13話 可愛い赤ちゃん
本を購入した後の数日間というもの、二人は購入した本を読んでメモを取ってすごした。
本を読んで知らない情報を取り入れる事はとても楽しくはあるのだが、言葉を訳して書きつける作業もあるため二人の聞き手はぐったりと重い。
そうなってくると口数も減るし、夫婦の触れ合いも減っていく。
最後には使用人に「これでは旅行に来た意味がないのでは」と小言まで言われるしまつだ。
ルビナにとってもそろそろ限界だったため、今日は作業は一切やめて外出することにした。
それを話すとタイラーも嬉しそうにしてルビナの腕を取り、早速外出の準備をした。
彼は元々書類仕事が多いのであまり無理をしているようではなかったのだが、使用人のいう通り旅行に来て部屋に閉じこもりっきりでいるのはつまらなかったのだろう。
外はとても良い天気で、二人は宿屋の近くにある広場へ向かった。
噴水のある広場の奥には、青々とした芝生が広がっておりピクニックのできる公園になっている。そこで自然を満喫して疲れを取ろうという計画だ。
公園はとても居心地が良さそうだ。人々が敷物を敷いたり、そのまま座り込んだりしてくつろいでいる。
「ああ、やっぱり外はいいわね」
ルビナは胸いっぱいに爽やかな空気を吸い込んでタイラーに微笑みかけた。
「君といられるなら、どこでも楽しい」
「あら、そんな口説き文句を言って」
開放感からか、とても気分が良さそうなタイラーの肩を叩いて笑うと、その声に驚いたらしく、近くで赤ちゃんの泣き声が上がった。
「あら、私のせいかしら」
ルビナはキョロキョロと声のした方を探した。そして近くの木陰に、上品なお母さんが座って赤ちゃんをあやしているところを見つけた。
ルビナがタイラーを連れて近づいていくと、その人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ、気にしないで。まあ、可愛い赤ちゃんね」
「ありがとうございます」
ルビナは抱っこされた赤ちゃんを覗き込んだ。
赤ちゃんはとてもぷくぷくしていて可愛らしい。すでに泣き声は止んで、涎を垂らしてルビナとタイラーを観察している。
とても小さな手のひらは、こちらに向かってにぎにぎと動いているので目を引いた。
「手がとっても小さくて不思議。最初はこんなに小さいのね」
「抱っこしてみますか?」
お母さんに提案され、ルビナは少し動揺した。
「あら、いいの? でも何だか落としてしまいそうで怖いわ」
「座って抱いたら大丈夫ですよ」
ルビナは言われるままそばにしゃがみ込むと、膝の上に赤ちゃんを乗せてもらった。
驚くほど軽く小さい。
顔を眺めていると、なぜだか勝手に笑顔になってしまう自分がおかしい。
なんて可愛いんだろう、と思ってうっとりと観察してから、タイラーに視線を向ける。タイラーも隣で覗き込んでいた。
「ね、可愛いわね」
「ああ」
タイラーは声をかけられると、今度は少し体を引いて嬉しそうに赤ちゃんを抱いたルビナの事を眺めた。
「赤ちゃんを見てってば」
「ああ、見たよ」
「もう」と言ってタイラーに肩で攻撃すると、その様子を眺めていた赤ちゃんのお母さんがくすくすと笑った。
「お二人はもしかして新婚さんなのかしら」
「ええそうなんです」
ルビナは笑われたことにちょっと照れて答えた。
「じゃあ、そのうち貴女もお母さんになるのね」
ルビナは微笑んだ。私がこんな可愛い赤ちゃんを産むの? お腹から? そう思うとなんだか不思議な気分だ。
「ええ、そうね」
「楽しみだ」
タイラーもしみじみと言った。
ルビナは何だかくすぐったくなった。
赤ちゃんがむずがり始めたので、お母さんの腕の中に返して二人は立ち上がった。
「引ったくり!」
近くで叫び声がした。
目を向けると尻餅をついた女性と、そこから走り去る男が目に入る。
ルビナはパッと目に入ったタイラーの胸ポケットに刺さっていたペンに手を伸ばした。
「これ、ごめんなさい。貸してね」
手に取ったペンはありがたいことにずっしりと重い金属製だ。重量を確認してすぐに男に向かって投げつけた。
ペンは弧を描いて飛び、うまく引ったくりの手に当たったようだ。
男が荷物を取り落とし、慌てて拾おうとしゃがみ込むと、後ろから追いかけていた男性二人に取り押さえられていた。
「まあ、すごい」
赤ちゃんを抱いたままのお母さんが拍手した。
「たまたまですよ。ではこれで失礼しますね、彼のペンを回収しなきゃ。赤ちゃんを抱かせてくれてありがとうございました」
「君の投げ技は百発百中だな」
「ええ、子供の頃にとっても練習したのよ」
ルビナは得意げに言った。
それから、男が引っ立てられていくところに追いつくと、自分が投げつけたぺんを返してもらう。
ペンには地面に落ちた時についた傷があった。
「ごめんなさい。買い直すわ」
ルビナはしょんぼりして謝ったが、タイラーは首を振ってそれを胸ポケットにしまった。
「別に構わない。ペン先が壊れてなければそれでいい。だがペンの中はインクでぐちゃぐちゃだろうな」
「え、そうなの?」
「万年筆は投げて大丈夫なようには作られてないからね」
タイラーは笑った。
「それにしても、君の投げ方は本当にあのサーカスの女性と似ている」
タイラーの声は、何気なく呟いた感じだった。だがルビナは少し固まってしまった。あの後もずっと、その話はしてこなかった。
出来ればしたくないのだ。
彼の目的が、サーカスのナイフ投げの遺品を家族に届けるなんてことじゃなかったらよかったのに。
ルビナは諦めて、その話に少し触れることにした。
「そう、でも私にこれを教えてくれた人はもう死んでしまったのよ。それに、どこの出身の人なのかも知らないわ」
ルビナは前世のナイフ投げの師匠のことを思い出しながら喋った。
師匠は随分前に亡くなっている。
それに、どこからやってきてサーカスの団員になったのかなんて知りもしなかった。どうせ、わざわざ聞いたところで、サーカスの人間はそれを教えてくれない。あそこに参加していた人間のほとんどが、自分の故郷など持ち合わせてはいないからだ。
だが、タイラーが聞きたいのはルビナの師匠の故郷ではない。
ルビナの前世の故郷だ。
それは教えたくないことではあったが、教えられないことでもある。
ルビナ自身が知らないのだから。
ルビナがぼんやりと昔のことを考えていると、タイラーは困ったように呟いた。
「いいんだ。君を困らせるつもりはなかったんだ。すまない」
タイラーが反省しているようなので、ルビナの方が申し訳ない気分になってしまう。自分がとてもずるい事をしている気がした。
だけど前世の事なんて、どうやって話せというのだろう。
どうしようもない。
ルビナは切り替えて明るく振る舞った。
「いいわ。ね、何か甘い物でも食べに行かない?」
明るく喋ってタイラーを見上げた。
急に動いたせいだろうか?
ルビナは眩暈に襲われて、視界が一気に奪われた。
「あら……」
「ルビナ!?」
ルビナは、タイラーが慌てて体を支えた時には、ほとんど意識を手放していたため、答えることができなかった。