秘めた想い
アオイが結婚してるなんて、嘘だったらいいのに……。
地面に両膝をつき二つの手のひらで砂に埋め尽くされた地面を掻き分けるアオイの姿を、マサは苦い思いで見つめていた。帰宅ラッシュの夕暮れとはいえ、気温はまだ高く海風の涼しさを楽しむ海水浴客がボチボチ残っている。そういった人々は、泳ぐでもなく砂浜を右往左往するアオイの姿を遠巻きに見ては不思議そうな顔をしたり、若い男達だとナンパの相談をしていた。
旦那とは結婚してるんだから指輪の一つや二つくらい失くしたっていいでしょ。それで別れるわけじゃないんだし。
嫉妬と悲しみから、はじめは手伝う気が起きずアオイを見つめることしかできなかったマサも、じょじょに明るさを失っていく空と彼女の表情、そして、軽薄な男達がアオイに向ける視線を前に、何もしないでいることが次第にもどかしくなってきた。
「手伝うよ」
「大丈夫! 一人でやるから、マサは帰ってて」
「意外と頑固だねアオイは。こんな広い場所であんな小さい指輪、一人で見つけるってそうとう大変だよ」
「でも、もう出ないと帰り道混むんじゃない? 渋滞にはまったら運転大変だよ?」
頑ななアオイの隣に腰を下ろし、マサは呆れを示すべく盛大なため息を吐いた。
「夜の海岸で女の人が指輪探す方がよっぽど大変でしょ」
「でも、失くしたのは私だから……。マサにまでこんなことさせられないよ」
アオイの言葉を無視し、マサは砂浜に手のひらを滑り込ませ見つかるかどうかも分からない指輪を探し始めた。
「マサ……!?」
「俺のせいにすればいいのに」
「え……?」
「せっかくしてきた大事な指輪、外してくれたの俺のためでしょ。だったら失くしたのも俺のせい。ここへ来なきゃ失くさずにすんだ」
「ううん! マサのせいなんかじゃない。指輪外したのは私が勝手にしたことだから。そんな風に思ってないから!」
「だとしても、二人で探した方が効率いいよ」
「そうかも……。ごめんね、マサ……。ありがとう」
アオイはようやく観念した。マサは安堵しつつ、人気が引いたことでより広く感じる砂浜を眺め気の遠くなるような思いがした。アオイを一人にしておけず勢い任せで指輪探しに加わったが、果たして見つかるのだろうか。むしろ見つらない方が当然と思える。
その後二人は今日回った場所全てに足を運び目を皿のようにして探したが、虚しくもマサの予想通り指輪は見つからなかった。昼間食事をした店の店員や駐車場の警備員にも尋ねてみたが、それらしい落とし物はないと言われた。
これ以上探すアテが無くなってしまった時、すっかり日は落ちていた。昼間はサンダルを履いていないと熱くて踏めなかった砂が、素足で踏むと生暖かく感じるほど体感温度と気温は下がっている。とはいえ、はやり動き回ると汗ばんだし、時間的に空腹も覚える。一日遊んだ後の捜索作業はさすがに疲れた。マサだけでなくアオイの顔にも疲労が浮かんでいる。しかし彼女は決して探すのをやめるとは言わなかった。
「ねえアオイ。いったん休も」
「そうだね」
さすがにもう、アオイも意地を張らなかった。
「ごめんねマサ、こんな時間まで。ありがとう」
スマートフォンが示す時間は二十三時をとうに過ぎていた。疲れるはずだ。もうすぐ日をまたいでしまう。時間を知った途端、アオイは帰宅時間のことを気にし始めた。旦那とは生活リズムがすれ違いめったに顔を合わさない暮らしとはいえ、今夜こそもしかしたら旦那が早く帰宅しているかもしれないと期待したのだろう。しきりにスマートフォンを気にする彼女を見て、早く家に帰りたいのだろうとマサは思った。
「帰り、どこかでご飯食べてこ。お礼させて?」
それでもアオイは、あからさまに帰宅を急かさず余裕を見せた。指輪を失くしたことで、気が動転しているのだろうか。早く帰りたい素振りを微塵も見せない。
「いや、お礼とかは別にどっちでもいいんだけど。指輪の件は俺も責任感じたし……」
