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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第17-04話

 昼間の太陽が夏の日差しを完全に忘れるヒマも無い内に、学校行事はつつがなく、そして着々と俺たちの卒業に向けて進行して行っている。

 学校を休んでいた間にも、文化祭の準備が急ピッチで進み、何時の間にか終盤に差し掛かっていた。授業は午前中だけで切り上げられ、午後は準備に費やされる。俺はと言えば、ほんの一週間学校から離れていただけなのに殆ど浦島太郎状態で右往左往、自分のクラスの出し物準備をしている現場を回り、人手の少ないところを手伝う雑用係……というポジションに落ち着いている。

 しかし、一口に便利屋代わりとは言えどもなかなか忙しいものだ、どこか人目に付かないところに隠れていればサボりなど幾らでも出来るのだが、今年は何故か自身がやる気になっている。最後の文化祭という思い入れも勿論あるけど、俺にはもう一つ……特別な理由があるからかも知れない。

 取り敢えずこうして忙しさにかまけていれば、後の不安など考えなくても良いし、何より楽しいから……でも、それは結局向き合わなければいけない問題から逃げている事に他ならない訳で、自分の行く末についてあれこれ考えるのがとても恐いって事でもある。


 ……真理にいつ打ち明けようかと思っている内にあっという間に一週間が経ってしまっていた。夜、真理の部屋の前に何度となく立ったが言えず終い。きちんと付き合いをしている身なら、きちんと自分の身の振り方のことを説明する義務は当然あるはずだ。妻に内緒で脱サラしようとしていたサラリーマンじゃないんだから、必ず俺の考えに賛同してくれるはずだ。元より俺は他の選択肢を考えてないし、しかしもし……仮に……万が一イヤだと言われたら、自分の中で妥協点や打開策を全く考えていないから相当のショックを受けることになるのもまた簡単に想像が出来る。だからこそ打ち明けあぐねているのだ。

 と、ぐだぐだ似合いもしない悩みを解消するために身体を動かしている……そういうことだ。俺らのクラスの出し物は中庭でテントを設営してのドリンク販売だから、自前で用意しなければならないものなどそうは無く、大体がレンタルで済ませてしまえば事足りるようなものばかりだから楽と言えば楽だ。生徒は、その代わり自身の所属している部活などの手伝いに余念がなかったり……あったり……俺の考えているように、適当に身を隠している人間も多分大勢いるのだろうが……そんな奴は最初からやる気がないのだからアテになどされてないだろう。

 と言うわけで、俺は黒沢に頼まれ、野球部特製フードコートの会場設営を頼まれている。フードコートなどと大仰な名前が付いてはいるが、やることと言えば日除け用のテントを張る位しかないのだが……テントと言っても、わざわざレンタルするのにも金がかかるから、体育祭本部用の天幕を代用として引っ張り出してきて(五塚は数年前から体育祭の開催をしなくなっていた……生徒が盛り上がらないかららしい)設営するだけ。今まさに、フードコートのテーブル用ブロックを運んでいる途中なのだ。まさか拒否するわけにも行かず、細心の注意を払ってグラウンドにコンクリート製ブロックを置き、一息つく。間隔を空けて積み上げたブロックの上に厚めの板きれを乗せれば臨時テーブルに早変わりだ。中庭などで売っている飲食物を日陰で楽しんでもらおうという、安直ながら来客者にとっては有り難い設備の筈だ。特に、天気予報によれば文化祭当日は真夏の太陽が戻ってくるらしいし。

 しかし……こうしてブロックを運んでいるだけでも脚が重い。約半月練習を休んでいたに等しいから体力がやや落ちているな。一応、夜もやや遅くなってから、後は風呂に入って寝るだけという状態にしておいてのランニングだけは欠かしていない。それが何処まで体力の維持に繋がっているかは心許ないが……仮にも全国の注目が集まる国体に出場するのだから、そろそろ本腰を入れてブランクを取り戻すようにしなければな。

 額の汗を拭って振り返るとそこには……何時の間に歩み寄ったのだろうか藤間が立っていた。

「おう、どうしたよ」

 傍まで近寄り、巨躯を見上げる。このアングルだと、体格に比例して大きな顔が遠近法で少しだけ小さく見える。法隆寺の仁王様と同じような塩梅とでも説明すりゃいいだろうか。

