八峰山のふもとへ……③
貨客混合列車で終点・八峰町の駅に着いた三人は、改札を抜けた先の、ほんのわずかなところにある旅館「八峰館」の玄関先へ向かうと、予約した竹の間へと荷物を運んでもらってから、普通列車の固い座席で痛くなった背筋を癒すべく、大浴場へと急いだ。
「――あんな骨董品を使ってて、よく客が離れないもんだなあ」
肩までつかり、背中に染み入るお湯に時折顔をしかめながら、真樹は先刻まで乗っていた列車の座席のことを引き合いに出し、二人へぼやく。
「真樹さん、若く見えてあなたもトシらしいなあ。使い物にならなくなる前に、やることやっとかないとまずいんじゃないかい」
固く絞った手拭いを頭にのせ、鼻歌交じりに肩に湯をかけていた少年が真樹をからかう。
「このォ、まだそんな歳じゃねえぞ」
頭だけ水面に出して詰め寄る真樹に、少年はおお怖い、と大仰に言ってみせ、
「へへへ、どうだかねえ。ある朝突然に……って言うじゃないの」
「縁起でもねえ、オレはまだあの子のことはそこまで知らんのだ」
「ヘーエ、案外純情なんだなあ……。井村くん、きみはどう思う?」
烏の行水で、早々と体を洗いにかかっていた井村は髪を洗う手を止め、なんだい、と聞き返す。どうやら、洗髪の音に今までのやり取りはすべて掻き消えていたらしく、少年はなんでもないよ、と、話をウヤムヤにしてしまった。
「理科系の人間ってのも、大抵純情に出来てるしなぁ……。彼に悪いからこれ以上は止しておこう」
「――その善意を、もうちょっとオレのほうに向けてもらいたいもんだがなあ」
吹き出し口から滔々とあふれる、ぬるりとしたお湯を肩へかけると、真樹は鈍く痛む上体や臀部をむずがゆく擦るのだった。
結局、お目付け役である真樹の具合がよくならず、その日はとうとう、八ヶ峰神宮まで向かうことはないまま一日が終わってしまった。が、夕食前に受けた女将の素人按摩が効いたのか、真樹はそれまで腰痛に歪んでいた顔に笑みをにっこりと浮かべ、地酒を手酌でやりながら、紙鍋の中で煮える猪に舌鼓を打つのだった。
「――女将さんには感謝感謝、だな。治りが早いってことは、オレもまだまだ若いらしい」
「さあ、どうだかねえ。ウカウカしてると明後日辺りにぶり返すんじゃないの?」
鯉こくをつついていた少年が、真樹のにやけた顔を冷ややかに見つめながら返す。
「こいつ、口の減らないやつだな……。ま、せいぜい牡丹鍋で精つけて乗り切るさ」
「――そうしてもらわないと、僕らもどうしようもねえからなあ」
真樹の猪口へ地酒を注いでやると、少年は再び鯉こくへと箸をつけた。宿の夕食は近隣の山々などで採れる珍しい山菜や猪、八峰山の湧き水で育ててた錦鯉など、日常生活ではあまり触れることの少ない味覚が中心であったが、食べ盛りである少年や井村は気に留めず、〆の香の物が出るまで、しきりに箸を動かしていたのだった。
――これで、神社まで行く手間がなきゃあ、楽しい旅行なんだがねえ。
食膳が下げられ、二人が将棋を指しているのを広縁の籐椅子に座って眺めながら、真樹は地酒を手酌でやりながら、つまみの松前漬けへ箸をつけた。明朝決行となった八ヶ峰神宮への調査行を前に、本当は早々と布団へもぐっていなければならないのだが、宿の主人にすすめられた地酒を前にしては、さすがの真樹も断る術がなく、田舎の酒蔵特有の、ねばっこい舌触りをした地酒を口の中でまわすと、すかさず、そこへ松前漬けを差し入れて両者を合わせ、その絶妙な二重奏を堪能するのだった。
「――真樹さん、あんまり深酒すると眠れなくなるぜ。大丈夫なのかい」
「おいおい、あんまり大人を見くびってもらっちゃ困るな。自分の適量ぐらいわかるよ」
のべてもらった布団が近いのを幸いと、真樹はまとめて五合運んできてもらった徳利を次々と空にしてゆく。そのうちに、勝負が済んだらしい二人が布団へ潜り、あとには広縁の中の小さな蛍光灯だけが、部屋の中を照らしているばかりとなった。
「……ちょっと飲みすぎたらしいなあ」
五合目の徳利を空にすると、真樹はサッシを滑らせ、網戸越しに入り込んでくる夜風で、熱くなった頬を覚まし、深呼吸をした。昼間の暑さが嘘のような、実に心地よいその冷たさに、いつしか真樹は、籐椅子に背を預けたまま、子供のような静かな寝息をたてて眠り込んでしまったのだった。
鼻をくすぐる、奇妙な臭いに真樹啓介が目を覚ましたのは、それから三時間ばかり経った頃だった。どこかの軒先に吊るされた南部風鈴のとげとげしい音と、草むらの雑草の青い香りにまじってただよう、覚えのある臭い――。
――あれかっ!
酒のまわった頭でぼんやりと鼻を引くつかせていた真樹は、やがてそれがあの晩、真珠堂の前で自分をむせ返らせた異臭と同じものだと気づくと、風にゆれるカーテンの隙間から、そっと窓の外をのぞきこんだ。が、そこには昼間見た駅前の商店街が、埃で汚れた街灯の明かりにうすぼんやりと照らされているばかりで、いつの間にかあの奇妙な臭いもどこかへかき消えてしまっていた。
――絶対に、人の前には現れないつもりらしい。
姿も知らぬ、あの奇怪な異臭の出どころを想像しながら、真樹はサッシをしめ、寝息を立てる二人を起こさないよう、そっと布団の中へ潜り込んだ。
閉じた窓越しに、風鈴の音が風にふかれ、甲高く鳴り響いていた。