それは建前だった。責任うんぬんなどといった立派な考えは毛頭なく、ただ単にアオイといられるプライベートな時間を引き伸ばせたことを素直に喜んでいた。それだけだ。
「アオイのことだから、朝まで探すって言い出すかと思ってた」
「それはさすがに。それに、駐車場の時間もあるでしょ? 日をまたいだら延長料金かかるから申し訳ない」
「ああ、そういえばそうだったね」
「でも、ちょっとごめん。ご飯の前に、一応家に連絡しとくね」
砂浜から駐車場に戻るまでの間、アオイは旦那にラインを送ったようだった。はじめは電話帳を表示させたのに、次の瞬間にはラインを開いていた。どうせ旦那に電話しても出ないと思って仕方なくラインを選んだのだろうか。それともマサの目を気にして音声通話を遠慮したのだろうか。カップルや夫婦の日常会話など、喧嘩と同じで犬も食わない。
こんな可愛い奥さんがいながら家でまともに顔合わせないなんて、どんな男だよ。
やっかみ混じりにマサはそんなことを思った。アオイの気持ちが旦那に向かっているのが手に取るように分かる。疲れていても、多少の面倒事が起きても、ただこの人のそばにいたい。そう思っているのは自分だけで、彼女には帰るべき家があり、愛する旦那がいる。車を発車させて朝来た道を戻っていったら、その末に待ち受けるのはさよならの時間だ。次はいつこんな時間をアオイと過ごせるのだろう。もしかしたら二度とこんな日は来ないかもしれない。それは、今の自分には想像のつかないほど寂しく苦しい時間になりそうな予感がする。怖かった。
離れたくない。今アオイがそばにいるうちに、彼女の顔を、表情の移り変わりを、余すことなく記憶にしまっておきたい。マサは強くそう思った。
「ごめん。ご飯はナシでまっすぐ帰ろ。食べたら眠くなって運転できなくなりそうだから」
嘘だった。疲れはあるがまだ余裕で起きていられる。
「でも、指輪探し手伝ってもらったし、何かお返ししたいよ。そうだ! だったら運転代わろうか? 私まだ全然眠くないから任せてっ」
「ありがと。でも、保険の関係で自分以外の人に運転させたらダメって言われてて」
これは本当だ。初心者で未成年なのもあり自動車の任意保険料はやたら高い。親の懐事情も相まって、保険料を抑えるべくマサの車で他者の運転は認められないことになっている。マサは今それを都合よく言い訳にしていた。アオイの方が運転歴は長いのだろうからマサより圧倒的に事故率も低いだろうし、そうでなくてもマサは親の言いつけを素直に守ろうなどとは思っていなかった。それなのにアオイに運転を頼まなかったのは、一秒でも長く彼女のそばにいたいから。
「そっか……。じゃあ勝手に運転させてもらうわけにはいかないよね。どうしよっか……」
アオイの思案顔を見て、マサはさも今思いついたかのようにこう提案した。
「ご飯の後、どこかで停車するから少し仮眠させて。そしたら最後まで運転できるから」
「うん。分かったよ」
アオイは快く頷いた。マサは内心、歓喜の声を上げた。これでアオイと共有する時間が増える! ただただ嬉しかった。
駐車場に戻った二人は車に乗り込むなり夕食の話をした。
「マサは何が好きなの?」
「何でも好きだけど、今はハンバーグの気分」
「ハンバーグかぁ、なんか可愛いね」
「また子供扱いー。アオイは? 何が好き?」
「甘い物が食べたいな。パフェとか、クレープとか」
「そっちの方が子供っぽい」
「スイーツはオトナのたしなみなんだよー」
「だったらハンバーグだって男の料理でしょ」
お互い変なところで意地を張り、笑い合う。
今、すごく楽しい。
二人の気持ちはまたもやシンクロした。互いにそのことには気がつかないまま……。
「ファミレスに決まりだね。夜もやってるしちょうどいい」
行きと違い、真っ暗な夜の車道にはマサの車しかいなかった。小さく音楽をかけていても、車内には車の走行音が大きく聞こえる。
「マサは運転うまいね。ホントに初心者?」
「ありがと。これでも免許取り立てだよ。狭い道で対向車来るとこわいし」
