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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
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留まるばかり


 やはり、ひとしは浮気をしていた。


 マサと真琴まことの話を立ち聞きしてしまったアオイは神経反射で笑顔を作り、彼らに平然を装った。それぞれに言いたいことを抱えた目をする二人の様子に気付きながら……。


 この後ちょうど業者との打ち合わせがあるので、営業時間内の作業諸々は二人に任せてアオイは店を後にした。マサと目を合わせられなかった。おかずの感想を聞こうと思っていたのに聞きそびれてしまったことを、車に乗ってからようやく気付く。


 動揺していた。仁の気持ちが他にあることは分かっていたが、浮気相手がまさか玲奈れなだったなんて。


 奪えてなんか、いなかったんだ。


 本音を言うと、仁と玲奈のことを知ってアオイは安堵あんどしていた。結局のところ、二人を引き裂く悪役にならずにすんだのだから。悪役になったつもりが空回っていた。それだけのこと。


 真琴は仁を非難していたが、自分には仁を責める資格はないと今は思う。マサに出会う前の自分だったら、真琴同様に考えたかもしれないが、ここ最近は違う。気が付くと頭の中にはマサの存在があり、全ての行動を彼と結び付けて考えるようになっていた。仁は悪くない。彼はただ恋を継続しているだけだ。


 私と同じだね。仁も。


 マサを好きになってしまったからこそ、改めて思い知る。惹かれる気持ちは止められない。理性などで到底抑えられるものではなかった。


 仁も一度は、玲奈と別れて私を見てくれようと努力はしたんだろうね。


 それがおかしな話だったのだ。食べ物や趣味ならば努力して好きになれることもあるのかもしれないが、対人関係においてそれは非常に難しい。人間は感情の生き物なのだから。


 仁へ抱く感情はわりと落ち着いており、自分でも驚くほどアオイはすんなり夫の浮気を受け入れていた。その次に浮かんだのは、自分の恋に対するネガティブな感情だった。


 私は仁に選ばれなかった。その程度の女ってこと。じゃあマサは? マサだって、今はほんの少し私に興味を持ってくれてるのかもしれないけど、この先も確実に好きでい続けてくれるとは限らない。だって私は、何の魅力もない空っぽな女なんだから。


 愛されなかった生い立ちが心の底に重く横たわり、アオイの自尊感情を低めていた。他人ひとは言う。君には自分の店がある。親がいる。家がある。財がある。女性として充分魅力的な容姿を持っている。困ることなど何もないだろう。恵まれている。幸せ者だ。と。


 アオイ自身はそう思えなかった。


 どれも私の力で手に入れたものじゃない。たまたまあの家に生まれて、それらの外的要因を甘受できただけ。仁との結婚生活もそう。私に同情した玲奈が、一時的に彼をし《・》て《・》くれただけ。


 自力でを手に入れた女の余裕が玲奈をそうさせたのかもしれない。あるいは、裏切り者のアオイを皮肉った最大の意思表示という可能性もある。


 どちらにせよ、アオイにとって絶望的な状況に変わりはなかった。玲奈との間にあった友情はすでに消滅しており、彼女は決して仁を手放すつもりはないのだ。


 アオイは自分の両手を目の前に持ってきて、白い手のひらをぼんやり眺めた。ただ、夏の湿気で汗ばんだ肌が存在するだけで、その奥には何も無い。


 好きな人と結婚したら人生が劇的に良くなると思ってたのに。


 変わらなかった。変わったものもあるのかもしれないが、それは良い方向にではなく悪化という方が正しいのかもしれない。


 地面が雪崩のごとく崩れ足元から飲み込まれていくようだった。こんな時でも時間は流れ物事は進んでいく。緩く激しく、淡々と。仕事をしなくては。


 強制的に思考を遮断し、予定通り業者との待ち合わせ場所に向かった。



 アオイが店を出てから五時間が経つ。すでに閉店時間を迎えたイルレガーメでは、マサと真琴が閉店作業をしながら雑談していた。アオイに良からぬ立ち話を聞かれてしまったことを気にしつつ、仕事でミスをしない程度に気持ちを切り替えた二人だったが、店を閉めた途端緊張の糸は緩み、待ちわびたようにアオイのことを話題にした。


「アオイ、大丈夫かな……。車だし、事故とか起こしてないといいんだけど」


「心配ですね……」


 マサは実感のこもった返事をした。というのも、自分も最近、運転中に考え事をしていて信号無視をしそうになったり逆に信号が変わったことに気付かず後続の車にクラクションを鳴らされたりしたからだ。近頃は呼吸をするたびアオイのことを考えていたりする。意識して頭から消そうとしても、気が付くとまた彼女の顔が頭に浮かぶ。


