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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第17-03話

 翌日。常人より一週間ばかり長い夏休みを取った形になってしまい、ようやく学業に復帰した。もはや有名人になってしまった俺が始業式から一週間経っても登校していないという噂は、さほど生徒数が多くない高校らしく全校中の常識と化すのにさほど時間を必要としなかったようで、通学路を歩く俺はさながら見せ物にされた珍獣の如く、周囲の好奇な目に晒されていた。

 そんな俺を優しくサポートしてくれているのは、勿論真理。俺の義妹であり、そして……夏休み中に晴れて恋人となった、大切な存在だ。……そういえば、まだ姉さん俺たちの事を話してなかったな。今頃気付くとは迂闊にも程があるが、そんな重大な話をする余裕がなかったことも確かだった。

「お兄ちゃん、ほら、ワイシャツのボタン、一個ずつ掛け違えてるよ」

「お、ホントだ」

 真理は、わざわざ生徒の往来の激しい時間帯、五塚の正門前で堂々と俺のワイシャツのボタンを外しに掛る。しばらく甲斐甲斐しく直そうとした後で自分のやっていることの意味に気が付いたのか、急にその場を飛び退くようにして

「あ、後は自分で」

 と言い放ち、ぷいっと背を向けて歩いていってしまった。案の定、周囲の生徒からは羨望とも失笑とも嫉妬とも付かぬ、複雑な視線が……

 ……あのー真理さん、しかも俺のワイシャツの前を全開にしたまま行っちゃわないでくださいよ……




 真理と下駄箱の前で別れ、一人教室に入って自分の机の前に座っても……やっぱり特殊な目つきを感じるのは変わらないわけで。真理が一緒に居てくれない分、教室にいる方が見せ物になった度は格段に上だ。しかし、教室内には何となく同情ムードも漂っている。……そうか、カベの事だな。大ショックを受けたと思ってるんだろ、まあ確かにショックを受けたことは受けたがな、何時までも悲しんでいるわけにもいかないから、そしてそれをカベが望むわけもないからこそこうして出てきているのだが……

 ふと見ると、机の前に黒沢が立っていた。奴は、野球部三年の中で唯一同じクラスだ。

「加藤」

「おう」

「もう……平気なのか?」

 もう大丈夫、疲れは取れた……と返答しようとして口ごもった。『平気なのか』が指している事態についてが、当初の想像とは異なっていたからだ。つまり黒沢は、『カベを失った哀しみは、少しは癒えたのか』と訊いているのだ。その意味でも

「ああ、何とかね」

 と、少々頼りなさげな返答に止めておく。平気だから出てきたことくらい黒沢だって承知しているだろうから、それ以上は特に何も言わず思わせぶりにゆっくり頷き、自分の席へと帰って行く。……なんだか余計な気を遣わせちまったみたいだな。

 と思ってる間に、黒沢が戻ってきたぞ。

「言い忘れたが、今日の放課後にミーティングがあるから」

「え?もう俺たちは……」

「いや、どうやら国体出場の目があるから、その事に関する訓辞……みたいなものらしい」

 ああそうか、仮にも甲子園準優勝校だものな、実績的にも話題的にも十分すぎる結果を残したことだし、お呼ばれする確率は高いだろう。自分で予想したことがあるのにすっかり忘れていた。

「分かった。放課後に部室だな?」

 黒沢が席に戻ると同時くらいに担任が教室にやってくる、そして俺が席に座っているのに少々驚き顔……どうして驚くんだよ、何時までも引っ込んでるとでも思ったからか?……あのカベからの手紙が無ければ怪しかったけどな。



 ……そして、授業はつつがなく進行した。分かっていたことだが、カベ一人が居なくなってもこの世の大勢には全く関係がないんだな。あれほどの野球選手でも、野球を知らない人間にとっては他人の死に他ならないし、野球が好きでも『惜しい選手を亡くした』以上ではない。