「それ分かるー。初心者の頃、私も何度停止して対向車に道を譲ったことか。すれ違うことすらできなくてさ」
「そうなるよね。アオイも免許取ったの高校卒業後?」
「そうだよ。あの頃は……」
ふいにアオイの言葉が途切れた。沈黙の中に、旦那に関する思いが漂っているのをマサは肌で感じた。旦那の話には興味がある。アオイがどんな男を好きになって結婚までする気になったのか聞いてみたい。だが、同じくらい聞きたくないとも思う。アオイの口からノロケ話などされたら打ちのめされそうだ。
マサの察した通り、アオイの脳裏には仁のことが巡っていた。
高校を卒業してすぐの春休み中、毎日のように自動車学校に通いすぐに免許を取った。その頃は仁のこ とを知らなかった。
「あの頃は……。本当の恋なんてまだ知らなくて、今とは全然違う自分だったなぁ」
「今の旦那がアオイの初恋の人なんだっけ」
「うん。出会った時からなぜか妙に気になって、だけどそれは玲奈の…親友の彼氏だからなんだって思ってたけど、あの人に優しくされて、その優しさが自分にだけ向けられたらいいのにって思い始めて。玲奈の彼氏なんだからダメだって分かってたのに……」
「奪いたいほど好きになってた……?」
マサの問いかけに、アオイはうなずいた。
当時玲奈と付き合っていた仁への思いを募らせた末、何度も諦めることを考えると同時に、頭の中で告白のシミュレーションをした。振られるのが分かりきっていた恋だった。でも、自分の持つ物全てを掛けて仁にぶつかってみたら、事は思い通りに運んで彼と結婚までできた。自分の両親も仁を気に入ってくれている。
玲奈は口に出さないけど、仁を奪った私を心の底では警戒したり憎んだはず。そうでなかったとしても、今後は私に好きな人を紹介したりなんて絶対しないと思う。
そこまでして得た好きな人との暮らしがあるのに、マサにときめいてしまった。だから指輪は失くなった。生涯のパートナーがいながら勤務先のバイト相手に浮ついた気持ちになった罰だとアオイは思った。指輪を探すといって頑なにマサを帰らせようとしたのも、これ以上彼のそばにいるとますます浮ついて自意識過剰になるだけだと思ったからだ。でも、心のどこかで、マサは最後まで自分に付き合ってくれそうだとも思っていた。ずるい自分に嫌気がさした。
それでも、車内にかかる音楽と夜闇の心地よさが快適さを増し、深い自己嫌悪に陥らずにすんだ。開き直ったわけではないが、そう取られても仕方のないことを口にしてしまうくらい解放的な気持ちになっていた。
「恋すると女の人は綺麗になるっていうけど、私は逆だな。それまで知らなかった汚い面ばかり浮き彫りになってくの」
「そうかもね。今はそういうのなんとなく分かる」
マサの声にいつになく明確さを感じ、アオイはドキッとした。いつも曖昧で澄ました物言いをする彼の、らしくない口調。
「マサもそうなの? 意外だなぁ」
「元遊び人だから恋なんてするのコイツって感じ?」
こちらの反応を試すように、探るような目でマサは尋ねてくる。ちょうど信号待ちに差し掛かった。昼間、日焼け止めを塗ってもらった時の、肌に触れたマサの体温を思い出た。顔が熱くなる。夜が顔色を隠してくれるので助かった。
「違うよ! そうじゃなくて、マサの好きな人の話って聞いたことなかったから。もしかして、今いるの? 気になってる子とか」
どうしてこんな質問をしてしまったのだろう。気が動転していたとしかいいようがない。ここまで突っ込んだことを訊いて、すぐに後悔した。これではマサのことを個人的に気にしていると思われかねない。彼にしたら迷惑な話だ。アオイは言い訳を付け足した。
「秘密の友達としての質問だよっ。他意はないから!」
「分かってるって」
またその顔……。