「あの……国体の事なんですけど」

「ああ、そうだな。そろそろ練習するか」

 おずおずとした物言いの藤間にそう先手を打ってやると、やや沈みがちだった表情が一発で晴れ渡る。その変化が余りに素晴らしいもんだったから思わず苦笑い。藤間の奴、俺の球を受けるのがそんなに楽しみだったのか……。そこまで慕われて面白くないわけがない。ここは藤間の思い出作りの為にも、そして次代の五塚のためにも積極的に後輩の面倒を見なくちゃな。何しろ三年がごっそり抜けてチームを組めない人数になってしまったのだから。考えてみれば、一年・二年の中から投手は育っていたのだろうか。後輩が七人居れば一人くらいは小学生時に投手経験のある奴は居たっておかしくはないけど……前途は多難だ。これから先、練習試合をやろうと思っても外部から助っ人を連れてくるような形で人数を補充して行わざるを得ないから億劫だろうし、そして……来年、桜の咲く頃には、まず彼らは部員集めに奔走しなければいけない訳だ。夏の甲子園準優勝という肩書きで、只でさえ少子化社会のこの世の中で果たして何人部員を確保できるのかどうか……俺も出来ることなら協力はしてやりたいが。そもそも本来なら、野球部は例年相手校を招いて文化祭特別公開試合を開く習わしなのだ。去年、日学藤沢相手に投げて金星を挙げた試合(そういえば、当時ではまだ金星という認識だったな)、アレだ。ところが、今年は一・二年の人数が足りず試合を開催できなくなってしまったからこそ、野球部はグラウンドを開放したのだ。これは屈辱を通り越して情けない以外の何物でもない。何しろ試合が出来ないんだから。助っ人を補充するという苦肉の手段も、こと忙しい文化祭中とあっては人など集まろう筈もない。とりあえず三年は国体に出場する事が確定的だけに引退こそしていないが、練習試合は一・二年だけが試合に出てくるんだから、俺たちが出場するわけにも行かず……

「済まないな」

「えっ!?」

 思わず口を突いて出た謝罪の言葉に困惑する藤間。

「あ、いや……俺は可愛い後輩のことなんか気に留めようともしないで自分の技量を磨くことだけに囚われすぎてたんだな〜って、しみじみ想っちまって」

「いえ……そんなこと無いですよ、加藤さんはあれだけの選手なんですから……自分たちに合わせてもらった方が余計に申し訳無いです」

「でもさぁ……ほら、このままだといかにも自分勝手な事をしてたっていう後悔の様なものが……オマエらだって、随分と勝手に練習してるなとか思わなかったか?」

 俺の問いかけに、藤間はただ首を捻るばかりだ。

「いえ、別に」

「そ、そうか」

 実に拍子抜けだ。不満を持たれても反論できないくらい勝手気ままに練習・調整していたとは思ったのだが。それとも、藤間等後輩に気を遣われているんだろうか……しかしどう思われていたか如何に因らず、後輩達に何も残してやれなかったのは事実であり心残りだ。甲子園で決勝まで勝ち残り、あまつさえ一定の地位を手に入れた後となっては、残るは自分の所属していたチームへ少しばかりでも貢献したかったという後悔のみだ。だがまだ……間に合うのか?間に合うのだったら何かしらの貢献をしたい。いつの間にか、それ位のことを考える程度にはチームへの愛着が湧いていた。




 文化祭当日。

 それにしても……やることの無い文化祭というのも退屈だな。作って、参加して……その両方が揃って初めて達成感に浸れるという事実を今更ながら思い知ったよ。そういう意味では、特訓をやりながらもお好み焼き屋台の準備をしていた去年は、忙しいけど充実してたんだなぁ……としみじみ想う。どんなに忙しい事、悲しい事、辛い事が身に降りかかろうとも、何事もなく過ぎて時間を無為に費やすのとは比較になどならないのだ。ゼロを何倍してもゼロにしかならないように。

 クラスの出し物である中庭でのドリンク販売は、クラスメイトほぼ全員の持ち回りで売り子を務める事になっている。一人一日一回、大体30分くらい店に立てばいいから、空き時間は大分あるわけだ。となると……お目当ては……

(真理のところに行くしかなくなるわけだよな、当然)

 何が当然なのかは自分にも分からないが、取り敢えず校舎真理のクラスへ。真理の奴、クラスで何を出し物にするかなんてちっとも口に出さなかったから、取り合えず何をやっているのかという純粋な興味はある。昨日ようやく夕食後の話題に昇ったくらいだから、情報の保守には気を遣っていたんだろう。しかし、わざわざ探しに行くくらいなら、前日に打ち合わせをして二人で落ち合う場所と時間を決めておけば良かったのだが……真理も大変に忙しそうだったからついつい遠慮してしまった。

 真理のクラスは……確か六組だったかな。四階には特別教室もないから、訪れるのも一年生の時以来で少々懐かしくも思う。ひょっとすると、この先永久に訪れる機会はないかも知れないと思うと、この学校で過ごしてきた二年半の期間もそれなりにしみじみと思い出せるものだ。

 その一年生のクラスの大部分が集中する四階は、なかなかの盛り上がりぶりであることが廊下等の人混みと喧噪とで理解できた。文化祭程度で盛り上がれるなんて結構な事じゃないか。何事にも冷めてるよりはよっぽど良い。何より、こんなお店屋さんごっこで楽しんでいられるのなんて今の内だけなんだからな。

 さて、肝心要の六組の出し物は……と教室の前に立ってみると……

(うわぁ……ベタやなぁ……)