 落ち込むのは、俺のように深い関わり合いがあった人間だけ……か。分かってる、分かってはいるが……そんな無関係な人たちだって、甲子園を見て興奮したんだろ?だったら……せめて覚えていてやってはくれまいか、高校球界でも最高のキャッチャーがこの世にかつて存在していたことを。そして語り継いでいってくれまいか。


 いかん、こんなことを考えているとまた涙が出てきそうだ。そういうときは勉強に集中、集中!……できねぇわ、やっぱ。



 どんな授業を受けたんだか、それとも受けなかったんだか……教師の話を聞いていないのだから、授業には出席しているが参加はしていないな……あっという間に放課後だ。真理に携帯で『放課後に用があるから先に帰っていろ』とメールを送り、人の少なくなった教室を出る……帰りのホームルームが終わった直後から携帯メールを打とうとしていたのだが、上手くタイピングも変換も出来ずに10分以上は格闘していた……。

 廊下を歩いていると、カベのクラスの前を通りかかり、そして……よせばいいのに教室の中を覗いてしまった。俺の潜在意識がそうさせるのか、それとも……

 カベの席はすぐに分かった。一学期の他のクラスの席順など知らないし、また新学期が始まったのだから席替えもしたのだろうが、それでも一発で分かった。


 ……何故なら、机の上に一輪挿しが置かれていたから。花は小さな向日葵。どちらかというと地味なポジションを護っていたカベへの、せめてものはなむけのような気がした。


 部室には、久々に野球部のメンツ全員が揃っていた。……全員じゃないな、全員じゃないけど全員と言う他無い。

 内容はこうだ、『まず間違いなく国体出場の打診があるから、練習はしておけ』と。最上級生がいなくなって羽を伸ばせると思っていたかも知れない下級生たちには悪いが、今一度このチームでプレイできるのは幸せだ。……永久に欠けた一つのピースを除き、な。今更それを言っても始まらないが。

 で、この報告をしたのが誰あろう……黒沢だ。全く、顧問は一体何をやってるってんだか……幾らお飾りとはいえ、やることが流石にいい加減だぜ……


 比較的早くに終わったミーティングに安堵しつつ部室を出、携帯の時計を見ると、既に四時を回ったところだった。早くに終わったといえど三十分は経っている。本当に時間の流れというもんは早いものだ。このままうかうかしていると、あっという間に歳を取って後悔ばかりするようになるのだろう、カベの遺言どおり、俺は一時も立ち止まる事を許されないのだ。

 校門を出ようとしたところで……

「お兄ちゃん」

 いつかの様に、真理が校門の裏に隠れていた。身体が小さいから本当に目立たないな。声を掛けられなければ分からなかった。場所を取らないで良いという意味ではエコ人間の仲間入りだな。メシを喰う量も少なくて済むし、まさしくこれから起こり得る食糧難に強い人種であると言えるだろう。

「まだ居たのか、先に帰ってろって言ったのに」

 嬉しいクセに、つくづく素直じゃないセリフが口をつく。お互い付き合っている身なのだから、照れ隠しをする必要が何処にあるんだ。こういった些細なトゲが崩壊を招き寄せる楔になることだってあるかも知れないのに。だが、真理はもはや慣れっこなのか、特に気にする風もなく

「うん、たまたまよ、たまたま。学校の用事があったから残ってただけ」

 と、こっちも本当なんだか照れ隠しなんだか分からない弁解。真理の性格から言って、真実なのだろうけど。

 一緒に帰ろう、と申し合わせることもなく当たり前のように同じ帰路につく。何時しか夢見た下校風景、隣には想いの通じた恋人を侍らせ、他愛のない話題に興じながら、家に到着する時間を惜しむかのように、あえてゆっくり歩きながら笑顔で接する。『夢見た』と言うとおり、俺のささやかな望みでもあった。

 俺は、端から見れば多数の幸せを得た、非常に恵まれた類の人間であることは間違いないだろう。だから……神サマとやらはカベを俺から奪っちまったのか?加藤聖という人間に過ぎたるもの二つ、美姉妹と真壁大成。俺にしてみればどちらも喪うわけにはいかない大切な存在なのに。


