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卒業・約束3

櫂人視点です。




   ◇ ◇ ◇




 櫂人は目を覚まして、しばらく枕から頭を上げられなかった。

 夢の中で見たのは、自分の前世だった。櫂人が渡米してから前世の夢を見る回数が減っていたため、油断した。

 頬が涙で濡れている。側にいない温もりを探すのは何度目だろう。

 もう、数えることも止めてしまった。


「どうせなら、姫芽ちゃんの夢が見たかった……」


 櫂人はそう呟いて、ようやく涙を拭って起き上がった。

 前世を思い出した最初の頃こそカインの意思に引っ張られていたが、ひと月もすれば元からあった櫂人自身の人格と上手く馴染んでいた。姫芽がセリーナに見えてしまうという状態も、それと同時に落ち着いていた。

 それでも姫芽の側にいたのは、櫂人自身の意思だった。守りたいなどと言って、本当はカインではなく櫂人が、セリーナではない姫芽の側にいたかったのだ。

 寝起きに探した温もりは、セリーナのものだった。あの無意識の行動は、前世の夢を見た影響だろう。それが変な罪悪感となって、櫂人の心を重くする。

 姫芽とは、卒業式の日に会ったのが最後だった。櫂人は父親の指示で卒業後すぐにアメリカに渡り、生活と言語に慣れるために仕事を手伝うことになっていたのだ。それに、やらなければならないことをするには、時間がいくらあっても足りない。

 姫芽とは今も、最低週に一回はWeb通話をしている。

 日本に帰れないまま、もうすぐ4年が経つ。姫芽の顔は画面越しに何度も見ているが、やはり直接会いたい。


「──支度するか」


 櫂人は簡単に着替えを済ませて、寝室を出た。

 今日は夕方から道人と会う予定になっている。それで最後だ。それまでにもう一度資料をさらっておきたかった。

 手早く朝食を済ませた櫂人は、簡単に身支度を整える。窓際の机に移動してパソコンを立ち上げると、企画書のファイルを開いた。

 負けるつもりはない。

 これで終わりにして、日本に帰るのだ。





 今から五年前、高校二年の冬休みに、櫂人は道人に呼び出された。

 道人は、櫂人を相川グループの後継にするべきだとずっと主張していた。それは自分が愛人の子であるにも拘らず本妻の子である櫂人の兄であることへの引け目であり、同時に櫂人の能力を相川グループのために活かしてほしいという願いでもある。

 櫂人の母親の実家である園村家は不動産に強い名家だ。こちらも過去に櫂人に後継を望む声も出たが、今は櫂人の叔父が後を継ぎたいと言って必死で勉強していることを受け、もう櫂人に何かを言ってくる者はいなくなっている。

 道人の目的は簡単で、姫芽の安全と姫芽の両親の仕事を楯に取って、櫂人に自分が後継になると納得させることだった。

 しかし、櫂人は会社は愛がある者が継ぐべきだと信じていた。どんなに能力が高くても、それだけで務まるようなものではないだろう。

 そもそも父親が、道人が後継で構わないと言っている。

 そして櫂人は、道人とあることを条件に取引をした。その条件を櫂人が達成すれば、道人が相川グループを継ぎ、今後の櫂人の人生には口出しをしないというものだ。

 そのために、今日まで櫂人は必死で走ってきた。

 約束の場所は会員制レストランの個室だ。予約されていたその場所に先についた櫂人は、手前の席に腰掛けて道人が来るのを待った。


「櫂人、待たせたか」


 道人がやって来たのは、それから十分程経った頃だった。着ているシャツとジャケットの皺の印象から、仕事終わりであろうことが窺える。


「兄様。いえ、構いません」


 櫂人は道人が向かいの席に座るのを待って、用意していた資料をまとめたタブレットを取り出した。そこに午前のうちに確認していた資料を映し出す。


「こちら、お約束のものです。確認してください」


 道人は櫂人のタブレットを受け取って、資料に目を通し始めた。

 道人が櫂人に課した『条件』は、相川グループの海外の子会社数社の調査と立て直しだった。勿論、まだ学生で会社の社員でもない櫂人に打てる手は限られる。しかも期限は四年間。

 櫂人に委ねられた子会社は、どれもこのままの状態であれば相川グループが手を切るか倒産させるつもりであろうことがわかる業績だった。しかも道人と櫂人の賭けを知った父親が、渡米中は会社の手伝いもするようにと命じたのだ。


「……櫂人は、そんなに家を継ぎたくないのか」


 道人がぽつりと呟いた。

 もういいというように、タブレットがテーブルに雑に置かれる。道人は疲れを隠そうともしなかった。

 櫂人は道人の条件を呑んでから数か月間、どうにか日本から対応することを考えた。しかし社員もほぼ現地人で構成された会社をどうにかするには、日本では難しかったのである。


