第10話 兆しの風
風向きが変わったのは、午後に入ってからだった。
修道領の空は、朝から低く垂れ込めていたが、昼を過ぎる頃には風が強まり、雲の流れが早くなった。北方では珍しくない変化だ。それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。
「運搬が、遅れている?」
倉庫前で交わされる会話が、耳に入る。
「山道の一部が崩れたらしい」
「通れるが、馬車は無理だと」
私は、帳簿を抱えたまま立ち止まった。崩落。小さな言葉だが、ここでは致命的になり得る。配給の見通しが立っている今だからこそ、遅延は連鎖する。
修道院長エレナが現れ、短く指示を出す。
「今週分は、在庫で回す。無理はしない」
「運搬の再開は、天候次第だ」
合理的な判断だ。間違っていない。
けれど――。
私は、手元の帳簿を見下ろす。先日の見直しで、在庫は確かに増えている。だが、それは「平常」を前提にした数字だ。悪天候が続けば、想定は簡単に崩れる。
「……」
言うべきか。まだ、言うべきではないか。
迷いが、胸を掠める。
ここで口を出せば、私は“当事者”になる。様子を見る立場から、一歩踏み出すことになる。責任が、少しだけこちらへ寄ってくる。
王都なら、迷わなかっただろう。立場があったからだ。だが、今の私は――。
「リリアーナ」
名を呼ばれ、顔を上げる。
エレナが、こちらを見ていた。視線は鋭いが、拒絶はない。
「何か、気づいた?」
問いは短い。逃げ道も、ある。
私は、ほんの一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「……この遅延が長引いた場合、配給の余裕は二週間ほどです。それ以上は、再調整が必要になります」
事実だけを述べる。感情は添えない。
エレナは、帳簿に目を走らせる。
「二週間」
短く繰り返し、考える。
「代案は」
その一言で、私は理解した。
――もう、当事者だ。
「配給量の段階的調整と、作業人員の一時的な再配置を。特に、雪解け前に動ける人手を、今のうちに」
言葉が、途切れずに出た。考え抜いてきた内容だ。気づいてから、ずっと頭の片隅にあった。
エレナは、しばらく黙っていた。沈黙は長いが、重くはない。
「分かりました」
やがて、頷く。
「あなたの案で行きます」
胸の奥が、きしりと音を立てた。
「ただし」
続く言葉に、身構える。
「これは、私の判断です。失敗しても、あなたの責任にはしません」
それは、庇護ではない。線引きだ。
「……承知しました」
私は一礼した。
その日の夕方、修道士たちの動きが変わった。作業の割り振りが見直され、運搬の準備が前倒しされる。小さな不満は出たが、大きな反発はない。
誰かが、こう言った。
「早めに動いた方が、後で楽だ」
その言葉を聞いて、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
夜、部屋に戻ると、外では風が唸っていた。窓が軋み、冷気が忍び込む。
私は机に向かい、帳簿を開く。
責任を背負ったわけではない。名前が出たわけでもない。
それでも。
今日は、少しだけ立ち位置が変わった。
様子を見る人間から、気づいて動く人間へ。
その境界を越えた感覚が、まだ指先に残っている。
風は強い。
だが、今は――折れずに立てている気がした。
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