今日何度目になるか分からないマサの悲しげな顔に、アオイは不覚にも胸が高揚してしまう。これでは自分がとてつもなく意地の悪い人間みたいだ。マサには笑っていてほしいのに、今はなぜか悲しげな顔の彼に喜びを覚えてしまう。最も彼が悲しげだったのは、昼食の時イクトに過去を暴かれた時だった。なぜ、あんなにもつらそうだったのだろう。イクトに責められたせいだけではないように感じた。
もしかして、本当にマサは……。ううん。まさかね。
「無理に答えなくていいよ? 言いたくないこともあるよね」
「ううん、言うよ」
信号は赤から青に変わった。それでもマサは車を走らせようとせず、停止したままで助手席のアオイを見つめた。後続車はなく、新しく他の車が走ってくる気配もない。そんな状況をいいことに目をそらす隙を与えないマサの視線に、アオイは釘付けになった。
「叶わないって分かってても好きな人、俺にもいるから」
「え……?」
「だから、旦那を好きになった時のアオイの気持ち、よく分かるよ」
「マサ……」
車がゆっくり発進する。車が動くと同時にマサの視線は前方に向けられたのに、アオイの胸はまだ今もマサに見つめられているかのように高鳴っていた。
「好きな人って、同じ大学の子?」
これでもしマサから告白されたらどうしたらいいのだろう。アオイは複雑な思いに駆られた。そうなったら絶対困るのに、心の大部分でそうなったら嬉しいと思ってしまう。仁がいながら別の人の気持ちも欲しがっている。この気持ちは一体何なのだろう。単なる友人の域を超えてしまっている。不純な気持ちには違いないが、不倫と言えるほどの関係でもない。明確な感情名が浮かばない。
「ううん。大学の子じゃなくて、例のイクトの元カノ。気まずいし、関係が関係だし、付き合うなんて無理だけど。それでも好きでいるのは自由かなって」
マサは咄嗟にリオの存在を口にした。もちろん、リオに気持ちがあるなんて大嘘だ。しかし、アオイ本人の前で好意を口にするわけにいかない。アオイの質問はとても際どかった。話の流れとしてアオイの質問は至って普通のものだったが、同時に、こちらのデリケートな部分に踏み込んでくる気満々のようにも感じた。アオイとは何を話していても楽しい。しかし、恋愛事に関してだけはあまり触れてほしくなかった。
「そうだよ。好きになるのは自由。我慢してるだけマサはすごいよ。私なんかより全然。でも、その子は多分マサのこと好きだったんじゃないかな。イクト君に関する相談を持ちかけてきたのもマサと仲良くなるきっかけにしただけで……。告白したらきっとうまくいくよ。連絡してみたら?」
やけに明るい口調で告白を勧めてくるアオイに、マサは少なからずショックを受けた。嘘をついた自分が悪いのだが、それでもやはり、好きな人に他の女との仲を応援されるのは嫌だった。
「連絡先知らないし」
悲しさで、そっけない答え方になる。正直リオなんて今はどうだっていい。それなのに、アオイはなぜかやたらマサの恋を応援したがった。
「私の方からそれとなくイクト君に訊いてみようか? ちょうど昼に連絡先教えてもらったから」
「いいよ別にそんなことしなくて!」
今度こそ、マサの声にはっきりとした怒りが混ざった。好きでもない相手との進展を促されることのもどかしさに加え、アオイがすでにイクトと連絡を取り合える関係になっていたということに強烈な嫉妬を覚えたのだ。車内には急激に緊張感が張りつめる。
「別れた女の連絡先教えろなんて、イクトからしたら無神経じゃない?」
正論を口にしながら、マサは全く別のことに苛立っていた。いつの間にかアオイと連絡先を交換していたイクトの狡猾さ。それだけならまだここまでイライラせずにすんだ。それより大きかったのは、他の女との仲を積極的に応援してくるアオイの言動だった。そんな展開は想像すらしておらず、普段のポーカーフェイスを保てないほど落ち着きを失っていた。
俺はただ、この人のそばにいられたらそれでいい。多くは望まない。そのつもりだったのに。
遠ざければ遠ざけられるほど、強くアオイを求めてしまいたくなる。
「そうだよね、ごめんね……。私、考えなしで」
