霧影の古社①
「あ、ほんとうだ。確かにお稲荷さんがある……」
「だろ? 話を聞いたときは、いくらなんでも出来すぎだとは思ったが、どう考えても、ここにしか行きつくところが見当たらねえんだ。井村くん、君はどう思う」
「さあ、これは現地に行かないとどうにも……。でも、十分にありえる話だと思います」
その晩、宿の主人とその女将も寝静まったのを確かめてから、真樹は紙張りの常夜灯をたよりに、少年と井村の前に店から持参した地図を開き、午後に主人から聞いた少女のことと、町の外れにある稲荷神社のことを説明してみせた。真樹の説明に、二人はどことなく信じられないような、しかし、まんざらでもない可能性の転がっているのを見て、どうしたらよいか困惑しきりであった。
「井村くん、僕の経験上、真樹さんのカンが鈍ってるとは思えない。このお社へ行く価値は、十分あると思うんだけど……」
浴衣の袖から腕を出して、少年は判断を下すのに迷っている井村へうっすらとハッパをかける。
「ぼくも、真樹さんの言っていることは間違いじゃないと思うな。今ある、いちばん確かなデータを精査すると、これがいちばんまっとうな気がするんだ」
「ヘヘ、さすが理系……」
少年に肩をしきりに叩かれ、井村は少し困ったような顔をしてみせたが、悪い気はしていないらしく、終始自信に満ちた表情を暗がりに浮かべているのだった。
「――だが、問題はここまでどうやって行くかだな。徒歩じゃあちょっとキツいから、自転車でも借りるのがよさそうだが……」
「はて、そういやあ神宮のあたりに、貸自転車の看板がなかったかな。どうだったっけ?」
布団に潜る少し前、外の自販機で買ったコーラをなめながら、少年が井村へ話を振る。そんなものがあったか、と真樹は首をかしげたが、
「ああ、たしか、レンタサイクルのお店があったね。この辺りじゃ、ほとんど坂だから需要はなさそうだけど……」
と、あとから井村が捕捉をしたので、どうやら本当らしい、と、自分の記憶の鈍さを少しだけ恥じ、不機嫌そうに鼻息を漏らした。
「じゃあひとまず、明日の朝にでもその店に行ってみよう。アシスト付きのものがあればなおありがたい。その足で昼頃から、例のお稲荷さんを尋ねてみようじゃないか……」
昼間の張りつめていた緊張がほぐれてきたのか、あくびをかみ殺すと、真樹はそのまま掛け布団を手に取り、
「ほれ、未成年はとっとと寝ろ」
「――ケッ、バカにしてら」
渋る二人に布団へ入るようすすめてから、掛け布団から伸ばした右腕で、常夜灯のスイッチを落とすのだった。
が、そんなことをしておきながら、真樹はなかなか寝付けず、少年が井村の布団の方へハミ出て、豪快なイビキをかきだしたのを見てから、部屋の外の手洗いへと向かった。調子に乗って口にした宿のドクダミ茶が、今頃になって効きだしたのである。
――ひでぇ明かりだなあ。せめて蛍光灯ぐらいはほしいとこだが……。
十ワットもないような豆電球の灯る廊下を、真樹は浴衣のはだけたのを手で直しながら、夜風の冷気が染みた床板の上を、スリッパも履かずに歩いていた。
――そういや、あの晩もこんなような天気だったっけなあ。
あちこちほつれた網戸からのぞく、八峰山のてっぺんに浮かぶ月をにらみながら、真樹は風邪が治りかけた矢先に起きた、ここまでの発端となった一件を思い出して、感慨深い思いに浸っていた。
「――夏風邪ひかなかったら、こうして八峰くんだりまで来ることもなかったんだろうなぁ」
誰にともなくつぶやいた、そのつもりだった真樹であったが、
「……あら、おかしなこともあったものですね」
と、背後からいきなり、澄んだソプラノの声で話しかけられたのにはさすがに驚き、首筋から腰へかけて、夕立のようにどろりとした汗が流れていった。
「おい、いったい誰だ。宿の人間じゃないだろう」
振り向いて正体を確かめようと、真樹は体へ力を込めたが、どうしたわけか、手足どころか頭自体も回らない。八峰山の月をにらんだまま、真樹啓介は背後からの怪しげな女の声を聴くより仕方がない状態に陥ったのである。
「――悪いけれど、しばらくそのままでいてもらいますよ。真樹さん、でしたっけ。さっき、扉越しに聞かせていただきました」
