなくて。
別に俺には関係のないことだ。先生が誰と一緒に居ようが、誰のことを選ぼうが、俺には何ら影響はない。はずである。
それなのに。
心が締め付けられそうになるのはなぜなのだろう。
尊敬する先生が幸せならばそれでいいじゃないか。
そう素直に思えないのはなぜなのだろうか。
とにかく今日から2日間は完全に先生のことは忘れよう。
楽しみにしていた林間学習なのだから。
そして林間学習明けには委員会決めが行われる。ここでしっかり頭を冷やして判断しないといけない。保健委員になって先生と関わる機会が多くなっても大丈夫なのか、やめておいたほうがいいのかを。
余談ではあるが、俺は2組、フォルカーは1組、仲のいい友人レニーとミランは4組になった。
◇◆◇
高等部2年生になってすぐの10の月6日目。王宮近くの大きな森の中にある施設で過ごす林間学習なる行事があった。
これは男子生徒限定で一泊二日森の中で生態について学んだり、自分たちの手で食事を作ったりするのもので自由参加なものであった。参加率は毎年4割ほどに留まっており、今年も例外になかった。低い参加率の理由は簡単で、林間学習は虫との生活に耐えなければならないし、食料となる肉や火起こしのための木材などは自分たちで調達しなければならないからである。ちなみに参加しない生徒は2日とも休暇日になるのだ。
貴族の子息に何をさせたいのかと思うかもしれないが、それには理由があった。貴族の次男以降の男は基本的に爵位を継げないので聖職者や王宮の文官や軍官、国立施設の職員になるのだが、甘々に育てられた貴族の子どもたちは仕事の過酷さに耐えられずすぐに辞めてしまうことが多かったそうだ。そこでダリエでは15年ほど前からこの林間学習を実施し、生きることの大変さを体験させるようになったのだという。最初の頃は男子は全員参加だったそうだが、必要のない長男や聖職者など希望の親たちからの反発もあり自由参加になったらしい。そのうちに林間学習は次男以下で軍官になることを視野に入れてる者が参加するものへと変化してきたのだった。
俺はまだ進路を決めたわけではなかったけれど、軍官ならば培ってきた剣術の技術を活かせるので目指すことも十分に視野に入れていた。もちろんフォルカーから誘われているというのも大きな要因ではあった。
今年の参加者は30人で、ほとんどが次男以下の軍官を目指す生徒たちだった。中には生物学に興味がある者や、サバイバル生活に憧れを抱く嫡男など少し毛色の違う者も含まれていた。
午前の生態学習を終え、学園が用意した軽食を済ませた俺達はこれからの食事のために活動を始めた。
「ふふ、リットと同じグループだなんて嬉しいな」
「ひっつくな。暑苦しい」
俺はそう言うとフォルカーの腕をいつものように払った。
「フォルカー、リット、いつもみたいにイチャイチャするのは後にしてくれ。俺たちが肉を確保できなければ野菜炒めしか食べれないんだからな」
眉間にシワを寄せながらそう言ったのは金の癖毛に茶色い瞳を持った少年、レニー・クレーエだった。彼はクレーエ家の長男であり軍官を目指している。クレーエ家は宮廷貴族(領地を持たず宮廷で働く貴族)で代々文官として王宮に仕えているのだが、レニーは文官よりも軍官になりたいと強く願っており、家督は弟が継ぐことになっているらしい。レニーとは初等部後半からの友人である。ちなみにレニーは剣術や体術だけでなく、槍術や弓術などあらゆる武術に興味があり、日替わりで稽古場に顔を出している。槍術と弓術に関しては学園にないので市内の外れにある稽古場に通っているらしい。そう、彼はいわゆる"総合武術オタク"なのである。
「レニーの言うとおりだよ。がんばろうね」
柔らかく笑いながらそう言ったのは焦げ茶の直毛に青灰色の瞳を持っているミラン・ルクスだった。彼は貴族ではなく、大商家の三男であり将来は地方にある支店を任されることになっているらしい。ダリエにはミランのような商家出身の生徒も少数ながら在席していおり、彼は中等部からダリエに編入してきた。そのときにレニーと同じクラスになって以来、俺やフォルカーとの関わりも増え友人に発展していったという経緯がある。
