第17-02話
新学期が始まってから一週間が経つ。だが、未だに登校する気力と勇気が湧かなかった。カベの居ない日常を目の当たりにし、実感することが恐くて仕方がない。
野球部の面々はどうしているだろうか。通夜の時は皆が一様に信じがたい表情をし、沈んでいたものだが、一週間経ってしまえば少しは『時が解決してくれる』事になるのだろうか。
ベッドに俯せになったまま起き上がることも出来ない。姉妹等は、情けない俺をそれでも仕方がないと思ってくれているのか、そっとしておいてくれる。俺にとってカベを喪失した大きさなど幾ら時間が経っても癒えない傷だが、余りにその事ばかりに囚われているのもカベが望む筈がない。きっと俺を殴りつけて、首根っこを引っ掴んででも登校させようとするだろう。
……しかし問題なのは、そのカベがこの世に居てくれないという事実、ただそれだけ。こんなに人の死が自分に大きくのし掛かってくるとは思っても見なかった。それまで、俺はどちらかというと他の人間との繋がりが薄かったから、例えこの地球上で何万人の人間が一日に亡くなっても俺とは直接の関連がなかった。
だけど……今回はどうだ。地球規模からしてみれば僅か数十億分の一人が居なくなったに過ぎないのに、受ける衝撃はとても数字なんかじゃ計り知れない。例え三十億人くらいがいっぺんに死んだとしても、それが他人である限り俺の心をそうは揺らしはしないというのに。
カベ。
どうして……一言でも相談してくれなかった?それとも……そこまでカベを追い込んだのは俺自身だったとでも言うのか。
……はは。その可能性は十分にあるよな。『オレが付いていなければまともに放れないのから』と最後の最後まで俺と命運を共にしようとした……有り得る。でも仮にそうだとしても、カベはきっと『お前のせいじゃない』と言うに決まって居るのだろうが。
時計の針は、いつの間にか四時前を過ぎている。さっき起きたばかりだというのに……時の流れは速いものだ。時間の流れと同じように、その調子でぼーっとしているうちに何もかも忘れてしまえたらどんなに幸福……幸福なのか、忘れ去られてしまうようなことが?
ダメだ、どれだけ考えたところで同じところを堂々巡りするだけだ。
身を起こし、新聞を見てみる……スポーツ欄には、やはりというかなんというかカベの記事はもう載っていなかった。死人の話題を俎上に乗せる余裕も必要もないってこったろう。端からマスコミの記憶に長らく残る期待なんてしてなかったけどな、あいつらはニワトリ並の記憶力しか無いらしいから。
誰もいないダイニングキッチンを見る。こんな気分のクセに、外から入り込んでくる強烈な太陽の光は清々しいと思う。
九月八日、新学期が始まっても、日差しはあの時の激戦の頃から大して衰えていない……カベを目がけて投げ続け、そして信じていたあの時と。
しばらくキッチンのテーブルに突っ伏していると、
「ただいま〜」
真理が帰ってきたらしい、敢えて明るい口調を装いながら。キッチンへやってくると、
「お兄ちゃん、野球部の先輩達が心配してたよ?」
俺の顔を見るなり眉をひそめながら言う真理。ああ、どんなときでも真理は美しいな。本当に……美しい。真理もカベの死に心を痛めていない筈がないが、明るく振る舞っている。その心遣いが心に優しくもありやるせなくもある。第一、俺自身も放っておいて欲しいのか構って欲しいのかどちらなんだ。……多分どちらでもないと思う。要するに、心にまだ整理が付いてないんだ。
「心配掛けてるのは分かってるけど……」
まだ、学校に行く勇気がない。これが悪いのは分かってるが……恐い、とてつもなく。カベが居ないのを自分の心の中で受け容れてしまったが最後、全てが変わってしまうような気がして……