 喫茶店。全く飾り気のない、良い方に解釈をすれば質素、悪くすればごくありふれた 休憩所的な飾り付けだ。入り口の側、椅子の上に置かれている小さな黒板にチョークで記してあるメニューの内容もごく簡素で、コーヒーと紅茶、そしてカステイラのみ。それならば、接客で勝負とばかりにてっきり流行りもののメイドカフェなのかもと淡い期待をしてしまったが、ちらりと廊下から中を覗いてみても、働いているの女子の格好は制服の上にエプロンを掛けているだけだ。マトモにメイドカフェなんてやったらそれこそ狙いすぎて逆に気恥ずかしいって事でもあるんだろう。

 真理の姿が見えないから中に入ろうかどうしようかと逡巡していると、

「加藤〜っくん」

 ぽん、と背中を叩かれた。

「びっくりした……って、何だ河村か」

 河村蛍子である。過去の事など全く気にしていないように……いや、気にしているからこそ普通の男友達として接しているのだろう、とにかく上目遣いで俺を見つめている。その姿は紛れもなく魅力的だ。この容姿だから男を捕まえるのは簡単だろうが、河村の背景が背景だけに自ら男を釣ろうなどとは考えていないのかも知れない。

「何だとは酷いわね……それとも、他にこんな声の掛け方してくれる女の子の心当たりでもあるの?」

「傷つくなぁその言い方……勿論無いけどよ」

 河村は、前と変わらぬ……そう、四年前と全く変わらない、ちょっと悪戯っぽい瞳で俺を見つめている。上背は俺とそう変わらないから視線もほぼ同じだ。男としては少々悔しいが……

「誰を探しているのかナぁ〜?」

 こうして的外れな口調でにやにやと俺にまとわりつくのだけは勘弁して欲しい。俺は周囲に面が割れているんだから……何を思われるか分からない。……こう言うと、まるで自分が有名人になって有頂天になってるかのような響きがあるな。

「そんな意地悪く聞かなくたって分かってるクセによ」

 口を尖らせて言うと、

「ごめんごめん、ちょっとヤキモチ焼いちゃっただけ」

 謝ってはいるがそれ程悪びれる風もない。ま、河村らしいといえばらしいか。

「ふん………………はぁ?」

 今、さらっと気になること言わなかったか?

「ううん、何でもない。真理ちゃんなら丁度休憩時間よ、探してみたら?あの子って人が沢山居て、しかも騒がしいところは嫌いでしょ、心当たりはないの?」

「心当たりっていってもな……文化祭の事で話し合う事なんて……」

 そこであることに気がついた。メシの時間の際に、会話が丁度文化祭の事に行き当たったからだ。家では敢えて学校行事に触れない二人だが、今年は俺と同じ学校で同じ行事を体験するのが嬉くて仕方がないらしく、とても良い表情で準備期間の出来事を話していたっけ……

 気になったのはその話の際中で、体育館で発表を行う部活のプログラムを手に『この演劇が見てみたい』と指し示して熱っぽく語っていたっけ……友人が演劇部に所属していて、その練習の成果を見てあげたいんだと。

「……分かった、心当たりが」

「本当?なら早く行ってあげなよ。……実を言うとね、真理ちゃんも『お兄ちゃんの休憩は何時になるんだろうな……』ってボヤいてたよ。おおかた、加藤くんのほうの邪魔をしちゃ悪いと思って、一緒に見ようって声を掛けづらかったんじゃないかなぁ……」

 あいつめ、そんな事まで遠慮しなくたって良いのに。真理が五塚に入ったのなんて、半分どころか九割方俺と高校生活を送りたかったってだけなんだろうから。直接本人の口から聞いたことはないが、真理の成績から鑑みて、三つはおツムのデキが上の高校に行っても主席を張れる位なのだから推して量るべし、だ。そもそも、そのチャンスは真理にとってこの一回こっきりしか無ぇんだから焦るのもムリはない。

「ありがとう、お陰で場所の目処が付いたよ」

「……そ」

 『若奥様風フリルたっぷりラヴリーエプロン』とでも形容したくなる可愛らしいエプロンを纏った河村は、何故か一瞬悲しげに目を伏せてから

「見つかると良いね」

 ぱっ、と一瞬で表情を変えてにっこり、そう言って送り出してくれたのだった。

「お、おう……」

 そのかおに潜む多念に気を取られつつも、それについて考えるヒマも追求するヒマも無かった。




 体育館。

 一歩足を踏み入れると、暗幕が外界からの光を遮断していて、普段の味気ない全校集会に使用するときとは空気が一変していて、代わって独特な高揚感に満ちていた。ステージ上では丁度良い具合に演劇部の舞台が始まったばかりだ。

 体育館内を支配する、俺のようなプレッシャーに慣れた人種でもハッキリと分かる、文化系、特にやはり演劇部の、一年にいっぺんの発表の場に掛けるという気概も伝わってくる。

 内部はもちろん薄暗いが、遠目からでも舞台上の人物の容貌を判別出来るくらいには明かりが確保されていた。だいいち客席が真っ暗だったら中座する時はどうするんだ。

 しかし、この中で真理を捜すのか。席に座っている客の前に回り込んで一人一人の顔を検める訳にもいかないしな……と悲観する事もない。何故なら、後ろ姿で真理を捜すことなど造作も無いからだ……多分。

