正直になる
穏やかな朝だった。休みを取れたアオイは、今日だけで二人の友人と会う約束をしていた。午前中は真琴。午後からは玲奈である。真琴はともかく、玲奈と顔を合わせる事を考えると緊張したが、マサのおかげで何とか平静を保てていた。
ドライブをしたあの日以来、マサとは毎日のようにラインでやり取りしていた。それまで以上に親密になった気もする。メッセージの内容はあまり変わらず友達めいており、前まであった職場の人間関係特有の遠慮がなくなっている。仕事中を除き、マサはアオイに敬語を使わなくなった。
二日に一度は、どちらかともなく電話を掛け合うようにもなっていた。用事はないのだが、気がつくと相手のスマートフォンに連絡し、取り留めのない話をするといった感じだ。もしも自分が独身だったら交際まで秒読みだろう空気感だと、アオイは密かに思った。既婚者なので当然そんな妄想はすぐにかき消したけれど。
そんな何気ない電話の最中、アオイは玲奈に誘われた件でマサに相談した。すると彼は言った。
「玲奈さんが何のつもりで会いたがってるのか分からなくて、不安になるのは分かる。予想が当たってアオイが玲奈さんに何か言われたとしたら、アオイもアオイで素直な気持ちを話したらいいと思う。何があっても、俺はアオイの味方だから」
何があってもマサだけは味方でいてくれる。そのことがとても心強かった。
今さら口にされなくても、マサが精神的に支えてくれていることは常々感じている。仕事中も、連絡を取り合う時間も、彼はこちらのことを思って動いてくれている。
私も、マサの支えになれているのかな。
初めてそんなことを考えた。尽くしてもらうばかりではなく、自分も相手に尽くしたい。彼の喜ぶ顔が見たい。強くそう思った。
真琴に会うため、彼女が一人暮らしをするアパートにアオイは訪ねた。母親が入院した件で真琴は実家に数日帰っていたが、今日ようやくアパートに戻り落ち着いたとのことだった。アオイが会いたいと言うと快く誘いに乗ってくれた。見慣れたアパートの玄関先で、真琴はアオイを出迎えた。
「上がっていいよ〜。散らかってて悪いけど」
実家の家族から持たされた土産物や洗濯物の山で、室内は雑然としている。真琴にしては珍しい。いつもなら綺麗に片付いている。アオイは申し訳程度にその辺の物を片付けながら真琴を見やった。
「シフト、無理してた? しんどいなら少し減らしてもいいよ」
「ううん、それは大丈夫。最近考えることが多かったから、つい、家の事は後回しになっちゃって」
「仁と玲奈の件で、気を遣わせたよね」
本題を切り出す。アオイは申し訳なくなった。部屋を散らかすほど真琴に負担をかけてしまっていたとは思わなかった。
「ううん! たしかにアオイと仁君のことも心配してたけど、それだけじゃないんだ……」
「そうなの?」
「うん。でも、まずはアオイのことが先。本当にごめんね。私が見た事、アオイに話す前にマサ君に話して……。あんなことされたら誰だって嫌な気持ちになるよ」
「ううん。真琴には真琴の考えがあってそうしたんだって思ってた。だから気にしないで」
「……アオイ」
真琴はソファに置いてあるクッションを抱きしめ、うつむく。
「マサ君なら、アオイのピンチを救ってくれると思ったんだ。前に、クレーム付けてきたお客さんから守ってくれた。そんな感じで、マサ君は、付かず離れずの距離でアオイを見守っててくれてる感じがしたんだよね」
「私もそう思う時があるよ」
アオイは、マサとのドライブについて話した。すると真琴は目を輝かせた。
「そうなんだ。よかった。アオイが辛い時、紛らわせてくれる人が傍にいて。安心したよ」
「真琴の存在だって、私を安心させてくれる。私は大丈夫だから。今日はそれを伝えに来たんだよ」
まだ決定的に何かを決めたわけではないが、今はとにかく、仁の事で真琴に心配をかけたくない。それに、真琴の考え事が何なのかの方がよほど気になる。
「真琴は何があったの? もしかして、家族のこと?」
「親がさ、とうとう離婚することになったんだよ」
長年仮面夫婦だった真琴の両親。今回実家に帰省したのは母親の入院を見舞うためではなく、離婚の件について詳しく聞くためだった。
「離婚、するんだね……。いつ決まったの?」
「大学在学中からちょいちょい話は出てたんだけど、具体的に決まったのは最近。お母さん、好きな人ができたんだって。だから、やっとお父さんと別れる決心ついたって。お父さんもお父さんで、あっさり離婚に賛成したみたい」
今は、真琴の親権をどちらが持つかの話し合いを両親でしているそうだ。
