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霧の八峰山  作者: ウチダ勝晃
第三章 神域の少女

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9/21

神域の少女④

 八峰町全戸に波及した断水騒動は、昼過ぎになって近くの自衛隊駐屯地から派遣された給水車と工兵部隊によって収拾がつき、町はどうにか元通りの静けさを取り戻すことに成功したのだった。

『――そうでしたか、いやあ、ニュースを聞いて驚きましてね。真樹さんたちの身に何かあったんじゃないかと、気が気じゃなかったんです』

 一時過ぎ、傘岡の坂東医師からの電話が部屋へ取り次がれたのを受け取った真樹は、彼の口から、この出来事がローカルニュースながら、かなりのセンセーショナルさをもって報じられていることを知り、少し驚くこととなった。

「まさか、そんなにおおごとになってるとは思いませんでしたよ。暇なんですかねえ、放送局」

『かもしれませんね。今日日、あまりバリューに富んだニュースが転がってませんから……。ともかく、断水騒ぎも落ち着いたようで安心しましたよ。ときにどうです、あちらのほうは。何か面白いことはありましたか』

 坂東医師のなんとはなしに投げた質問へ、真樹は将棋を指す少年や井村を一べつしてから、淡々とした調子でいきさつを打ち明けた。

「てなわけで、その写真を見た明くる日……。つまり今朝になって、こんな騒ぎが起こったというわけなんです。その巨大な生き物が粘っこい液を出しながら歩いて行った辺りがちょうど、水道管の埋まっている場所だというのは、現地に行って確認済みです」

『うーむ』

 電話越しに坂東医師のため息が聞こえ、しばらく経ってからオイルライターを鳴らす音が響くと、

『真樹さん、勝手な想像なのは百も承知なんですがね……』

 いやに重々しい調子で口を開いた坂東医師に、真樹もつられて、なんでしょう……と消え入るように尋ねる。

『まさかとは思うけれど、相手は真樹さんたちのことをもう把握しているんじゃあないでしょうか。そうでもなければ、こうして堂々と人里に実害を出すとは思えないんですよ。もし、相手がすでにこちらのことに気づいて、今すぐにでもこの町から立ち去れ……という警告を発しているとしたら……?』

「うーむ……」

 返答に詰まって、真樹はしばらく、組んだあぐらの足裏を掻いていたが、

『……と、いうのは、ちょっと考えすぎでしょうか』

 と、坂東医師がすぐに意見を翻したので、真樹はそのままあいまいに話を打ち切り、少年や井村に受話器をまわさせて、広縁の籐椅子へ身を沈めた。午前中の騒ぎが嘘のように、蝉がのどかに鳴いているばかりの八峰の町の駅前旅館の窓辺は、来た初日と変わらぬ、落ち着いた空気を孕んでいる。

 ――坂東先生の意見も、一理あるにはあるんだよなあ。

 くもりガラスの急須に入った、自家製らしい冷たいドクダミ茶をすすりながら、真樹は軒先へつるしてもらった風鈴の音を聞きつつ、さきほどまでの電話のやりとりを思い出していた。

 ――オレたちが無関係なら、もっと早いうちにこういう騒ぎがあったっておかしくはないんだ。だが、だとすると、いったいどこで足がついたんだ……?

 腕を組み、からりと晴れ上がった窓外をにらみながら渋い口元をしていると、電話の済んだのとほぼ同時に、合板で作った安っぽいドアの向こうから、宿の親父がこちらへ声をかけてきたので、真樹は椅子から立ち上がり、扉のかんぬきを外し、中へ招き入れた。