 真理の性格と視力から言って(真理の視力は両目とも1.5だそうだ)、最前列に座っているとは考えにくい。後ろの方から探してみよう……と思う間もなく、見慣れた後頭部を見つけた。案の定最後列の手前、ステージの正面に近い列に座っている姿は、紛れもなく今日の朝に見かけた淡いピンクのリボンだ。後頭部に蝶々がとまっているようなそれは、モミアゲ付近の髪を耳に掛らないよう後ろで束ね結ばれている。

 しばらく周りをうろつきながら確かめてみる。その途中、一瞬見えた横顔が確かに真理だったので、どうやって声を掛けようかと悩んだが……結局、無言で隣に腰掛けることにした。これだったら、万が一人違いでもすぐに席を立てばいいんだ。真理だったら俺に気がついて話しかけてくるはずだし……よし、俺の計画は完璧だ。

 そ〜っと近づき、真理と思しき女の子の左側の席へ。わざとらしく脚なんか組んでみちゃったりしてみる……フトモモ直径の問題があるから、美しく組めないけど……。

……

……

……

 おかしいな。

 何も言ってこない。

 ゆっくりと隣を見てみる。……やっぱり真理だった。ここまでして違ってたらかなりショックだったけど、合ってて一安心。しかし……

(真理の奴、随分と真剣に見てるな……)

 俺に気付かない程集中して劇に見入ってる。脇目もふらないという言葉がしっくりくるようだ。そこまでされては横から茶々を入れるのも無粋だし……寝ちゃおうかと一瞬思ったが、思い直して一緒に劇を見てみることにした。これだって、映画館でデートしてるのと似たようなもんだろ。……相手が自分に気付いているかどうかという大きな違いはあるけど、とにかく劇は始まったばかりだし、真理がそれだけ入っているのだから見てみるだけの価値はありそうだ。


 劇のあらすじはこうだ。

 時代設定は戦争末期の日本。特攻に赴く恋人との別れを惜しむ娘のお話だ。劇の設定としてはありふれたものかも知れないが……真理がここまでのめり込むだけのことはあるかもな。主役の女の子がなかなかの好演を見せているし、その他の登場人物の描写もなかなかだ。高校の演劇部である以上小道具や衣装に金は掛けられないが、舞台を通して伺える役者の心意気のようなモノは伝わってきた。わざわざこの脚本を持ってきた意味はあるようだ。

 そしてクライマックス。

 いよいよ娘の恋人が出撃する。

 恋人役はツナギの様なものを着、バイク用のゴーグルを掛けてそれらしさを演出している。特攻機のコックピット周りの造形は、教室で使われている椅子と机に恋人役の男子生徒が座っているだけだが、それが不思議と手作りの劇っぽくて(決して本物のようだ、などということはない。もちろん)雰囲気を醸し出している。

 息詰まる観客。真理も、勿論俺も。特攻隊の若者は、天皇陛下万歳を唱えてから、続けて……父を呼び、母を呼び、そして最後に娘の名前を叫び……照明が落とされた。

 次に舞台が明るくなった時、娘は桜の前でただ涙を流しているだけだった……


 うーん。

 まあ、良かったんじゃないの?いや、まあまあ、かな。

「あれ、お兄ちゃん?しかも何で泣いてるの?」

「涙は心の汗と申しまして」

 真理は今更俺に気がついた事も気にせず、さりとて俺の涙にも深く言及しようとせず、ただ、くすり、と微笑むだけだった。



「それにしても、よく私が劇を見てるって分かったね。偶然……な筈ないか。お兄ちゃんが劇に興味あるとは思えないし」

 外に出て、自分のクラスの売店で飲み物を買ってから、文化祭の喧噪が遙か遠くにしか聞こえなくなる程離れたグラウンドの隅っこ、客席を兼ねた石段に並んで腰掛ける。相変わらず日差しが厳しいが、グラウンド方面は背の高い木が茂っているので木陰には事欠かない。

「バカにすんなよな。俺だって芸術を愛でる心くらいあるぞ」

 口を尖らせて反論すると、

「そっかー。だから見終わった後に泣いてたんだねっ」

「ばっ……あれは目にゴミが入って、心の汗がだなぁ」

「いいのいいの隠さなくても。殆どベソかきながら見てたは私も同じだし」

 苦笑いし、ぺろっと小さな舌を出す。やや子供っぽい仕草だが、真理にはよく似合ってると思う。……子供扱いしてるのとほぼ同義語なのは本人には内緒だ。

「結構いい芝居だったな。高校の演劇レベルだと思って舐めてたよ」

「でしょう?あのヒロインの子が私のお友達なの。相当練習したんだって」

「だからその成果を見届けに行くって言ってたんだもんな」

「うん。……でも、嬉しいな」

「何がよ」

「私があの劇を見たいって言った事、覚えてくれてたんでしょ?」

「……と、当然だろ?自分の付き合ってる子が言ったんだから」

 正直に言ってみて、その台詞のクサさ加減に頭を掻きむしりたくなる。でも本心からの言葉だ。横目で真理を見ると、頬を染めて嬉しそうにしている。言葉の選択としては間違っていなかったらしい。