このレニーとミランはフォルカーの次に関わりの深い友人で、気の置けない大切な仲間たちである。フォルカーも含め、彼らとは卒業しても関わりが途切れないようにしたいと願っている自分がいた。
フォルカーはイチャイチャするなと言われたことに少しむくれていた。
「レニー、君は残念だったね。愛しのクラウディアが参加できなくて。イチャイチャしたくてもできないもんねー」
「な、なんでここでクラウディアが出てくるんだ?!そもそも愛しでもなんでもないからな?まぁ、当たり前に参加すると思ってたけど、あいつが女子だったこと忘れてたくらいだ」
レニーはほんの少しだけ頬を赤くした。
クラウディアは彼の幼馴染であり、俺たちとも程よく仲のいい女生徒である。ちなみに彼女は俺と同じ2組である。
「こら、レディーに対してそれは酷いだろ?彼女は家柄だって容姿だって何の申し分もないじゃん。ちょっとガサツなだけで」
ミランは最後の一文を小さく言った。もちろん俺たちには聞こえているけれど。そのへんが彼の優しさであり棘でもあるのだ。少しタレ目でふわふわした彼は時々笑顔で毒を吐く。周りの生徒は陰で腹黒天使などと呼んでいるらしい。
俺はちょうど彼女と少し話したことを思い出した。
「昨日偶然話したけど、本人は来たがってたな。"そこいらの奴らよりあたしのほうがうまくやれるはずだ。あたしの分までデカイ獲物を取ってこいよ"って言われた」
それを聞いた他の三人は、あいつならそう言うよなーなどと口々に言ったのだった。
俺たち4人はこの林間学習で"狩人部隊"と呼ばれていた。
参加生徒30名は食事に関してそれぞれの部隊に分けられていた。施設の近くで育てられている野菜を収穫する"野菜調達部隊"、森でキノコや木ノ実を採集する"採集部隊"、木材を調達し火を管理する"火起こし部隊"、集まった食材を元にメニューから組み立てる"調理部隊"などがあり、中でも一番過酷だと言われているのが俺が所属する食肉調達を担当する"狩人部隊"であった。
俺たちが何も得られなければ、先程レニーが言った通り野菜だけの食事になってしまう。高等部生の男子としてそれは何としても避けたいところであった。
しかも、俺達は単に狩りをするだけでなく、血抜きをしたり羽をむしったりと食肉への処理まで行うのだ。
グループ分けは三日前の放課後に参加者のみ集まって行われたが、思っていたよりもスムーズに決まった。それはフォルカーが自分の手と共に俺の手を勝手に挙げ、狩人部隊に立候補したからということも大きく貢献していた。俺らと普段から仲が良いレニーとミランもしょうがない、といいながら立候補し、俺たち4人が狩人部隊となった。それを皮切りにあっという間に他のグループが決まっていったのだ。というのも毎年この狩人部隊が決まらずグループ分けが難航するらしい。狩り自体や狩り道具が危ないということもあるけれど、他の男子達からのプレッシャーに耐えられなかったり、肉の処理で気持ち悪くなり嘔吐したり気絶したりと様々な伝説が代々語り継がれているのが原因らしい。
ちなみにフォルカーが狩人部隊に立候補した理由は"リットと確実に同じ部隊に入りたかったから"だけだったようで、それを後から知った俺たち3人はフォルカーに一発ずつデコピンを食らわしたのだった。もちろんフォルカーは無傷であった。
狩りの道具として長剣と短剣、猟銃、狩猟弓、罠などが施設から貸与される。
採集部隊などの安全を守るために、猟は森の中でも赤い布がいくつもついたロープで区切られた奥でのみ行う約束になっていた。
そしてもう一つ、狩りに詳しい教員がつくことになっており、狩場入口の大きな赤い布の下で待ち合わせになっていた。
その姿を見て、俺の心臓はバクバクと仕事量を増やした。
「あら、こんにちは。今日はよろしくねー」
待ちあわせの赤い布近くにいたのは、あろうことかマグノーリエ先生だったのだ。