そんな俺を真理はどう見ているだろうか。同情を買いたいとは思わないが、かといって掛けてくれる言葉も予想できない。例え軟弱者と罵られても甘受するしか仕様がないのだ。
「しょうがないなぁ……」
溜息をついた真理は、持っていた封筒を俺に差し出した。
「これ、お兄ちゃんに、みたい」
「……俺に?誰だ?」
「えーと、送り主の住所は……書いてない」
不思議な文面もあるもんだ。ひょっとしてカミソリレターに代表される嫌がらせの類だろうかと思い、透かしてみたり振ってみたり外から形を確かめてみるが、その時点で特に問題はない。
反応を窺う真理を後目に自分の部屋へ赴き、少しだけビビリながらも、そのビビリを自身で認めたくないために、レターナイフも使わずわざと乱暴に手で開封した。中に入っていたのは……数枚の便箋。開封の勢い余って便箋も破れていたが、それは上部の余白部分だけで済んでいた。
そして、そこに書かれていたものは……
聖へ。
―――聖がこの手紙を読んでいるということは、オレはひょっとしてこの世にいないのかも知れない。何かの間違いで、オレが存命しているのに届くような事があったら、これ以上先を読まずに捨ててくれ―――
冒頭に、鉛筆と思しき筆勢でそう綴られていた。
便箋を持つ手が震える。
紛れもなくカベからの手紙だ。どのような方法で死後に配送されるように仕向けたのかは分からないが、この文面は間違いなくカベだ。カベの言葉が、もうこの世に居ない人間の言葉が俺に届く……こんなに嬉しいことはない。例え、この手紙自体は生前に書かれたものと分かっていても、だ。
抑えが効かないほど手が震え、視界が霞む。でも、最後まで読まなければならない。カベが一体何を伝えたかったのか。何を訴えたかったのか。
―――さて、オレの病名はいずれ知らされるだろうから敢えて書かないが、この手紙を書いている時点では恐らく生還の見込みはないだろう。前に『何かの間違い』と書いたが、多分間違いも何もなくオレは死ぬだろう。今はこうして残った力で文を残せているが、直感で分かる。不思議なものだな、人間というものは。人間という存在を構成しているのは、ひょっとしたらタンパク質や水分などではなく、一重に精神の集合体なのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。
正直に言って、県大会が始まる頃からオレの身体は限界に近づいていた。でも普段と殆ど変わらぬプレーを演じることができたのは、只一つの要因、即ち『気の張り』にしかなかったと思う。
この先、仲間達と大切な一瞬を過ごすという行為以上に大切なものを見出せなかった。その楽しみを続けるためなら、身体のどんな不調も意識の奥底へと沈めることが出来たんだ。
そうそう、お前のことだからきっと気にしていると思うが、決して聖の面倒を見るために入院が遅れたとかじゃないからな。たまたまだ、たまたま。ようやく調子が悪くなって入院したら、たまたま手遅れになってたってだけだ―――
そんな事を信じろというのか。まともに信じる奴が居たら、そいつは責任感がないかよっぽど鈍感なのかどちらかだ。
―――はっきり言って、県大会は何とかなると思っていた。オレにも自信があったし、勿論聖にもオレの自信を託すに足る技量が備わっていたことは確かだ。
事実、無名の五塚高校は県大会を突破し、甲子園へと駒を進めたわけだから。
だが、決勝戦まで保たなかったのは悔しかった。―――あれが『気の張り』で身体の不調を誤魔化せる限界だったんだ。本当に仲間達には申し訳ないことをしたと思う。後で謝っといてくれないか、最後まで付き合えなくてごめん、と―――