「あの劇ね……その主役の子の、親戚筋のお話らしいのね。だから何としても成功させようと頑張ってたみたい」

「なるほど……」

 学園祭の劇でどれだけ反戦効果があるのかは知れたものだろうけど、少なくとも演劇としては良かった。そもそも反戦活動のための公演と決めつける方がどうかしているか。

「お兄ちゃん……」

「ん?」

 見れば、真理は少し充血した瞳で俺を見つめている。

「どうした?」

「あのね、もしお兄ちゃんがあんな立場になったら、どうする?」

「それは難しいな。この平和な世界にのほほんと生きてる立場で考えていい事じゃないし……もちろん拒否権はないだろうから、愛するものの傍に永久に居られなくなるのは辛い……ある意味本物の意味での永久かも知れないが、取り敢えず現世ではムリだもんな」

 そこまで言って気がついた。真理のやつ、ひょっとしたら俺がこれから通ろうとしている道のことを薄々感づいているんじゃないだろうか。特攻隊員のように、大切なものを守る為決死の行為へ赴く訳ではもちろんないが、必死の覚悟で望まなければならないことは明白だ。俺の歩む道は、他人を蹴落とし踏み散らす、言い換えれば他人の数々の夢を奪い去ってまで突き進まなければならない修羅道でもあるのだ。そういう意味では、戦地に赴く兵士と同じか。つまり真理はそう言いたいのだろう……とは深読みしすぎだろうか。しかし、真理のかおを見ていると気のせいでは済まされないような気はする。

 ならば、どう返すか?

 知れた事よ。

「真理、聞いて欲しい」

 向き直る。覚悟が伝わったのか、真理は顔を引き締めて頷く。

「俺は……国体が終ったら学校を辞める。辞めて、空いた時間を全てトレーニングに回す」

 流石に息を飲む真理。余りに荒唐無稽な計画だと思われただろうか、しかし本気だ。只でさえ二年生の半ばまでを無駄にしてきた俺には、学校で普通に授業を受け、卒業するまでの半年すらも時間の無駄でしかない。だいいち、こんな気持ちのままでは学校の授業など頭に入らないし、そもそもが必要もないだろう。ピッチングが物理の法則に則って行われる以上、数学や物理の授業ならまだしも、他の授業を受けて球速が増したりコントロールが良くなったりするという事はないのだから。少年期の人格形成という意味では非常に大きな役割を果たすだろうが、俺にはそれ以上に今の内に野球の技術を学ぶことの方が大切だ。

「野球の専門学校のようなところもあるみたいだし、外国の野球リーグに行って修行するのも良い。そして……来年のメジャー球団のトライアウトを受けるつもりだ」

 実を言うと、ここまで注目されている(筈)の俺だけに、自惚れでもなんでもなくメジャー球団が接触してくるのは恐らく間違いあるまい。となれば、簡単に『上』でやれる階段が半ば理想的な形で築かれる訳でもあるが、俺自身がそれを望まない。何故なら……俺は野球の全てを体験したいから。

「いったいどの位後になるか分からない……一年後か、二年後か……見当も付かないけど、いつか、成功したと思ったら、自分がそれに足る人間だと自信が付いたら必ず」

 真理の手を取り、瞳を見つめる。それはあくまで深い慈愛に満ち、しかも俺を中に住まわせてくれていた。その事がとても嬉しい。これ以上の幸せなど考えられないくらいに。

「迎えに来る。その時まで……待っててくれるか?」

 事実上のプロポーズ……になるのかな。それでも今はまだ漠然とした形だが、『その時』が来ればきっと分かると思う。

「はい」

 真理は、強く、そして言葉を茶化しもせずに、しっかりと頷いた。端っから否定されるかもなんて考えていなかったが、いざ受け止められると……

「ぷはぁ」

 息が抜けちまう。

「どうしたの?そんなに疲れた?」

「そりゃぁ……一応は。俺としてはかなりのエネルギーを使っての言葉だったんだけどな……伝わらなかったか?」

「ううん、きちんと伝わったよ。すっごく嬉しかった。今まで、お兄ちゃんが将来のことをどう考えてたか分からなかったから、正直を言うと少しだけ不安だったの」

「そうか……今まで相談の一つもしてこなかったんだもんな。俺一人でこんな重大な事を決めて怒ってるか?」

「ううん、全然……だって、お兄ちゃんだって一朝一夕に決めたんじゃないでしょ?それだったら、私はそれを尊重するだけ」

 真理……本当に良い子だ。本音を言うと、せめて日本のプロ野球で我慢してくれと言われても仕方がないと思っていた。ま、それに動かされる気はなかったけど……

「ありがとうな、真理」

 思わず、頭を撫でてしまった。幾らなんでも子供扱いしすぎかな……と思ったが、予想に反してくすぐったそうに目を細めるだけだ。それからどの位そうしていただろうか、

「お兄ちゃん、今日は由紀お姉ちゃんの帰りが遅いって知ってる?」

 と、ふと顔を上げてそう訊いてきた。

「いや、初耳だ。しかし随分といきなりだな」

「私も今朝聞いたの。サークルの女仲間と飲みに行くんだって。ひょっとすると帰らないかもって」

 あはは、姉さんが泊まってくるとは珍しい。とはいっても、基本的にはかたい姉さんのことだから、合コンなんて事はなく純粋に気のあった友達とたまには飲み明かすってことなんだろう。

