第17-01話
雨が本降りになってきたが元より傘を差す気など無かった。今の俺に最優先事項はたった一つしかない。早く目的のあそこに行き、事実を確認しなければならないのだ。でも……俺の脳裏には確信めいたものがあった。それを払拭したくて、否定したくて……ちょっとでも脚の勢いをゆるめれば、心を打ち砕かれそうだったから。
全く説明のつかない気持ちを胸に、雨の街をひた走る。生憎と車は姉さんが一台使っていて、もう一台は整備中だ。
さしもの俺でも息が切れかけたところで、目的地に着いた。
市民病院。市内で最も大きな病院でもある。
ぐしょ濡れのままロビーに駆け込んできた俺を人々は怪訝そうな瞳で見るが、それ以上の興味を示さない。きっと、場所が場所だけに混乱した人物を見ることなど日常茶飯事なのだろう。
電話で指示された通りの事を指示された通りの人に伝え、案内してもらう。案内役が来るまでの僅かな時間がもどかしかった。さっきまでずっと走りっぱなしだった事もあって、脚ががくがくして力が上手く入らない。案内役の医師も、そんな俺の状況を見て歩みをゆっくり調節してくれているのは分かっているんだが……後を付いていくのも一苦労だった。
無言のまま、只ばくばく激しく脈打つ心臓をどうにか宥めながら歩く。徐々に人が少ない方向へ進んでゆくにつれ身体の中に増大してゆく、これから目の当たりにしなければならない最悪の事態の予想を必死に否定しようとしていた。
……しかし俺は気付いていた。
脳の奥底ではもはや覆しようのない事実と認識しつつあるのに、浅い階層では、実際にこの目で確かめるまで信じてやらないという最後の理性のタガとして機能していた。こんな時にさえ冷静さを保とうとする自分が、人間の本能が恨めしい。
薄暗い廊下に足音だけが響き渡る。まるで地獄への沙汰を申し渡すかのようなその音は、実はまさしくその通りだったのかも知れない。
地階までやってきた。辺りは当然静かだ。地下には放射線治療室などもあるようだが、治療の時間はとうに終わっているから静かで不気味なことこの上ない。
俺の前を歩む医師が、とうとうあるドアの前で歩みを止めた。ドアの上には『やすらぎの間』というプレートが掛かっている。医師がおもむろに観音開きのドアを押し開けた。……俺の方の心の準備が未だに出来ていないというのに、随分と忙しいんだな……と悪態の一つも付いてみたくなるが仕方がない。どこか自分の思考が自分のものでない気分なのは、恐らく考え事が多すぎて『自分が自分であること』という簡単な事柄を考える回路を焼き切っているためだろう。
『やすらぎの間』、何がやすらぎかは部屋の中を見れば一目瞭然。ここは顕世で最も幽世に近い場所と言える。つまりこの世に一端別れを告げ、新たな世界に歩き出す一時の安らぎを得る為の部屋だ。
無機質な、おおよそ趣味性というものを感じさせない病院の中に於いて、その中でも特に何ら個人の感情に思い起こさせるものがないという点で、背筋が寒くなるような場所だ。
……そしてそこに並ぶ、クッションの入っていなさそうな長方形のベッド。何故なら、そこに横たわる者にはもはや寝心地に文句など言う口がないからだ。
部屋の一番奥。
隅っこのベッドの上には、人型の山の線を浮かべるシーツが掛けてあった。傍らには線香の焚かれたテーブルが鎮座している。
明らかに人の鼻らしい突起が浮いている白い布きれ。しばらく、まじまじと見入ってしまった。
「……」
「……」
これがどうしたってんだ。
……分かってる、本当は分かってる。そのシーツの下に誰が隠れてるのなんか。
「お顔を見て差し上げてください」
医師の声が静かな部屋に響く。見たくない。でも見なければ何も解決しない。震える手で布を取った。この間、俺の頭の中はほぼ空っぽ状態。なにも考えられず、言われたままの事をすることしかできなかった。
布の下から現れたのは……
「カ、べ」
真壁大成その人だった。
大きな体を横たえ、目を閉じている。顔は青白く、身じろぎ一つしない。カベの寝顔を見たことはなかったが、一目でそれと分かった。
