秘め恋
深く傷ついているであろうこの人をただただ労わってあげたい。マサはそれだけの気持ちでアオイを抱きしめていた。かつてこのような感情を抱いて女性に触れたことがあっただろうか。
海イベントで宿泊した時とは全く違った意味合いの接触。抱き寄せ終えて初めて、マサは自分がとんでもなく衝動的なことをしてしまったと自覚した。頬が熱くなる。
これ、傷ついた人にまんまと漬け込むパターンの最悪なヤツなんじゃ……?
弱っている人間をこちらの意のままにするのは簡単なこと。かつて性欲に支配されリオの誘いに乗ってしまった自分を思い出し、マサはそう思った。となると、今この瞬間、とんでもなく狡いことをしているのでは。抱きしめてしまったことをどう言い訳しよう。マサの思考は瞬時に切り替わった。嫌われたくない。アオイとの関係が劇的に悪化してしまう未来が浮かび恐くなった。
アオイにとって初めての体験だった。好きな相手に抱き寄せられるのはこんなにも心地がいいものなのか。触れたところからマサの鼓動が振動している。このまま離れずにいたらどうなるのだろう。やはりマサはこちらに興味を持ってくれているのだろうか。単なる仕事関係の相手にここまではしないはずだ。だとしたら、男女関係のセオリーから言って行き着く先はただひとつ。
マサとなら、私は……。
流れに身を任せてしまってもいいような気がした。誰かに愛される価値があると実感したい。自尊心をとりもどしたい。だけど、自分は結婚している。
「これ、ソフレのオプションサービス?」
心とは真逆に、アオイから飛び出したのはそんな色気皆無の言葉だった。アオイの言葉を理解するのに、マサは数秒を要した。
ソフレって、え? もしかして、海帰りのラブホでのこと言ってる!?
「オプション、かな? 泣いてる子供をあやしたい的な」
マサもマサで色気とは正反対の言葉を返してしまう。もしかして、いや、もしかしなくても、結婚している女性を抱きしめるなんて非常識。そのことをアオイはやんわり指摘しているのではないか。マサはそう捉えた。
抱きしめた勢いはどこへやら、萎んでいく熱と冷静さに揺さぶられ、マサはそろそろとアオイから身を離した。名残惜しい。本来ならば決して超えられない壁。アオイから離れた瞬間、これが現実的な自分の立ち位置なのだとマサは痛感した。
互いに目を合わせることもできず、ぎこちない空気が漂った。それでも何か話さなければならない気がする。先に思い切って言葉を放ったのはアオイだった。
「真琴は?」
「帰ってもらいました。真琴さんも店長が戻るまで居たいとは言ってたんですけど」
それって、マサがあえて真琴を先に帰らせたってこと?
アオイの思考が走る。それは推測というより自分にとって都合のいい妄想かもしれないのに。マサが自発的に一人で待っていてくれたのだと思いたかった。
「真琴は何で先に?」
「最初は一緒に待ってたんですけど、途中、真琴さんの叔母に当たる人から電話があって。お母さんが入院したとかで」
「入院!? 大丈夫なの?」
「命に別状はないみたいですよ。ぎっくり腰だって。真琴さんも落ち着いてました」
「そう……。そこまで悪い話じゃなくて本当によかった」
真琴の母親の件は心配だ。彼女の実家は家族仲があまり良くないので、そういう意味でも気がかりはある。ただ、それとは別に、アオイは肩を落とした。マサが単独で待っていてくれたのは彼の意思ではなく、真琴が緊急事態に陥った末の流れでしかなかったのだから。
「だけどやっぱり心配。真琴には、向こうが落ち着いた頃に連絡するよ……」
落胆を隠すように今後の予定を口にすると、マサはそれに答えた。
「真琴さんも同じこと言ってました。店長と話したいって」
「ああ……。もしかして、さっきのこと気にして?」
「ですね。先に帰るのを最後まで申し訳なさそうにしてて。実家の緊急連絡に対してもいつもの真琴さんらしくなくて、妙に冷静でした。今も、家の人と上手くいってないんですかね」
真琴の様子の違和感を口にするマサに、アオイはただならぬ感情を覚えた。自分以外の女性を気にかけている彼への、これは、そう……。
「真琴のこと、よく見てるんだね」
明るい口調でこんなことを言えてしまう自分の性悪さに、嫌悪する。それでもアオイは言わずにはいられなかった。
「マサってホント優しいよね」
アオイの表情は至って穏やかだった。けれど、いつもにはない毒のような鋭さが感じられた。気のせいですませられそうな優しい表情をしていても。