「え?!」
「は?!」
俺とフォルカーは同時に声を発した。
今は、今だけは会いたくなかったのに、なぜこうなってしまうのだろうか。
クールダウンの期間が台無しではないか。
先生はいつもの白衣やきちっとした服ではなく、温室づくりのときに着ていた灰色の動きやすそうな服装をしていた。そしていつも低い位置で結ばれている髪は少し高い位置で団子状にまとめられていた。
"似合うな"
などと無意識に見つめていた自分がいたようで、フォルカーに軽く足を踏まれたことで我に返った。
「あぁ、猟は怪我の可能性があるからっすよね?」
レニーは"嘘だろ、おい"という苦笑いを浮かべて言った。彼は先生のことが得意ではないのだ。
「それもそうなんだけれど、狩りに詳しいからよ」
先生は爽やかな笑みを浮かべた。
「ちょっと言ってる意味がわかりません。お引取りください」
そう言ったのはもちろんフォルカーであった。
「ちゃんと特別手当をもらってるから帰るわけにはいかないわ。ふふ、こう見えても故郷では友人とよく狩りに行ってたのよ。まぁ友人の補助ばっかりだったけれどね」
先生も相変わらず"給料の分はしっかり働く"主義を貫いていた。
「意外すぎてついていけない!」
そうツッコんだのはミランだった。彼は先生と普段関わりがないので無理もないだろう。
「ちなみに得意なのは狩猟弓よ。猟銃は人並みには使えると思うわ。あ、猟銃の暴発には気をつけてね。私まだちゃんとした医師免許持ってないから大きな手術はできないの」
血止めくらいしかできないわよー、と先生は目があまり笑っていない"学校医スマイル"で付け加えた。
レニーとミランがいるからか、先生のテンションは3割増しでオネエ感は5割増しである。なかなかのキャラの濃さであり、これが先生の普通だと思っている人達が少し引いている理由がわかった。
「物騒なこといわないでくださいね?いや、その、人並みに使えるってことは使えないってことじゃ?」
レニーが顔を引きつらせて言った。大きな治療はできないと言われ、さらに銃が使えないのでは?と心配になる気持ちはよくわかった。
「え?一般平民は授業で習うもんじゃないの?」
先生は、違うの?と首を傾げた。
「えっと、、いや、少なくともシェナヴィーゼの公立学校では習いませんよ」
そう答えたのはミランだった。彼は初等部までシェナヴィーゼの公立学校に通っていたので間違いないのだろう。
「そうなの。まぁいいわ。さぁ狩りにでかけましょう!うふふ、美味しいお肉が食べたいわねー」
まるでピクニックに行くかのようなテンションで言われても困ってしまうのだった。
先生は、あの日俺に聞かれてたことに気づいていないのだろうか。
いや、あの不自然さは絶対に気がついているはずである。
俺のことなんて気にも留めてないということなのだろうか。
俺たちはしばらく歩いた先にある小屋の鍵を開け、狩猟用の道具を取り出した。レニーは猟銃、ミランは弓、俺は長剣、フォルカーは短剣を使うことにした。
◇◆◇
二時間が経過した。
結論から言うと、俺の友人たちは揃って非凡だったようだ。
「まさか、ミランが一発でキジを仕留めるとはな」
俺は先生が持っているキジを見ながら言った。ミランは可哀相でさわれないー、と言ってたので先生が代わりに持っているのだ。
服の至るところが血まみれになっていても先生は平気そうにしていた。さすが医者の卵であった。
「僕もびっくりだよ。先生の教え方が良かったからかも。このまま趣味にしちゃおうかな。レニーもすごいよね、こんなに強そうなイノシシをさ!」
ミランは興奮した様子でレニーと俺を見た。イノシシにも目をくれたが、彼はとっさにそらした。これは解体作業で苦労しそうである。
俺とレニーは二人がかりでイノシシを運んでいるのだ。俺の体重以上はあるらしく、二人で運ぶのがやっとだった。俺らの武器はすべてミランに預けていた。額から汗が流れていく。それはレニーも一緒だった。
こんな大物を仕留められるとわかっていたなら台車を持ってくるべきだったわね、と先生も驚いていた。
