8章_14
堺から帰り着いてのち、五郎は土御門内裏の一室で、一人の男と膝を突き合わせていた。
火鉢がひとつ、二人のあいだに置かれている。炭は多くない。継ぎ足す者も、いまは呼んでいなかった。
暦の上ではもうすぐ年が変わろうという頃で、板敷を這ってくる冷えが、袴の下から膝へ上がってきた。
今日の用はこれで三つ目である。体に僅かに疲れを覚えた。
ただ、何処に行っても話す内容は似たようなもののため、まだ頭は回っていた。
これ以外で、気になることと言えば、国元からも妻子に関する知らせのことがあった。
多くは戦勝の祝いと、正月のことは気にしないでくれ、という旨であり、火急の知らせはない。
ただ、母である中御門殿は京の様子を気にかけており、それとなく情勢についても教えてくれという一文が添えられていた。
下向した中御門家、正親町三条家の皆も気がそぞろで、墓参りどころではないのだろう。文の終いは、いつもの通り筆が急いで乱れていた。
「即位式は遠いな」
目の前の男、近衛関白がしみじみと言い、茶に手を伸ばした。人払いはすでに済ませてあり、先の面談よりも砕けた気で会っている。
襖は閉め切られ、供の者らも遠くへ下げてあった。
関白は茶碗を両手で包み、指を温めるようにしてから口へ運んだ。啜る音が、部屋に一つだけ落ちる。
五郎の前にも茶碗は置かれているが、まだ手を付けていない。膝の前に置かれたそれは、もう縁まで冷めていよう。
「紫宸殿の修繕からでございます。長くかかりましょう」
即位式は内裏の紫宸殿で執り行うのが通例である。そして、その肝心の紫宸殿は京の火災で焼け落ちていた。
ここへ来る道すがら、焦げた礎石の並びを横目に見てきたばかりである。
縄が張られ、その内で人足が幾人か、灰を掻き出していた。掻き出した灰は莚に載せ、外へ運び出している。
その人足らも、通りかかる供の列を見て手を止めた。
「内裏ばかり優先するわけにはいくまい。帝もそれは頷くことはない。京に焼け出された民がおるのに、荘厳な即位式などとあっては、聊か式の格も落ちよう」
関白は茶碗を膝へ置き、掌を火鉢へかざした。太い指が、炭の上で開いたり閉じたりしている。
爪の際には墨が残っていた。傍らには火箸が一本、灰へ挿したままである。
「とはいえ、帝をお待たせするのも悪し。京の普請と並列して行えば、多少は時期も早められましょう」
「侍従、能うのか」
関白の顎が、少し前へ出た。問う声は、先ほどまでより低い。
「材の歩留まり次第でありますが、まず能うかと。那古野の普請も落ち着いた以上、手慣れた者らもこちらに置けましょう」
「那古野、ああ、あの巨城か」
関白の声が少し高くなった。身を乗り出した拍子に膝が火鉢の縁へ当たり、灰が微かに散る。
散った灰を、関白は袖で払おうともしない。膝を戻すとき、また少し舞った。
「巨城というほどではございませぬ。大きく作れど、まだ人が入っておらず、寒い城にございます」
「さざれ石の如く乱れておった尾張があれで背骨が通った」
関白は掌を打ち合わせるようにして、指を擦った。
「粗忽者のやる大雑把な政にございます。京であのような大普請で人を治めるというのは、到底出来かねるかと」
関白が茶を飲みながら頷いた。飲み干したあと、茶碗の底をしばらく覗いている。
覗いたまま、指で縁をひと撫でした。茶を淹れ直しに来る者もいない。
関白は空の茶碗を膝へ戻すと、脚を割って胡坐に近い形へ崩した。
公家の座り方ではなかった。
どうやら本題に入るらしい。
「して、次の公方はどうする」
関白は膝を進め、声を一層低くして問うた。
はぐらかそうかと思ったが、やめた。実務の話になれば、隠し通すことは難しい。
五郎は膝へ置いた手を、袖の内で組み直した。指の先が冷えていた。
「さても、今は考えるべきことではないかと」
生きているなどとは言わなかった。
関白もそこには引っ掛からなかったらしい。