 胸中を察してくれているのか、真理は五塚の丘を降りているときから全く口を利かない。ひょっとして、気を遣わせているってこともあるんだろうか。話題を選ぶに選べない、はしゃぐのさえ、大切な人間を喪った俺に悪いと思っているに違いない。何処までも健気で、何処までもいじらしい。こんな聖女のような真理にも人を憎む感情などが存在するというのだろうか。想像しにくい。

「なあ、明日……放課後すぐに東京の親父の会社に行こうと思ってるんだが、行くか?」

「え〜っ、随分急ね」

「急じゃなければいけない用があるんだよ」

「電話じゃダメなの?」

「うーん……電話だと俺の考えてることが伝わらない様な気がして、な」

 これから親父に頼み込もうとしていることは恐らく誰にも理解されないだろう。だからこそ自分の考えの全てをぶつける必要があるんだ。声、感情、視線、表情、思想に理想にそして魂……。電話じゃ半分、或いはそれ以下しか伝わらない。

「明日は五時間授業だった筈だろ?時間的にも、放課後すぐに行けばそれ程遅くならない時間に着くと思うし」

 何のことはない、真理に傍について居て欲しいだけなんだ。俺の根本的な勇気の無さをフォローして欲しい。何しろ、親父がどんな反応をするか分からないお願いをするわけだから。

「……うん、行く。久しぶりにお父さんの顔も見たいし……でも由紀お姉ちゃんは?」

「姉さんは忙しそうだし……」

「……ふーん……」

 実のところ、親父のところに二人でわざわざ赴く理由は二つある。『無理なお願い』の他に……そう、俺たちの事を報告しに。結婚報告でもないのにわざわざ口にするのもどうかと思ったが、何しろ俺らは対外的には兄妹なのだ。そして、当たり前だが親父は俺らの親父な訳で。

「確かにお姉ちゃんは忙しそうだし……一応聞いてみるけど」

「そうしてくれ……俺はアポを取っとくから」

 一応親父はデジタル企業のシャチョーさんだ。筋は通す。いきなり押しかけるほどの常識知らずではないし、なにより行き違いになったら無駄足もいいところだ。

「何を話すの?」

「お前がその場所に居ればイヤでも聞くことになるだろ」

「……そうだね」

 今聞くことではないと悟ったのか、真理はそれ以上何も言わずに、丘の遙か向こうに見える、夕日で輝く太平洋に目をやっていた。



 翌日。

 放課後、前日から言い含めておいた通りに制服姿のまま、東京行きの電車に乗り込む。時刻は午後三時半。親父の会社に着く頃には五時近くになるかも知れない。しかしいくら遅くなろうとも、直に話をしなければいけない様な気がしていた。

 土日にかけての方が勿論時間は取れるが、一刻も早く手を打っておかなければという半ば強迫観念もあった。カベの記憶が風化しない内にやるべき事をやっておく。果たしてこれから親父に頼み込もうとすることが最善の策であるかどうかは分からない。むしろ糾弾される確率の方が高いだろう。だが……見せてやらなければならないんだ。

「お兄ちゃん、恐い顔……」

「ん?ああ、悪い」

「私に謝る事じゃないけど」

「いや、そんな恐い顔をしている人間と一緒に歩いてて、あらぬ誤解を受けたら困るだろ?ほら『うるとら☆すまいるっ!』」

 にかっ。

 自分としてはファストフード店でも料金を請求できるような完璧な笑顔を作ったつもりだが、周囲の人間が一斉にそっぽを向きやがった、何故だ。




 予想通り、目的地に着いたときには既に午後五時を回っていた。こりゃ、用件が済んだらすぐに帰らないと夕飯に間に合わないな。姉さんの帰り如何では出先で済ますようになるか。

 その目的地とは。

 ヒルズ。

 そう、あのヒルズだ。現代の伏魔殿とも呼べるこのITの中枢に、親父の会社は存在している。俺も現在の会社の所在地を聞いたときには驚いたさ……何しろIT企業のステータスシンボルみたいなもんだからな、ヒルズに居を構えるというのは。それでも最近は大分出て行く方が激しいとは聞いたが。