「私もクラスの片付けで帰るのは夜にと思うから、夕ご飯は好きなモノを食べてね」

「それだったら、俺が迎えに行ってやろうか?」

「ううん、友達と一緒に打ち上げをやってから帰るから……文化祭っていうのはそういうのも楽しいんでしょ?」

 まあ確かに。家に帰るまでが遠足……じゃなくて文化祭だというなら、年に一度の祭りの余韻に浸りながら高校時代というかけがいのない1ページに花を添えるのも良いだろう。……去年、俺も祭りに浸ってたから良く分かる。

「じゃ、くれぐれもハメを外しすぎないように……お前に言うまでのこともないだろうけど」

「気をつけるね」

 真理は、苦笑いをして頷いた。

 その顔が愛らしくて……思わず抱きしめ、ちゅーをしてやりたくなったが、人通りのある場所から離れているとはいえ流石に人目が気になるので自重しておく。その自重も一苦労の賜だ。

「じゃあ、私そろそろ行くね。いくらなんでも怒られちゃう」

「あ、忘れてた。俺も戻らないと……売り子の順番がいつだったか忘れてた」

 二人して立つ。その途端、眩しい陽光が俺たちの顔に照りつける。

 陽光は、夏の勢いを引きずっていながらも、どこか秋の訪れを告げるように優しさと涼しさをも含んでいるかのようだった。




 その日の夜。

 真理が言ったように、姉さんは『遅くなる』と律儀に電話を寄越してくれ、ならば夕飯を何にしようかと考え、たまには自分専用に手の込んだモノを作ろうかと思ったが、それを食べて喜んでくれる姉妹が居ないのでモチベーションが上がらず、結局近場の、馴染みの中華料理屋でそこそこ豪華なディナーとしゃれ込んでしまった。お陰で少し食べ過ぎちまったもんだから、腹ごなしにランニングを小一時間。丁度いい具合に汗もかき、微睡んできたと思ったところで時計を見るが……まだ十時前だ。この広い家に一人きりだとどうも時間感覚が狂いかねない。姉妹等が在宅の時は、それぞれが規則正しい生活を送っていたからな……

 風呂も浴び終えてしまい後は床に就くだけだが、せめて真理が無事に帰って来たのを見届けてからでないと不安で不安でしょうがない。鬱陶しがられるとは思いながらも連絡を取ろうと携帯を取り出しかけたその瞬間、玄関のドアを開ける音がした。続いて、多人数の声も一瞬だけ聞こえる。急いで外を見ると、五塚の制服を着た男女が玄関から離れて立ち去っていくところだった。真理を送り届けてくれたのだろう。

 今すぐ玄関に向かうのも、まるで真理をがっついて望んで居たようでかっこ悪い。取り敢えず、うがいや何かを済まし、二階に上がってくるまで待とうと思って、ベッドに寝ころび目を閉じた。

 とん、とん、とん……と軽やかな足音で階段を上ってくる。間違いなく真理だ。真理の立てる足音すら可愛く愛おしいと思ってしまうのはおかしいことだろうか?

 しかし意外だな。シャワーくらい浴びてから来るかと思ったのに。俺に一刻も早く会いに来たかったから……と自惚れるのは勝手だが、早計もいいところだろう。

 足音がドアの前で止まった。何だろうな……と思ったがそれも一瞬。ドアをノックされた。

「開いてるよ」

 素っ気なく言うと、案の定真理がそろそろとドアを開けて顔を見せる。ま、ここまで来て真理じゃなくて泥棒が顔を見せたらパニックに陥るだろうけどな。

「真っ暗じゃない」

 とか言いつつ、明かりを点けようとせずに部屋に入ってくる。

「もう寝ようとしてたんだよ……それよりも遅かったな」

「うん……今まで打ち上げやってたの」

「……そうらしいな。随分興に乗ってた様だし」

 ぽんぽん、と、ベッドに座っている俺の隣の布団を叩いて『座れよ』のサインとする。素直に従う真理からは、少しだけ独特の香り(・・・・・)が漂ってきた。月明かりを頼りに見れば、目の周りがほんのりと薄紅を引いた様に染まっているし、瞳もやや潤んでいるようだ。真理がどの程度強い(・・)のかは知らないが、見たところそう痛飲したわけでも無さそうだ。もし足が立たないくらいに飲んできたんだったら叱ってるところだったけどな。出来た人間の真理だけに節度というものをわきまえている。