「本当にもうやめて。そういうの、ホントきつい」
「分かったよ……」
しばらく気まずい沈黙が流れた。
マサの気持ちはじょじょに冷静さを取り戻していったが、一方でアオイは深く落ち込んでいた。
カフェでの勤務中、迷惑な客の尻拭いをさせられても文句一つ言わず淡々と業務をこなしていたマサを、こんなにも激しく怒らせてしまった。よかれと思ったことが全くの逆効果だったのだ。
私が悪い。だって、たしかに身勝手な応援だったから。
マサの恋の相手を知った時、アオイが覚えたのは素直な祝福心ではなく嫉妬だった。そんな自分にわけがわからなくなり、気が動転した。仁のことを愛しているはずなのになぜ。やはりマサに特別な感情が芽生え始めてきたのだろうか。だとしたら、早めにその芽は摘み取ってなかったことにしなければならない。ゆえに過剰なまでの応援をしてしまったのだった。
「マサにはマサのペースがあるよね。意見押しつける感じになって本当にごめんね。許してくれる?」
運転中のマサの横顔を、アオイは運転の邪魔にならない角度で覗き込んだ。マサの顔にはまだかすかな不満が貼り付いていたが、彼はもう怒りを言葉にすることはなかった。
「ごめん。俺も言い過ぎた。こういう話女の人としたことないからテンパったのかも。アオイに悪気がないのは分かってるから。ありがと。心配してくれて」
「マサ……」
マサの優しい理解が、アオイにはきつかった。
私、そんな出来た人間じゃないよ。
たった一日。されど一日。海イベントを共にして、マサのいい所も悪い所もたくさん知った。けれど、悪い所よりもいい所の方がアオイには大きく見えて、心惹かれているのはたしか。どうせ誰もいない家に帰るより、こうしてマサと過ごしていた方が何倍も楽しい。帰り道でお礼の夕食に誘ったのも半分は口実。
今日バイバイしたら、もうマサとはこんな風に遊べなくなるかもしれない。そう思ったら、少しでも一緒にいる時間を長引かせたいと思った。
それから一時間ほど車を走らせ、ようやくファミレスを見つけた。遅めの夕食をすませ、再びドライブの時間に戻る頃には、さきほどのピリピリした空気は消え去り元の穏やかな二人に戻っていた。
アオイとの時間を長引かせるために提案した仮眠だったが、時間も遅かったせいか、食後になるととてつもない睡魔がマサを襲った。帰り道はまだ二時間以上もある。とても運転できる気がしなかった。
「まずいなー。本格的に寝たくなってきた」
「でも、民宿やリゾートホテルはどこも予約でいっぱいだって……」
ファミレスを出ると同時にスマホ検索していたアオイは、困ったようにマサを見つめた。
「だよねー。悪いけど、車の中で少し寝てってもいい?」
「う、うん、もちろんだよ」
ファミレスの駐車場で、マサは仮眠のため座席を倒そうとした。そこでアオイはストップをかけた。
「マサ待って。あそこ!」
アオイの指差した先には、ショッキングピンクを基調とした紫ネオンの放たれる独特の建物があった。夜だからこそ主張の強いその建築物が何なのか、マサにもすぐに分かった。
「ラブホ!? 俺は助かるけどアオイはさすがにまずいでしょ」
一応気を遣って既婚者への配慮をしてみたものの、それは自分にとっても本気でまずいとマサは思った。アオイは全くこちらを異性と意識していないのだろうがこちらは違う。相変わらず車内に満ちる彼女の甘い匂いにクラクラするし、半裸のユミには欲情しなかったのに服をしっかり着て行儀よく隣に座るアオイからはとてつもないエロスを感じてしまう。服の下の、水着の時にも見られなかった部分はどうなっているのだろうと何度想像したことか。
民宿やリゾートホテルならまだ自制心が働く。体を休めるための健全な宿泊施設だからだ。ラブホテルは違う。〝それ〟目的に作られた密室だ。そんな場所へアオイと行って、冷静さを保てる自信がない。アオイの突拍子もない提案に、重たく体にのしかかっていた眠気はすっかり消え去った。そんな男の事情を察せないのか、鈍感なアオイはあっけらかんと言った。
