侵入者
◆
部屋に戻った途端、体から力が抜けた。
扉が閉まる音が背中から聞こえた瞬間、乃愛はその場に座り込みそうになって、慌てて近くにあった椅子の背もたれに手をついた。晩餐会の間ずっと張り詰めていたものが、一気に緩んだのかもしれない。
「……つかれた」
小さく呟くと、先に室内にいた沙奈が振り返った。
「お疲れ様。……気疲れもあるかもしれないけど、やっぱりあの睡眠剤入りのお酒が効いてきてるんじゃない?」
「あ……そう、なのかも……」
「今日はもうお風呂はやめておいて、このまま休んだ方がいいよ」
沙奈は乃愛の手を引いて寝室に連れて行く。
改めて見てもこの部屋は広すぎる。リビングから寝室までも結構な距離があり、面倒をかけてばかりで申し訳なく思いつつも、乃愛はすでに体力の限界が近く、手を引かれるままノロノロとついていくしかなかった。
たどり着いた先のベッドの上には、清潔な寝間着が綺麗に畳まれて置いてあった。
二人でいそいそとそれに着替えながら、沙奈の手にはスマホが握られていた。
こちらの世界に来てから、まともには使えないはずのもの。けれど、限られた相手とだけは繋がる、妙に心強くて、妙に不気味な道具。
「……相馬さんに、連絡してるの?」
「うん。あの怖い顔してたシュミェツさんを見て思い出したんだけど、地下迷宮で新田さんが昏睡状態にしていた魔人も確か同じ名前だったよね。もう約束の三日が経つから、意識取り戻してあげたのかなって一応確認してみたんだけど、やっぱり新田さん忘れてたみたいで……」
沙奈は手元を動かして画面から目を離さないまま、少し呆れたように苦笑した。
末席の方から向けられた、絡みつくような視線。
俯きがちにグラスを傾けていた初老の男性。
鑑定に表示された名前は、
イーゴリ=シュミェツ。
その名を見た時は、乃愛にはいまいちピンときていなかった。
初めて見る顔であったというのもあるが、元々人の顔や名前を覚えることは苦手な乃愛だ。嫌な感情を向けられて只々困惑するだけだった。けれど、沙奈は当然のように名前を覚えていた。
新田と同様、乃愛もすっかり忘れていたその魔人のことを思い出しながら、さも自分も覚えてましたよという真面目な顔つきを作る。
「同じ苗字なら、親族だったのかな?」
乃愛は浮かんだ疑問を確かめるよう口にして首を傾げると、沙奈は触っていたスマホを雑に手放してベッドに身体を投げ出した。
「まぁ、あの感じだと、無関係では無さそうだよねぇ」
「……じゃあ、怒ってる、んだよね」
「さっきまで、知らん顔でのほほんと食事なんかしちゃってたからね。はらわたが煮えくり返ってそう」
沙奈は顔を引き攣らせながら枕に突っ伏した。
そのまましばらく無言で固まっていた沙奈だったが、突如ガバッと起きて乃愛を見つめた。
「な、なに……?」
沙奈の突飛な行動とその表情のなさに、乃愛は恐る恐る小さく尋ねた。
「たぶん、今夜襲われる」
「え、な、なんでわかるの?」
「だってさっき——」
――コンコン
その時、ドアをノックするような音が聞こえて、思わず乃愛の肩がびくっと跳ねた。
その様子を見た沙奈は言葉を切って、首を傾げる。
「どうしたの?」
「だ、だれか来たみたい……」
廊下に接しているドアがある方を見ながらぎこちなく答える乃愛だったが、その声は少し震えていた。沙奈から襲われると聞いた直後のことだったので、その事が頭を過って、まさか、と思わずにいられない。
「リビングの方?この距離でよく聞こえたね——あ、結界張ってくれてるのか」
与えられている客室は部屋というより一軒家はありそうなほどで、今いる寝室は廊下側にあるドアからいくつもの間仕切りを挟んだ先にあった。そのため通常であれば外に繋がるドアのノック音など聞こえない。尋常離れした聴力はあれど、耳を澄ましていないと聞こえないほどだ。
こういうとき普通はどう対応すべきなのかわからないままだが、警戒のため常時部屋に張っていた結界で、乃愛だけはすぐに反応できた。
躊躇いもなくスタスタとドアの方に向かう沙奈を慌てて追いかけながら、乃愛は全力でさらに周囲に結界を張った。
扉を開けた先には、ホテルスタッフのような格好の給仕らしき女性が微笑を湛えて立っていた。例の如く黒い眼鏡を掛けているので表情が見えにくく、今の心境ではその異質さが際立って見える。
「お休みのところ恐れ入ります。こちら、首長からの差し入れでございます。どうぞお召し上がりください」