「怒らないの?」

 真理は、俺の顔色を伺うように、上目遣いでぼそっと言った。

「怒って欲しいのか?そんなこと、褒められた言葉じゃないが今時の高校生は当たり前だろ。第一俺が言ったところで説得力があると思うか?」

「そう……かもね」

 苦笑い。顔色が良いから、こんな貌まで色っぽく見える。アルコールの力というのは大したものだ。いつもの清楚な真理のイメージからは想像もつかない艶やかさを放っている。一緒に騒いでいたであろう男子が、酒に溺れて襲いかからなくて良かった。打ち上げ会場は、その内容が内容だけに密室が選ばれただろうから、もしその気になられたら、真理の細腕では防ぎようがないぞ。

「ま、そういう付き合いはほどほどにしとけ。お前は魅力的な女の子なんだから、襲われたって助けらんねぇぞ」

「魅力……的?」

 きょとんとした表情でそう聞き返す。まさか気付いて居なかった訳でもないだろうが……

「嬉しいな、お兄ちゃんからそういう言葉が聞けるなんて」

「……そうか?」

 つまり、俺が素直に人を褒めることがないと暗に……ひょっとすると直接的に言われてるんだろう。でもそれは違うぞ、俺は真理を褒めるときに限り事実の歪曲を意図したことはない。全く、だ。

「……」

「……」

 体中の血の巡りが良くなっているからか、隣の真理からはとても良い香りがしている。さっきの独特の香りは真理が口にした般若湯の類の残り香に因るものだろうが、今立ち昇っているのは……『フェロモン』としか形容できない。

 明かりを落としたままの部屋に、窓から中秋の名月が優しくも明るい光を投げかけてくれている。その影は背後で解け合っているのだろう、現実の二人の距離をもどかしいとでも言っているかのように。

「あのさ」

 居たたまれなくなって口を開く。

「なぁに?」

 ややトロい口調。普段口にしないアルコールのせいで眠気を催してきているのだろうか。でも、俺を見据える視線は泳がずにしっかりしている。

「昼間、俺の言葉にOKしてくれたよな?」

 メジャーで成功するまで待っててくれるか、という件だ。

「うん……」

「それは俺からの一方的なお願いだったわけだけど、お前自身は何か希望はないのか?大学に行きたいとか、就職したいとか……もしそうなら、無理にとは言わない。せめて、それらを体験してから考えてくれたって構わないんだぞ?」

 しかし、真理は首をゆっくりと横に振った。

「私、他に何も出来ないから……というより、もうやりたいことを見つけちゃったし、それが叶いそうだから将来への不安なんてこれっぽっちもないの」

「それってひょっとして……?」

 聞いてからしばらく俯き、そして……

「うん」

 俺の瞳を真摯に見つめ返しながら頷いた。

 ……凄まじかった。何が凄まじいって?その真理の貌だよ。はにかみながらも、自分が今満ち足りている、人生が充実していると胸を張っているかのような貌で頷いたのだ。もちろんそれはとてつもなく美しいことと同義である。

 月の光に照らされた横顔は、幼さを未だ保ち続けながらもまた『女性である事への悦びと誇り』をも満面に湛えていた。伸びかけた手がわさわさと無意識に動く。ここでほんの少しだけ気の張りを抜けば、そこはあっという間に濡れ場になっちまうだろう。ここで正気を保つことは非常に困難を極めたが、どうにか踏ん張りが利きそうだった。

 しかし。

「お兄ちゃん、あの時の約束……覚えてる?」

「あの時?」

「ほら、お兄ちゃんが自分で自分を褒めてあげられたらご褒美として……って」

「あ、ああ……そんな事言ったっけかな」

「トボけなくていいよ」

 県予選が始まる前、先行きの不安から精神がどうしようもなく不安定に陥り、危うく真理を犯しかねなかった。その時に涙ながらに俺を押しとどめてくれなければ、きっと今頃……。自分の弱さに甘えて真理を汚そうとしたその状況を思い出すだけで恥ずかしく、頭を掻きむしって自分の横っ面に拳を叩き込みたくなる。

「で、お兄ちゃんとしてはどう?自分で自分を褒めてあげられる?」

「全くムリだな」

 ごく率直に、心の底からそう思う。カベにも言われたが、あの局面でスタミナ切れを起こすなんて、基本的にマウンドを永久的に守り続ける証の、エースナンバー1を背負っている身としては失格もいいところなのだ。あの時、自分が錯覚したように無限のスタミナさえあれば……最後まで横浜学院の打線を牛耳ってやれたものを。

「ムリって……どうして?」

「理由は……とにかく、結果には全く満足してない。試合を終えた当時はそれなりに達成感もあったが……今になってみると後悔の部分の方が大きい。何故もっと投げ続けられなかったのか、とか、もっと賢いペース配分があったんじゃないのか、とか考え出したらキリがなくなって……これで自分を褒めてやったりなんかしたら、一緒に斗ってた連中に失礼だからな。実際、俺は負けたんだ」