「公武揃って寿ぐが通例。何時ぞや、どこぞの侍従殿がそう申したと聞くが」
確かに五郎は中御門の叔父にそう言った。
「そのどこぞの侍従は身内に世間話として内々で話しただけと聞きますが」
「公家の内緒話など信じるあたり、その侍従殿は随分純な男よな」
関白は喉の奥で笑った。笑いながら、空の茶碗を膝の脇へ下ろしている。
笑いが収まると、太い眉のあいだへ皺が戻った。戻った皺は、そのまま消えない。
「ありていに言えば、堺公方殿しかおられませぬが、これを持ち上げるとあらば内外で要らぬ緊張が走りましょう」
「公家も武家も落ち着かぬか。其方が不在の間も伊勢守らがよう働いておった。これらの手が止まり、一から秩序を作り直すことになるのであろうか」
関白は火箸を取り、炭を一つつまんで置き直した。
置き直した炭から、細い煙が上がる。煙は天井まで届かずに消えた。
「その前に内訌でございましょうか。そうなれば蟄居しておる六郎殿を担ぐものも出てこられるかと」
「また争うか」
うんざりした口調で関白が額を揉んだ。
「何事も野卑な武士の行うことでございます。ですが、避けられるならば避けたく」
結局、武士は公家の真似をしているだけなのだろう、と五郎は思う。
公家が先の時代において、世が乱れようが内々で争ったように、武家もそれを行っている。
五郎にとって公武の違いはない。柄の違う皿に盛られた、同じ飯だ。
「公方がおらぬ方がやりやすい、か」
関白は顔を上げ、聊か刺のある口調で言った。
それは単に胸の内をこぼしただけに聞こえたが、だが同時に関白が公方を邪魔と明言したことでもあった。
「いま、その言葉を吐かれるのはおやめになされた方がよろしゅうございます」
関白が身を竦めた。目の前にいる者が、毒をもつ猛獣だと初めて気が付いた顔をした。
火鉢へかざしていた手が、膝の上へ戻っている。崩していた脚も、いつのまにか正されていた。
五郎はそこで初めて茶を飲み、それから言った。茶はとうにぬるく、舌へ残る味も薄い。
「公方様あっての幕府、足利あっての今川にございます。これを揺るがそうなどとは思いませぬが、天下静謐の御為には無理を通さねばならぬこともある。そのように世情を見ているだけとご承知いただきたく」
関白は茶を飲み、深く息を吐いた。吐いた息が白く見えるほど、部屋は冷えている。
火鉢の炭が一つ、音を立てて崩れた。崩れた先から、赤いところが覗いている。
関白はそれへ目を落としたまま、しばらく口を結んだ。だが、一呼吸、二呼吸おいてから、小さく言った。
「いや、要らぬことを申した。忘れられよ」
五郎は小さく頭を下げた。下げたまま、襖の桟のあたりへ目をやる。
微かに襖の向こう側で誰かが走る音が聞こえた。足音は女、女官のそれに思えた。
関白はそれに気が付いていないように見えた。茶碗を両手で包み直し、また指を温めている。包んだ茶碗から、湯気はもう立たない。
後世においては、この関白こそが公方謀殺の立案者、などと呼ばれるようになるかもしれない。
それは五郎にとって、別に悪いことではない。
「兎にも角にも、取り急ぎ京を落ち着かせましょう。その後に紫宸殿、即位式という運びになりましょう」
「随分と費えが掛かる。侍従には苦労を掛ける」
確かにここ数年で莫大な銭が動いている。
都合三度目の即位式の銭、二度目の禁裏修理の銭、戦の銭、そして京の復興の銭である。
だが、近江、伊勢、そして堺を得たことによる物流と商圏の拡大はそれを払って余りある利がある。
五郎はそのことを滲ませず、殊勝な顔を作った。
「そのようなことを仰せにならないでください。望むままにしておるだけでございます」
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そのようにして内裏を出た。出るまでのあいだ、すれ違う者すれ違う者が息をのみ、足を止めた。廊の端へ寄り、袖で顔を隠す者もある。