「自動運転システムが全部の車に実装される日が来てほしいです。いつだって冷静な状態で運転できてるとは限らないし」


「だね。人間だもんね、私達」


「つくづく不完全な生き物ですね、人間って」


 普段は語らないようなことを語り尽くしたくなる気分だった。マサも、真琴も。


 話も途切れ掃除も終わると、バイト終了の時間になった。いつもならスタッフルームで着替えてすぐにタイムカードを押すところだが、二人はまだここを離れたくない心持ちだった。就業規則上、仕方なくタイムカードは押したが、着替えが済んでも二人はスタッフルームに留まっていた。無意味にスマートフォンをいじったり、乱れてもいない服装を直したりしながら。


「マサ君、帰らないの?」


「真琴さんこそ」


「んー。だって、ね?」


「こんな時間だし送りましょうか? 今日遅番だったんで車で来たんですよ」


「ありがとね。でも大丈夫だよ〜。ウチもわりと近くだし、マサ君の車には乗れないから」


「初心者だから警戒してます?」


 少し空気が和んだ。二人は久しぶりに少し笑った。


「違うよ〜。そうじゃなくて、初めての車なんでしょ。好きな人を乗せなよ」


「中古ですけどね」


「それでも。気に入って買ったんでしょ?」


「はい。まあ、そうですね」


「だったらなおさら」


 二人はどちらかともなく休憩用の椅子に座った。


「送り拒否するなら、真琴さんは早く帰って下さい。女性の夜の一人歩きは危ないですよ」


「ホント紳士だね〜。こう見えて多少護身術の心得はあるからモーマンタイ! だよ」


「えっ、ホントですかそれ」


「半分ホント」


「半分て」


「子供の頃習ってただけだから」


「それもう忘れちゃってません?」


「忘れないんだなー、意外と。子供の頃に身につけたことって体に染み付いて取れないの」


「なるほど。そうなんですね」


 アオイの心が気になるけれど、今すぐ確かめることができずもどかしい。そんな気持ちをごまかすように、二人は隙間なく言葉を投げ合っていた。それを途切れさせたのは真琴にかかってきた一本の電話だった。


「出ないんですか?」


「実家だし、後でかけ直すよ」


「こんな遅い時間に来る電話って、よほどの急用なんじゃ」


 壁を飾る時計の針は零時を過ぎていた。


「そっか。マサ君の言う通りだよね」


 小さくため息をついて、真琴は渋々電話を取った。心なしか、実家の家族とやらと話す真琴は冷ややかな印象である。五分もしないうちに電話は終わり、真琴は小さくため息をついた。


「電話してきたの母の妹だったんだけど、母が入院することになったって」


「冷静に言ってますけどそれけっこう深刻な事態じゃないですか?」


「うーん。でもただのぎっくり腰だからね〜。数日で退院できるんじゃないかな」


「そんな軽いもんなんですかぎっくり腰って」


「まあ、平気だと思うよ」


 冷たくも感じられる口調。真琴は何事もなかったかのようにスマートフォンをしまい再びマサと会話しようとしたが、マサはそれを止めて真琴を帰宅させようとした。


「いやいやいや、何どっしり座っちゃってるんですか! 帰って下さい、今度こそ」


「帰れないよ、アオイを待ちたいから」


 それまで言わないようにしていた明確な目的をとうとう口にする真琴。マサは同意を示しつつ、真琴の家の件も大事だと告げた。


「家族愛語るつもりとかないですけど、少しでも気になるなら帰った方がいいんじゃないですかね、実家に」


「でも……」


「店長のことは任せて下さい」


「アオイが戻るのいつになるか分からないよ。話の長い業者さんだって話だし……」


「だったらなおさら真琴さんは帰らないと。俺なら何時間でも待てますから」


「そうは言っても……」


 アオイの旦那の浮気現場を見てしまい、それをマサに話してしまった。アオイの気持ちを心配するだけでなく、真琴には責任感と罪悪感もあった。それも見越して、マサは言った。