 聞き様に取っては卑屈すぎると思われてしまうかもしれない。だが、コレが俺の偽らざる心境なのだ。あの程度で自分を褒めてやれる程楽天的ではない。

「……そんなこと、ないと思うよ」

「あるんだよ」

 直後、真理が俺を見据える瞳には、全ての心のわだかまりを溶かし貫く熱さがある。触れただけで火傷しそうな、情熱の炎が。

「……でもね、お兄ちゃんがそう思ってても、私は……十分やったと思う」

「そうか?」

「うん。言ったでしょ?まるで生命の力を削って投げてるみたいだったって。アレを見ていたら、お兄ちゃんが消えそうでどうしようもなく恐かったけど、どうしようもなく惹かれちゃった事も確かなんだぁ」

 ……俺が、消える。確かに、前に聞いた時はそんな馬鹿なことがあるもんかと思ったのだが、テレビのニュースや何かで俺の投げている姿を第三者視点で見てみたら……本当に自分が投げていたのかと思うくらい気迫のこもったピッチングだった。真理がそう勘違いしてもおかしくないくらいの。甲子園決勝という舞台がそう錯覚させていたのかどうかは自信がないが。

「だからね……お兄ちゃんに、ご褒美……あげたいな」

 言うと、座ったままベッドの上を横に滑り、俺に身体を密着させた。その拍子に制服の襟元からとてつもなく甘い香りが立ち上る。どんな香りか言葉で表現せよと言われても絶対に不可能だ。その香りを鼻腔に吸い上げただけで、男の倫理観などというちっぽけな代物はあっけなく瓦解する、非常に偉大なものなのだ。

 つまりどういう事かというと……

 真理が、俺の腹の辺りに顔を埋めすがりついていた。

「ま、真理……」

 顔がかぁっと熱くなる。頭に血が昇る、冷静な判断力があっという間に奪われる。

「……」

 真理は何も言わずに、顔をぐりぐりと腹にねじ込むような仕草をした。そうしている間に、今度は頭頂部からシャンプーと念入りに施されたであろうリンスの良い香りが。全く、女の子ってやつは体中良い匂いしやがるな。こんな状況だから余計に意識してしまうのかも知れないが……

 どうしようか散々迷った挙げ句、艶やかな長い髪をそっと撫でてやることにした。不思議なことに、そうやっているとどんどん愛おしさが募ってくるようだった。外から見ているだけでは分からない、直に触れ合うことで高まる想いもあるのだと。母親は、赤ん坊と直に肌と肌を接することで母性本能を活性化させるホルモンが出るというようなことをテレビで見たことがあるが、恋人同志にもそれが言えるのかも。考えてみれば、遠距離恋愛が続く事は非常に難しい。人間は魂と肉体で一つ。二つのモノが触れ合い、混ざり合わなければ、真に相手を理解することなど叶わないのだ。

 真理が顔を上げた。瞳が潤んでいる……と思ったら、目を閉じ、唇を差し出すような仕草。それに軽く触れるような口づけで答えてやると、おおよそ人間を愛おしいと思う感情全てが胸の内に去来したかと錯覚するような……いや、事実、胸の中に抑えきれないほどの真理への想いがこみ上げてきた。コレが精神的な幸せというやつなのか。

 最初のキスは、唇が触れ合っている時間そのものは数秒だった。でも、次からの二度目は意味合いが違う。抱きしめ合って唇を重ねている最中、直に触れ合っている面積が大きいからか、真理の覚悟や俺への果てしない気持ちが伝わり、粘膜を通して脳髄に浸透してくるかのようだった。必然的にそれからは……激しく、お互いの口腔内を舌で蹂躙するような、キスという名の愛撫に取って代わられた。

 俺の経験でいえば、こうなっちまって火が点いたら歯止めが利かない。何しろ、これだけ満たされてればなぁ……後に残すファクターは一つだけだもんな。仕方がねぇや。


 それから……

 それから、か。

 ま、最中の事は良く覚えてるようで覚えてねぇが、一つだけ言えることは……『真理、ありがとな』って事くらいかね。


 その中でも一番良く覚えてる事をどろどろした快楽の底からサルベージするとなれば、最後の方に漏らした言葉。積極的に見えたのが意外だった(とは言っても初心者だから限度はあるが)真理が、俺の視線の意味に気が付いてぽつりと漏らした一言だった。

「だって……一番好きな人にものすっごく気持ちの良いことしてもらえるんだよ?こんなに幸せなこと……他に無いよ……」

 真理が俺の一挙手一投足に何の拒否感を示さないのは、ただ単に『褒美』として口に出してしまった以上義務感に駆られていたからだと思ったのだが……俺と全く同じ意見だったから驚いちまったんだ。


 と、とにかく、こうして……文字通り身も心も溶かし合って一夜を明かしちまったんだな、これが。こんだけ幸せになって果たして許されるのかってくらいの濃密な一夜をな。あんまりにも濃密すぎて、姉さんが帰ってくる可能性など全く忘れてたぜ……ははは。これからは気をつけよう。


 それから、目に見えない形ではあるが確かに感じられる絆、のようなモノに支えられた俺は、高校生活最後の大仕事に向けて動き出したのだった。


 カベ、もうすぐだ。もうすぐ俺は『上』に向けて動き出す。





       

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