「やあ、ご主人。どうかなさいましたか」

 真樹の問いに、主人は軽く頭を下げてから、大浴場の支度が出来た旨を伝え、

「――ああ、お茶のほう、よければお代わりをお持ちしましょうか」

 と、広縁のテーブルへ置かれた、空っぽの急須へ目をやりながら、真樹に話を持ち掛けた。

「それじゃあ、お願いします。――このお茶、自家製とお見受けしますが……?」

 かねてから気になっていた質問を投げると、宿の主人は顔をほころばせる。

「ええ、その通りです。どうやらお気に召しましたご様子で……」

「いやあ、お気に召すも何も、こんなにうまいのはなかなかお目にかかれませんよ。なにせ、メーカー品でもひどいやつが平気で出回ってますから……。ひょっとすると、これは裏の菜園でお育てになってらっしゃるんですか」

 大浴場へ行く道中、洗面台の窓ガラス越しに見えた小さな家庭菜園の、トマトやきゅうりの成っている奥に、ちらりとドクダミの花の見えたのを思い出して真樹が尋ねると、主人はええ、ええ、と首をしきりに振って、

「最初は勝手に生えだしたのを、草を刈るついでにお茶にしていたんですがね。もうかれこれ、十年ばかりは飲用に育ててます。ほうっておくとあっという間に群がるし、匂いにクセがあるから、なかなか面倒ですが……」

 と、そこまで聞いていた真樹は、ふと、頭の中にある考えのよぎるのを感じ、主人の言葉を遮り、こんな質問をぶつけてみた。

「ご主人、ちょっと話は変わりますがね。ここにいる間、僕らの服を奥様が洗ってくださっていたでしょう。洗濯はいつも、どこでなさってます?」

「な、何です、藪から棒に……」

 急に話が変わって主人は少し面食らったが、すぐに、

「ええ、いつも布団や枕のカバーを洗ってる、畑の近くの洗濯室です。お客様のお召し物用に、洗濯機や乾燥スペースも作ってありますが……もしや、なにか……?」

 話すうちに、なにか自分たちの対応に不始末があったのではと、尻のすぼんだような口ぶりで話を終えると、真樹の伏し目がちな両目を早合点した主人はちょっと下へ、と言って、お茶のお代わりを取りに部屋を出て行ったのだった。

 ――乾燥させればどうってことはないが、植わっている時のドクダミの葉は、ひどくくせがあるからなあ。

 どうやら宿の好意が裏目に出たらしいと悟ると、真樹は籐椅子から立ち上がり、少年や井村たちを先に浴場へ行かせてから、大急ぎで傘岡の坂東医院へ折り返しの電話をかけた。

 が、通話中なのか中々つながらず、三度目に書斎の方の電話を呼び出して、ようやく坂東医師の声が耳へと飛び込んでくると、真樹は一気呵成に、今しがた頭の中に瞬いた自分の考えを電話越しに伝えたのだった。

 それを聞き終わると、坂東医師は先刻と同じように、送話口越しにオイルライターの火打石を鳴らし、宙にキャメルの煙を巻いてから、こう返すのであった。

『なるほど、そういうことでしたか。――いや、僕は大いにあり得ると思います。なにせ、世の中には人の何万倍も嗅覚が優れた生物がいますからね。こうなってくると、相手がもっと大きな何かをしでかすのは、時間の問題かもしれませんよ』

「うーん、そういわれると、何とも言えませんなあ……」

『なんにせよ、用心するに越したことはありません。あまり、彼や井村くんたちを危険な目に遭わせたくはありませんが、交代で寝ずの番をするような、そういうことも検討したほうがいいかもしれませんよ』

「――寝ずの番はちょっと大げさなような気もしますがねえ」

 坂東医師の提案に、真樹が電話越しへカブリを振ってみせた、そのときだった。来た時から、あまり立て付けの良くないと思っていた入り口のふすまと床板が、ほんのわずかながらガタリと揺らぎ、人の気配を孕んできしんだのに気付き、真樹は受話器の送話口をおさえ、

「誰だっ」

 と、目いっぱいの声で、ふすまの裏に潜んでいるらしい相手へ叫んだ。すると、二、三歩後ろへ下がる音に続き、かろやかに床を急ぐ足音が、真樹たちの部屋から遠ざかっていくではないか――。

