01 廃嫡済み王子は無事に追放されました
「……おい。そのアラピカとかいう田舎にはいったいいつ着くのだ。暑くて敵わんではないか」
「先ほどから何度も申し上げておりますとおり、夕刻には到着する見込みでございます」
このやり取りも今日だけで何度目になるか。トーマスは額から滴る汗をハンカチで拭いつつ、努めて平坦な声で応じた。
向かいの座席で不貞腐れているのは、かつてシアソレイユ王国で王太子と呼ばれしシグリッドである。
もっとも、王太子位を剥奪された今は元王太子と呼ぶべきであろうか。彼らを乗せた馬車は今、アラピカ村という辺境の領地を目指していた。
シグリッドは舌打ちをひとつ打つと、手のひらから小さな氷の塊を生み出した。——魔法だ。しかし生ぬるい馬車の中ではあっという間に溶けて彼の手を濡らすだけで終わってしまう。
苛立ち紛れに濡れた手をズボンに押し付け、彼はまた窓の外へ視線を逸らした。
車窓を埋め尽くすのは沈んだ心すらも照らし出す苛烈な陽光と、どこまで行っても代わり映えのない赤土の大地ばかり。車輪の単調な音が馬車の中の重苦しい空気をさらに際立たせる。石を踏んで揺れるたび、トーマスの身体も、そして潰えた名声も左右に大きく振られるようだった。
それもこれも、目の前でふんぞり返るように座っている青年こそがすべての元凶である。
かつてトーマスも『敏腕教育係』と持てはやされた時期があった。名だたる名家から請われるがままに足を運び、数多の子息や令嬢を社交界に出しても恥ずかしくない一人前の紳士淑女へと育て上げてきたのだ。
だが、十三歳まで我儘放題に育てられたこのシグリッドの教育係に任じられた日から、歯車は狂ったどころか完全に砕け散った。五年を費やした末に残ったのは砂の城のように崩れ去った名声と、尽きることのない徒労感だけであった。
王家主催のパーティで彼が晒した痴態を思い出すだに、深い溜息がこぼれ落ちる。
なにせ国内の要人が一堂に会したその会場で、彼は何をとち狂ったのか声高らかに宣言したのである。公爵令嬢であるセリカ・アルジェントとの婚約破棄を。
彼女は知性と冷静さを兼ね備え、類まれなる魔法の才を持つ王国の宝であった。
対するシグリッドの魔法はといえばコップ一杯分の氷を出すのが関の山。為政者としての能力も異母弟に劣る始末で、優秀すぎる婚約者への劣等感があったにしても、その振る舞いはあまりに幼稚で壊滅的だった。
ちなみに、一方的に始まった断罪劇はセリカの返す刀であっさりと論破され、王子の愚行の数々が白日の下に晒される結果となったのであるが——親馬鹿で知られる国王も流石に目を覚まし、シグリッドはその場で廃嫡、辺境送りが決まった。
そしてお目付け役を命じられたのが他でもないトーマスである。王子の振る舞いを是正できなかった罰としか思えなかった。
「……おい、まだ着かんのか。暑くて死にそうだ」
沈黙を破る不満げな声には反省の色など微塵も滲んでいない。安宿に文句を言い、飯がまずいと不平を漏らし、尻が痛いだの虫が出るだのと道中ずっとこの調子である。
トーマスは何も答えず、ただ静かに目を閉じた。
これから先、この男の癇癪に何十年と付き合わされ、誰に知られることもなく辺境で朽ち果てるのか——。
この馬車は華々しい過去からトーマスを引き離し、絶望しか待たぬ未来へとひた走る移動式の棺桶に他ならないのではあるまいか。
そんな暗い思考にどれほどのあいだ耽っていたか。
不意に、窓の外が真っ白に染まった。
網膜を焼くほどの閃光が走ったかと思ったら、ドォンッ! と天を裂くような轟音が馬車ごと空間を激しく揺さぶる。
馬の甲高い嘶きと、御者の怒声。がくん、と車体が大きく傾いて、たまらずトーマスは床に叩きつけられた。
事故か、野盗か、落雷か。混乱する頭を振って顔を上げると、先ほどまで不機嫌そうに座っていたシグリッドがぐったりと前のめりに倒れ伏しているではないか。
「シグリッド様、ご無事ですか!」
こんなのでも一応は主君である。血の気の引く思いで肩を叩くが、まるで人形のように微動だにしない。
あの雷鳴、まさか直撃したのか?