「まぁ罠から抜け出して片足を痛めてたからな。ラッキーラッキー。それよりもさ、うん、まぁ、予想はしてたけどさ」
レニーはそう言うとある一点を見つめた。
「まぁね」
ミランも同様だった。
「素手であれはないよな」
俺たち三人はジト目でフォルカーを見つめたのだった。
フォルカーはニコニコしながらメスのシカを軽々と担いでいた。成体になりかけほどの小柄なものだったが70キロは超えているはずであった。
フォルカーは、シカちゃんだ!と言った後、一切物音を立てずにシカに近づきワンパンで仕留めたのだ。
短剣は使いもしなかったし、もはや人族の為せる技ではなかった。いや、魔族でも素手では為せないとは思うけれども。
俺はフォルカーの力の秘密を知っているから納得できるが、レニーとミランはもう何も考えないようにしているようだった。
"フォルカーだもの"
すべてはそれで収まるのだ。俺たちの中ではいわゆる合言葉のようなものになっていた。
「子どものシカだからかわいそうだったけどしょうがない。僕たちもお腹すいたし。生きるためだよね」
フォルカーはごめんねー、美味しく頂くから!と言いながら鹿の背中を撫でたのだった。
え?俺?それは、、
「リット坊やは残念だったわね」
先生はニコニコとしながら俺に言った。
「あぁもう!忘れかけてたのに!傷口に塩を塗らないでくださいね!!」
俺は全力で先生にツッコミを入れた。
「やっぱり剣で狩りは難しいわよね。来年度は弓か銃を増やしてもらうわ」
「俺は剣のせいにしない!」
「あら偉いわ。そうね、坊やは優しすぎるのよ。無意識なんでしょうけど、ちょっとためらっちゃったわよね」
先生は楽しげにそんなことを言った。
俺も獲物とは戦ったのだ。野生のタヌキは思っていたよりもすばしこく、剣を躱されて逃げられてしまったのだ。
「ためらってなんかないんです。ち、ちょっと肩に力がはいっちゃって」
俺はイノシシを運びながら自身の戦いを振り返っていた。いつものようには腕が動かなかったのだ。これがプレッシャーを感じた結果なのかもしれない、俺はそう分析したのだった。
さすが、執着するほど失敗する俺である。
「リットはいいの。白衣のおじさんは黙っててよ」
「誰がおじさんですって!この怪力脳筋坊っちゃんが」
「あ、先生がそんなこと言っちゃいけないんだー」
「ふっ、事実を伝えるのも教員の役目よ。脳筋に脳筋と言って何が悪いのかしら?」
フォルカーと先生はいつものように不毛な戦いをしていた。
先生とフォルカーの秘密を共有してからというもの、彼らの戦いは激しくなっていた。
俺はそんな二人を眺めていた。
羨ましいなどと思っていない。断じて思ってはいないのだ。
レニーとミランは上を見上げ"紅葉が始まってきたねー"などとわざとらしく言い、二人の醜い言い争いを完全にシャットダウンしているようだった。
俺たちはひたすらに境界の赤い旗を目指した。
◇
「もう少しで狩場を抜けそうね。少し休憩しましょうか」
先生の提案に俺たち(特に俺とレニー)は顔をほころばせた。事切れた動物の体は予想以上に重かったのだ。
俺たちは動物たちを置き、腰を降ろした。
水袋の水を喉に流し込んだ。いつもよりも格段に美味しく感じた。多少の血なまぐささは気にしないようにした。
少し雑談をしていたところで俺はみんなに静かにするように頼んだ。
ふと、近くの草むらを小さな生き物が通る気配がしたのだ。
"小さくてもいい。一匹くらい取りたい"
俺の気持ちを察してくれたミランはそっと長剣を手渡してくれた。
草むらをよく覗くと、そこにいたのは一匹の茶色のウサギだった。野草に夢中になっているようで俺にはまだ気づいていないようだった。
俺は息を潜め気配を消しながらジリジリとウサギに近寄っていった。
ピクリとウサギが動こうとした。
そこで俺は思い切って長剣を振り下ろした。
ザシュッという音とともにうさぎが血を流しながらバタリと倒れた。剣はウサギの首元を切ったようだった。