にしても……本当にこれ、カベなのか?俺の知っているカベはこんなに頬はこけていなかったし、唇や頬の血色ももっと良かった。目は落ちくぼみ、化粧をしているようだがクマの色までは隠し通せていない。
……何やってるんだよ、カベ。
俺を騙そうとするなんて酷い奴だな。そうだ、カベの事だから急に起き上がって『驚いたか?』っておどけて言う時も、きっといつもの不機嫌そうな表情のままなんだ、きっとそうだ。だからこれがドッキリ企画だとなかなか気づけない。そうに決まってる。
……
……
……
待てど暮らせどカベが起き上がる気配はない。
……カベ、いい加減にしないと、仏の聖くんといえども怒るぞ?今なら大丈夫だ、きっと安堵で腰が抜けるくらいの事にはなるだろうが、騙されたお礼に一発くれてやるくらいの余裕はあるぞ。
だから。
早く、起きてくれないか。そうしてくれないと、俺は……
俺は……
俺……は……
「本当なら、一ヶ月は前から入院していなければならない状態でした」
医師が重苦しく言う。主治医だろうか。
「正直に申し上げて、ここまで保ったのが不思議なくらいです」
「……」
「病名は、有り体に言えば急性白血病……既に手の施しようがありませんでした。しかし真壁くんからは、最後の最後まで誰にも知らせるなと念を押されていたので……これです」
医師が差し出したものをと見れば、確かにカベの字で『入院せし事、母親以外他言無用』と達筆な筆ペンで書いてある。そして右隅の方に、半ばどす黒くなった朱で拇印が認めてあった。……多分血判だろう。
「最後は穏やかなお顔でした……今の表情と何ら変わりはありません」
見れば、確かに穏やかだ。人間、死に顔が一番その人物の人柄が出ると言うが、その論法から行ったらカベは聖人君子の類だろう。
でも。
「……るな」
「え?」
医師が耳をそばだてた。
「ふざけるな!」
別に医師に向かって言ったわけではない。それに、遺族が取り乱す事くらいその医師も慣れっこなんだろう、あまり驚きはしなかった。
「カベ、何をそんなに納得してるような顔してやがるんだ!早く起きろよ!早く起きないと……俺……おれ……」
……
……
一気に、力が抜けた。膝から崩れ落ちる。カベの身体にすがりついた。自然と涙が出てきた。一端溢れた涙は、もう止まらない。
早く起き上がってこい。タメを作るのはもう沢山だろ?だから、早く起き上がってこい。そうしたら、俺は恐らく大泣きしながらカベの顔面に一発入れて、そしてまた泣き出すだろう。
早く。
早く。
はや、く。
……言葉にならない。口から出るのは嗚咽だけだ。
「カベええええええぇぇぇ……ぇ……」
ベッドに横たわっているのは、もはやカベではない。カベの魂の入れ物だった肉体に過ぎない。
カベのこけた頬に手を寄せる。見慣れた四角い顔だ。ただイマイチ寝顔が見慣れない様な気がするのは、ひとえにカベの表情の変化を間近で見たことがなかったからだろう。
カベの太い右腕を抱えて手を触ってみると、バットのグリップに接する部分が驚くほど堅くなっている。素振りによるマメだ。
太い腕、逞しい僧帽筋。これが病に伏した人間の筋肉だろうか。きっと痩せ衰える暇もなかったんだろう。それもカベの死を受け容れがたくしている要因の一つでもある。
どれを触っても共通していることは
冷たい。
字義通り、血の通っていない冷たさ。
身体に暖かな血が通い、この手が、この肉体が、自発的に何かを産み出すことはあり得ない。そう考えると……どうしようもなかった。
もう、真壁大成という人間はこの世にいない。
それが俺にとってどれだけ大きな意味を持つのか、今はまだ……理解できるはずもなかった。
ぽた、ぽたとシーツに、カベの頬に涙が落ちる。おとぎ話だったら、これで生き返るなんて事……ありがちなのにな。
俺は何て無力なんだ。カベを喪った今、更にどれだけちっぽけな存在になってしまうのか……いや、自分の事はいい。残された他の人間にどう申し開きすればいいんだ。カベの身体は、もうカベ一人のものではないのに。野球を愛する人、そして何より……カベと接してきた俺以外の人間の哀しみは?
