うん、知らなかった。
6月はジメジメしてやっぱり好ましいものじゃないな、と思いながら、杏奈は朝の一人の時間を楽しんでいた。
「杏ちゃん、おっはよー。」
杏奈が本を読んでいると、朝練を終えた夏希が教室に戻ってきた。
「なつ、お疲れさま。」
「ほんと疲れたよー。先輩達みんな、おにっ。でもでも、今度の日曜日が大会だから、あと3日の我慢なの。」
「頑張れ。」
「うん。ありがとう。」
夏希は抱えていた荷物を下ろすと、杏奈の前の席に座った。
「何出るの?」
「えっと、100mとリレー。100mの方は、まだいいんだけど。問題はリレーでね、先輩とのバトンパスのタイミングがなかなか合わなくて、ヤバいんだよー。」
「バトンパスってそんなに大事なものなの?」
「すっごく大事だよ。落としちゃったら、大変なことになるし、スムーズにいけたらタイムロスが少なくてすむからね。」
「なるほど。」
杏奈は頷いて、机の上に置いてあったポーチを開けた。
「はい。」
「ん…?わぁ、ありがとう。このハチミツ味の大好きなやつだ。疲れた体にサイコー。」
夏希はアメを口に含むと、体を机に預けた。
「でねでね、神田先輩、今日もかっこよかったんだよー。先輩が走っていると、なんか周りがキラキラして見えるんだよ。もう、ヤバすぎ。」
「それって、ただの汗じゃないの?」
机をガタガタと揺すっていた夏希の頭の上に、突然現れた男が分厚いファイルをのせた。
「な、なに?く、首が折れる。」
「俺、俺。キラキラ神田王子の親友。」
「ま、まさかの…京先輩ですか?」
「せっいかーい。だからさ、俺のことは、名字じゃなくて名前で呼べって言ってんじゃん。」
「良いじゃないですかー。京って名字、めちゃかわいいじゃないですかー。」
「だからイヤなんだよ。」
京と呼ばれた男は、机に顔をくっつけている夏希の頭の上に置いたファイルに少し力を入れた。
「痛いですって。わかりました、わかりましたから、健太先輩ってば。このままじゃ、私のミニマムな鼻がもっとミニマムになりますよー。」
2人のテンポの速い会話についていけず、しばらくぼけっとしていた杏奈は、夏希の痛いという言葉でようやく我に返った。
「あの、そろそろ離しては?」
「お、めちゃ美人じゃん。しょうがないな、かわいい後輩の、美人な友人に免じて許してあげようじゃないか。」
健太が重石となっていたファイルをどかすやいなや、夏希は席を立ち、杏奈に抱きついた。
多少勢いがあったために、杏奈はイスの背もたれに腰を強くぶつけたが、今の状況を鑑みて、夏希の頭を撫でることを優先した。
「杏ちゃん、はな、鼻がー。」
「見せて?ちょっと赤くなってるけど大丈夫みたいだよ。痛くない?」
「大丈夫だよ、ありがとう。」
杏奈は、夏希の背中をさすりながら、もう一方の手でアメを二個取り出し、一個を夏希に与え、もう一個を健太の方に差し出した。
「先輩もいかがですか?」
差し出されたアメを掴むと、健太は杏奈の頭を
軽く撫でた。
「おっ、ありがとう。夏希のお友達、めちゃめちゃ女子っぽいなぁ。」
「そうなんですよ、先輩。杏ちゃん、クールビューティなのに大和撫子なんですよ。なんか、すごくないですか?だから、先輩はそれ以上近づいちゃダメですからねっ。」
「いや、大和撫子とかじゃないけど。」
杏奈が呟くと、夏希は杏奈の口を手で軽く押さえた。
「杏ちゃんは大和撫子で、私の憧れだからね。」
「っぽいな。そんなこと言われると、ますます近づきたくなるじゃん。」
「だ、だめですって。杏ちゃんは、私のものなんですからねっ。そ、そんなことより先輩は何しにきたんですか?」
「日曜日の試合の予定表と、初めての試合に緊張している後輩のための心得作ってきたから、これ一年の間に回しといて。」
健太は、ファイルの中から数枚のプリントを取り出した。
「了解です。回しときます。」
「あとさ、蓮って何組?」
杏奈は、夏希がプリントを受け取るために口から離した手を押さえた。
2人の会話に出てきた名前に興味を抱き、健太に尋ねた。
「もしかして隣のクラスの池上、蓮ですか?」
「そうそう。池上の蓮。もしかして知り合い?」
「知り合いというか、従兄です。蓮って陸上部だったんですね。」
「ひょぇぇぇ。杏ちゃん知らなかったの?家で話したりしなかったの?」
夏希は杏奈の発言に驚き、杏奈の手を興奮したように数度叩いた。
「うん、知らなかった。最近、一緒に学校に来たり出来ないなとは思ってたけど、何の部活かまでは、ね。」
試合前の朝練とかあったのか、と杏奈は心の内で納得した。
「いや、一緒に暮らしてたら、なんとなくでもわかるでしょっ。私今週の出来事の中で一番びっくりしたよ。」
「そうかな?」
「わかるって。だって、クラスの子もなんとなくでも部活わかるでしょ?」
「いや、なつしかわからない。」
夏希は杏奈の言葉を聞くと、暫し静止した。
杏奈はそんな夏希の頭を数度撫でた。
「ははっ。杏ちゃん、めちゃ、おもしろいね。」
「そうですか?」
杏奈と夏希の会話を隣で聞いていた健太は、笑いを堪えきれないかったのか、腹を手で抱えていた。
「うん、おもしろいよ。あ、そうだ。せっかくだから杏ちゃんもおいでよ、日曜日の試合。」
「試合に?」
「そうそう。近所でやるからさ、せっかくだから応援しに来てくれたら、俺嬉しいし。」
「わ、私も嬉しいっ。池上くんも出るから、良かったら来てっ。」
日曜日はお母さんと過ごす日なんだけど…と杏奈は悩む。
「う…ん。気が向いたらでいい?」
「絶対、気向かせてね。池上くんも喜ぶと思うし。」
「うん、わかった。」
「場所とか詳しいことは池上に聞いて。あと、屋外で暑いから飲み物持ってきた方がいいよ。」
健太は、杏奈に飴の礼を言うと教室から出て行った。
「杏ちゃん、杏ちゃん。」
「ん?」
「差し入れ欲しいなぁ、日曜日。」
私が行くことは決定済みなのか…と杏奈は心で呟いた。
「何がいいの?」
「さっぱり系がね、いいなぁ。」
「ん、わかった。なんか適当なの持っていく。」
「杏ちゃん、大好きー。」
夏希は杏奈の膝に座ったまま、強く抱きついた。
「おーい、高野。自分の席つけー。毎朝毎朝、堺の膝に座ってるんじゃなーい。」
「先生、いつの間にっ。杏ちゃんの膝の上は私の特等席なんですよっ。」
「高野がどれだけ堺が好きかわかってるから、とりあえず自分の席つけ。さもないと、今からやる数学の小テストの時間短くすんぞー。」
「わ、わかりました。杏ちゃん、後でねっ。」
夏希は、杏奈に手を振ると自分の席に戻っていった。
「テスト配るぞ。時間は三分な、よーい始めっ。」