 そのビルの中の某所。

 真理と共に少々緊張しながら、美人の受付嬢二人にアポを取ってあることを告げると、大仰に内線でどこかに連絡を取り……その受付嬢の内の一人、ロングヘアで切れ長のエキゾチックな瞳のお姉さんが社長室まで案内してくれることとなった。

 案内する相手が自分の会社のシャチョーさんの息子であることを知っているのか居ないのか……多分知っているのだろうけど、表情一つ変えずに優雅な足取りで前を歩くその姿は……プロだねぇ。惚れ惚れするぜ。……決してお姉さんが美人だからじゃないぞ。……増してや決して真理が睨んでるからでもないぞ。


 しばらくぼーっと後を付いて歩いていると、島崎さん(ネームプレートに書いてあった)が足を止めたのは、重そうな木の両開きの前……ではなく、ありふれたオフィスの一角。机の上にさほど紙切れが散らばっていない所を除けば、ごく普通の会社のデスクとなんら変わりはない。開発事業だと言うから、もっといかにも『開発してるぞ!』感の漂う、コンピューターが居並ぶ空間を想像してたのだが。

 しかし、そこに座っている人間が違った。

 俺らに背を向けて新聞を読んでいたその人間は、気配に気付くとぐるっと椅子を回転させて相対した。

「おう、久しぶりだな」

 もちろん、俺の親父様だ。

 こうしてみるととても一介の社長には見えない。年齢的、或いは身なり的にもせいぜいうだつの上がらない、どちらかというと五時からの方の戦闘力に自信のありそうな中堅の会社員だ。

「去年の夏以来だな、真理よ」

「え?あ、はい」

 てっきり俺に話しかけて居るものとばかり思っていた。そういえばこの人は、こういうあからさまな依怙贔屓えこひいきをする人だったな。もっとも、本質的な部分ではとても子供想いであることは承知して……承知して……いいのか?一年も家に帰らない人間なのに。ま、そこら辺は大目に見よう。

「ついでに我が息子も……」

 真理と会話を続けるとばかり思っていたから、突然話をこっちに振られた時は驚いたぜ。

「随分と活躍をしたようだな」

 と、瞳と共に頭になでつけたオールバックが眩しく光った。整髪料付けすぎなんじゃないのか?しかし、今までの人生で父親に誉められた経験など皆無に等しい俺にとって、この一言は嬉しかった。そういう励ましというか喜ばせ方を子供の内から感じさせてやらなけりゃならなかったんじゃなかろうか……今でも十二分に嬉しいが。

「まあ、ね」

「そりゃ何よりだ。ワシのコネでこの会社に入らないで済むなら、それはそれで良いことだ」

「待て待て、何でここへの入社が規定路線なんだよ」

「じゃあ何か?色々と苦労して他の会社で働きたいのか?得体の知れない、こき使われるような環境で?」

「そりゃ……いや、でもな……安易にコネに頼っていいもんかどうか」

「今の時代、使えるものは全部使っといた方が良いと思うし、ワシも自分の目の見えるところで面倒を見たいということもある。……ま、もしそうなったらそうなったで色々と嫌みを言われる部分が出てくるだろうから、な」

「そもそも、どうしてこんな話になったんだか」

 でも、よく考えたら……普通の高校生をやっているのだったら、親と進路の相談を交わすなんて普通のことだもんな。俺は既に『上を目指す』事が規定路線、自身の特殊技能を伸ばす道しか選択肢はあり得ないと固く信じている。親父もその事を良く分かっているのだろう。

「まあいい。それで、直接押しかけて来てまで相談したい事って何だ?」

 唐突に本題に入るその眼光は、伊達に会社を切り盛りしていないと唸らされる鋭いものだった。親父の仕事の内容も良く分からないからどこに敬意を払えば良いか戸惑うが、この視線の鋭さが全てを物語っているような気がした。

