紫紺の花嫁 5. 呪われた姫
大広間の西側には、あのステンドグラスと向かい合うように、初代国王の壁画があった。
両膝をつき、女神に向かって礼をとる初代国王・クラウディオ。
誰もが畏敬の念を抱くその絵の真下には、権力者の証である玉座があった。段差がつけられた白い大理石の上段、真紅のカーペットの先にある金色の玉座には、肥太った体を窮屈そうに収める国王の姿がある。彼はアーミンの襟の付いた緋色のビロードに、金や銀糸で獅子や鷲の刺繍が細かく施された上質のマントを羽織っていた。シークイン刺繍の百合も美しく、床まで届く長い衣は、その先端ぎりぎりまで美しく装飾されている。
王の横には、年を重ねてもなお美しい王妃が、王に負けないくらい贅を凝らしたドレスやアクセサリーを身にまとって、絶えず微笑みを浮かべている。
玉座の王も、いかにも上機嫌という体で、客人からの挨拶と祝辞を受けていた。
誰もが競うように賛辞を述べ、王のご機嫌を取ることに余念が無い。愛想笑いを浮かべながら、ただひたすら心にも無い賛辞を連ねて、国王がいかに賢君かと誉めそやす。
[バシリウス」
挨拶に来る者がようやく途絶えた頃、王は下段に侍るバシリウスに短く問う。
「あれは、間違いなく来るのだな?」
バシリウスは体の向きを変え、悠然と答えた。
「仕度を終え、花見の間からこちらへ向かってらっしゃるかと」
「そうか」
冷ややかな眼差しで広間を見渡し、そこにいる大勢の客人の様子を、王は退屈そうに眺めた。
「皆、あれのことは噂で知っておろうな」
「おそらくは」
「此度の事は、皆に何と言っておる?」
「招待状には『他国に嫁がれる姫様のお披露目』とだけ」
貴族たちが集まったのは、噂の姫を一目見るためだった。生まれたときから北の塔に幽閉され、18年という長い歳月を人目に触れず過ごしてきた、この国の第一王女。
その曰く尽きの姫君が嫁ぐというのだから、暇を持て余した貴族たちが食いつかないはずもなく。故に醜聞好きで、他人の不幸も笑い話にするような人間ばかりが、この場に集ったというわけだ。
「悪戯に皆様を不安にさせたくはありませんでしたので、真実は後ほど、陛下ご自身の口からお話くださいますよう、お願い申し上げます」
「真実か・・・」
国王は厭らしく笑みを浮かべた。
「お前の残酷さは、この国随一であろうな」
「すべては偉大なる陛下への忠誠心からでございます」
「そなたのような忠義者の臣下を持てて、余はう嬉しく思う。そなたのおかげで、ようやくあれを片付けることができるのだからな」
それにしても、と言葉を続けながら、記憶の片隅に残る生まれたばかりの姫の姿を思い出し、王は忌々しそうに顔を歪めた。
「あの女も、面倒なものを残したものだ」
冷たく詰る言葉を聞きながら、バシリウスは秀麗な笑みを浮かべた。
「それも今日で終わりましょう」
「うむ。そなたにはたっぷり褒美をとらせよう」
「光栄にございます」
ゆるやかに頭を垂れたバシリウスに、姫の到着を告げる者がいた。ユリウスだった。小声でその旨を告げると、一礼してすぐさまその場を辞した。
「陛下。姫様が到着されました」
「うむ。ではさっさと済ませてしまおう」
「御意に」
南側の扉に立つ男に目で合図をすると、それまでざわついていた広間が一瞬で無音となった。数多の瞳が一斉に扉を見つめ、扉の近くに居た者は、ゆっくりと離れた。
「レナーテ姫、ご入場」
朗々とした男の声が響き渡り、扉が開かれる。
好奇と嘲笑で醜く歪んだ貴族の顔は、しかし噂の姫を見た瞬間、誰もが息を飲んで目を丸くした。
一本の、しかし何者も手折ることのできぬ信念を胸に秘めた、一国の王女がそこにいた。
夜明けの新雪のように白い肌と、艶やかな美しい栗毛の髪。
凛とした美しい顔は臆することなく前を見据え、数多の好奇の目に晒されながらも物怖じせず広間の中央まで歩き続ける。華美になりすぎぬよう銀糸で控えめに刺繍された白いドレスが、王女のほっそりとした体のラインを出して、まるでおとぎ話のあの女神のように神聖で美しかった。
王女が歩くたびに揺れるドレスの裾が、まるで白百合の花びらのようで、観衆の目に幻想的に映った。
「あれが、本当に呪われた姫だというのか?」
そう呟く声はひとつではなかった。王女を見たことの無い者がほとんどだが、みな一様に驚き、ただ同じ言葉を繰り返す。「これがあの忌み子の姫なのか」と。
しかし誰よりも驚いていたのは、国王だった。
王家の恥として北の塔に閉じ込めてから、一度も会わなかった姫が、まさかこれほど美しく成長しているとは思いもしなかった。
彼女の母親も美しい女性だったが、まさにそのまま、瓜二つの姿で。
そして、自分を真っ直ぐ射抜くように見つめる瞳。
「あれが、紫紺の瞳・・・」
誰かが囁くように呟いた言葉は、ざわつく場内にも関わらず、国王の耳にするりと届いた。
紫紺の瞳の、呪われた姫。
姫は、両親がともに緑の瞳だというのに、紫を宿して生まれてきた。いまだかつて紫の瞳を持った人間はおらず、また、魔物の体内を流れる血の色が紫だということもあり、誰かが「この赤子は魔に魅入られている」と言ったのが始まりだった。
以来、赤子は「呪われた瞳を持つ姫」と蔑まれ、誰もが気味悪がって近寄らなかった。
それがどうだ。かつて恐れられたその瞳は、美しく、力強い輝きを放つ至高の宝石のようではないか。
「陛下」
王女に相応しい風格と威厳を併せ持ち、戦場の騎士のような凛々しさと、確固たる決意と覚悟をその紫紺の瞳に宿して。
誰よりも気高く美しく成長した姫が、いま目と鼻の先にいる。
「お約束どおり御前に参りました」
王女は玉座の手前で立ち止まると、まるで臣下のように恭しく礼をした。