鈴世
「そこ!!ゴミ落としたら拾いなさい!」
昔ながらの街並みが広がるこの地には、こじんまりと営業している銭湯がある。
その銭湯の男湯側の壁際に小さな椅子が置いてある。
そこにはこの店の主、小牧鈴世が座っている。
銭湯は息子夫婦に任せている為、いつもここに座っている。
この鈴世、この辺りでは有名人の1人。
なぜ有名人かというと、とにかくモラルに反する行動に厳しい人間。
当たり前のことを言って、うるさがられるという、こんな皮肉な有名人もいないが、どんなものにも屈しない強い精神力もある、とても怖いもの知らずの人。
今日もこの椅子に座って、番人のように倫理感とはを教えている。
「おばあちゃん。おはようございます」
「おはようございます」
お母さんと手を繋いだ幼稚園生のこまりちゃんが鈴世の前を通りかかった。
「おはようございます、ゆうりさん、こまりさん。今日も元気に気をつけて行っておいで」
「はい!」
元気よく挨拶すると2人は幼稚園に向かって歩いて行った。この2人も、鈴世に教えられた者たちになる。
朝はたくさんの人が鈴世の前を通り過ぎる。
挨拶をする人間は、この小さな街の中であっても、ものすごく少ない。行き交うほどに声という音がない。
「はよぉっす!ばあちゃん」
先程の子のように、小さい時から鈴世のことを知っている若者はもちろん多い。
「おい、たつぞう!まて!挨拶とはなんぞや!教えたろう言ってみろ」
鈴世は杖をつきながら若者の前に立った。
「ばぁちゃんさぁ、おれ、[たつぞう]じゃないんだけど。そっちなおしてくれたらちゃんと挨拶してやるよ!」
避けて通ろうとした所を、鈴世はさらに前にたって行く手を遮った。
「巽あいさつ!」
鈴世はニヤリと笑った。
巽はその顔をだからなんだと言う顔で、
冷ややかに見ていた。
そして大きく笑顔を見せると、鈴世のディフェンスを抜けて巽はそのまま走り去って行った。
「くっ、やられた。!ふっ、でもちゃんと身にはなっとるようだな。」
意味と行動は必ずイコールでなくてはならない。と鈴世は考える。
挨拶が出来ないものは行動もまともに出来ない。鈴世はそう考える。
声を出すという事は、最初はとても勇気のいる事だけれど、やり始めると身について、そこからたくさんの勇気に変わって行動力も上がる。そして何より、挨拶から始まることは、人を幸せにできる人間形成のループが出来上がる。
と、鈴世はそう考える。
昔は人々はよく声を出した。声を掛け会うことがいろんな助け合いにつながった。心が幸せになるきっかけになった。
中には、挨拶はしないし出来ない者、汚い言葉を吐き出し続ける者もいた。そういう輩は汚いところに落ちて堕ちて人に愛される事なく堕ちて行った。 それを鈴世は見てきた。
だから、鈴世はそう思う。
挨拶は基本人間形成の基本。
そう鈴世は考える。
話は変わるが、鈴世には、5軒隣にある魚屋の鯉さんというお友達がいる。
それはそれは優しく穏やかな人で、魚屋には似つかわしくないくらい柔らかい人で。
趣味で日本舞踊をされているせいか、魚を捌く指先まで美しい。接客も美しくお客をつかむのもお手のものだ。
「いらっしゃいませ。あらぁごめんなさいね。天ぷらまだなんです。もう少ししましたら揚げますから、お時間あけてもう一度来ていただけます?」と首に巻いている手拭いを、そっと口元にもっていきながら流し目でちらっとお客をみる。鯉さんファンのお客にはてきめんだ。
年齢を感じさせないその美しさは若者までも魅了した。特に仕草には、若者さへも本能でグッとくるようだ。そんなもんだから、実は女性ファンも多い。
街では飴(鯉さん)と鞭(鈴世)といわれている。
もうすぐ銭湯も開店時間を迎える。
銭湯の暖簾をかけに、嫁の珠希が暖簾を持って出てきた。
白いシャツの長袖を捲り上げ、暖簾を上げている。上げながら、鈴世を確認した。
「お母さん秀樹さんが呼んでます」
ミーハーな鈴世は息子の名前を秀樹にしていた。
ちなみに秀樹には兄がいるが、名前を友和という。
そして、鈴世は秀樹に呼ばれているわけで
暖簾が出たからには女湯の方から入って行った。
「なんだい秀樹。用はなんだい」