俺は剣の血を払うと鞘に収めた。
「やったな!リット!」
3人の友人たちはハイタッチで俺のことを迎えてくれた。
小さい獲物でも喜びは大きかった。
俺はウサギを抱き上げた。
その瞬間に違和感を覚えた。
"ウサギの足が冷たい"
俺ははっとし、先生の方を振り返った。
先生は口元に人差し指を置くことで"内緒ね"と伝えてきた。
どうやら先生は魔法で細工をしたらしかった。
◇
俺たちはやっとのことで狩場を抜け、調理部隊の待つ野外炊事場までたどり着いた。
そこにいた男子たちは大量の獲物に歓喜の声を上げていた。
「じゃあ私、氷室から氷を持ってくるわー」
そう言うと先生は調理場の奥にある宿泊施設に行こうとした。
「僕も手伝います」
俺はすかさず先生の後に続いた。クールダウンしたいと思っていたのに自分から近づいてしまうなんて、と自分でもあきれてしまった。
「助かるわ」
先生も嫌がっている様子はなかった。それならば問題もないだろう。
「僕も!!」
フォルカーがそう立候補しようとしたものの、ほかの男子たちがシカの倒し方を聞きたいとフォルカーに詰めよったため、俺たちは彼を置いていくことにしたのだった。
先生は野外炊事場の近くに置いてあった荷車の荷台に自身の鞄から出した白い大きな布を敷き、荷車を押し始めた。
「僕がやりますよ」
「帰りのほうが重いの。そっちをお願いできる?」
先生にそう言われ、帰りを担当することにしたのだった。
俺は周りに誰もいないことを確認し、小さな声で先生に話しかけた。
「魔法を使いましたね?」
「ふふ。ちょっとだけよ」
「僕のプライドはズタズタに切り刻まれました」
「逃げられるよりましでしょ?」
「そうなんですけどね。いずれにせよ、ありがとうございました」
俺は先生にお礼が言えてほっとした。
先生はいつものように柔らかく微笑んでいた。
その笑顔を見たら、悩んでいたことがバカらしく思えてきた。
"先生が笑ってくれるならそれでいいじゃないか"
この前のことはそっと胸にしまって置こうと心に決めたのだった。そして、やっぱり保健委員会に入りたいなとも思った。
「ってか、先生。他の生徒と接するときいつもあんなテンションなんですか?疲れません?」
俺はさり気なくそう尋ねた。この件に関してはフォルカーからの前情報があってよかったと思った。それがなければ今頃はレニーやミランに対して大人げない対応をしていたかもしれない。
なぜ?
なぜ俺はそんな風に思うのだろう?
「疲れるに決まってるじゃない。でもそういう契約になってるのよ」
「契約?」
「その話は今度ね。いつかちゃんと話すわ。全部まとめて、ね」
その全部にはどこまでが含まれるのだろうか。カールという人についても教えてくれると言うのだろうか。俺は喉から出かかった言葉を必死に抑え、平然を装ったのだった。
宿泊施設に併設された氷室は薄暗くひんやりとしており、たくさんの氷があった。他の職員などもいないようで先生と二人きりである。
ドキドキなどしていない。
少し冷えるから鼓動が速いだけだ。
先生はそこから氷を運び、、出すわけはなかった。
『アイス』
先生はどうやら氷の呪文を唱えたようだった。透明な大小様々な氷が空中から現れては荷台の白い布へ落ちていった。あっという間に白い布は氷で覆われた。
「無茶苦茶すぎる!!」
「ふふ、いいトレーニングだわ」
先生は大きく伸びながら言った。
「でもここの氷が減ってなければ不審に思われません?他の教員も立ち入るでしょう?」
「こんなにたくさんあるのだもの、誰も気にしないわ。多分」
先生は眠くなったのか口元を押さえて小さく欠伸をした。
かわいいだなんて思っていない。先生が気を許してくれているように感じて嬉しかっただけだ。
「もっと慎重に行動してくださいね。イレーネさん以外にもバレたらどうするんです?」
「故郷に帰って師匠n」
「そうならないようにがんばってください」
俺は先生の言葉を遮った。
「ありがとう、心配してくれて」
「当たり前ですよ。先生が居ないと」