「優しいんですかね? バイト同士、よくある関心程度のものですよ」
「そっかー、よくある関心なんだ。マサさ、学校の子とかにもモテるんじゃない?」
「モテてたら夏休みにガッツリバイトなんかしてませんよ」
「デート代とか必要だからしてるんだと思った」
穏やかな表情を保っていながら、アオイの声音はセリフが重なるほど強ばっていく。マサは少し焦りを感じた。アオイの気に触ることを言ってしまったのかもしれない。
「怒ってます?」
「何で?」
「なんとなくそんな気がして」
声に棘があります、とは、さすがに言えない。アオイは視線を左右させ、浅く息を吐いた。
「おかず、どうだった?」
「美味しかったです。すごく。ありがとうございました」
話が急に変わったので、マサは置いてけぼりをくらった気分だ。アオイの機嫌が悪そうに見えたのは気のせいだったのだろうか。人の機嫌の善し悪しには敏感な方だと思っていたが、勘違いならその方がいいのかもしれない。
「容器、洗って返しますね」
「いいよ。今返してくれる?」
「そうですか? じゃあ……」
バッグに入れておいた空の容器を探る。
「なんかすいません。してもらってばっかで」
「謝らないで。むしろこっちこそありがとう」
「お礼を言うのは俺なのに、何で店長が?」
「嬉しいから」
容器を差し出すマサの手に、アオイの手のひらがそっと重なった。
「これ作る時、無意識のうちにマサに食べてもらえることを想像してた。でも、私は結婚してる身だからそんな日は来ないって分かってた。だけど、こういうキッカケでマサに手料理を食べてもらえて、そのうえ美味しいとまで言ってもらえて、本当に嬉しかった」
「店長……」
「仕事柄、美味しい物を作れるのは当然でなきゃいけないんだけど。そうじゃなくて、美味しいって言葉がこんなに満たされる言葉だったなんて初めて知ったよ」
重なった二人の手。アオイの手のひらに柔らかく力が込められた。
「……当たり前にできることでも、当然みたいな反応されると寂しいですもんね。おかず、旦那には食べてもらわなかったんですか?」
「美味しいって言ってくれたよ。嬉しかった。でも……。何でかな。求めてた言葉じゃなかった。欲しかった言葉をもらえたはずなのに」
アオイの手のひらの熱が、マサの手の甲を通して彼の体に染みていく。マサは、アオイの言葉を恋の告白のように受け止めてしまいそうになった。
旦那の褒め言葉では物足りなくて、だけど俺が同じ言葉を言ったら満たされる。それって……。
アオイに触れられているということと、彼女に言われた言葉が胸を交差し、頭の中を駆け巡り、鼓動が激しくなる。油断したらまた彼女を強く抱きしめてしまう。
「ドライブ、しませんか?」
「え……? 今から?」
「気分転換、大事ですよ」
言うなりマサはアオイの手を引き、駐車場に向かった。色々なことが重なりアオイはまいっている。今も業者と会ってきた直後で疲労しているかもしれない。だからこそ、日常から掛け離れた場所へ彼女を連れ出したかった。アオイを苦しめるものの存在を少しでも忘れさせられるために。
マサの手に引かれた時にはもう、アオイの中から断るという選択肢は消えていた。一時的にでもあらゆる柵を忘れ、彼の過ごす時間に在りたい。
この先のことは何も分からない。ただ、彼のそばに。
この感情は、恋。真琴を気にするマサの言動に嫉妬してしまった。もうごまかせない。マサのことが好きで好きで仕方がないのだ。消そうとして消える気持ちでもなさそうだ。諦めるしかない。
マサに促され乗った助手席。まるで自分のためだけに用意された空間に、アオイは幸福感を覚えた。
「深夜のドライブって、なんかドキドキするね」
「他の車が少ない分、走りやすいですしね」
「勤務時間外だし、敬語やめようよ。友達モードがいい」
「その言い方、可愛い」
「……!」
「さっそく友達モードに切り替えてみた」
「友達は可愛いとか言わない!」
「そう?」
「そうだよっ」
マサのくれる褒め言葉に、アオイの気持ちはいとも簡単に浮き上がる。彼が隣にいるだけで気分転換はすでに叶っていた。
友達がいい。この距離がいい。
好きな気持ちは伝えられないけれど、想うことだけは自由にさせてほしい。どうしようもなくマサに惹かれてしまう自分を素直に認めた。他人から見たら、浮気されて寂しい女が身近な男友達に寄りかかっているようにしか見えないのだろう。でも、そうではないと自覚している。