給仕は笑みを浮かべて一礼すると、少し体をずらして側にあるワゴンを見せた。そこには、色とりどりの液体が入った瓶がアイスバケツに何本も刺さっていた。
応対した沙奈は笑顔でそれを受け入れる。
「これはどうもご丁寧に、ありがとうございます。首長によろしくお伝えください。お心遣い、大変ありがたく頂戴いたします」
「はい、申し伝えます。他にも何かご入り用の際は、いつでもお申し付けください」
給仕は慣れた動作でワゴンを中まで運び入れると、一礼してそのまま速やかに退室していった。
それを横でぼうっと見ていた乃愛は、大人なやり取りに改めて感心してしまう。まともに人と目も合わせられない乃愛は、ここにきてから対外的なやり取りはずっと沙奈に丸投げしてしまっているが、大人とこんなにスマートな会話をこの歳で普通にできるものなのだろうか。幼少期から引きこもりだった乃愛に世間の普通などわかるはずもないが、ドレスの着こなしや食事の所作なども思い返して、何となくそう感じていた。
ボトルをいくつか手に取って内容を確かめていた沙奈は、思い出したかのように呟いた。
「そういえば、お酒が飲めないって話した時に、あとでジュースを運ばせるようなこと言ってたっけ」
極度の緊張から会話を他人事のように聞いていた乃愛はそのことをほとんど思い出せなかったが、沙奈が言うならそうなんだろう。
デザートに出たタルトのフルーツがとても美味しかったのを思い出し、期待感が湧いてくる。
「じゃあこれは、ジュースなんだね」
「たぶん」
「え、たぶん?」
「だって、今夜襲われそうだし、ノア、ついさっき睡眠剤入りのお酒飲んじゃったでしょ。これだって絶対なんか入ってるよ」
「あの……その襲われるって、本当なの?」
先ほど聞きそびれてしまった話だ。これまでも警戒していたが特に何も起きず肩透かしだった。なんとなく、現実味がなかった。
「半分くらいはまだ勘だけど。でも、後は寝るだけって時に睡眠剤なんて盛られていたら、それはもう寝込み襲いますって感じじゃない?それに、このジュースを調べてまた何か入っていたら、確実に黒だと思う」
そう言いながら沙奈はボトルキャップを次々に開けて毒検知器であるスティック状の魔道具を差し込んでいく。
そして、全てのボトルで、魔道具に色の変化が見られた。先端が僅かに青みがかっている。
沙奈は眉根を寄せてため息を吐く。
「さっき乃愛が飲んだお酒に色の変化はなかったから、これは少し強めの催眠剤か毒が入っているってことかな。まぁどっちにしろ、体に害があるものに違いはないよね」
「それってやっぱり…… あの人が?」
「どうだろ。怪しいけどシュミェツさん個人でやってるのかはまだわからないな。もしかしたら国ぐるみもあり得そう。魔族に敵対される理由はあっても、歓迎されるような理由はそもそもないんだし」
果汁の爽やかな良い匂いが漂うなか、沙奈が開けたボトルの蓋を閉めていっているのを眺めながら、飲めそうにないことにひっそり落胆していると、不意にその手が止まった。
沙奈が辺りをキョロキョロと見回す。
「結界って、防音はそのままだった?」
「う、うん。それが……?」
「勘だけど。取り囲まれてるような気がする」
「えぇ?」
先ほどから沙奈の勘が冴え渡り過ぎているような気がするが、才能に合った直感の力だろうか。
部屋の周囲に張り巡らせている結界には特に反応はない。そのため少しずつ範囲を広げていくと、あちこちで感知にかかった。
身近によくわからない人の気配をたくさん感じたことで一気に現実感が押し寄せる。乃愛は思わず沙奈の袖を小さく掴んでいた。
「……十人くらい、いそう」
「そんなに?やる気満々だねぇ」
目を丸くしながら肩をすくめた沙奈は、傍にあったソファの方に向かって手を翳した。乃愛の手を取って、落ち着いた声で言う。
「結界、解いていいよ」
「え。で、でも」
「私たちの周りだけで大丈夫だよ。幻影かけたから、じっとしていれば入ってきても気づかれないと思う」
「……わかった」
誰かが侵入してくることを想像するとそれだけで恐怖心が増した乃愛だったが、握られた手からは温もりと共に安心感も伝わってきて、ぎゅっと握り返してから部屋の周囲に張っていた結界を解除した。
――程なくして、不審者がどこからともなく続々と姿を現した。
◇◇
同じ頃、首長のアキム=コーヴィナは、迎賓館から少し離れた建物の執務室にいた。
