卒業・約束2
「姫芽ちゃん、待たせてごめん」
「さっきまで美紗ちゃんもいたから大丈夫だよ」
姫芽は自分が使っていた机に浅く腰掛けて、ゆらゆらと足を動かした。
いつの間にか太陽が傾き始めている。
3-Bの教室には、もう姫芽しかいなかった。さっきまで美紗がいたのだが、歩が迎えにきて、先に帰っていった。
今日は夕方からクラス会がある。卒業祝いで、カラオケボックスを予約してあるのだ。美紗と姫芽は参加する予定なので、挨拶も『後でね』だった。
「なら良かった」
近付いてくる櫂人の制服は、ボタンが全て無くなっていた。姫芽はそれを指さして苦笑する。
「お疲れ様。モテる男は違うね」
「何それ」
「美紗ちゃんが言ってたの」
姫芽が言うと、櫂人が吹き出して笑った。姫芽もそれにつられて笑い声を上げる。
静かな教室が、心地良かった。
櫂人が姫芽の正面に立つ。
「──姫芽ちゃん」
「うん」
姫芽はゆらゆらと揺らしていた足を止めて、櫂人を見上げた。
櫂人の瞳の中には、不安げな表情の姫芽が映っている。
今日、櫂人はクラス会に参加しない。
今日の夜には、日本を出る予定になっているのだ。
本当は、卒業式を待たずにアメリカに来るようにと言われていたらしい。それを今日まで延ばしたのは、櫂人の我儘だと言っていた。姫芽達と一緒に卒業するためだ。
「待っててくれる?」
「……待ってて良いなら、いくらでも待ってるよ」
姫芽は手の中の第二ボタンをそっと握り締めた。
その中身を知っている櫂人が、姫芽の右手の甲をそっと撫でる。
「待ってて。絶対、帰ってくるから。俺が欲しいのは姫芽ちゃんで、帰ってくる場所は姫芽ちゃんのところだから」
姫芽は熱くなってきた頬を感じながらしっかりと頷いて、右手をそっと胸元に当てる。ボタンひとつに掛けるような願いではないと分かっていても、願わずにはいられなかった。
姫芽はこれまでに何度も、いろんなものに櫂人と一緒にいたいと願掛けをしている。この第二ボタンも、そのひとつだ。
「姫芽ちゃん、手出して」
櫂人に言われて、姫芽はボタンを乗せた右手を差し出した。しかし櫂人は首を振って、それから姫芽の左手を取る。
「そっちじゃなくて、こっち」
櫂人の右手が、姫芽の左手をそっと捧げ持つ。そこに、初めて会ったときのように口付けを落とされた。触れた冷たさは、まるで櫂人の緊張をそのまま姫芽に伝えてくるかのようだ。
それから、櫂人が姫芽の指をそっと一本を選んだ。
姫芽ははっとして、櫂人が左手の五本の中から選んだ指を見る。
姫芽から見て右から四番目。その指に、銀色に輝く小さな指輪がそっと嵌められていく。小さな透明な石が、きらりと光った。
今の姫芽には不釣り合いなほど繊細な美しさを持った指輪だ。
「これ……」
「愛してる。──今は、こんなものでしか繋げないけど」
櫂人がそう言って、改めてそっと微笑む。
その目が確かに姫芽を求めていることに気付く。身体中の血液が一気に沸騰したような気がした。
「今すぐはできないけど、それでも……俺と、結婚して欲しい」
堪えていた涙を、我慢する余裕もなかった。今日一日堪えていたものが次々に流れていく。櫂人の指先がそれをそっと掬い上げた。
「姫芽ちゃん、返事は?」
「はい。……私を、櫂人くんのお嫁さんにしてください……!」
また涙を掬った櫂人が、くしゃりと顔を歪ませた。それは卒業式のときに一瞬だけ見た表情と同じものだった。
いとしくて、かなしくて。
どうしようもなく、恋をしている一人の男の顔だ。
「はは、良かった。断られたらどうしようかと思ってた」
姫芽は手で涙を思いっきり拭って、勢い良く左右に首を振る。
「そんなこと……! だって、こんなに好きなのに」
「だけど俺、姫芽ちゃんに楽しいこと何もしてあげられてない」
「そんなことない。私は、櫂人くんに、たくさん……たくさん」
この校舎で過ごした一年半、櫂人と過ごした時間はそれだけだ。
三年になってからは姫芽は受験勉強で、櫂人も仕事とアメリカ行きの支度で、互いに忙しくなってしまった。デートをした回数も、数えるほどしかない。すれ違って喧嘩をしたこともあった。
それでも、幸せだったと、心から言える。
「ずっと一緒にいたい……!!」
次の瞬間、姫芽は櫂人の腕の中にいた。
ボタンのない櫂人の制服は上着の前が開いていて、薄いシャツ越しの体温が直接伝わってくる。櫂人の速い鼓動がいつもよりもよく聞こえた。それが姫芽のものと混ざり合って、どちらの鼓動か分からなくなっていく。
ずっとこうしていたい。
姫芽の願いを知ってか知らでか、櫂人が抱き締める腕の力を強めた。痛いくらいに閉じ込められた姫芽は、必死に両手を櫂人の背中に回して、想いを返す。
「──……ありがとう。ずっと一緒にいられるように、頑張る」
櫂人はそう言って、姫芽を抱き締める腕を緩めた。
その日櫂人は、姫芽の家の前まで送ってくれた。その間、二人はずっと取り留めのない、どうでもいい話しかしなかった。まるで明日も今日と同じ日が続いているかのような穏やかさで、時間が過ぎていく。
姫芽の家の前で、櫂人が姫芽に触れるだけのキスをした。
「約束するから」
遠くなっていく背中が見えなくなるまで、姫芽はその場で手を振り続けた。
曲がり角の先で櫂人が泣いていたことを、姫芽は知らない。