「ごめんなさい。真琴さんの帰り道の心配、半分は嘘です。ただ店長のことを待っていたいというか。単に自分のワガママですね」


「マサ君……」


 愛しい人を心配し、同時に気持ちの共有を求めるマサの瞳。真琴にも譲れない思いがあったが、これ以上食い下がるのも野暮。


「分かったよ。私は私でアオイと後でちゃんと話をする。ありがとう。アオイのこと、お願い」




 酒が入ってからいつにも増して無駄話の多くなった業者との打ち合わせが終わるなり、アオイは深夜の車道で車を走らせていた。打ち合わせ自体はすぐに終わったが、話し足りない先方が夕食にと高級料亭に招いてくれたので帰るとはとても言い出せなくなった。普段なら面倒に感じてしまう付き合いの席も、今日ばかりは逃げ場となった。店にも家にも自分の居場所はないように思えた。


 運転をするのでアオイは飲酒を断ったが、正直なところ飲みたかった。何も考えず意識を失うまで酔いたい気分である。アルコール依存症になってしまうまで酒に溺れた義母のことを思い出し、今日ばかりは強い共感を覚えた。


 もうこんな時間か……。さすがに二人とも帰ったよね。


 車内のデジタル時計は午前二時を指していた。マサと真琴のバイト時間は零時まで。二人はきっと先ほどの事を心配してくれているに違いない。気持ちは嬉しかったしその気も分かるが、どういう顔で二人に会えばいいのか分からないままここまで来てしまった。業者との打ち合わせで一時的に気が紛れたものの、店に戻る道中、じょじょに現実が胸に押し寄せてきた。


 仁と玲奈の関係。自らの愚かさで失った友情。愛の気配など毛頭ない住処。そして、現在進行中の後ろめたい恋愛感情。揺らぐばかりで安定しない自尊心。


 帰りが遅くなってよかった。こんな顔、誰にも見られたくない。


 夜の街。見慣れた景色が押し迫り、とうとう店にたどり着いてしまった。少しでも現実を遠ざけるべくあえてゆっくり運転したはずなのに、空いている深夜の道は車での到着を早めるばかりだった。閉店作業はマサ達がやってくれているので自分はもう直接家に帰ればいいのだが、仁がいるかもしれない空虚な家に戻る気にはなれなかった。たとえ彼が不在だとしても。


 大きく深呼吸をして店の駐車場に車を停め、外に出た。誰もいない。その油断が取り繕うことをやめさせた。だからこそ、店の出入口にたたずむ彼の姿を見た時、アオイは驚きの悲鳴をあげそうになった。


「お疲れ様です」


「っ……。マサ……。何でいるの?」


「なんとなく?」


 マサの口調は軽い。軽薄ではない、誠実を表す軽さは、アオイの涙腺を容易たやすく緩ませた。夜とはいえ夏の蒸し暑い中、彼は二時間以上も外で待っていたというのか。出入口前でしゃがみこんでいたマサはこちらの姿を認めるなりスッと立ち上がり、人一人分の間隔を空けて距離を詰めてきた。マサのこめかみや首筋に流れる汗が街灯で光って見えた時、身体の芯から溢れるように熱が湧いた。


「とっくにバイトは終わってるでしょ? 熱中症になっちゃうよ」


「なったら看病して下さい。労災? ってことで」


「時間外は適応されないよ」


「冗談です」


「中ならクーラーあるのに……。バイト中じゃないから外で待ってたって言うの?」


「一バイトの勝手で光熱費かけさせるの悪いですし。一人暮らし始めてからそういうのの大事さがちょっとだけ分かったんですよ」


「マサはよくやってくれてるよ。本当に助かってる。だから、仕事の後にまでこんな風に気を遣ってくれなくていいよ」


 気が紛れるような、乱されるような。マサとの会話はアオイにとってたたただ混沌としていた。


「気遣いなんかじゃないです」


「え?」


「そんな顔してる人、一人にしとけないって言ってるんですよ」


 慈しむような、でるような、見透かすような、あらゆる感情を混ぜたマサの視線がアオイに向けられている。マサの視線に込められた感情は彼にしか分からないものだろう。ただ、そのうち何割かがアオイにも伝わるようで、それらの熱量に胸が焦がされそうになる。


「残業手当、あげなきゃね」


 笑顔で冗談めいたことを口にしてみても、頬にこぼれる涙と内から溢れる女性特有の熱はごまかせない。


「こうしなきゃ、分かりませんか?」


 言い切らないうちに、マサはアオイの腕を優しく引き、彼女をそっと抱き寄せた。彼の熱と、異性を漂わせるのに充分なたくましさ、夏の夜の湿気を含んだ匂い。互いに軽く触れ合った部分を通して、奥深く優しさに満ちたマサの温もりがアオイの体に流れ込んでいった。









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