 しかし、気圧されてはならない。伝えねばならない、あのことを。


 俺は、カベの一件のあらましを包み隠さず、全て伝えた。自分の感じている事、想った事や見た事聞いた事を全て。

「……話自体は知っていた。メディアでも割と扱いは大きかったからな……結局、去年の姉妹の誕生パーティで会ったのが最後か」

 親父は、そう言うと一端目を閉じ大きな溜息を付き……俺の顔を見た。

「お前は……」

 と口を開きかけ、

「いや、何でもない」

 と、一端開いた口を閉じるという事を知らない親父にしては珍しく口ごもった。俺が何だと言いたかったのだろう。『お前は平気だったのか?』か?それだったら……平気である筈がない。散々悩んだし、悲しんだ。それを克服しているからここにいると分かったからこそ、愚問だと口を閉じたのか。

「分かった。で、どうしたいんだ?」

「……」

 ちょっと勇気が要るな。普通だったら、まず間違いなくクレイジーな要求だと思われるだろうから。それこそ、一笑に付されるどころか、悪くすれば正気すら疑われる類の。

「実は……」

 拳が震える。なかなか口に出来ない。本当に、この方法が正しかったのかと自問自答しそうになるが……その拳をそっと握る暖かな感触があった。見ると、

 真理が側に立ち、俺の手を両手で包んでくれていた。どんな言葉を掛けられるよりも心強く、そして安心する。



 そして、本題に入った。



 ……さらに翌日。

 放課後、一端自宅に帰ってから用意していたものを、整備から帰ってきた普段の足用のフィアット・ムルティプラに詰め込み、カベの家へ。予めおばさんの在宅を電話で確認してから向かったぞ、もちろん。おばさんの方は、今更何のようかと訝しげだったが、取り敢えず待っていてくれるらしい。気が変わらないうちに急行だ。

 ちなみに、俺は今単身で立ち向かおうとしている。車に詰め込んだものは、おばさんが主張する単位でのカベの対価だ。これでしか認めないというなら、おばさんの価値観でカベの真価を示してやれれば良いだけのことだ。


 チャイムを鳴らすと、胡散臭そうな、そして疲労困憊といった表情でおばさんが中へ入れてくれる。想像していたとおりだったが、カベの家の中は質素そのものだった。余計な飾り付けはおろか、必要なものも見あたらない。……そうだ、まず第一に、どこの家庭でも一家に一台ある筈のテレビが見あたらないんだ。また、それを一目で確認できるくらいにすっきりした六畳一間でもある。

 ……確か、カベは去年の甲子園中継を見ていたはずだが……まさか、生活費を捻出するためにテレビを売り払ったのか!?……だったら、一緒にあんみつなんて食ってる余裕すらなかったんじゃないかよ……

「で、何の用です?もう用はないはずですけど」

 俺が部屋に持ち込んできた大きなトランクに眉をしかめつつ、そうぶっきらぼうに言ってくれる。そっちに用はなくともこっちにはある。そのためのトランクだ。デカくて重いっていうのにわざわざ持ってきたんだぜ。

「おばさん、あの時……通夜の時、何て言いました?」

「……覚えちゃ居ないね」

「そっちが覚えてなくてもこっちが覚えてるんだ、おばさんはカベを『期待はずれ』って言ったな?」

「言ったかも知れないね」

 ……何たる事だ。自分の言ったことにすら責任が持てないとは。カベはああ手紙に書いたが、どう考えても感謝を捧げるべき人間の類には見えない。俺の敬愛するカベを女手一つで育てた人間なのだから、それなりに見所があるはずなのに……

 まあいい。

「期待はずれなんて言わせない。……これがカベの実力の値段だよ」

 そう言うなり、俺は持ってきた大ぶりのトランクの留め金を外し、フタを開く……中から流れ出てきたのは……

「な、な……」

「これが欲しかったんだろ、おばさん。カベはこのくらいは稼いでくれると期待してたんだろ?」

 床に散らばる、

 札束。

 札束。

 札束。

 札束が、しかも、山と積まれている。

「ざっと5千万。きちんとプロ入りしていれば、契約金はこんな額じゃ済まないはすだ。でも、とりあえずこちらが用意できる額として、ね。あんたががっかりした息子さんは、それ位の印象を持たれてたんだよ。あんたが価値を認めなくとも、一緒に斗った仲間や、関係者にはこれくらいの評価ですら生温なまぬるいものだったんだよ」