神罰の雷か?
——だとすれば、いっそ僥倖では?
そんな不敬な考えが脳裏をよぎった刹那、ぴくり、とシグリッドの指が動いた。続いて「ううん……」とくぐもった呻き声を漏らし、ゆっくりと身を起こす。
「——いってぇ……! マジでなに!? ……つーか、ここどこ!?」
顔は、見慣れたシグリッドのものだ。だがその口調も表情もトーマスの知る彼とは決定的に異なっている。
彼はきょろきょろと辺りを見回し、初めて見る世界を前にしたような顔で目を見張る。そして首元をパタパタと仰ぎ——無意識のうちにか、己の掌からコロンと小さな氷を生み出した。先ほど彼自身が作っていた濁った塊よりも、わずかに大きく妙に透き通っている氷を。
「うおっ!? 手から氷が出た!? え、なにこれ手品? いや……魔法?? ええ、なに? どっきり? また変な夢でも見てんの俺??」
「……シグリッド様?」
「……あれ? 特進科のベンジャミンセンセーじゃん! なんでいるの?」
誰がベンジャミンだ、誰が。
問い返そうとした矢先、彼は「あ、違うか」とあっさり首を振った。
「ごめんごめん。えーっと、おじさん、名前は何だっけ?」
……おじさん。親戚の子どもからならいざ知らず、王族からそのように呼ばれるなど想像の埒外である。
たまらず絶句するトーマスだったが、青年は純粋な好奇心がこもった瞳でまっすぐに見つめている。
そうか……狂ったか。
廃嫡のストレスと慣れない気候での長旅、それに雷の衝撃も組み合わさって、とうとう正気を失われたのだ。
トーマスは震える声で絞り出すように答えた。
「……トーマスと申します。貴方様の教育係でございます」
「ああ、そうだった。トーマスさんね! 教育係って家庭教師みたいなもんだよね? ……じゃあセンセーでいっか!」
にこにこと屈託なく笑うその笑顔に、トーマスは言葉にできない薄ら寒さを覚えた。この馬車は走る棺桶などではない。今や、正体不明の『何か』を乗せた混沌の箱と化したのだ。
以降の道中は終わりなき苦行へと変貌した。沈黙という名の安らぎは失われ、まるで別人となった主君が口を開くたびにトーマスの精神は削られていく。馬たちだけが先ほどまでよりも軽やかに馬車を引いていた。
「ねえねえセンセー、あれって何?」
「この馬車、いくらすんの?」
「外、出てみてもいい?」
そのたびに、「あれは鳥です」「存じ上げません」「おやめください」と淡々と返すしかない。
それに、センセーとはなんだ。もしもそれが「先生」のことを指しているのだとしたら、教育係という立場を思えばあながち的外れでもない。が、これまで「おい」か「貴様」としか呼ばれなかったことを思えば急過ぎる変化ではあるまいか。
得体の知れない存在への猜疑心は膨らむばかりだが——そのセンセーという響き自体は、空恐ろしいことに決して不愉快なものではなかった。
そうして質問攻めに耐えているうち、ようやく馬車が緩やかに減速を始めた。
「旦那様がた、アラピカ村にございます」
若い御者の声に、トーマスは観念して扉を開ける。
眼前に広がっていたのは、彼の想像を裏切らない見事なまでの田舎であった。
長閑という言葉で飾るには虚しくなるほど何もない。道端にたたずむ村人たちに覇気はなく、強い日差しにさらされているにもかかわらず双眸には一片の輝きも宿っていない。まとわりつく淀んだ空気は、貧困の匂いと、微かに腐乱したような酸味を含んで鼻腔を突いた。
——ここが、我らの墓標となる地か。
この果てのない絶望の中、得体の知れない『何か』と共にどれほどの年月をかけて朽ちゆくのか。
額に滲む汗を拭うことすら忘れ、トーマスは突きつけられた現実にただただ眩暈を覚えるしかなかった。




