第79話:お題に仕掛けられたトラップ
そもそも、英訳が書かれているなら、始めに文章を読み上げる事が出来ないのでズルいも何もないのだが、凪が言いたいのはそんな事ではなかった。
「コレ、英語チガイマス。フランス語デース」
審査員のフランス語の講師がそう言うのを聞いて、司会の越智は駆け寄ろうとしたが、紫藤に止められ代わりに舞台袖にいた浩樹が舞台に飛び出して紙を見た。
中身を見た浩樹は、確かにそこにフランス語で書かれた文章が並んでいるのを確認すると、小さく舌打ちした。
(叔父さんの仕業か!?)
浩樹は観客席の前列中央にいる教頭を睨み付けると、彼は勝ち誇った口調で言い始めた。
「今回の課題は『紙に書かれた文を英訳する』のであって、日本語を英訳しろとはない。ならば今、手にしているものでやるべきだろう」
教頭に賛同する声がチラホラと聞こえる。
審査員達はどうするべきか悩んでいる所に、教頭が畳み掛けた。
「特例だけに樹神君には、みんなにも分かるよう日本語に訳してから英訳してもらいましょう」
名案と拍手をする音も聞こえる。
「すまん。日本語を英訳するとは書かなかったあたしのミスだ」
審査員や浩樹を「大丈夫です」と下がらせる凪を見ながら、司会席で悔しそうに越智は紫藤の袖を掴んだ。
「静香のせいではありませんよ。普通この場合、日本語というのが大前提なのですから。
それに誰かが原稿を摩り替えたからこのような事態になったに過ぎません」
と、越智を宥めたものの、紫藤も内心穏やかではない。
(とはいえ、これはピンチですね。確か凪さんが選択しているのはドイツ語であってフランス語は習っていないはず。
ですが、凪さんは落ち着いている。大概こんな時の凪さんは何かある時。
……凪さんを信じてみるしかないですね)
紫藤はマイクを取って会場に鎮まるよう言い、審査員にも着席を促した。
「まずはこちら側の不手際をお詫びします。
樹神さんには教頭先生のおっしゃる通りにそこに書かれたフランス語を読み上げてもらい、日本語に訳したのちに英訳をしてもらいます。
その代わり、只今の時間はロスタイムとし、これより3分以内に答えて頂きます」
5分以内という縛りを教頭が突く前に敢えて譲歩案として掲示したが、いくら文章自体は短いとはいえ、3分では考える間もなく答えなければならない。
凪には大変不利だが、そうでもしないと恐らく教頭は満足しない。
越智もその点を理解し、何も言わず凪に賭ける事にした。
何か言ってくるだろうと思っていた紫藤だったが、教頭は何故か予想以上に満足した表情で着席した。
(あの表情……もしかしてあそこに書かれているのは日常使われてる言葉じゃない?)
となると、可能性は教頭は元外科医という点から、恐らく医学用語が使われている可能性がある。
日常会話と違い、医学用語は相当なボキャブラリーがなくては困難である。
越智は非常に珍しい事に紫藤が小さくではあるが舌打ちするのを聞き、急に不安になって凪を見た。
すると、彼女は越智を見詰めながら安心させるかのように頷いた。
その顔に対抗戦の時に見せた表情が宿っているのに気付いた越智は、気を取り直して凪を見守る事にした。
凪はゆったりと深呼吸をすると、挑むような表情でスラスラとフランス語の文を読み上げ、和訳まで一気にやった。
シンと静まり返るホールの中で、フランス語の教師はその完璧さに「素晴らしい」と絶賛した。
そして、今度は英訳。
これもまた、凪は淀みなく完璧な訳を披露し、審査員達だけではなく生徒達も拍手を贈った。
凪は頭を下げて、お礼を述べた。その表情に春の日差しを思わせる暖かい笑みを宿して。
結果は凪の単独首位で学力の違いを見せつけ、次に駒を進めたのであった。
☆
生徒会室に戻るなり、越智は安堵の吐息を洩らしながら凪に質問した。
「フランス語、話せたんだな。なぜ言わなかったんだ?」
「隠していたわけじゃなかったんだけど、聞かれなかったので……」
凪は困ったように苦笑した。
「でも、出題は日本語だと思っていたから頭が切り替わらなくて大変でした。しかも内容が内容でしたし……」
「いえいえ素晴らしかったですよ。よく医学用語が解りましたね?」
そう紫藤に言われ、凪は少し寂しそうに答えた。
「……スポーツドクターになろうと思って、医学書を読んでいたものですから」
テニスを止めても関わりたいという気持ちが伝わって、一同は何も答える事が出来なかった。
重たい空気が流れ、それを打ち消すようにおどけるように続けて言った。
「正直、もしあの問題がドイツ語だったらと思うと、ぞっとしますね」
「……出来ないのか?ドイツ語」
帯刀にそう聞かれ、凪は言葉を詰まらせて頷いた。
「だからドイツ語を第二外国語に選んだわけか。医学書にドイツ語は欠かせないもんな。」
なるほどと越智は頷いた。
「フランス語と英語は似てるスペルが多くあるのですが、ドイツ語は難しくて……」
凪は困ったようにそう言うのを見ながら、帯刀は教頭に対して鼻で笑った。
「大方、ドイツ語は分かる可能性があると判断したんだろう」
「解らないから学ぶという基本的な事が解らないとはね。あのおっさん」
越智もまた、バカにしたように鼻で笑う。
「ですが、やはり英訳は訛ってましたね」
「確かに。まあ、あの男のお陰で気にした者もいなかったようだから問題ない」
語学堪能な帯刀と紫藤に「訛」を指摘されて苦い笑みをこぼしていると、ドアがノックされた。
「失礼」
返事を待たずに開けられたそこには高杉がいた。
「どうかされましたか?」
凪がそう言うと、高杉は浩樹達を見た。
「あたしらは隣の資料室にでもいるよ。終わったら呼んでくれ」
越智が機転を利かせてそう言うと、男衆を連れて隣の部屋に消えていった。