「大丈夫だよ。私なら。それに、マサのこと信用してるから」
信用とか簡単に言うなぁぁぁ! もちろん嬉しいよ? 嬉しいけど、何もできない男って言われてるみたいで、素直に喜べないセリフでもあるんだよ、それ。
こういう状況下でしか発生しない特殊な緊張感を通り越し、大きなため息をつきたい気持ちを何とか抑える。アオイは思いつめたようにつぶやいた。
「こうなったの私のせいだから。あの時指輪を諦めていたらここまで帰りが遅くなることもなかったでしょ? だから、罪滅ぼしさせてほしいの」
「そんなの、ホント気にしなくていいのに」
「マサは優しいね。何でそんなに優しいの?」
「そう言うアオイはホント変なとこ真面目で頑固だね。さすが店長やってるだけある」
「もう! また茶化すー」
「分かった。じゃあ、ありがたく泊まらせてもらう」
アオイと話していたら、とりあえずいやらしい気持ちや妄想はどこかへいってしまった。楽しければそれで全てオーケーなのかもしれない。
まさかラブホ行くことになるなんて思わなかったけど、こういう機会って逆に貴重かも。
部屋に着いたらシャワーだけ浴びてさっさと寝てしまえば、変な気持ちになることもないだろう。マサはわりと落ち着いた気持ちでアオイの示した派手派手しい建物を目指し運転を再開した。
高校生の頃、私服だとわりとバレずにこういう場所へ来られた。自室の方が金がかからないのでマサはあまり気が進まなかったが、付き合っている女にラブホテルへ行きたいとせがまれると断れなかった。ケチな男だと思われたくない。要は見栄だった。なので、こんな場所にさして感動することはないと思っていたのに、アオイと訪れるその場所は意外にもワクワクし、初めてラブホテルが楽しいと思った。
「こういうところ、実は初めてなんだ〜。すごーい。こうやって選ぶんだー。なんかどの部屋も可愛くて迷うね」
ホテルの入口からすぐのひらけた空間に各部屋の写真が並べられたパネルと選択ボタンがついていて、そこを押せば部屋を取れる仕組みになっている。アオイは初めての場所に好奇心を大にしていた。ラブホテルに来る時にこんなテンションの女はいなかったとマサは思い、笑いが込み上げてきた。
ホント色気ないなー、この人。そんなとこも可愛いけど。
あれもこれもいいと言い部屋を決められないアオイに代わりサクッと部屋を選んだマサは、アオイの肩をさりげなく押してエレベーターに誘導した。そうしている一瞬、本当に恋人同士のような気がした。錯覚を長引かせないため、アオイがエレベーターに乗り込んだのを確認してすぐ、マサは彼女の肩から素早く手を離した。
「ありがと。マサはなんか慣れてるね〜」
「普通だよこのくらい。初めてな方が珍しいって。旦那と来たことないの?」
「全然。仁、こういう場所好きじゃなさそうなんだよ」
アオイの声がわずかに強ばる。
アオイ達夫婦は自宅でしか抱き合わないのだろうか。反射的に想像しかけたところで、マサは思考を引きちぎった。アオイが他の男としている場面なんてカケラも想像したくない。吐きそうになる。
「気持ちがあれば場所なんてどこでもいいんだけどね」
「とか言いつつ、ホントは来たかったんじゃない?」
「だね。今度、仁のこと誘ってみよっかな。でも、男の人ってそういうの引くかな? それは悲しいし、どうしよっかなー」
アオイはそれきり黙りこくり、マサの方を見ようとはしなかった。
無邪気な様子でエレベーターに乗ったかと思えば、旦那の話題が出た途端表情を固くして言葉数が減った。アオイの変化を、マサは見逃さなかった。もしかして旦那とうまくいっていないのだろうか。
いや、それはないか。あんなに必死になって指輪探してるくらいだし。うまくいってなかったら帰りの連絡もわざわざしないだろ。
「着いたね、行こ」
目的の階層に着くと、アオイは軽い足取りでエレベーターを飛び出した。かと思えば選んだ部屋とは反対方向に行ってしまいマサに引き戻される。