『――もしもし、真樹さん、どうかしましたか』

「坂東先生、あとでかけなおしますっ」

 受話器を乱暴に置くと、真樹はふすまを開け放ち、廊下の左右を食い入るような目で睨んだが、すでに姿はない。と、不意に向けた左耳へ、こちらの気配を伺ってから逃げ出す、ほんの小さなつま先立ちの足音のするのに気付くと、真樹はその方角へ剣道の摺り足のような静かな足遣いで一歩出てから、大胆にも床板を鳴らしながら、刻一刻と相手との距離を詰めていったが……。

「ちくしょう、どこ行きやがった」

 朝のように、玄関先へ降りる階段を下り、帳場の方へたどり着いた真樹は、どこにも人の気配がない、開け放たれた静かな往来を目の前に、しきりに肩をはずませ、息を整えようとした。わずかな間の出来事ながら、真樹の着けているポロシャツの裏地は、汗ですっかりぬれてしまっている。

「――おや、お客様、どうかなさいましたか」

 お代わりのドクダミ茶を持ち、帳場の奥から出てきた主人に声を掛けられたので、真樹はちょっと戸惑ってから、

「いや、人と電話で変な話をしていたら、いきなりふすまが揺れたもので、びっくりしてここまで来たんですよ。もしかして、ご主人でしたか」

 と、とぼけた調子で質問を投げたが、主人はカブリを振ってそれは違いますよ、と返す。

「――わたしは電話を継いでから、ずっとお茶の支度をしてましたよ。冷えたのが残っていませんでしたから、氷をかちわったので今まで冷やしていたんですよ」

 お盆に急須をのせた主人の立ち姿から、慌てて階段を降りたような気配が微塵も感じられないことを悟ると、真樹は主人に嫌疑の目線を向けたことを悔いてから、じゃ、誰だったんでしょう、と、腕を組んで視線をそらせた。表を畑から戻ってくる道中らしい、赤土のついたタイヤが目立つ軽トラックが過ぎてゆくほかは、セミの鳴き声ぐらいしか聞こえない。実に気まずい静けさが、二人の間を支配していた。

「はて、そういえば……」

 なにか心当たりがあったのか、主人はお盆を帳場のカウンターにのせてから、玄関先に据え付けられていた、ところどころに錆の浮いた赤い郵便受けを探ってから真樹の方を向き、田舎に似合わず、中に綴じこまれたチラシで子持ちシシャモのように膨れている夕刊の束を見せながら、

「ああ、やっぱり来ていたか。お客さん、もしかすると、新聞店の子かもしれませんよ」

「新聞店の? そらまたどうして」

 真樹が尋ねると、主人は新聞を寄り分けながら、

「ちょっと前まで、夕刊だけは配達の時、ふすまの隙へ挟んでもらっていたんですよ。ただ、それだと何かと手間がかかるから、あとはこっちでやっておくと言ったんですが……。きっと、昔の癖が抜けなかったんでしょうね」

「それにしてはちょっと……」

 真樹は本心ではそう言いたかったのだが、ここで何かもめ事を起こすのは利口ではないと悟ったのか、あいまいな調子に返事をすることにして、

「――ああ、なあるほど。そういうことなら、納得もいきますね」

 と、ありきたりな言葉を口にする真樹に、主人はしきりに頷いてみせ、実に申し訳なさそうな顔をするのであった。

「いや、そのうち会ったら、お客さんが驚いていたよ、と、彼女に伝えておきましょう。さ、冷や汗かいた後にはこの一杯に限ります……」

「――おや、新聞配達の子は、お店のお嬢さんなんですか」

 彼女、という言葉に真樹が反応すると、主人はお店の子ではないんですがね、と付け加え、こんな風なことを話してみせたが、本人が思っているよりも有益な情報に、真樹啓介は頭の中の血管という血管に熱い血の気がたぎるを覚えたのだった。

「八ヶ峰神宮の陰に隠れちゃっていますが、その近くに小さな稲荷神社がありましてね。そこの宮司のお孫さんなんだが、実にまじめな子でして……」


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