初めて会った時から、もう、こうなる未来を知っていたのかもしれない。
マサはきっと告白してこない。これまでの彼を見ていたら分かる。それでいいのだとアオイは思った。積極的に交際を望まれたり、今以上の関係を求められたら、当然、友達ではいられなくなる。だから。
マサが運転する姿を時々視界に入れながら、窓の外の景色を眺める。国道はそこそこ車が走っていたが、隣県の県道にたどり着くとほとんど他の車を見かけることはなかった。夜の静寂に、二人はただただ埋没していた。時折会話が途切れても無言が気にならなかった。
車内には小さく音楽が流れている。マサの好みなのか、今季の流行りなのか、男性シンガーの恋愛バラードがしっとりと耳に届く。アオイにとっては初めて聴く曲だったが、曲調も歌い方も挿入部分から好感が持てた。歌詞をじっくり聴いてみると片想いの内容だった。
「この曲いいね。マサ、好きなの?」
「そうかも。共感できるっていうか、最近なんか気になる曲ではあるかな」
「歌詞、切ないね」
「うん、切ないよね」
運転するマサの横顔がとても綺麗だ。彼が、どのフレーズに切なくなるのか知りたい。曲をダウンロードしたくなり、アオイはスマートフォンを取り出した。
「何て曲なの?」
「『秘め恋』」
「意味深なタイトルだね。秘密の恋ってことかな?」
「片想いの曲って言われてるけど、人によってはしてはいけない恋の歌に感じることもあるんだって」
「それって、倫理に反する想いってこと?」
「多分。分からないけど」
まさに今の私みたいだと、アオイは思った。だからかよけいこの曲をダウンロードしたくなった。今まさに自分はしてはいけない恋をしている。しなくてすむならその方がいいのに、気が付いたらもうマサの存在で胸はいっぱいになっていた。彼の横にいられる今を精一杯大切にしたい。ただただ、そう思う。
スマートフォンを操作しさっそく曲をダウンロードし始めるアオイを横目に、マサは、何度目かになる衝動を懸命に抑えていた。アオイに想いを伝えられたらどれだけ楽になれるだろう。
この歌詞ね、まんま俺のことだよ。……なんて、言えるわけもないし。
アオイにとって重い存在になりたくない。一方で、しょせん報われない恋ならば、せめてこの気持ちの欠片だけでも覚えておいてほしい。ワガママだろうか。
「アオイには無縁の曲だよ」
純粋な想いはねじれた言葉になって飛び出す。
「それ、既婚者への嫌味?」
「ううん、そうじゃなくて。大事な旦那がいる人に、秘めるべき恋の影なんてないんだろうなって」
「ふふっ。そうだね」
「もしもの話なんだけど……」
例え話で尋ねるくらいなら、許されるだろうか。
「旦那以外の人に好意を寄せられたら、迷惑?」
「人として好かれるのは嬉しいよ」
「そういうのじゃなくて……。恋の対象として」
「考えるまでもないよ」
アオイの返事はキッパリしていた。
「そもそも、結婚してる私を恋の対象として見る人なんていないよ。いたとしても一時の気の迷い」
「本気だったら?」
「うーん……。ありがたいことかもしれないけど、考えたことなかったかな。本気か本気じゃないかって結局のところ、私目線で感じ取るには限界があるんだろうし」
「だね。それもそっか。変なこと訊いてごめん」
「ううん。マサとこういう話できるの嬉しい。もっと色々話そうよ」
遠回しに、私に好意を持つなと言われた気がした。切ないものの、それはそうだよなとマサは妙に納得していた。ここにある友人関係にヒビが入ってしまわないよう、今後は言葉に気をつけよう。
そこから先、際どい話題は上がらなかった。ただ、マサが知りたいアオイのことを彼女に質問していた。小さい頃の思い出。好きだった遊び。仕事のこと。アオイは自分ばかり話して悪いとしきりに謝ったが、謝る必要はないとマサは答えた。なぜなら、マサにとってアオイのどんな情報でも宝物のように感じたし、ただ横に彼女がいてくれるだけで充実感を得られたからだ。途中何度かコンビニに寄って飲み物を買ったりしたが、たったそれだけのことすらデートのように思え楽しかった。
そうしているうちに湿った夏の一夜が明けていった。朝日がまだそう眩しくないうちに、二人は職場の駐車場に戻った。夜通し話していたせいか、二人は妙に気持ちが高揚していた。ナチュラルハイとはこのことか。