先を歩く案内の者だけが、振り返らずに進んでいった。その背も、門が近づくにつれて足を速めている。
次からは夜間の訪問のほうが良いのかもしれない、と益体もないことを考えた。あまり武家の男が焼けた内裏に出入りするのは望ましくないだろう。
そんなことを考えながら本能寺へ戻ると、執務室に三浦次郎左衛門が重々しく控えていた。
鎧姿ではなく正装であるが、どうにも似合っていない。肩の張った体に衣が突っ張り、襟がひとりでに開きかけている。
それでも膝だけは、きちんと揃えていた。五郎の顔を見るなり、その膝を前へ出してくる。
板についた手の甲が、日に灼けて黒い。衣の袖から出ていると、その黒さが余計に目についた。
「お疲れでございますな」
まずは第一声で砕けた言葉が出て来た。
「疲れてはいないが、銭蔵を派手に開けることになりそうだ」
五郎は沓を脱ぎ、文机の前へ腰を下ろした。座ると、内裏で固まっていた膝がほぐれた。
机の上には、まだ片付けていない紙が数枚残っている。部屋の隅の火鉢は、内裏のものより炭が多い。
背へ当たる熱で、冷えていた指がようやく動くようになった。
「よろしいのでは、安房守殿に聞くところ、増やした蔵の底がまた抜けたと。いっそすべて空にするぐらいでもよろしい。那古野の城の普請とてそれぐらいの勢いでやっても、前以上に蔵が膨らみ申した」
那古野の普請の折は、この男に預けた三河も大いに潤っているだろう。
だが、この度の京の復興自体は利に直接結びつきはしない。
「あれは自領ゆえに返ってきた。山城、京でやっても意味はなかろう」
「山城を自領にされぬので」
次郎左衛門が気に入らぬ、とばかりに言った。この男は正しく武士である。公家の荘園の横領など意に介さぬことらしい。
「一先ずは公家らの荘園分をあてがう。残っているものはそう多くはなかろう」
「甘やかしますな。無駄飯ぐらいでございますぞ」
次郎左衛門は胡坐の膝を開き、そこへ拳を置いた。
置いた拳が、話のあいだ何度も握り直される。
「誰がその飯を用意するかわかってもらえば、今はそれでよい。新たな公方を呼び込む、そのような無茶を頭から抜けさせたい」
少なくとも細川六郎やそれ以外の力量のある武士が入り込める隙を減らしたい。
公家らから一番信を得るために動くというわけではなく、どの武士を立てれば得かを匂わせたい。
そのように言うと次郎左衛門は納得したように頷いた。
「随分、色々と働きなされますな。ただ働きなのに、よう働くと京童らは噂しておりますぞ」
「ただ働きというわけでもない。従三位に叙された」
正式に公卿ということになる。武家としては破格の位階である、大内家に並ぶということになった。
次郎左衛門もそのことを察したようで、顎を撫でつけながら言う。
「ほう、大内殿を見るに参議ですかな」
「それは遠慮した。公家面して朝廷の内々に関わる、今はよろしからず」
ゆえに治部太夫に据え置きということになる。まだ朝廷の内に入るには早い。ゆるりと固める時期だろう。
「まあ、幕府の扱いが先でございますからな」
次郎左衛門はそこで話を区切った。火鉢の炭を火箸で突くと、突かれた炭が割れ、粉になって落ちる。
それからわざとらしく思い出す素振りで言った。
「そういえば、こんな言葉がございます。御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ。某の記憶が確かならば、吉良も今は御屋形様の思うがままでございますな」
東と西に分かれた吉良、どちらも今川の血になる。
仮に今、五郎が征夷大将軍へと足を進めようとした時、両家とも待ったはかけないだろう。
「それも悪くない」
次郎左衛門の笑みが深まった。火箸を火鉢の縁へ掛けたが、それはゆっくり傾いで灰へ落ちた。
落ちた火箸を、拾おうともしない。
「では明日にでも名実共に武家の筆頭ということにございますかな」
面白げに出た言葉に、五郎は首を横に振った。