息子は男湯の方にいた。
脱いだ服を入れるかごを並べていた。
「母さん、兄さんのところに行ってきてくれないか?!」
「…」
じーーっと秀樹を見ている。
秀樹は困った顔をすると、一度下を向いてため息をついた。
「母さん。兄さんも母さんに用事があるだけだから。必ず行ってくれよな。それから、青森のおじさんが送ってくれたりんご、袋にまとめてあるから行く時持っていってくれ」
鈴世はブスくれた。
「用もないし、行きたくない。」というと秀樹はまたため息をついて、
「葉ちゃんにも、たまにはばあちゃんの顔見せてやれよ」といった。
鈴世は仕方なく折れていくことにした。
友和の家は年寄りの足には少し遠く感じる距離の場所にあるので、散歩にはとても適した場所にある。いく時は散歩がてら歩いて向かうことのが多いのだが、友和の家に行きたくない理由が鈴世にはあった。
「鯉ちゃん。天ぷらちょうだい。」
鈴世は友和の家に行く前に、魚屋に向かった。
「あら、いらっしゃいませ。もう始めようとしてたところよ。鈴ちゃんのためならすぐあげるから待ってて」
「ありがとう。」
鯉さんに頼む天ぷらはいつも同じで、マグロとイカとエビとかき揚げの天ぷらを3個ずつ頼む。
「こんにちは。鈴世さん。」
「こんにちは。鈴世さん」
魚屋の前で立っている鈴世に行き交う人が挨拶していく。
その度、鈴世も名前を挨拶につけて返す。
「井田さんこんにちは。営業頑張ってね」
「宮田さんこんにちは。またね」
〜。
〜。
天ぷらが揚がるまでの間、挨拶が身についた者たちからの幸せの交換式がしばらくつづいた。
鯉さんは天ぷらを揚げながら、横目でまさたまにそれを見ながら、ふふッと笑っていた。
鯉は素直で不器用な鈴世の事が大好きなのだ。
「揚がったわよ、鈴ちゃん」
若者と楽しそうに話している鈴世に声を掛けた。
若者と挨拶して別れると、天ぷらをとりにいった。
「ありがとう、鯉ちゃん」
天ぷらの入った袋を手に取った。
「友和ちゃんのところに行くの?」
鯉さんはまっすぐな眼で聞いた。
およっとした眼で鈴世は返事をした。
「そーなの。わかる?」
鯉さんは、ニコニコしていった。
「分かるわよぉ。あたしと鈴ちゃんの仲でしょ。気をつけて行ってらっしゃい」
鯉さんは送り出した。
「行きたくないのよ本当は。」
それを聞いた鯉さんは、頑張ってを両手で表現した。
「あ、ありがとう」
鯉さんにも送り出されてしまい、泣く泣く長男のうちに向かった。
りんごが重い。その上天ぷらまで持っているから両手が塞がって歩きづらい。
仕方がないと、足を進めていると、うるさいほどに演説している政治家がいた。
住宅が周りにある中で、うるさいほどにくだらないことをマイクで言っている。
「おい!政治家!あなたには道徳心はないのか。自己中にこんなところでこんな時間に演説なんかするんじゃないよ。人の上に立つ人間になるならまず人を大切にするべきだろう。お昼過ぎは子供が眠くてぐずる時間だよ。こんな住宅地に近い場所で。しかも、信号から流れる音楽を阻害してないかとか、通行の邪魔になってないかとか考えるべきだろう。現に私は歩道を通れていない。自分を売るのは人や周りを見てからだろう。人を大切に出来ないものはなるべきではない!」
鈴世は説教の寄り道していた。
人が行き交う街並みで、少し行くと住宅地もある場所で、一生懸命自分を売っていた街頭演説している政治家に説教をしていた。
「本当にこんなんで国を動かす気でいるのかい?相当の努力と気合が必要だよあんた!ただ金貰う政治家になんてなるんじゃないよ。お天道様は見てるんだからね!!」
説教している鈴世の何歩か先には、人が止まってきている。
「あーそれからあなた。人が行き交うんだからちゃんと挨拶なさい!」
政治家は当然なことに、ムッとした顔をしていたが、周りに人がいるため、「申し訳ございませんでした。以後気をつけます。」と悔しそうに頭を下げていた。
鈴世は、当たり前のこともわからない、こんな年寄りに自分の意見も言えないような奴だったかと呆れて去った。
この世のなんと静かなものよ。あるのは不快な機械音のみ。