「苗字変わるの面倒だしお母さんの彼氏と接触するのも疲れそうだから、私はお父さん側に付きたいって主張してきた。多分その通りになるよ」
他人事のように淡々と語る真琴は、どこか現実から目を逸らすように目から光を失っていた。アオイは一旦自分の問題を忘れ、真琴を真剣に心配した。
「真琴、大丈夫?」
「平気だよ。やっと別れてくれるんだーって、肩の荷が下りた感じ。重かったもん、ずっと」
「分かるよ。うちの親もずっとそんな風だったから……」
「結婚って何なんだろうね」
「本当にね。実際してみても、よく分からないよ」
アオイは改めて、自分の結婚について振り返った。心のままに仁を手に入れたものの、望んだように満たされなかった。
「ずっと仁の本当の気持ちを無視してた。そんなんだからダメになったのかもしれない、私達」
「アオイはそう思ってるんだね……。うちの親もそう。私が生まれる頃には互いの気持ちが冷めていたのに、それに気付かないフリをして自分の気持ちをごまかしてきた。だから、アオイ」
真琴は抱きしめていたクッションを床に置き、両手でアオイの右手を取った。
「アオイは、同じ間違いをしたらダメだよ」
「……真琴」
「玲奈ちゃんと仁君の関係知って、どう思った? 本当はそこまでショックじゃなかったんじゃない?」
「…………」
真琴の言う通りだった。真琴の言葉を飲み込むかのように、アオイは静かにうなずく。
「脅すつもりじゃないんだけどさ。やっぱ、我慢して本当の気持ちから逃げて、一番傷つくのは本人だと思うんだ。ごめんね。出過ぎたこと言って」
「ううん。その通りだと思う」
「本当は親の話だけサラっとして終わらせるつもりだったのに。アオイの顔見て、マサ君との話まで聞いたら、どうしても言葉が抑えられなくなったんだ」
「ありがとう。そう言われたら、改めて考えさせられたよ。真琴がいてくれて良かった」
真琴の助言に応えるように、アオイは彼女をそっと抱きしめた。
「昼から玲奈と会うことになってる。そこで、自分の気持ちを見つめてくるよ」
「頑張ってね。アオイなら大丈夫!」
二人はしばらく激励の抱擁を交わした。
玲奈に会ったらどのような話題を繰り出されるのだろう。あれこれ想像しシミュレーションしながら、アオイは玲奈との待ち合わせ場所に向かった。普段あまり行かないパスタ専門店の店先。ちょうど昼時なので、ランチでもしながら話そうということだった。
玲奈の方が先に到着していた。
「久しぶり。アオイ、相変わらず綺麗だね」
そう言う玲奈こそ、うんと綺麗になっているように見える。アオイはとりあえず微笑んだ。
「ありがとう。玲奈の方が綺麗だよ。お腹空いたねー」
「ここ、日曜祝日は連日混み合うんだって。予約なしで行けるの平日くらい」
「そうなんだ。今日来てみて正解だね」
自店のメニュー考案の参考になるだろうか。頭の片隅でそんなことを考えながら、アオイは玲奈に続いて店内に入っていった。案内されたのは日当たりのいい窓際の席だった。ひと通り注文を終えると、玲奈はアオイの結婚生活について尋ねてきた。
「仁とはどう?」
「まあ、うん。なんとか普通にやってるよ」
予想していたものの、玲奈からそういうことを訊かれるとアオイは戸惑いを隠せなかった。答える声がしぼんでしまわないよう、意識して気持ちに張りを入れる。
「玲奈は? この前言ってた好きな人と順調なの?」
「実はね、今日も朝まで一緒にいたんだ」
「上手くいってるんだね」
アオイの心拍数が上がり始める。玲奈は嘘をついた。仁は今朝家に居たので、玲奈の元には行っていないはずだ。なぜわざわざ嘘の話をするのだろう。
うっとり満たされた表情で玲奈は言った。
「私だけ愛してるって、会う度に言ってくれるの」
「ごちそうさま」
からかう口調で返しつつ、アオイは自分のことを思い出していた。
私は言われたことない。「愛してる」だなんて、一度も──。
玲奈との格の違いを、やはりと言うべきか、見せつけられてしまった。悔しさはない。ただあるのは虚しさ。それ一点のみ。
美味しいと評判のパスタの味もじっくり感じられないまま食事を終えた。食後のコーヒーを飲んでいると、玲奈は唐突に質問してきた。
「浮気されたら、アオイならどうする?」
「突然だね」
アオイは言葉に詰まった。これはどういう意図の質問なのだろうか。すでに妻を裏切っている仁の行いを遠回しに告げ口しようとしているのか。
「それって、仁が浮気したらどうするか、ってこと?」
「そうじゃないけど。私の今の彼ね、もしかしたら浮気してるかもしれないんだ。だから、アオイが私の立場ならどう動くのかなって思って」
恋愛相談?