 おばさんは、見たこともない現金を前におろおろするばかりだ。俺だって手が震えてる。普通に働いていれば生涯賃金的には一生縁がないとも言えない額だが、しかし一瞬の内にこれだけの額を現金として持ち出せる人間は限られているはずだ。

「これ、やるよ」

「……!!」

 言っている事が理解できないのだろう、おばさんは目が泳いでいる。それもそのはず、余りに常軌を逸した俺の言動なのだから。素直に受け取れといって受け取れる額ではあるまい。何かしらの陰謀か、さもなくば何かのドッキリとしか思えないで当然だ。

「と言ったところで信じるわけもないだろうから……こっちも持ってきた」

 懐から書類を取り出す。

「親父の会社の株券、5千万相当。流石にどっちとも、と言うわけにはいかないけど、おばさんが好きな方どちらかを譲りたい。株券の方が胡散臭くないだろうけど、そのかわり現金化するのに時間が掛かるみたい。それにどっちを選んでも税金面がややこしいみたいだけど、そっちはまあよろしく頼んます」

 正座から、驚愕のあまり足を崩したおばさんに一歩詰め寄る。

「その代わり、認めろ。カベはこれだけの価値を持った人間だということを。本当のカベの価値は金額の大小なんかで計れるもんじゃないが、こっちの方がおばさんにとって分かり易いんだろう!?」

「……」

「カベは……カベはな、そんなあんたでも育ててくれて感謝してるって言ってたんだ。だったら!」

 思い切り壁を左手で叩く。おばさんの身体がびくっと跳ねた。

「自分の腹を痛めて産んだ子が、他人の記憶の中に生き続けるかも知れないという事実を少しでも喜んでやったっていいんじゃないか?」

「……」

「世の中には、記憶に残るどころか負の記憶を植え付け、人を傷付けてのうのうと生きる人非人にんぴにんだって居る。でもな、カベは……真壁大成という人間は、間違いなく人から尊敬されて、後世に伝説として語り継がれるような事をしたんだよ。だから……認めてやってくれないか。カベが……自慢の息子だったと」

 泣けてくる。こんな当たり前の事を懇願しなくちゃならないなんて。カベの偉業は誰にでも一発で理解されるもんだとばかり思っていたから。情けなくて泣けてくるんだ。

「……」

「さあ」

「……」

「早く!」

 認めろ。

 しかし……

「要らないよ」

「え?」

「もらえるわけないじゃないか、そんな金」

「では、認めてもらえないということか」

「そんなわけあるか!」

 今までふさぎ込んでいた所の大声だけに、今度はこっちが驚く番だ。

「そんな事をしてもらわなくたって、あたしは自分の息子が可愛かったよ!ただ……ただ……あの子が子供の頃から大志を抱いているのが分かったから、あえて突き放そうとしたんだ!それも知らないで……赤の他人のあんたが、子供を想う親の気持ちを知った風な口を叩くんじゃないよ!」

 たじろいだ。胸にすがりつかんばかりの勢いと、ここに来て初めて胸に届いた『母子の愛情』に。こちらとしては母親の立場を出されると辛い。何しろ、俺は全く母親の愛情というものを知らないのだから、その強さを量る術もない。

「ただ……普段から突き放すようなフリしてると、本当にそうとしか振る舞えなくなっちまうのさ……それに気付いた時にはもう手遅れだってね。子供を愛するって事は簡単に見えて実は結構大変なことだし……それに、消えた主人に似てるあの子を疎む気持ちも少しはあったんだよ。どうしてわざわざ消えた人間に似てるのか……あたしに似てればもっと可愛がったかもね」