余りに唐突に突きつけられた過酷すぎる現実は、容赦なく俺を苛む。どうすればいいっていうんだ。何を考えれば良いんだ。俺は……どうすればいいんだ。
「ばかやろぉ……」
今更何を言っても届かない。言いたいこと、話し合いたいことは沢山あったはずなのに、こんな形で終止符が打たれるなんて酷いじゃないか。
俺のすすり泣きが部屋中に木霊する。付き添いの医師は気を利かせてくれたのか姿が見えない。頭のほんの片隅に残っていた冷静な部分がそれを認めると……頭の全てを言い様のないもやもやが支配した。
……目の前から色が消えてゆく。
足取りもおぼつかない。
しかもそんな足取りで何処をどう歩いたのかもさっぱり分からない。
雨でぐしょ濡れになりながら彷徨う俺を、通行人が怪訝そうな顔で見ていたような気もするが、殆ど覚えちゃいない。頭には、整理の付け難い重い現実が、出口も見えないのに堂々巡りを繰り返している。
……ふと気付くと、五塚高校の前までやってきていた。どこをどう歩いたか分からない割には随分と分かりやすい場所に来たものだが、これも一種の帰巣本能なんだろうか。
無論、こんな天気だからグラウンドで練習をしている部活などあろう筈もなく、見えるのは半分田んぼになった水面に雨粒の落ちるおびただしい数の波紋だけだ。
校門からグラウンドに入る。ばちゃ、ばちゃという水しぶきの音だけが、雨に煙る世界の中で自分がそこにいる証。しかし……この雨の中をもカベは走らない。
マウンドに立つ。
約19メートル向こうには、ホームベースとキャッチャーの居所。かすかに……カベがそこに座っているかのような気がした。
その刹那。
グラウンドの後継が一変して、真夏の、強烈な日差しが照りつける午後のグラウンドに立っていた。目の前には、練習用ユニフォームを着てキャッチャーミットを左手にはめ、お馴染みのやや不機嫌そうな表情で構えるカベが居た。
そうか、今は特『特訓』の最中だったな。マサカリのモーションを起こし指示された通りのコースに全力で、投げ……!
たところで、軸の右足が滑った。上げた左足を踏み出そうとしたところで、右足が身体を捻るトルクにぬかるんだ地面が支えきれなかった。
……そう、ここは灰色の雨に色を消された狭いグラウンド。勿論、俺の正面には誰も居ない。マウンド付近の水たまりの中に突っ伏する形になった。口の中に泥水が入り込んだが、吐き出す気にもなれない。
……カベ。
どうして、こうなっちまったんだ。信じろっていうのか、お前の居ないこの世界を。出来ない。出来るわけがない。お前は、野球においての俺の全てだったのに。
カベ。
どうして俺を置いていった。
カベ。どうして……どうして……
過酷な現実に直面した直後よりも、しばらく時間を置いた今の方が苦しい。心臓が小刻みに震える。息が切れる。
「う」
声が漏れた。幸い……雨の音で誰にも聞こえないだろう。
「……!」
声にならない、言葉にも出来ない『音』を口から思いの様吐き出し……左の拳を地面に叩き付ける。こんな時にまで自分の商売道具をわきまえる自分の冷静さが恨めしかった。
グラウンドに響く叫びは雨にかき消される。
俺は、そこで疲れるまで叫び続けた。何処にいるか分からないカベに届くように。
「お兄ちゃんっ!」
……何処をどの位彷徨っていたのだろう、いつの間にか家の玄関に帰り着いていた。グラウンドを出たときから再び記憶が飛んでいる。真理が出迎えてくれる所を見ると、バイトから上がった時間ということだ。九時半は過ぎているらしい。……雨なのに迎えに行ってやれなかったな。……行く気にもなれないが。
「こんな時間までどこに行ってたのっ?しかもそんなにびしょ濡れで……傘、持っていかなかったんだ」
……真理はまだ話を聞いていないのか……今、言った方が良いのか。俺でさえ、間近にカベの眠っている姿を見てさえ未だに信じられないというのに。……でも言おう。
「真理」
「なぁに?」
びしょ濡れで何をやっていたかという部分には大して触れない真理。俺にだって事情があることくらい承知しているからだ。でも……真理とカベはかなり近しい。いずれは知ることになるのだから……と、覚悟を決めた。
「シャワー浴びた後に話がある。姉さんは?」
「居るけど」
