母は恋のはじまり
火事場から勇者に運んでもらったとはいえ、迅速に助けられた事もあり、幾日か様子見の入院で済んだ鈴世は、既に恋に落ちていた。
「麗しきあの方にもう一度お会いできたら」
目はうるうると、恋という幸せの世界にもうどっぷりはいっていた。
窓際のベットに横になりながら眺める空は、露天風呂で眺めたあの空のように青く済んでいた。そんな青い空を見るたびに、鈴世の心臓の動悸は、友和をも悩ませる程、天にも登る洒落にならん高鳴りであった。
「母さん起きてる?」
病室に入ってきた秀樹が鈴世を呼んだ。
「あっよかった。着替え持ってきたから。。おーい母さん?」
いつもは珠希が着替えなど持ってきているが、心配な思いもあり、今日は秀樹が面会に来た。そんな秀樹をそっちのけに、ガッカリしている鈴世がいる。
「秀樹、母さんを救ってくれた方の事は分かったのかい?名前とか聞いたんだろうねぇ。あの時、珠希さんにお願いしたんだけど、何も言ってくれないんだよ。どうなんだい、知っているんだろう。」
鈴世は一刻も早く退院して、お礼
を理由に会いに行きたかった。
なので、聞けたのか物凄く気になっていた。
1日中ずっと恋の花を咲かせながら、ソワソワしていた。
「あーそのことね。聞きにいったよ。でもねぇ、相手の人教えてくれなかったんだよ。珠希が、どうしてもお礼したいのでって言ったんだけれど、「いいの、いいの」の一点張りで、それ以上無理に聞くわけにもいかなくて。結局教えてもらえなかったんだよ」
秀樹は、鈴世が恋に落ちてるなんて、もちろん知らない。このセリフがどれだけ心を痛めることになるかなんて、母親の持つ恋のオーラに気づくはずもなく、その後はただただ、苛立っている鈴世の相手をするだけだった。
なぜに気が立っているのか分からない。
秀樹はベッド脇にある椅子に腰掛けて、なんとか普通に戻ってもらうように話しかけてみる。
「母さんあさって退院になるから。俺来れないからさぁ珠希がくるよ。それで、今回こんなことになって里佳子さん、申し訳ないって落ち込んでたよ。兄さんなんか全体的に無事だし、お陰でいろいろ検査できたからよかった、とか言ってた。まぁ、母さん無事でよかったよ。」
連絡も兼ねて、家族の話も入れて、話してみた。
鈴世はもう、聞きたくもないらしく、いらいらしている。
そして秀樹を見ていった。
「もう一度!私を助けてくれた方を、もう一度探してきて欲しい。いい!とかじゃないんだよ。いっときでも早く探してきとくれ」
鈴世はそれをいうと布団をかぶり、窓際の方を向いてしまった。
「??なんだよ。母さんどうした??」
ふてくされている母に困惑した秀樹は、声をかけてもどうにもならないので、「帰るね」と一言いって病室をでていった。
秀樹は家に戻ると、すぐさま番台にいる珠希のもとに行った。
「よう!ひでちゃん。」
男性側の脱衣場にある従業員専用の扉を開けると、馴染みの客が声をかけた。
いつもいる顔がなかったので、客は出てきた秀樹に声をかけた。
「いらっしゃい」と手を挙げて秀樹はそれに応える。
目線はすぐに珠希に向かう。
珠希は女性客と話に花を咲かせていた。
他人の家の旦那や子供話はこの場の恒例でいて、にぎやかだ。
「珠希。ちょっといいか?」
珠希は顔を秀樹に向けた。
「なぁにぃーひでちゃん。私が聞こうか?」
と、これまた女性側から馴染みの客。
「やぁ、いらっしゃ。。まいっなぁ。服着てくれヨォ」馴染みともなると、恥じらいもない。
それがいいところと言えばいい所なんだが、それよりも珠希と話したい秀樹は落ち着かなかった。それを察知した珠希は、女性客たちとの話を切り上げて、それぞれの用途に向かわせると、秀樹と向き合った。
「で、なに?」
珠希は変顔気味に冗談で、ギラついた目で秀樹を見た。
そんな素ぶりに気づくはずもなく、無駄に終わった珠希にむけて、秀樹は話し始めた。
「いや、、そんな大した話じゃないんだけどさぁ。母さん、なんかずっとおかしいんだよ。」
「おかしいって?」珠希が頭を傾げる。
「いやぁ、俺の話なんて全然聞かなくて。」
「そんなのいつもじゃない」
「そーだけどさぁ。口を開けば助けてくれた人を探してくれってそればっかりなんだよー。こまったよ」
「あーそれかぁ」
珠希が秀樹の話に納得すると、女性客で帰っていく人がいる。その人に挨拶する2人。
続いて男性側も馴染みの客の入店に挨拶。
すると珠希があいたタイミングで
「お母さん、恋してるみたいよ」
と言った。
「はっ!?!?」
脱衣場にいるお客が男女共に振り向いた瞬間だった。
(なんだよそれ。いい歳して何考えてんだよ)
なぜか小さい声で話す秀樹だったが、平然と「いいじゃない」と返す珠希に困惑するのだった。
「いいじゃないってお前。」
「お母さんだって女よ、恋だってするわよ。あんなお母さん見ちゃったら、私だって後悔してるのよ。」
そんなことを聞いてさらに困惑する秀樹。
と同時に、珠希が病院に行き拒んでいた理由がそこにあるということにも気づいた。
(なんだよもう、俺にもそんなことになってるって教えてくれてもいいもんなのになぁ)と、珠希にはっきり言えない思いをボイラー室の壁にぶつけていた。