アオイはますます玲奈の意図が分からなくなった。玲奈は密かに仁と付き合っている。その仁が玲奈以外の女と関係を持っているとでもいうのか。有り得ない。しかし、そのまま答えたらこちらが二人の関係に気付いていることを知られてしまう。今はまだ知らないフリをして玲奈の様子を見たい。
アオイは言った。
「浮気だったらいいんじゃないかな」
「え…?」
穏やかだった玲奈の顔は一気に不快感に染まる。構わずアオイは続けた。
「だって、浮気って、その字の通り浮ついた気持ちでしょ? 心を持ってかれたわけじゃないなら許せる」
「……訊き方、間違えたかも。浮気じゃなくて、こっちよりあっちの人への関心が強くなったら、って言いたかった。それでもアオイは平気?」
「それは許せないよ。すでにこっちに気持ちはなく、あっちの女の人を想い始めたってことだもんね。だったら別れるかな」
「ずいぶん簡単に言うね」
玲奈の声には怒りすらにじんでいた。内心ドキリとしつつも、アオイは平静を保った。
「全然簡単じゃないよ。自分以外の人に関心持たれたら苦しいに決まってる」
なぜなら、その苦しさはアオイ自身長らく抱えてきた感情だからだ。仁の関心が自分ではなく玲奈にあると感じ取っていた。結婚してからずっと。口にされなくても伝わってくるのだから、無視もできない。拷問だ。
「でもさ、仕方ないんだよ。人の気持ちは機械みたいに操縦できない。離れてるものを無理に手繰りよせることはできない」
アオイの言葉には実感がこもっていた。
話しているうちに、気持ちが変わっているのに気付く。仁とは離婚しないと決めていたのに、こうして玲奈を前にしたら、仁の手を放すべきなのではないかと思えてきた。義母との親子関係を失うことになったとしても。
「ねえ、玲奈。今の彼氏ってどんな人? 仁のこと忘れさせてくれそうな人?」
「もちろん! 何でそんなこと聞くの?」
玲奈の声は取り繕うような明るさを取り戻した。それとは逆にアオイの声音は沈んでいく。
「こんなこと、私が言うの間違ってるけど。でも、言うね。玲奈の言う通り今の人が浮気してるのなら、やっぱりその人は玲奈に合わないのかもしれない。だったら仁とヨリを戻したらいいのにって思った」
「え……?」
「仁は今でも玲奈のことを好きだから」
「アオイ……?」
アオイは玲奈の目を真っ直ぐ見つめた。玲奈は冷静ながらも、その目には怯えの色がにじむ。
「結婚してからずっと気付いてたんだけど、見ないフリしてた。仁の本心……。あの人は、私といても玲奈の影を追ってる」
「でも、今、私には付き合ってる人が……」
「仁のことでしょ?」
「……!!」
玲奈は驚き、口を閉ざした。目を丸くしてアオイに見入っている。アオイは諦めたように笑ってみせた。
「知ってたよ。だって、仁、毎晩のように仕事って言って帰って来なかった。さすがに怪しいから職場に電話して確かめた。何度か嘘ついて外泊してたのが分かった。相手は玲奈以外いないだろうなって思った。それに、最近二人が一緒にいるところ見たって話も聞いたから」
「結婚してる人とそういうことして、本当なら謝らないといけないのかもしれないけど……。私、アオイに謝りたくない」
「そうだよね。むしろ、謝るべきなのは私。二人の間に入る余地なんて最初からなかったのに、私は身の程知らずに仁を欲しがった。だから、仁が玲奈と続いてても何もおかしくない。自業自得」
自分の発したものとは思えないくらい、すらすら言葉が出てきた。アオイはスっと席を立ち、伝票を手にした。
「帰ったら、離婚について仁と話し合うよ。だから今日は真っ直ぐ家に帰るよう伝えてくれる?」
「分かったよ」
「今までごめんなさい。玲奈。ありがとう」