「じゃあ姉さんも一緒に……リビングで待っててくれ」
「うん……」
察しの良い真理のことだ、何かしらの不安を感じたのだろう、顔が緊張にこわばった。そんな顔をしないでくれ、決意が鈍る。
いつもなら絶対に浴びない程の熱々シャワーで身体を清める。きゅ、と栓を閉める音がバスルームに響き、俺の踏ん切りを助けようとしていた。鏡の曇りを指で拭い、自分の顔を映してみる。
……ははぁ、真理の反応は俺の顔を見たからでもあるんだな、瞳が充血で真っ赤っかだ。沢山手の甲で拭ったし、泣き腫らしたし……でもまだ涙は枯れそうにない。何故なら……カベの事を考えるだけでまた視界がぼやけてしまいそうになるからだ。決意が揺るがないうちに、髪もロクに乾かさずバスルームを出る。
リビングに行くと、真理と姉さんがテーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。
「聖くん、お話って?」
俺がソファに着座したのを見計らって、姉さんが眉をひそめて聞いてくる。察しの良い姉さんの事だ、様々な事態を想定してるんだろう、非常に落ち着いている。
「……」
「……」
「……」
沈黙。でも、この沈黙は金にも薬にもならない。二人の顔を見回し、大きく息を吸い込んで……
「カベが、死んだ」
簡潔に、それだけ。他にどう言えっていうんだ。ボヤかしていったって仕方がないしな。
「え……?」
流石に二人とも耳を疑ったようだ。そりゃそうだ、俺だって未だに信じたくないのに、突然こんな事実を突きつけられて混乱しない人間など居まい。姉妹達はカベともかなり近かった。『加藤家』全員と交流があったといっても過言ではない。
「真壁さん……が?」
半分苦笑いしながら真理が聞き返す。俺の悪質な冗談だとすぐに予想できても……俺がそんな冗談を口にしない人間だということも瞬時に予想できるはずだ。顔からおおよその筋肉が抜け落ちたかのように表情が消えてゆく。
姉さんは……と見ると、目を閉じて顎を上げていた。こちらは、突然もたらされた悲報にどう対処したらよいものかを考えているようだ。……流石だ。年の功、といったら年寄り扱いしすぎかな。
「急性白血病……だそうだ。詳しいことは知らないが、知る必要もないだろ」
「でも、幾ら何でもそんな急に」
「だから俺が知るか」
思わず語勢が強くなる。
会話が途切れた。重苦しい沈黙の後、
「ごめん、真理。俺もまだ気持ちに整理なんてついてないんだ」
「ううん、私こそ」
言いつつ、真理は既に涙を浮かべている。一応他人とはいえ、無関心で済ますには近すぎる存在だっただけに、受けたショックは相当のものだろう。
「……」
「……」
「……」
三人分の沈黙。時計の秒針が時を刻む音がやけに耳障りに聞こえる。永遠に続くんじゃないかと疑ってしまうような、沈黙。破ったのは姉さんだった。
「お香典……用意しなくちゃね」
ごく現実的な対応への、殆ど独り言だった。姉さんにとって、カベの死は事務的な事を用意するしか頭に浮かばないような存在だったのか、と腹を立てかけたところで、立ち上がって用意をしようとする姉さんの目尻に涙が光っていたのを見つけた。
……姉さんだって悲しくないわけがない。ただ、必要な事をムリにでも仕様としているのだと気がつき、自分の思慮足らずが恥ずかしくなった。
「お通夜とかは?」
「分からねぇ……何も知らされてない」
「……」
考えてみれば、何故俺だけが霊安室に居たのだろうか。最低限、共に闘ったチームメイト等は居てもおかしくないと思うのだが。
そのうち、野球部内の連絡網が回ってきて通夜の段取りが伝わってきた。勿論加藤一家は総出、準備は慌ただしく……でも、忙しくしてくれた方が俺にとっては有り難い。未だに考えの纏まっていない今となっては、何かを考えるより身体を動かしていた方が気が紛れるから……。
街の外れにある葬儀場。
閑散とした、住宅や商店街から離れた、半分工場地帯だからこそここに建てられたのだろうけど、どうしても場所の相乗効果で余計に寂れた場所に見える。
そこに五塚の制服を着た連中が集まっていた。どうやら、甲子園準優勝捕手の通夜ということもあり、参加人数から見ても、結局はほぼ前全校生徒の出席を迫られたらしい。そんな強要のようなマネをカベが喜ぶとでも思ったんだろうか。