「──兄様は、俺を買い被りすぎです」


 櫂人はそれからすぐにアメリカに行くことを考えた。

 高校を卒業してから渡米するとして大学に入学できるのは九月だ。どうにかして三年で大学を卒業すれば、姫芽が大学を卒業するまでの四年間で、大卒の学歴と条件達成のための自由な一年が手に入る。

 同時に、今後の生活の基盤を整えることもできるだろう。

 櫂人は大学で知り合った数人と共に、早々に自身の会社を立ち上げた。相川グループにも、園村の家にも頼らずに生きていくと表明するためのパフォーマンスの一つである。

 その会社も今ではすっかり軌道に乗って、櫂人はやりがいを感じていた。道人に会う前に連絡をした父親からも、好きにしろという言葉を貰っている。

 そもそも最初から、父親は道人を後継にするつもりだったのだろう。櫂人に会社の手伝いをするように命じたのも、櫂人は一人でやっていくようにという意思表示だ。実務を経験して、自分の会社に活かすようにという、らしくもない親心だったのだろう。

 だから今日この場を設けたのは、ただ櫂人と道人との間にある蟠りを解決するためなのだ。


「──……実際のところ、父様は兄様と継母様にしか興味はありません。俺を気にかけているのは、兄様だけですよ」


「そんなことはない! 父様だって、きっと──」


 しかし道人は認めようとはしない。

 櫂人は小さく溜息を吐いた。思い出したくもない、普段は考えないようにしている過去を、引っ張り出す。


「兄様は、俺に怯えることなどないのですよ」


「──……っ」


 道人が息を呑んだ。

 道人は櫂人に引け目を感じている。

 本来正妻の子であった櫂人より愛人の子である道人の方が年齢が上だ。

 道人は両親と過ごした思い出があるが、櫂人にはない。

 しかし櫂人はそれだけではないことを知っている。

 櫂人の母親が事故で命を落とし、道人とその母親が家に来ても、始めの頃は櫂人の生活に大きな変化はなかった。

 学校に行き、家庭教師と学び、習い事に行く。自由な時間には友人を招いて身体を動かしたり、読書をすることも多かった。

 変わったのは、半年が経った頃だろうか。

 道人の母親は櫂人の母親とは違い、仕事をしていなかった。すると当然家にいる時間が増え、義理の息子である櫂人の様子もよく見える。

 道人は優秀な子供だったが、櫂人はそれと比べても飛び抜けていた。言葉遣いと振る舞いはとても子供とは思えないほどしっかりとして、友人との関係も良好、家庭教師達はこぞって櫂人を褒める。

 当時の櫂人は、良い子でいるために必死だっただけだ。実母が死に、父親は仕事と新しい家族のことばかりで櫂人を省みない。古参の使用人が面倒を見てくれていたが、親の愛に飢えていた。

 良い子でいれば、父親も、継母も、櫂人を見てくれるに違いないと信じていたのだ。

 しかし子供の櫂人がした努力は全て裏目に出る。道人の母親が二人の子供を比較し心を病んでいくまで、たいした時間はかからなかった。


「だが、櫂人は母に──」


「兄様」


 櫂人は道人の言葉を途中で切った。

 それ以上、言う必要はない。


「何も、ありませんでした。その『記録』は兄様も確認されているでしょう」


 櫂人は道人の母親から虐待を受けていた。

 当然その事実は隠蔽され、櫂人が園村の家に引き取られることになった怪我の記録も書き換えられた。

 しかし道人は、当時の大人によって隠されたその事実の存在を疑い、櫂人によって暴露されることを恐れている。

 普通に考えたら、父親が生きているにも拘らず子供が亡き母親の実家に引き取られるには、相応の理由が必要だと知っているのだ。


「だがあれは」


 道人がそれ以上言葉にならないといったように、櫂人を見る。

 櫂人はもう、どうでも良かった。

 道人は父親と母親に愛されている。

 そして、道人は二人を、そしてあの大きな会社を愛している。

 櫂人が持っているものと求めているものは、道人とは違う。それだけなのだ。


「──『記録』されているものが『全て』です。俺は……いえ。私は、それ以上のことを詮索されたくありませんし、今後一切口にするつもりもありません」


 櫂人はそう言って、口を噤んだ。

 道人はただ一言、そうか、と呟いて、それ以上何も言ってこなかった。

 これで話は終わりだというように、櫂人は荷物を纏めて立ち上がる。このままここで食事をする気にはなれなかった。


「──櫂人」


 扉の前で呼び止められて振り返ると、道人はまっすぐに櫂人を見つめていた。


「条件達成、おめでとう」


 その表情にはまだ蟠りはあったが、それでも言葉と共に向けられたのは笑顔だった。

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