俺はそこまで言ってふと我に返った。
先生が居ないと、、俺は何と続けようとしたのだろうか。
これは明らかに無意識のうちに出た発言だった。
俺はついに脳筋人間になってしまったのかもしれない。
「え?」
「今先生が居なくなったら困ります。その、まだアドバイスも貰いたいですし」
「も、もう必要ないと思うわよ。貴方はたくさんのことに気づいたでしょう?」
先生はそう言うと俺から視線を外した。
耳が赤くなっているように見えるのはあたりが薄暗いからだろうか。
「でも」
「依存は良くないわ。貴方は独り立ちしなくちゃいけないもの」
「それはわかってます。でもまだその時じゃない」
「かわいい坊やだこと。さぁ、早く行きましょうか。肉が傷んでしまうわね。ふふ、解体楽しみね」
「はい?まさか、解体まであなたが担当なんですか?」
「だって他の教員は誰もやりたがらないんだもの。私も流石にシカは捌いたことないけど、捌いてるところを見たことはあるから大丈夫だわ」
「ワイルド系学校医だったんですね」
「おおげさね。ちなみに村では鶏くらいなら初等部の子でも処理できるわ。もう少し上になると授業内でイノシシの解体もするわ」
「故郷がチートすぎる!」
生きるためには必要なのかもしれないけれど、貴族からすればとんでもない話である。本当に先生の村は興味深いところである。
こうして俺たちは炊事場に戻った。
先生の指導の元、俺たち狩人部隊は食肉処理を行った。
先生は俺が予想していた以上にワイルドだった。やってることは野性的なのにも関わらず、流れるように捌いていく姿に思わず見入ってしまった。品があるように見えてしまうのが彼のすごいところだった。
ちなみにレニーはウサギ、キジ、イノシシの解体までは耐えていたけれどシカの途中でダウンしてしまい、調理部隊の監督をしていた教員に面倒を見てもらっていた。
俺たちの中で一番上手かったのは意外にもミランだった。
「フォルカーの言うとおり、ただの肉だと思ったら吹っ切れたよ。売ったらどれくらいになるのかな?自分で狩って捌けたらお得だよね!」
などと包丁を持ったまま満面の笑みを浮かべながら言っていた。さすがは商人の子であった。先生も含め俺らはただただ引いていた。
フォルカーと俺はまずまずの腕だった。
「ねぇリット、見てー!目玉ー!」
などと、くり抜いたシカの目を使って遊んでいたところを先生に見つかり、頭にゲンコツを食らっていた。
もちろん無傷であった。
むしろ先生のほうが手を負傷したらしく、石頭過ぎるわ、と顔を青くしていたのが面白かった。
先生のゲンコツを食らいたかっただなんて思っていない。断じて思っていないのだ。
俺たちの活躍もあり、夕食と次の日の朝食は非常に豪華だった。
調理部隊にプロの料理人でも紛れていたのであろうかというほどで、とろけるような鹿肉のシチューと完璧すぎるイノシシのローストが出てきたときは全員で狂喜したのだった。
◇
夜は森の中の宿泊施設で過ごした。
俺たちは同じメンバー4人で一部屋を使ったのだが、フォルカーが俺のベッドに潜ってこようとしたり、突如現れた大きな百足にミランが悲鳴を上げたりなどしてなかなか眠れなかった。
でも、青春を肌で感じている気がしてとても楽しかった。
昼間は少し色づいた木々や空が美しく、夜の空気は少しヒンヤリしていて心地がよかった。俺はちゃんと生きていて、自然の中にちゃんと存在しているということが確認できた気がした。
いつもの仲間だけでなく、普段はあまり話さないような友人達とも交流が持てたのも大きな収穫であった。
人生にたくさんの色をくれた恩人に、俺はどれだけのものを返せるのだろうか。
そんなことを思いながら、俺は眠りについたのだった。
こうして、一泊二日の林間学習は無事終わりを告げた。
後日談ではあるが、俺たち狩人部隊の活躍はそれから語り継がれることとなった。
その話を耳にしたフランツが、「シカを狩ったのは兄さんだよね?!やっぱりすごいなー!」とキラキラした眼差しを向けてきたのは数年後の話だったりする。