「……」

 浅はかだったのは俺の方か。子を想わぬ親など居ない、そう信じていた筈だから、おばさんの言うことも当たり前なのに……、何を動揺しているのだろう。

「もう良いだろう……どんなに悔やんだって悪態をついたって、ヒロはもう帰ってこないんだ……」

 ヒロ。

 カベの、恐らく母子のみで通じる愛称。もっと昔は、この名前でカベを呼び、一緒に遊んで、心苦しいながらも一人で留守番をさせて……十八年間過ごしてきたんだ。カベもいっぱいいっぱいその名前で呼んで欲しかったに違いない。だけど……全てを我慢して、母親を楽にさせる道に向かって突き進んでいたんだ……。

 その瞬間に見えてしまった。

 左手にスーパーの買い物袋、右手に幼いカベの手を引き、優しい微笑みで彼を見つめながら夕焼けの中を仲むつまじく歩くおばさんの姿。

 きっと、そういう時期もあったに違いない。

 ちらりと部屋の隅を見た。

 粗末な仏壇の上には骨壺とカベの遺影、そして紫煙をくゆらせている線香。その遺影は……俺が今まで見たこともない写真。五塚の制服を着てはにかんでいるところを見ると、恐らくは高校入学時におばさんが写したと思われるものだった。


 ……もう、止めだ。

 おばさんの言うようにカベはもう……帰ってこない。おばさんだって苦しいことは最初から薄々分かっていたはずだ。俺がこうして強引に迫ることによって、ますます苦しめてしまうことにも。本当に子供がどうでもよければ、今の今まで野球なんてやらせていなかっただろうから。俺がバカだったんだ。結局のところ、これは俺のやり場のない怒りの歪んだ捌け口なのだ。しかも本当に自分が稼いだわけでもない金を持ち出して、だ。


 でも、それならそれで……

「泣いてやってくれませんか」

「え……?」

「せめて、泣いてやってください、カベの為に」

「……」

 おばさんは、正座して俯いた。

「出来るのかねぇ、あたしに」

「カベ……いや、大成くんは、貴女に対して恨み言の一つも言ってなかった。愛してたんですよ、お母さんを。ここまで育ててくれたお母さんを。だから……泣いてやってくれませんか、あいつを愛していたと、俺に……いや」

 遺影を見る。普段は滅多に見せないはにかんだ笑顔が、桜満開の木の下で眩しかった。よく見れば、そこは五塚高校よりもずっと高台にある、あの神社の境内だ。

「世の中に誇れる息子さんに向かって」



 しばらく俯いていたおばさんの肩が引きつるように、小刻みに上下しだした。そして、

「ううっ」

 嗚咽……

 最後の最後で、おばさんの様々なものをせき止めていた堤は決壊した。そう、息子の為に泣くのは半ば親の義務みたいなもんだろう。特に……その息子がこの世を去ったのなら尚更だ。元々、人の為に泣いてやることが悪い筈がない。


 床に散らばった札束を無造作に片付けてトランクに詰め込んだ後、さっさと家を出る。ここから先は恵まれない親子の魂の交換の場だ。部外者である俺の出番ではない。

 真壁宅を出て振り返ると……家の中から号泣が。それが外に筒抜けになってしまうほど小さく、薄い壁の家なのだ。

 でも、そこには真壁親母子が過ごしたぬくもりがあった……と感じたのは気のせいだっただろうか。

 結局俺一人がバカみたいなマネをしたに過ぎなかったのだろうが、これでいい。

 これで良いんだ……




「で、結局使わなかったのか」

「ああ。思い直してくれた」

「そうかそうか。こっちとしても、アテのない人間に金を貸すのはいささか不安だったんだけどな」

 真理が淹れてくれた、アールグレイの濃密な芳香に満たされた自室。

 電話の向こうで親父が笑う。

「だから頼んだじゃないか、一生掛っても返すからって」

「一生……ねぇ。今のお前なら、一発でおつりが来るくらいの稼ぎをすると思うが」

「多分ね」

 あの時、わざわざ親父に直接会って頼み込んだ事とは、借金だった。五千万、さっきおばさんに渡した金だ。

 カベの存在意義を分かり易い形で伝えるためとはいえ、流石にどきどきしたが……まあこれで良かったんだろう。一発で、ぽん、と気前よく出してくれた親父様にも感謝するべきなんだろうな。当初は俺の正気すら疑われている始末だったが、カベの尊厳が関わっていると訴えたら途端に態度を変えたんだ。親父はカベという人間を相当買っていたらしい。