何がごめんだ。誰もそんな事思ってない。逆に、カベが居なけりゃ甲子園になんて出られるわけ無かっただろうに。
―――心残りはない……と言いたいところだが、有りまくるから困る。死を目前に控えたら、もっと覚悟を決めて平然としていられるだろうと思っていたのに不本意だ。どうか情けないなんて言わないでくれ。
聖、オレの言動には度々首を捻る箇所があっただろう。その質問は墓に持っていくつもりはない。ここで答えておく。
初めに、オレが何故聖と一緒の道に進めないと言ったか、だが、理由の内の一つは今の状態を見れば一目瞭然だろう。お前が『上を目指す』までとても一緒に居られそうにないと思ったから、安請け合いしなかったんだ。
もう一つの理由は……拒否することで聖に一本立ちして欲しかった。オレの助けなど必要ないくらいに逞しくなって欲しかった。もしそこでつぶれたらそれまでの存在だったということだ。しかし聖は乗り越えた。ここでかなり踏ん切りが付いたな、もう大丈夫、と。
二つめ。
何故オレがあそこまで聖を鍛え上げようとしたか?無論、それを意図した頃はまだ自分が死ぬなんて思っていない。だから、『自分がこの世にいた証』とかじゃないというのは知り置いといてくれ。ただ、類い希なる才能を持った選手をあの程度で抑えておくには惜しかったからだ。耳ざわりの良い言葉だけを繋げれば、そりゃお前は気分良く高校の三年間を全う出来ただろう。だが、甲子園出場はもとより県大会で勝ち進むことすら難しかったはずだ。
一芸に秀でれば必ず道は開ける、それに気が付いて欲しかった。自分にも野球の道しかないと思ったから、その時点では共に歩んで行ければいいと思っていたんだ。
単純に自分の好奇心であったことも否定しない。この投手が何処まで成長するのか、また自分の指導方法がどの位実を結ぶか……ま、体の良い実験体だな。悪く思うな。
三つめ。
オレがどうやって自身の技能を伸ばしていたか?
言うまでもなくオレは捕手で聖は投手だから、鍛えるべき箇所は違っているかも知れないが、参考までに書いておく。
まず、学生たるもの本業は勉強だと頭ごなしに決めつけるつもりは毛頭無いが、それでも大きなウェイトを占めている事も間違いない。だから野球の練習と共にそっちにも時間を割かなければならないが、一日二十四時間という自然の摂理は変えようがない。となればどうするか?答えは単純だ、睡眠時間を削ったのさ。
考え方を変えれば、睡眠も重要な勉強であり練習の礎であるのだろうが、取り敢えずオレは睡眠時間が短くてもどうにかなる体質だったのは幸いだった……どうにかなる『気がしている』体質だっただけというのも否定できないが……。
オレの場合は、一日の睡眠時間は多くて四時間程度だな。家の中でもくつろいでいる時間は、純粋に『他に何もしていない、身体を動かしていない』という意味なら食事中だけだ。風呂に入っていれば浴槽の中で握力の鍛錬をしていたし、机に向かって勉強をしている時も中腰だったり……な。
無論、お前にそれを押しつける事などどだい無理な話だし、出来るわけがない。人には向き不向きがあるし、聖は日常のくつろぎを廃するくらいなら最初から野球など選択していないだろうからな。
だが、『上』を目指そうとするなら話は別だ。『上』の世界には、お前を打ち崩して名を上げようとする輩は掃いて捨てるほど居るし、お前からエースの座を奪おうとする輩もこれまたイヤになるほど出てくるだろう。
必然的に個の時間は限られ、一年間の内のほとんどを他人から迫られる恐怖に怯え、鍛錬に費やす事になる。その覚悟は出来ているか?……聞くまでもないな、お前はやる時はやる男だから。正直なところ、去年特訓の打診をしたとき、途中で挫けるんじゃないかと思う事が何度もあった。でも、聖はそれを乗り越えたな。その根性があればこれからも生き抜いていけると信じている―――