「いったい、何が目的だ。朝の一件にしたって、警告にしちゃあちっとばかり派手すぎやしないか」
自由が利かないながらも、いつものような調子で尋ねる真樹へ、女はちょっと躊躇するよう声色で、
「あれは仕方ありません。ああやって物を溶かしてしまうのは、ちょっとした不可抗力のようなものなんです。好きでやってるわけじゃないんです」
と、消え入るように答える。
「好きでやってるわけじゃない……? おい、もしかして君は……」
その一言が気にかかった真樹は、首が折れても構わないと体へ力を入れたが、途端に、手元の狂ったコマのようにその場によろけ、どうにか後ろ手でアルミサッシへと掴みかかった。そして、手足の動くようになった真樹は、相変わらずうすぼんやりとした廊下の隅をにらんで、ふつふつと頭の中に沸き上がる、やり場のない感情をたぎらせていた。
――どうやら本当に、人ならざるものと対峙しているらしいなあ。
体の自由の利かないところから、真樹は薄々そんなような気がしていたのだが、こうして振り返ってみて、背後から音もなく消えた女の存在が尚更、そのことを後押ししているのだった。
――ことによると、明日はオレだけで現地に行った方がいいかもしれないな。うっかり、あの二人を巻き込んだりしたら……。
遠くで気の早い鈴虫が鳴り響くのを耳の裏に聞きながら、真樹啓介は冷たい床板の上で、くるぶしをのぞかせたまま、腕を組んでじっと暗がりをにらむのだった。
そんなことがあったせいで、結局、真樹はその夜一睡もできなかった。朝食のお膳に向う、箸をにぎるのも精一杯の真樹の姿にあきれた少年と井村は、半ば無理やりに真樹を布団へ押し込むと、宿の主人に着いてきてもらうことにして、店の開くのを待って、三人分の自転車を調達するべく八ヶ峰神宮のほうへと出かけたのだった。
「――まさかこのまま、勝手に神社のほうまで行きやしねえだろうなあ」
二時間ばかり仮眠をとり、いくらか頭の中のもやも晴れた真樹は、ナイロンの蝿帳をかけたお膳にむかい、わざわざ魔法瓶へ移してあったみそ汁と、お櫃の中のご飯でおかずを平らげ、苦い緑茶を飲み干してから、広縁の籐椅子へと腰を下ろした。蝉の声がにぎやかだ、と思っていた割に、案外白っぽい空模様をしている窓の外をにらんでから、真樹は小さなテーブルに置かれた朝刊を手に取り、しばらく紙面に神経を注いでいた。
「――真樹さん、ただいまァ」
「案外遅かったな。どっかで道草でも食ってたのかい」
首にかけた宿のタオルで汗を拭きながら、少年と井村が戻ってきたのを見ると、真樹は新聞を畳んで、二人の方へ向き直った。
「違うよ、店の開くのが遅かったから、しばらく門前町の茶店でヒマつぶしてたんだ。いちおう、人数分の自転車は手に入れてきたぜ。学生だからって、かなり安くしてもらったけど……」
布団がのけられて広々した部屋の端から座布団を持ってくると、少年はその上にあぐらをかいて、立て替えた借り賃の伝票を真樹の手のひらへと乗せた。
「……へえ、三千円か」
一台一日千円、しめて三千円と言う、安いのか高いのかよくわからない値段に、真樹はどう反応してよいか困ってから、テレビのそばに鎮座している貴重品用の金庫を開け、自分の財布からしわの寄った千円札を三枚、少年へと手渡すのだった。
「どもども。――で、真樹さん、こっからどうするの」
「正直、そこが迷いどころなんだ。いっそ、夕方辺りから動こうかとも思ったが、案外外は日差しも弱いし、今から行っても悪くないんじゃないか?」
「言われてみりゃあ、そんな天気ッスねえ」
真樹の向かいへ移り、網戸越しに駅前を見下ろしてから、少年は彼方に広がる、薄曇りの夏空をまぶしげな目で見つめてから、そうしましょうかね、と返し、井村へも意見を求めた。
「僕はちょっと反対かな。いろいろ食べたから、眠たくって……」
「おや、真樹さんの次は井村くんか。――でも、ウツラウツラとしたまま動くのは何かと危ないし、真樹さん、ひとつ予定通り、夕刻からということで……」
しきりに目元をこする井村の姿を見ては、最前まで眠りこけていた真樹もさすがに反論はできなかった。帳場へ降り、女将から蕎麦殻の枕薄手の毛布を借りてくると、三人は夕方に備えての、川の字の仮眠の支度を始めるのだった。