 しかし……一応は俺の借金という形であるけれど……ま、冷静に見てみればかな〜りイヤらしい札束攻勢にしか映らなかったかも知れない。

「さて……お前はどうするんだ、これから」

「これからって?」

「進路のこと、さ」

「……」

 進路、か。

 実を言うと、夜にひっそりと考えたことがある。それは、社会通念上は全くけしからん方法なのだが……

「決まってる。決まってるけど……取り敢えず国体が終るまでは静観、かな」

「静観……親父様にも言えない事なのか?」

「まぁ……ね。言ったら多分叱られるから秘密にしておく」

「随分公然と秘密があることを暴露したな……そんなものは秘密でも何でもなくて単なる疑念に成り下がるぞ」

「良いんだよ、とにかく……俺はもう立ち止まらない。言うなれば、学校に通うよりも大事なことを見つけただけだ」

「それで大体見当が付いた。色々と経験して、お前の小さい脳みそで自分なりに考えた結果だろうから、ワシはもう何も言わん。せめて温かい目で見守ってやるのが親の責務だろう」

「……ご理解とご協力、助かりました親愛なる親父様」

「うげ、気持ちワリィ言葉遣いだ!……ところで聖」

「ん?」

「ワシの可愛い娘に手を付けてはおらんだろうな?」

 一瞬息が詰まった。

「そ、そ、そんなことはないさぁ」

 いかん、語尾が裏返った。

「隠すなよ。ワシのところにきた二人の態度を見れば分かるんだ。雰囲気とかもな……伊達にお前の倍生きてる訳じゃない」

 お見通しって訳かい。そうなれば隠し事をするのも気分が晴れないな。

「バレちゃあ仕方がない……っていうか隠すつもりなんて無かったけど、そうだよ、付き合ってる。恋人として」

「……」

「も、もちろん未だに何もしてないし、家では節度ある接し方をだな……」

 電話口が無言となったのに焦った俺は、あたふたと弁解の言葉を並べる。が。

「あっはっは〜!」

 と、豪快な笑い声で返された。

「そこまでは心配しとりゃせんよ。例えそうなっても……ワシが止めて良い類の問題じゃない」

 前々から思っていた事だが、本当に理解のある親だな。見方を変えれば、完全放置とも取れるが……ま、体の良い放任主義と受け止めておこう。俺にとってもそっちの方がいろいろと都合が良いし。

ほどほど(・・・・)にな、何事も」

「分かってるって……オヤジが言うとどうも卑猥に聞こえるのは気のせいか?」

「そういう意味も含めてあるから当然だろ」

「おいおい」

 しばらく細かい身辺の事を話してから電話を切った後、紅茶を啜って考えを纏める。

 ……これで良かったんだろうか。結果的には、カベの名誉を守ることに成功したに見えるが……どうもおばさんの心の中では端からきちんと事実に向き合ってたっぽいし。そう考えると自分の行為があまりにも浅はかであると言わざるを得なかった。ひょっとすると、親父はそれすらも俺に人生経験を積ませるつもりで快諾したんじゃないだろうか?考えすぎかも知れないが、切れ者の親父のことだ、やりかねない。

 そして。

 俺の進路。

 『上を目指す』事には変わりはないが、問題はその方法だ。国体が終ってから卒業するまで約半年間の空白が空いてしまう。元々野球経験のない俺にとって、そのブランクは死活問題だ。

 だから俺は……ある決意をした。この決意はもう揺るがない。カベとの約束を果たすため、一分一秒たりとも無駄には出来ないのだ。

 早速明日から練習を再開しよう。俺に残された時間はあまり多くないと言った方が正しい。その期間内で全力を尽そう。

 

 カベ、これでいいんだよな?

 俺は上を目指す。全力で。だから……見守っていてくれ。



   

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