「子供か!」
「ごめーん。広くて迷った」
「むしろ普通のホテルより狭いよ」
「そうなの?」
「そうなの。はい、ここね」
アオイを誘導しながら何とか部屋に着く。マサは子守を終えた父親のような気分で部屋に施錠し、車のキーをテーブルに置いた。
「アオイ先にシャワーいいよ。俺少し横になっとくから」
「ありがと。じゃあ、先に入ってくるね。着替えってこれ?」
「そうそう。そこのバスローブ好きに使っていいよ」
「分かった。行ってきまーす」
アオイの気配がバスルームの奥に消えたのを確認し、マサは背中からベッドにダイブして大の字になった。こんなことになって果たして大丈夫だろうか、平静を保てるだろうか、などと気を揉んだものの、意外と落ち着けている。これも、不本意とはいえ女性経験の賜物なのだろうか。慣れない運転で疲れているせいにしたいところだ。
ううん。相手がアオイだからかな。
本気で好きになった人に性欲を覚えないなんてのは嘘だ。一方で、それだけの対象にできないというのも本当だと今になって実感する。
こんな気持ち、知らなかったな。体の関係がなくてもそばにいるだけで楽しいなんて。一年前の俺に言ったらどんな反応するんだろ。
欲望のまま突っ走るタイプではなさそうな自分に安心しつつ、マサは次第に眠りの中に落ちていった。アオイがシャワーを終えたら次が自分が浴室に行こう。そう思いながら。今は少しだけ眠ろう。
「……サ。マサー? 寝ちゃった?」
アオイの匂いだろうか。甘い湿気を含んだ香りが鼻をかすめた。しかしマサの意識はおぼろげで、彼女に名前を呼ばれたことすら分かっていない。アオイの気配だけは感じられるが、脳の大部分に睡魔が居座っている状態である。
「マサ。シャワーいいよー」
ベッドの上で全身を弛緩させ無防備に眠るマサに、アオイは何度も声をかけた。
「マサー。このまま寝たら風邪引くよ〜」
「おーい」
「くすぐるよー?」
あらかじめ忠告してからくすぐってみても、マサは無造作に体をよじらせるだけで起きそうになかった。むにゃむにゃ何かを言っている。
「い……」
「マサ、起きてるの?」
「好きになっていい?」
「何の話かなー?」
「アオイ……。なんでそんなに可愛いの? ずるい……」
完全に寝言だった。子供のように幼い声音で、だけどはっきりとそう言った。
「マサ、寝ぼけてる?」
尋ねてみても反応はなかった。どこかで、寝言に答えたら寝ている人にとって危険だから無視するのが正しいと聞いたが、そんな知識は今何の役にも立たなかった。アオイのことを可愛いと言った。マサの寝言は本心なのだろうか。
「マサ。私のことそんな風に思ってくれてたの? いつから? どんなところで?」
やはり答えはない。寝言の真実味を増すようにマサの寝顔は穏やかだった。
私の勘違いだって思うようにしてきたけど……。やっぱりマサは私ことを……。好きな人の話も、私に気付かせないためにあえて作り話をしたんだ。さっきあんなに怒ったのも、私を好きでいてくれたから……。
頬は赤みを帯びる。やがて心地いい鼓動が胸を打ち、その波は全身に広がっていく。マサの胸元にそっと両手を添えると、アオイは彼の唇に自分のそれをゆっくり近付けていった。
「ありがとう、マサ。こんな私を好きになってくれて」
マサの反応がないのを慎重に確認し、アオイは彼の唇にそっとキスをした。
「でも、その気持ちには答えてあげられない。だから、これで許してね」
アオイの言葉はマサの耳には何一つ届いていなかった。眠っていたのだから当然だ。それなのに、唇に触れた彼女の感触だけははっきりと彼の記憶に刻まれた。
柔らかくて、甘い香り。そして、名残惜しく離れていく。切ない雰囲気に胸を染められていく。
「…………」
唇を交わして五秒後、マサは目を覚ました。アオイはもうそばにいなかった。ベッドの隅に彼女はいた。マサに背を向ける格好で、彼女は横向きに寝そべっている。