「だが、それをやると結局、過去の先例に縛られるだけに成ろう。何事も歴代の公方殿の真似をせねばなるまい。幕臣らにも気を使い、数代で今川は無力化される」
目に見えている。足利は中枢に兵力を持たず、地方に力を預ける形なのだろう。
室町の系譜をそのまま使えば、いずれ今川も力を失う。
次郎左衛門は笑みを深めながら、頭を掻いた。
「では、如何します」
尋ねる次郎左衛門には強い興味が見えた。
そこで五郎はようやく、この男の暇つぶしに付き合わされているだけ、と気が付いた。
呆れながら息を吐くと、適当に言葉を締めくくった。
「それは其方らの働き次第。今川治部が高転びに終わらぬように、一つ頼む」
次郎左衛門が山賊の笑いをした。単なる締めの言葉だったが、この男の琴線に触れたらしい。
肩を揺らしながら、何度も自分の膝を叩いた。叩く音が板に響き、障子の紙まで震えるほどである。
廊下の向こうで小姓が足を止めたのが、障子の影で分かった。
「よろしい、よろしい。なんとも楽しくなってまいりましたな。先代様と共に遠江に踏み込んだ時を思い出して参りましたぞ」
「何事も取ることよりも取った後の方が苦労の方が多い。覚悟はしておけ」
今までの国全てがそうだった。
戦の最中より、終わった後の方が命の危険があった。
「そのころには墓の下にございます。苦労は倅らに任せたく」
「倅らに墓を壊されたくなければ、道筋は残すようにせよ。其方の如き人間は、乱世の後もまだ必要なのであろうから」
次郎左衛門は唸った。唸りながら、顎の下を掌で擦っている。
擦るたびに、無精髭の鳴る音がした。
「さてそう仰るが、果たして乱世は終わりますかな」
「当代で終わる」
それには確信があった。
「左様で」
うむうむと唸った。それから、ああ、と思い出して腰を上げた。
上げかけた腰を、そのまま下ろそうとしない。
「ああ、そう言えば、客人がお越しでございます」
五郎は顔を顰め、次郎左衛門を睨んだ。
暇つぶしなどしている場合ではないだろう。
「先にも申せ。誰だ」
「織田弾正忠」
切りますか、などと次郎左衛門は楽し気な顔をした。
顔つきだけは、三浦一門の誰よりも若い。膝を叩いていた手が、今度は腰のあたりへ伸びかけて止まった。
「詮の無いことを申し続けるのであれば、三河に逼塞させることも考えねばなるまい。大仕事は倅らに任そう」
次郎左衛門は怖い、怖いとばかりに少し、席をずらした。
ずらした先で、また胡坐を組み直している。
五郎は声を上げ、小姓を呼んだ。人払いをされていたが、小姓はいつでも来られるように控えていたらしい。
その小姓はすぐに、弾正忠を連れて戻ってきた。取り次ぎを終えると、膝で敷居をまたいで下がっていく。
弾正忠は敷居の手前で膝をつき、そこから膝行して入ってくる。埃を落としたばかりらしく、袴に折り目が立っていた。
五郎は文机の前へ座り直した。紙の端を揃え、机の隅へ寄せる。
「お久しゅうございます。弾正忠殿」
まずはそう言うと、弾正忠は静かに返した。
「お忙しいところ、申し訳ございませぬ」
「して、何用でございましょうか」
弾正忠が息を詰めた。背が伸びたが、どこか苦し気に口を歪めた。
膝の上では、指が袴の布を掴んでいる。掴んだところだけ、布が皺になっていた。膝から先は、身じろぎひとつしない。
「無論、昔日の約束を果たしに参った次第に」
次郎左衛門が意地の悪い顔で咳ばらいを挟んだ。
何か言おうとしたところで、五郎が睨むと、わかったとばかりに鼻で笑ってみせる。
弾正忠は気づかぬふりで、頭を下げたままでいた。
「失礼した、して昔日の約束とは」
「尾張守護に任じられた折は、織田弾正忠家は私心なくお仕えするというお話でございます」
そのような話であったか。
突っ込もうとも思ったが、やめた。
「左様か、では多忙のことは終わられた。そう考えてもよろしいか」
