エピローグ
王国南部に広がる湖沼地帯は、五つの大きな湖と、無数の小さな池が点在する風光明媚な別荘地だ。
その中でもひときわ大きな湖の畔に建つ城館は、王宮職員なら申請すれば誰でも使っていいことになっていた。
城館の一階からは、湖に突き出た長い桟橋に出ることができ、今、ヴェラはクイルと並んで、ゆっくりとそこを歩いている。
繋ぎ合った手の薬指には、同じデザインの結婚指輪。
高い青空の下、吹き抜ける風に足を止めれば、クイルがすかさず気遣うように声をかけてくる。
「疲れた?」
「ううん。……ただ、ここに来るまで、本当にいろいろあったなあって」
「だね」
――灯火法訴訟。
今や王国の法令集に正式に記載されたあの公判から、すでに一年が経っていた。
あの後、灯火法は再度見直され、王宮職員が深夜まで働くことがないよう、適切な基準が設けられた。
また「働き過ぎによる死者」の存在が、国王を始め、主だった貴族や民衆にまで広まったおかげで、人々の労働時間を規定する法律――前世でいうところの労働基準法が整備されることになった。
新法制定に当たっては、クイルとヴェラも王国議会に召喚され、様々な意見を求められることになった。
ただし、王国議会に平民は加わることができない。
ヴェラは何と、あのヘルリッツ侯爵の養女となることで、貴族籍を回復していた。
それには宰相補佐官である父の根回しもあったようだが、ヘルリッツ侯爵自らが「ぜひに」と望んでくださったそうだ。
「あれほど聡明なご令嬢を平民のままにしておくなど、我が王国の損失である!」
――と、陛下の前で熱弁をふるわれたのだとか。
「そりゃそうよ。何なら聖女に推挙されてもおかしくないほどの霊力の持ち主を市井に放っておくなんて、危なっかしくてしょうがないわ」
「あのう、そのことなんですが、聖女様」
ヴェラはおずおずと訊ねた。
「子どもの頃の霊力判定では、私、霊力は全然なかったはずなんですが……」
「そうらしいわね。おそらくその時には、あなたの魂はまだ目覚めていなかったのでしょ」
「魂が、目覚める……?」
首を傾げるヴェラに向かって、聖女様はゆっくりと話し出した。
「聖女に伝わる教えではね。私たちの魂は、本来はずっと大きくて、この世に生を享けるまでの記憶がぎっしり詰まっているのですって。でも、大半の人の魂は、そのほんの一部が目覚めているに過ぎないの」
ごく稀に、他の人より多くの領域が目覚めている人だけが霊力を発現できるのだ――。
そう言われて、ヴェラには思い当たることがあった。
(前世の記憶)
それを思い出したのは、霊力判定よりずっと後、年頃になったヴェラのもとに釣書が届き始めた頃のことだった。
「それよりあなた、司法局の首席補佐官の職を蹴ったって本当?」
「ええ」
貴族籍を取り戻したおかげで、せっかくクイルと結婚できるようになったのだ。
「夜は必ず家にいて、休日には二人で庭を歩いて、退屈きわまりない老後まで一直線。そういう人生が夢なので」
「ああ、なるほど。だからクイルも――」
クイルは現在、聖女庁の長官職に就いている。
新たに増えた職員たちは、いずれも第一線を退いた王宮職員たち。年に数回、決まった式典を回すだけに仕事を減らした聖女庁は、今ではすっかりかつての長閑さを取り戻しているという。
とはいえ、それまでのクイルは王宮の各部署から引っ張りだこの人気だった。
というのも、典医局の臨時職員『ヘンリー』ことデュポン医師の殺害事件から、エルバン元第二王子による国王暗殺の企てを察知したのはクイルだったからだ。
クイルはすぐさまこのことを王太子殿下および国王陛下に具申。陛下が体調不良を装う傍ら、聖女様が当時すでに故人となっていたパーカーを呼び出し、王太子殿下の指揮の元、密かに調査を進めていたという。
だがエルバンはなかなか尻尾を出さず、各部署の帳簿についても、何の理由もなく監査を入れることはできなかった。
「そこへあの訴訟騒ぎでしょう? おかげで財務庁も司法局も、大手を振ってあちこちの帳簿を検められるようになったわけよ」
そこでもクイルは百戦錬磨の財務官や捜査官を尻目に、典医局からの金の流れをいち早く洗い出し、精霊祭でのエルバン元王子の検挙に一役も二役も買ったという。
――ざざあ、と湖を吹き渡る風の音に、ヴェラは物思いから我に返った。
「綺麗……」
どこまでも続く鏡のような湖の面が、雲一つない青空を映している。
「知ってた? ヴェラ。この湖はね、王国中で一番透明度が高いんだ」
ヴェラの耳元でクイルが囁いた。
「蒼湖。さしづめ、この世界のブルー・レイクってところかな」
「えっ」
ヴェラは振り向き、穴が空くほどまじまじとクイルの顔を見た。
おっとりと優しい性格で。身体を壊した職員の代わりに力仕事を引き受けたり、引退間際のおじいちゃん職員のチェスの相手をしたり。
だけど――。
(そうよ。考えてみたら、おかしなことはいくつもあった)
『だけど残念ながら、今のこの国の法律では、それだけでは――未必の故意だけでは、殿下を罪に問うことはできないんだ』
あの時、ヴェラが感じた違和感。
「未必の故意」なんていう言葉は、この世界には存在しないものだった。
それに、複数の帳簿から、金の流れを洗い出すあの手段。
「いやあ、我々も財務庁に勤めて長いですが、あのような方法は初めて見ました」
と、捜査に当たった係官が言っていた。
「……いつから?」
掠れ声でヴェラは言った。
一体いつから、前世の記憶を持っていたの。
いつから、私が前世のあなたの妻だと気づいていたの。
クイルは「うーん……」と困ったように頭を掻いた。
「初めて思い出したのは、君とお見合いした時だったかな。何となく、妻にするなら絶対この人だって思った」
ヴェラと違い、記憶は断片的に、少しずつ戻ってきたという。
「帳簿を調べているうちに、だんだんいろいろ思い出せるようになって。だけど、あの時は君ともなかなか会えなくて。下手に連絡を取ろうとすれば、殿下に君が狙われる、と王太子殿下に釘を刺されていたし」
事件が解決した後は、せっかくだからサプライズにしようと思ってさ。
そう言って、へらりと笑ったクイルに、前世の夫の笑顔が重なった。
「それより、君は全然気づかなかったの?」
「うん。ごめん。気づかなかった……っていうより」
思い出すのが辛かった。
ふと見せる笑顔に、何気ない仕草に、失った面影を見た気がするたびに。
「またいなくなってしまうんじゃないかって――」
「ヴェラ。ヴェラ、泣かないで」
言葉と同時に、優しく胸に抱きしめられる。
「もう君を置いていかないから。ずっと一緒に生きていくから」
夜は必ず家にいて、休日には二人で庭を歩いて、退屈きわまりない老後までいつまでも――。
〈Fin〉
予定を大分超過しましたが、ここまで読んでいただきましてありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら、↓の☆☆☆☆☆で評価をよろしくお願いします。