「機械音でりんごが砕けそうだ」
と鈴世は思っていた。
だが散歩道に並べられている花たちの美しいこと。
綺麗に草も抜かれていて
「花も土も人の温かさなり」
なんてことを言いながら足を進めていた。
「あー鈴さん。こんにちは。今日はいい日だね。息子さんのところかい?」
鈴世に向かって前から歩いてきた人がいる。
散歩をしていた原 玄さんというイケ老人に行き合った。
「あら、玄さん。こんにちは。天気はいいんだけど実は心は沈んでるのよ。そう、これから息子のところよ」
気の強い鈴世でも、(上の息子)となるとこうなることを知っていた玄さんはいった。
「大切にしてくれているんじゃないか。幸せ者ですよ」
捻くれている鈴世をみて、玄さんは笑顔で背中優しくをさすった。
鈴世は右手を挙げて、後ろを振り向くことなく「じゃ、いってくるよ」と小さい声で手を振りながら言った。
玄さんにあってから5分歩いた。
息子宅到着。
銭湯からは30分。
鈴世、到着しましたが足が重い。
天ぷらの事もあるので仕方なくインターフォンを押した。
「はい。小牧医院でございます。あっ!お母さん。ちょっちょっとまっていてくださいね。今すぐ行きますから」
声が偽物から本人に戻った。
鈴世はそう思っていた。
急いで来たのがわかる素振りで入り口に来た彼女が長男の嫁。里佳子42才。ちなみに友和は47才。もひとつちなみに、銭湯の秀樹が45才そして珠希が47才である。
「お母さん、お待たせしてすみません。どうぞ、入って下さい。今主人にも伝えましたので、すぐ来ると思います」
患者さん用の入り口の側に自宅用の入り口がある。そこから里佳子が顔を出した。
家に上がると、鈴世は天ぷらとりんごを里佳子に渡し、通されたリビングにあるふかふかのソファーに座った。
「今、紅茶をおもちしますので、ご自分のお家と思ってゆっくりしていてください。」
里佳子は美人で一生懸命な娘だが、鈴世が来ると一生懸命すぎて落ち着きが無くなるのが見ていて申し訳ないのだ。
「里佳子さん。すぐ帰るからお構いなくね。」
里佳子のためにと思っても、なんにせよ一生懸命な里佳子。息子の葉を呼びに行っていた。
里佳子に背中を押され、そっと入ってきた葉。
「おばあちゃまこんにちは」
ようやく落ち着いた感じがあった。
鈴世は立ち上がり、葉の方を向いて
「こんにちは葉君。暫くぶりですが元気でしたか?」といった。
葉は、恥ずかしそうに首を少し傾げて
「はい。お、おばあちゃまも元気でしたか?」
と言った。
それを聞いた鈴世はあまりの可愛いさに我慢できなくなった。
葉をギュッと抱きしめていった。
「ありがとう葉君。おばあちゃんはとーっても元気ですよ」
抱きしめられた葉は鈴世の腕の中でニコニコしていた。
腕を離し葉の洋服を整えていると、友和がリビングに入ってきた。
里佳子は、すぐに葉を自分の部屋へと戻した。
「やっときた。なんで呼んでも来ないの。だいたい聞かなくともわかるけどさぁ。母さん目立つんだから、医者の親が不養生なんて勘弁してくれよ」
友和は、リビングにつながる台所でカップを持ち、コーヒーを入れる。そのカップを持って鈴世のもとまであるき、1人用のソファーに座り、カップを置いた。
その瞬間、里佳子が友和に囁くと、目の前に血圧計を置いた。今更逃げることはないし、騒ぐわけでもないのに、血圧計持って来たくらいはっきり言えばいいのに。
と、鈴世はおもっていた。
友和の家には基本遊びで来るよりも、健康診断で呼ばれることの方が多いので、遊びに行くという思いで来たことがない。しかし鈴世は自慢じゃないが、体調には誰よりも自信がある。この自信たっぷりのまま居させてほしいと思っているのに、友和は鈴世の健康チェックに余念がない。大切にしてくれていると思えば親孝行だが、あれダァこれダァといわれると、それだけで病気になりそうだ。と鈴世はいつも思っていた。
一度放っておいてほしいと言ったけれども、無謀な賭けで困らせられるのは無理!と言われたので、呼ばれても行かないことに決めた。のに来てしまったのだった。
無事に健康チェックもおわり、帰ろうと思った鈴世に里佳子からあるお誘いの話が来た