カベめ、半信半疑だったのか。ま、俺だって自分でも付いていけるとは全く予想も出来なかったのだから。予想が出来ないと言っても、リタイアが予想できるという意味ではなく、先行き全くの白紙だったという意味だが。
―――四つめ。
なぜオレが自分自身の事をあまり話さなかったか、だ。
中学の頃に一度だけ真壁家に招いたことがあったな。オレの家を見れば一目瞭然だろう、人様の目に入れるにはあまりにも見窄らしいから、人を呼べるような場所じゃ無かったんだよ。オレにも見栄ってもんはある。ならばあの時何故招いたか?単なる気まぐれさ。ただ気の合う人間に気を許してみたかったのかもな。つまり、語るような環境じゃなかったって事だ。
そうそう、オレに『その時』が来たら、否応なくお袋と顔を合わせることになるだろうが……ひょっとすると、聖に対して不快な思いをさせることもあるかと予想する。だが、大目に見てやってはくれまいか。あの人は、早くに親父に消えられてしまって寂しかったんだよ。元々家庭的に恵まれている人じゃなかったから、温かい家庭や甘〜い結婚への憧れは人一倍だったらしい。なのに裏切られたことで荒んでしまったようだ。消えちまった親父への悪口は、そりゃもう聞くに堪えなかったな。―――
だが、なんだかんだ文句を言いながらオレをここまで育ててくれた事からも分かるように、根は優しい人なんだ。そんな境遇の出自ならオレは虐待され、ややもするととっくの昔、聖と出会う事もなく死んでいたかも知れない。それから考えたら、オレはどれだけ幸福だったろう―――
バカだよ、カベ。お前は本当にバカだ。カベの母親だからあんまり悪くは言いたくないが、お前を札束の成る木くらいにしか考えてなかったんだぞ?母親を思う気持ちというものは俺の生まれ上理解できないが、想像することは出来る。その想像に答えうる人物ではとてもなかった。それでもまだ報いようとするのか、自分の死期が目の前にぶら下がっているその瞬間まで!
―――まあそんなところだ。
……聖と本格的に出会ってから既に三年か。時の経つのは本当に早いものだな。中学最後の夏、おずおずと名乗りを上げてきたときの印象が未だに瞼に焼き付いている。それがまさかあんなボールを放る投手だったとは……中学の夏もこれで終わり、高校で新しい出会いを探そうと半ば諦めていた時期だっただけに、インパクトがあったよ、それこそ一生付いていこうと思ったくらいのな。……その想いは叶えられそうにないが、オレはいつでも見守っているぞ、多分。あの世のシステムがどうなってるかは分からないが、まあ下界を見るモニターくらい有るだろう。料金は温泉宿の有料テレビくらいだと良いがな―――
……カベにしては珍しいギャグだ。だけどな、カベ。遺書にギャグを書いてくれたって、こっちには涙ものにしかならないんだよ……
―――聖。オレはお前の才能に惚れ込んだ。さっきも書いたが、一生付いて行こうと思ったくらいに。
胸を張れ、聖。
オレが死んでも後ろを見るな、前だけを突き進め。第一、お前に振り返るほどの過去と時間があると思うか?
信じろ、自分の力を。
信じろ、自分の才能を。
信じろ、お前は天才だ。
お前の目指そうとしている高みは、エベレストよりも遙かに高い頂にある。それは、凡人なら少しでも高いところを見ようと背伸びすらせずに諦めてしまうような遙かな高みだ。だが、お前には力がある、才能がある。努力も出来るだろうし、支えてくれる人間も近くにいるんだろ?だから、ここに来て月並みな言葉しか贈れない自分が恨めしいが……