多忙、というのは今まで弾正忠が挨拶に来ることを拒んだ理由である。次郎左衛門が、鼻から短く息を抜いた。
抜いておいて、何も言わずに胡坐を組み直す。
「お心遣いをいただきましたので、片付き申した」
「それは良い」
五郎はそれだけ言って、立ち上がった。そして、文机に取り残されていた数枚の紙を手に取り、弾正忠の元へ滑らせた。
紙は板を滑り、弾正忠の膝の前で止まる。弾正忠は目を見開いた。
見開いたまま、顔は上げない。紙の端が、息で微かに動いた。
「京の再建でなにかと物がいる。今までは津島の商人らには遠慮をしてもらっていたが、今後は助けて貰わねば回らぬ」
人が集まるため、立て直し以外にもありとあらゆるものがいる。
今川の領地は物が溢れているが、今なお領地全体で細々とした普請も続いている。ゆえに他に物を出せるところがあるならば頼りたいのも事実である。
「奉仕せよ、と」
「商売しろ、と申している」
そうでなければ後が続かない。
弾正忠は訝しむように背を丸めた。
「よろしいのでしょうかな」
「できぬと申されるのであれば、無理強いはできぬ。手を挙げる者も探せばいよう」
弾正忠は少しだけ唇を尖らせた。才気はある。度胸もある。だが、予想外のことがあると若さが出る男であった。
膝の前の紙へ手を伸ばしかけ、その手を引いている。
「弾正忠殿は自分に力を付けさせても良いのかと聞いておられる」
次郎左衛門がぼそりと、だが楽し気に言った。
五郎が目をやると、形だけ怖がる素振りで下がった。
だが、確かに不審を解かねばこの大物は寄ってこないのだ。多少は胸の内を言って聞かせねばいけない。
五郎はふと、声を落として言った。
「筑前守殿の誘い、来ておられたのであろう」
五郎が言うと、弾正忠の目が細まった。
細めた目が、次郎左衛門のほうへ一度だけ流れる。
「何かを証明せよなどと申しているのではない。ただ、野心のままに前に出ることはできた場面で、そこもとは堪えた」
「ゆえに扱いやすいと」
弾正忠の声が低くなった。やはり若さがある。侮られたと思えば固くなるのだ。
「そうは思わぬが、世が定まっているうちは能臣であろうとされる。そう思うたまで」
「故事を引き合いに出すのであれば、そのような者は世を乱し、梟雄として大を成さんとするやもしれませぬが」
「割に合わない。それは分かっておろう。博奕としても得る物が少ない」
五郎が口の端で笑った。だが、弾正忠は笑わなかった。一層頑なに顔を固くした。
「天下を安いとも思いませぬが」
「天下など鐚銭の詰まっただけの壺」
五郎が言うと次郎左衛門が腹を抱えて笑った。
いい加減に鬱陶しくなり、袖口に転がっていた小石を弾いた。それは次郎左衛門の広い額に当たった。
当たっても笑いは止まらず、額を擦りながらまだ肩を揺らしている。
「おっしゃる通り、鐚銭とて集まれば安くはないが、抱えたところで晴れ晴れするかと言われれば、」
「身も重く、気も重くなるものでございますか」
経験があるのか弾正忠は訝しむ顔をした。笑う次郎左衛門と、五郎とを見比べている。
「この身が適当に申しているだけと思うならば、それで構うまい。ただ、弾正忠は働いている内に気が付こう。気が付けば、能臣であった方が得、利があると見られる、そう思ったゆえ、普通に使おうとしているだけのこと」
弾正忠は押し黙る。膝の前の紙を、今度は両手で取り上げた。紙を持つ指が白くなっている。
次郎左衛門は口を挟まず、灰へ落ちた火箸を今になって拾い上げた。
五郎はそれを見てから、ひとつ言葉をつなげた。
「して、どうする。私心なく仕える云々は忘れておこう、だが、一先ず仕えてみるが良し。そのために来たのであろう」
弾正忠はそこではっとした。
取り上げた紙を膝へ置き、その上へ両手をついた。
「いえ、私心なくお仕えするという言葉に嘘はございませぬ。津島の件もご配慮いただき言葉もございませぬ」
「左様か」