先ほどまでの華やかな空気が嘘のように、室内は静まり返っている。重厚な机の上には、滞在中の予定表や警備配置を記した書類が所狭しと広げられていた。
「お二方のご様子はいかがでしたか」
向かいの客人用ソファに座る男から尋ねられ、首長は書類から顔を上げた。
「少なくとも、料理はお気に召していただけたようだ。街の見学にも前向きでいらっしゃる。明日からの案内次第では、我々に対する警戒も多少は和らぐだろう」
「警戒、ですか」
「当然だ。我々は、あの方々に何一つ信用していただけるようなことをしていない」
歓迎の席を設け、衣食住を整えたところで、それはすべてこちらの都合によるものにすぎない。
地下迷宮での一件があったばかりで、事情も知らぬまま歓待されれば、何か裏があると疑うのが自然だろう。
むしろ、あれほど落ち着いて応じていたことの方が、首長には意外だった。
「……そろそろ教えてもらえませんか。なぜ、そこまでして稀人に気を遣う必要があるのです?確かに珍しい存在ではありますが……彼ら自身は、何も知らぬ子供でしょう?」
「何を言っている?貴殿も、晩餐会には出席していただろう。あのオーラを見なかったのか」
「オーラ、とは?同席はしていましたが、離れていましたので遠目にしか拝見しておりませんでした」
首長は信じられない思いで男をまじまじと見つめるが、訝しげに首を傾げるその様子は嘘を言っているようには見えない。
「だからといって、まさかそんな……いや、貴殿は、そもそも何の用でここに来たのだ?」
妙な胸騒ぎがしてきた首長は、震えそうになる声を抑えて努めて冷静に尋ねた。
「それはもちろん我が息子ヨルンのことです!すでに約束の期限は過ぎているにも拘わらず、いまだ目を覚まさないと聞いています。先ほどの晩餐会でも確認してもらえず……もう我慢の限界です!!」
男は何かのスイッチが入ったかのように突然声を荒げた。その顔は悲壮に満ちており、今にも自暴自棄になりかねない。
首長が困惑しながらも説明しようと口を開いた、その時だった。
控えめな音を立てて、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入れと促して入室してきたのは、晩餐会場の給仕を統括していた男だった。
その顔からは血の気が引いていた。
「何事だ」
「先ほどお出しした乾杯酒について、確認すべきことがございます」
「乾杯酒?」
首長が眉を寄せる。
男は一度唾を飲み込んでから、震える声で続けた。
「保管されていた酒瓶から、規定量を超える催眠成分が検出されました」
室内の空気が凍りついた。
「……誰が許可した」
「誰も。少なくとも厨房と給仕係は、通常の酒だと認識していたようです」
魔国では祝宴の乾杯酒に、ごく微量の鎮静作用を持つ香草を加えることがある。長旅の疲れを癒やし、眠りを助けるための古い習慣だった。
だが、事前の説明もなく、異国の賓客に出してよいものではない。
「すぐに残りを押さえろ。調合した者、運搬した者、保管庫に出入りした者を全員確認しろ」
「すでに手配しております。ただ——」
言い淀むように、男の声が途切れる。
「まだ何かあるのか」
「先ほど、首長の名で客室へジュース類が届けられました。気づいた時にはすでに遅く……」
首長は頭を抱えた。
酒が飲めないと聞いて、酒精のない飲料をその場で手配したのを思い出す。
「すぐに警備兵を——いや、私も同行する」
首長は立ち上がり、机上の呼び鈴に手を伸ばしたが――再び扉が激しく叩かれた。
「緊急のご報告です!」
許可を待たず飛び込んできた兵士が、その場に膝をつく。
「賓客用区画担当の警備と連絡が取れません。さらに、周辺で複数の術式が起動した痕跡を確認しました。結界が張られているようで、客室へは誰も近づけなくなっております」
首長の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「区画を封鎖しろ。侵入者は捕縛を優先。ただし、賓客に危害を加えた者については、生死を問わない」
首長は足を動かしながら指示を飛ばし、傍に掛けてあるコートを掴んだ。報告に来た兵士と共に扉から出る寸前、ふと、話の途中だった来客の男へと振り返る。
「シュミェツ、悪いが話は後だ。出直してくれ——」
振り返った先には、誰もいなかった。