頑張れ。
それだけだ。
……それにしても、長い間筆を取るというのも疲れるものだな。そろそろしんどくなってきた―――
文面の通り、文字の濃さがだんだんと薄くなってきているし、文字自体もうねうねとヘビがのたくるような感じになって読みにくくなってきた。そこまで体力を消耗しているのか。そこまでして俺に手紙を書いてくれていたのか。憔悴する過程が手に取るように分かりすぎて切なくなる。カベがどんな思いでこの手紙を認めたのか、それを考えるだけで……
―――不思議なものだ。一端は覚悟し、自分の死を受け容れたというのに、こうしてお前への伝言っぽいものを書いていると……その覚悟が揺らぐ。
まだ死にたくない。まだ見たい事やしたい事が幾らでもあるというのに。何故オレだけがこんな目に遭わなければならないんだ。他に死ぬべき輩は幾らでもいる……とまで言うつもりはないが……やめよう。立つ鳥跡を濁さずって奴だ。
こう考えてみたらどうだろうか。
世の中には、死ぬ人数と生まれてくる人数の絶対値が決まっていると。つまり、オレが死ぬ代わりに他の誰かが生き延びると……そうすれば、差し引きゼロだ。それでも何故オレが選ばれたという疑問の答えにはならないが―――
カベ……俺だって、カベが何故死ななきゃならんのかと毎日考えていた。この世に神様とやらが居るのなら、そいつはビッチ野郎だ。どうして『生きること』に真摯な人間をあの世に連れ去らなければならないんだ。まったく見る目がどうかしていやがるとしか思えない。
―――そろそろここで筆を置こうと思う。もう指にすら力が入らない。ワープロでも使えれば良いのだが、生憎とオレは文明の利器からは見放されたような境遇だからな。
こんなにも長い間鉛筆を握ったのはいつ頃だろう……小学校時代の全校文集以来だな。あの時書いた文集には、将来の夢を何と綴っただろうか。もう思い出しても意味のないことかも知れないが。救いは、お前とは小学校が違うから文集の中身を確認されないことだな。恥ずかしい事が書いてあるに決まっているだろうから。
……最後に何か一言書いておこうと思ったが、いざ感動的なものを遺そうと身構えると難しいものだな。あ、そうそう、一つだけ有った。真理ちゃんと仲良くな。余計なお世話かも知れないが、二人を見ているとどうしても不安になるから。言われるまでもなく仲良くやろうとはするだろうが……ま、頑張んなさい、色々と―――
色々とは何だ、色々とは。
―――随分と知ったような口を利くって?まあ、オレにだって色々あったんだよ、それを語って聞かせてやる機会が無いのは残念だが、そういう事だ。
長々と書いたが、本当にこれで終わりにしたい。無理矢理にでも区切っておかないと、次から次へと書きたい事が湧いて便箋何枚になるか分かったもんじゃない。それにオレの筆を持つ指先の力がそこまで保たない―――
最後の方は、前にも増して字が読みにくい。ある程度想像前後の文脈と字の形から想像力を働かせなければ読み取れなってきている。
―――では、締めに入ろうか。……
聖と組んで以来、単なる作業だったサインを出すという行為が、とても楽しく思えていた。このサインではどんな球を放るのか、このコースにはきちんと入れてくるのか……サインを出す度に、そしてミットで受ける度に新たな発見があった。それはそのまま人間関係の縮図でもあるだろう。毎日顔を会わせる度に新たな発見がある人間なんて、会う事が嬉しくてたまらなくなってしまうではないか。
聖、本当にありがとう。
聖、出会えて良かった。
聖、オレの事を忘れるなんて許さないぞ。何と言っても、お前の恩師なのだからな。……そう言い切ってもいいだろう?