そうは言えど、野心の火は早々に消えないだろう。だが、無意味なことをする男でもない。
頭を下げたまま、指の先だけが紙の端を押さえていた。次郎左衛門はもう笑っておらず、額を擦る手だけが止まらない。
五郎は下げられた頭を見ながら、思いついたように言った。
「そう言えば、弾正忠殿に子はおられたか」
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享禄三年の年明けから一月ばかり経ち、五郎はようやく美濃へ戻ることができた。
途中近江を通り、代官を入れたばかりの観音寺城で一泊した。六角家当主の父子は、叡山に落ちたが、今なお六角家を支えた家臣らは近江に残っている。
近江が揺れることがあれば、父子を担いで反抗するだろう。ただ、今川家中でも心得た者を近江の代官としたので、六角家の勢力圏である江南は落ち着いている。
一方で、北近江、江北と呼ばれる地域は、六角の頸木から解き放たれ、大いに緩んでいた。
代官の口からも、国人らの名が幾つも出たが、特に浅井の伸長は著しい。そのうちに江北の旗頭となりうる、と報告が上がった。
とはいえ、今は力を注ぐのは京のことである。それが落ち着いてからでないと身動きは取れない。
幸い、近江、美濃、尾張、伊勢といった比較的新しい領国も落ち着いており、今川の国力自体は上向きである。
周辺が伸びるのは望ましくないが、名分さえ整えば、対応は十分に可能とも見ていた。
そのような知らせを受けつつ、五郎は京を発ってから数日で美濃の稲葉山に入った。
はっきり言えば、稲葉山より那古野のほうが豪壮である。移転当初は、どこをどう見ても、今川の本拠とは思えなかった。
だが、しばらく目を離した隙に山城としての堅牢化や城下町の普請が進んでいた。
大手の坂は石が敷き直され、馬の蹄が滑らなくなっている。城下には、新しい材の匂いが漂う家々が立ち並んでいる。
やはりまだ那古野よりも劣るが、今川領内の各城と比べても見劣りしない程度のものに変わっていた。
大林源助は所帯を持ってから、ますます働きが増したようである。
五郎は出迎えを受けながら、件の稲葉山城へ入った。
そして、自室にて待ち構えていた妻子と鉢合わせた。意外なことである。
妻子はともに尾張に置いており、まだ落ち着かぬ美濃には寄らぬようにしていた。それがこれである。
五郎は戸口で足を止め、顔と頭をすぐに内向きの物へと変えた。
「御戦勝おめでとうございます。ほら、龍王丸も」
朝姫が幼い長男、龍王丸の背を押した。押された龍王丸は、袴の膝を揃え直してから口を開く。
「おめでとうございまする。ですが、今少し早く帰れたのではないでしょうか。正月の挨拶ともなれば、御父上でなければできぬこともあり申した。産後間もない母上や、髪を落とした御祖母様だけで取り仕切るのは難しく」
龍王丸は寿いだが、口を開くとわっと不満が溢れて来た。年の割に本当によく喋る子供である。
「龍王丸」
朝姫が呆れるように、龍王丸の頭を撫でた。かつて少年のようだと思った朝姫であるが、この場面だけを見ればすっかり母である。
その様に龍王丸に構っていると、朝姫に抱かれた次男、千代丸がぐずった。朝姫はその子を抱き直しながら、柔らかく笑った。
ぐずり声は、抱き直されるとすぐに収まる。
「三人とも息災でほっとしております」
五郎が言うと、龍王丸は憮然として言った。
「四人になりました。父上」
「承知しています」
五郎がそう言うと、乳母が一人の子を差し出してきた。年の瀬に生まれた三男である。
襁褓に包まれた顔は、まだ赤い。乳母は両腕を伸ばしたまま、こちらの手が出るのを待っている。
「竹千代。御父上ですよ」
五郎は三男、竹千代を抱いた。出立する前に決めた名前の子である。腕の中の重さは、拍子抜けするほど軽い。
龍王丸がそれを見て、眉を寄せた。形の良い額に皺が寄っているのは何とも奇妙であった。
龍王丸は爪先立って、こちらの腕元を覗き込んでいる。