「待って。自分の分は出すよ」
玲奈はアオイの手にある伝票に手を伸ばしたが、アオイはやんわりそれを拒否した。
「こんなことで許されるとは思わないけど、罪滅ぼしさせて?」
「……そういうことなら」
レジで二人分の会計を済ませている最中、アオイは玲奈からの視線を感じた。その気配を振り切るように颯爽と店を後にした。外に出るとどこからともなく秋の匂いがした。
その日の夜、珍しく仁の帰宅は早かった。残業が早く終わったと彼は言ったが、玲奈から早く帰るよう言われたからだろうとアオイは思った。家政婦には休暇を取ってもらい、夕食はアオイが作った。洋食だ。久しぶりに仕事以外の場所でパンを焼いた。パンの焼ける香りに気付き、仁は帰宅するなり嬉しそうな反応を見せた。
「アオイのパン、久しぶりだな」
「最後のパンだよ。味わって食べてね」
「どういうこと?」
「どういうって、そのままの意味だけど」
食卓を整えたアオイは、仁の動揺を受け流し淡々と席に着いた。仁もそれに続く。
「パン作るの、嫌になったの?」
「そんなことないよ。仕事では毎日作るし。楽しいよ」
職場で作った試作のパンを、今まで何度かマサに試食してもらったことがある。その時の話をアオイはしてみせた。
「美味しい美味しいって言って食べてくれるバイトの子がいるの。試食なのに『これならお金出してでも食べたいです!』とまで言ってくれて。社交辞令だとしても、その子の褒め言葉と美味しそうに食べてくれる顔が本当に嬉しかった」
「だったら、家でもまた作ってよ。アオイのパン、俺も好きだし」
「パンなんてどこででも買えるじゃん」
「それはそうだけど……。どうして急にそんなこと言うんだよ」
仁の口調は徐々に焦りを見せた。それにつられることなく、アオイは淡々と答えた。
「そこまで私のパンに魅力感じてくれてたなんて知らなかったよ。仁には、私との生活より大切なものがあるのかと思ってたから」
「そんなことない。アオイとの暮らしが一番大切に決まってる」
「ありがとう。でも、もう無理しなくていいよ」
アオイは席を立つと、ダイニングと地続きになっているリビングに行った。キャビネットの引き出しにしまっておいた結婚指輪を手にして、すぐ席に戻る。
「離婚しよう。もちろん、仁さえ良ければ仕事は今まで通り続けてもらっていい。慰謝料も請求しない。必要なら遺産分与には応じるし、お義母さんの面倒を見れるだけの金銭は支払う。だから」
そっと、テーブルの上に置かれた結婚指輪。それは、マサに手伝ってもらって夜の海で必死に探し、ようやくイクトから返してもらった物だ。あの時の必死な気持ち。仁に縋る心も、燃えるような情熱も、今のアオイには無かった。
仁は勢い良く席を立ち、置かれた指輪をまじまじと見つめた。
「本気なの? もう一度よく考えて……」
仁の声は震えている。
「よく考えた結果だよ。お義母さんと他人に戻ってしまうのは心もとないけど……。気持ちが伴わない生活を続けるのもお互いつらいし。仕方ないよね」
「違う……」
「…………」
「たしかに、ずっと玲奈に未練があった。最初は家の借金をどうにかしたくてアオイと結婚した。でも、最近は、アオイのことを本当に愛してるって思い始めたんだ」
「だから、もう無理しなくていいよ。今まで、私を好きなフリすらできてなかったもん。何を言われても、もう響かないよ」
「だとしても! 本気だから。今はアオイを離したくない」
「仁……」
テーブル越しに、仁はアオイの手を掴んだ。これまでにないほど力強く。
口だけではなさそうだった。仁の気持ちの変化を知り、アオイはただただ戸惑った。不安にも似た、追い詰められるような心地がした。