「運転ありがとう。楽しかった。仕事の後なのに疲れたよね、ごめんね」
「全然! 運転好きだし楽しかった。アオイこそ疲れてない?」
「大丈夫。帰って寝るくらいの時間はあるから」
「ならいいけど……。昼からも仕事でしょ、無理しないで」
「マサも帰ったらゆっくり休んでね」
「そうやって心配してくれるところ、好き」
テンションの高さに任せて、思わず口にしてしまった好意。目を丸くして驚くアオイを前に、マサはさらりとごまかした。
「友達の好きだよ」
「分かってる!」
「ならいいけど」
目に見えて縮まっていく距離。けれども崩せない壁が存在していた。その壁すら相手を思う情熱の材料になっていると互いに気付かないまま。
「マサ。またラインしていい?」
「アオイがしたい分だけ、してよ」
「うん。じゃあ、する」
「待ってる。じゃあね。バイバイ」
さよならするのが惜しいけれど、しなければならない関係性。自分の立場を自覚するべく、マサは車を発進させた。車内で流れた『秘め恋』の歌詞。アオイも同じ部分で共感してくれていたらいいなと願いながら。
マサと別れて帰宅したアオイは、案の定誰もいない家の中をさっと見渡し胸を撫で下ろした。結婚して以来、初めての朝帰りだった。仁に言えないやましいことはしていないが、世間的に見て充分不埒なことをしている自覚はあった。単なる仕事の付き合いではなく、特別な感情を寄せる相手と出かけていたのだから。
今日、すごく楽しかった。
マサといられた喜びはもちろん、自分に興味関心を持って様々な質問をしてくれたことが嬉しかった。嫌われていないのは確かだと思う。決定的な好意を口にされたわけではないので自惚れてはいないけれど。このまま、今はただ友達でいたい。マサの存在が心の支えになっている。
今まで会っていたのに、もうマサに会いたい。ラインを送るだけで我慢しようとスマートフォンを見ると、ラインが2件来ていた。1件は真琴からで、予想した通りの内容だった。近々ゆっくり話そうと返事をした。もう1件は連絡久しい相手で、冷や汗が出た。
《元気? 最近会えてなかったし、近いうちに会えるかな?》
玲奈だった。仁と繋がりを持ちながら、それを隠して他に好きな男性ができたと告げてきた友人――。
同時刻。カーテン越しに夜明けを告げるアパートの一室にて。急いで帰り支度をする仁の背に向け、玲奈はいじけたように呟いた。
「もう帰るの?」
「あまりこういうことが続くと、アオイも変に思うだろうし……」
まだ火照った肌に仁の名残を残す玲奈は、不満げに彼を見据えた。
「無自覚なのかもしれないけど、最近、アオイのこと気にしすぎじゃない? あの子だって、仁の仕事が遅くなるのは分かってるのに」
「そうだけど……。親の件でも迷惑かけてるから、これ以上アオイに負担かけたくないんだよ」
「本当にそれだけ?」
「当たり前だろ。愛してるのは玲奈だけだよ」
玲奈を抱き寄せ、仁は艶めいた彼女の唇にキスをする。体を重ねて狂うように熱を交わし合っても埋まらない心の穴。彼の心が変わりつつあることを玲奈は感じていた。だから、アオイにラインを送って会いたいと伝えた。
「近々アオイと会うかも」
「何で!?」
仁の顔色は極端に悪くなった。そのことで玲奈はひどく気分を害した。
「そんなに驚く? 友達なんだから普通でしょ」
「だって、それは……。俺が言うのも何だけど気まずくないの?」
「どうして私が気まずさを感じなきゃいけないの? 何も悪いことしてないのに」
「それはそうだけど……」
「じゃあ、アオイとの付き合い方に口は出さないでほしいかな」
「玲奈さ、最近変わった? 前はそんな言い方しなかったのに」
「誰のせい? そもそも仁がアオイの方にいかなければ……!」
無防備な体にまとわりついた重苦しいみじめさ。玲奈はそれを隠すようにさっさと服を着て仁に背を向けた。
「もうやめようよ、この話。仁と喧嘩したくない」
仁は怪訝な表情で玲奈を見ていた。
「安心してよ。こうやって二人で会ってること、アオイにバラしたり、絶対しないから」
「分かってるよ……」
言いつつも、仁の表情は不安に傾いていた。アオイと結婚した当初には全くなかった不快感だった。
どうしてだろう。玲奈だけ愛していたつもりなのに。
いつどの瞬間からか分からないが、仁の心はアオイに向かっていた。玲奈と関係を続けながらも、アオイのことを考える割合が増えてきている。玲奈の勘は正しかったのだ。