「如何された。龍王丸殿」
五郎が問うと龍王丸は訝しみながら言った。
「いえ、千代丸の時と違いしっかり抱かれるのだと」
「あまりおっかなびっくり抱くのも悪いと思うたまで」
龍王丸は、ふぅん、と唸った。唸るときに顎を引く。五郎の癖、父の氏親の癖と似ていた。
またそれがおかしく、五郎は笑った。龍王丸は僅かにむっとした顔をした。
「お許しなされよ。その癖は龍王丸殿の祖父君に似ておられる。治部がやると、人に怖がられるので避けたことでありますが、龍王丸殿のそれは中々に愛嬌があられる」
そう言うと朝姫も頷き、頬を上げた。乳母たちも顔を見合わせ、袖で口元を隠している。
龍王丸は少し嫌そうに顔を顰めると、五郎を見上げて言う。
「御父上は少し変わられた」
ああ、わかるか、と五郎は思った。
だが、首を横に振った。振るあいだも、龍王丸は目をそらさない。
「上洛で色々と見たゆえ、気が張っていたのやもしれませぬ。それが緩んだだけのこと」
「遠慮がなくなられた」
「増長していると」
五郎が短く言うと、龍王丸はまた訝しんだ。
「いえ、なんと申しますか」
龍王丸は言葉を濁し考えあぐねて、腕を組んだ。年相応のものではなく、やはりどこか成熟した気配がある。
五郎が朝姫へ目をやる。朝姫はどこか嬉し気だが、困った顔で首を傾げた。聡明で素直な我が子が可愛いらしい。
奇妙ささえある聡明さを可愛いで片づけるあたり、朝姫は存外豪胆なのかもしれない。
五郎は少し感嘆を覚えながら、腕の中の竹千代を、わずかに抱き上げ直した。
そのうちに、龍王丸が顔を上げた。組んでいた腕を、そこで解いている。
「ああ、なんと言いますか、御父上は険が薄れました」
「険か、それはよろしくない。恐ろしさも武器である故」
怖がられる、遠ざけられるのも武家の仕事である。
五郎は竹千代の背を、掌で二度ほど軽く叩いた。
「いえ、親しみやすさは、とんとありませぬ。そこは変わってはいないのですが、どこか突き放したところがなくなっているような」
五郎は喉を鳴らし、乳母に竹千代を返した。竹千代はじっと五郎を見ていたが、ゆっくりと目を閉じた。
「よく見ておられる」
「なにか親しい人でも京でできましたか」
朝姫が少し刺のある言葉で聞いた。五郎はそれも面白く、肩を揺らした。
「寄ってくるのは公家の男衆ばかり。女人などは寄り付きも致しませぬ。ただ、思うところはございました」
龍王丸がきょとんと首を傾げた。傾げた拍子に、前髪が目にかかっている。払おうともせず、こちらを見上げたままである。
五郎は朝姫がやるように、その頭を撫でた。
龍王丸、朝姫、そして乳母らが目を見開いた。これまで五郎が誰かにそのようなことをしたことはなかったからだ。
だが、それらに気を留めず、五郎は撫でた手を膝へ下ろし、軽く言った。
「人間、そう値打ちは変わらない。勝手に相手を高く置く必要もない。そう思うただけのこと」
五郎はそう言って、目を閉じた。
自分が天下人として理想的な資質を持っているかと言われれば、頷きはしない。
人を数字でしか見ない男。譜代の家臣すら信じていない男。妻の実家に幾重もの謀を仕掛ける男。
主君に欠片も忠義を抱かぬ男。帝に尊崇のその字もない男。
人の心を理解したうえで、それを安々と踏みにじれる男。
まず、善君ではない。人格を見れば、過去の聖君と比較し、あまりに酷い。
だが、その差というのは実際のところ、かつての五郎が思っていたよりも大きなものではないらしい。
ならば、まあ良いだろう。
善君でも、仁君でもないが、世を乱世から揺り戻す。その後に泰平の世を築く。そんな人物が自分でも構うまい。
他に相応しい人間が、力のある人間がいない以上。
五郎が生まれてくる道をふさいだ以上、やるしかあるまい。
今はそう思っていた。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