……聖。
さようなら―――
俺の落涙の受け皿となった便箋は既にしわしわ、おまけに持つ手に力が入っているもんだから所々破れかけている。
カベ。
カベ。
……呼びかけても、カベはもう居ないんだよな。不器用な奴だ、手紙に書いてある事を、直にカベの口から聞きたかったというのに。そんなに生き急がなくても、人生は長かったというのに。
人の何倍も濃密な青春を過ごしたカベは、そのぶん短い人生として駆け抜けてしまった。それで良かったのか?……良い訳ゃないよな。これからもっともっと楽しいことがあったかも知れない。もっと辛いこともあったかも知れない。でも……何も無い、起こらない人生よりはどれほどマシだろうか。そして……半ばで終わってしまう人生よりは。
しかし、これだけは胸を張って言える。
真壁大成という不世出の選手は、俺の胸に、そして多くの野球ファンの胸に確実に生き続けるだろう……
上を向く。
『上を向いて歩こう』じゃないけど、涙がこぼれないように。空を見上げてもカベに逢える訳でもないが、なんだか……魂は見える様な気がして。
後日。
一応平日だから人の目を気にしつつ市の中央図書館へ。目的は、カベの小学校の全校文集を探しに。カベの通っていた小学校は調べてある。カベは『勿論聖とは違う学校だから、文集を目にされる心配はない』という類のことを書いていたが、逆に考えれば……俺の目に触れて欲しかったと捉えることも出来る。本当に見られたくないなら、その存在すら最初から匂わさないと思うから。
階段を上がり、三階へ。三階は広大な資料室となっている。新聞の縮刷版や近隣の地図、或いは全国の電話帳などが常時閲覧できる。おまけに、只でさえ静かな図書館という場所に於いて、輪を掛けて静けさが際だっているから勉強には持ってこいの場所だろう。……勿論想像に過ぎないが。今は時間が時間だから人はそう多くない。
入り口近くに座っている職員が胡散臭そうに俺の顔を一瞥して元の場所に視線を戻し……再び注視した。もはやちょっとした有名人といっていい俺だから、とっくに面が割れてるらしいが気にせず中に。
目指す場所はその内の一画、市内の小中学校が採用している各種教科書が展示されている箇所。
(確かここに……ある筈だ)
前に一度だけ気まぐれを起こして来てみたことがある。図書館自体にあまり足が向かないが、一般の図書貸し出し室である二階の上はどうなっているのか……と覗いてみたら、実に資料的価値の高い蔵書ばかりだったので少しだけ嬉しくなったっけ。別に何かを探していたというわけではないのだけど。
お目当てのものは、ちょいと探しただけで見つかった。
……市立八満小学校文集・『広き野』。いかにもありきたりな名前だ。ぺらぺらとめくってみると、一年から六年生までのいろいろなジャンルの作文が寄せられている。いろいろなといっても、せいぜい遠足の感想か体験学習の感想しかないが……
そして、ばっちり目的の名前を見つけた。
六年三組・真壁大成。
カベの遺した『全校文集』という言葉を頼りに、手始めにカベが六年度の頃のを開いてみると、目次に一発で名前が見つかった。運が良い。
ぺらぺらとめくってみて、いよいよカベの六年前の文章とご対面だ。
―――夢・真壁大成―――
タイトルにはそうある。六年後に起こる事を予想だにしていないカベは、いったいどんな夢を思い描いていたというのか。
―――僕の夢は、メジャーリーガーの選手になることです。そしてたくさんお金をかせいで、お母さんを助けたいです―――
……
何だよ、これ。
―――僕は野球が大好きです。起きているときもねる前も、いつも野球のことが頭からはなれません。この大好きな野球でお母さんを幸せにしてあげられたならとおもいます。そのためにはいっぱいいっぱい努力をしなければならないでしょうが、お母さんのためなら我慢できます―――
カベはこの頃からおばさんを助けようとしてたんだ。メジャーのユニフォームに身に纏い、青い芝生と大観衆の中で活躍する自分の姿を夢想し、悦に入る純真なカベの姿を想像したら……
―――だから、もっともっとたくさんの人と知り合って、たくさんの人と対決して、自分を強くしていきたいです。でも、僕にはもう一つの夢があります。それは、僕はキャッチャーをやっていますが、信頼できるピッチャーと一緒に野球をやっていきたいです―――
小学生ならではの拙い文章と、小学生ならではの無垢な姿勢が入り交じった、六年前のカベの手になる文章。文章自体は取り立てて目立つものじゃないけど、全校文集に選ばれたのは、その壮大な夢が故か。
しかし―――
切ない。
これだけの想いを胸に秘めた人間が、今この世に存在しないなんて。お陰で、この文章が飛び抜けて存在感を持ってしまっている。六年前に書かれた文が確かな体温さえも伝えてくるようで……身体が震えた。
俺はここにある一つの決意をする。それは、現在一介のしがない高校生に過ぎない俺には荷が重いが、あてはある。
何としても、カベがこの世にいた証を示さなければならない。
……俺の知る限り、カベの秀でた存在を否定するたった一人の人間に向けて。