気になったのは、見慣れた制服の中に混じって背広姿のおっさんの姿もちらほら見えた事だ。……ひょっとして、『上』の人間なのだろうか。あれだけの実績を残した人間だし、プロだの社会人だののスカウトから目を付けられていても全くおかしくはない。高校生だけに接触の機会は限られているから目立ちはしないのだが、カベという人間がそれだけ影響力があったと考えると……やるせなくなる。
ホールの中は、色とりどりの花で飾られ、通夜に似つかわしくなかろうかという論理感が働かないほどの華やかさを演出していた。……これもカベ自身は決して望まない、不要な装飾だろう。
後ろを見ると、喪服に身を包んだ姉さんと、制服姿の真理が頭を垂れて焼香の列に並んでいる。痛々しくて見ていられない。……カベとの繋がりは俺の方が強かったはずなのに、影響力のある人間というものは、こういった事態になると悲しむ人間も増える。
列のずーっと後ろの方には……カメラを構えた報道関係と思しき姿がちらほら。人の不幸でメシを喰うとは良い度胸だな。もっとも、それを糾弾する理由も手段も見つからないが。
焼香の目前まで、ひたすらお経を聞きながら進んできた。顔を上げると……そこには、遺影としてネクストバッターズサークルで片膝を付きながら打席を待つカベの姿があった。 ……投球練習をしながら、あの頼もしい姿を見ることは、もう未来永劫無い……そう考えたら、不意に視界が歪んだ。
「〜〜〜ーーっ」
声を押し殺そうとすればするほど、口から出るのは言葉にならない音。泣きたくなんかない。俺はまだ……認めた訳じゃないんだ。でも……もうムリだ。気を張っているのも疲れるものだ。もう……お終いにしたい。
カベ、葬式なんだから泣いたって良いよな?身体の力が抜け掛ったその瞬間、俺の肩を支えた人が居る。
……真理だ。
真理は俺の頭を掻き抱くと、自身の胸へと引き込む。俺の涙を周囲に晒さないように、意図してやってくれたのかどうかはさておき、有り難かった。そのまま……しばらく身を預けると、少しだけ心が軽くなったような気がする。少なくとも、俺以外にもカベの死を悼んでくれる人が居る、それだけでもなんとなく負担が分散されるような気がして……
通夜も滞りなく終わり人気のまばらになった会場で、加藤一家でカベのおばさんに挨拶することにした。そういえば……おばさんに会うのって実は久しぶりなんだよな。カベと知り合った直後にちょこっとだけ顔を合わせただけだ。やや緊張する。そもそも、三年も付き合いがあるのにカベの家庭のことは殆ど分からず終いだった。
おばさんは、カベの棺の傍でパイプ椅子に腰掛けていた。黒い和装の喪服を着、三年ほど前とさほど変わらぬ姿で、身じろぎ一つせずに床の一点を見つめている。
「あの……」
声を掛けてようやく顔を上げたおばさんは、当初俺の顔が分からなかった様だが、ふと気付いて合点がいったらしく、
「どうも」
しかし、どこか他人行儀にありきたりな挨拶を返してきた。いかにも夜の商売が板に付いていそうな、そんな雰囲気。声がつぶれていることからも窺い知れる。酒でノドがやられてしまっているんだ。
「この度は……」
この度は、何だ?何て言えばいい?お悔やみ申し上げます、か?どんな言葉を持ってしても実の息子を喪った哀しみには代えられないのに……少なくとも、俺はそう思っていた。当たり前だ。信念は、『子を想わない親など居ない』なのだから。
しかし。
「この子も」
と、おばさんは遺影をちらりと見てから
「折角育てたのにこんなところでおっ(ち)死んじまって。あともう少しで契約金っていう大金が手に入ると思ったのに、全く期待はずれも良いとこだよ」
「……は?」
「聞こえなかったのかい?だから、死ぬんだったら契約金が入ってからにして欲しかったって事よ。このままじゃ折角育てた意味がないわ……入院代だってバカにならなかったんだから」
何、言ってるんだ、この人?
ぐら、と一歩後ろによろめいた。俺が想像した『おばさんはこう考えているだろう』から余りにかけ離れ、そしてカベの存在を無下に否定した言葉に、どうして良いか分からなかった。……人間があまりの事態に直面したときに取り得る行動は二つ。
取り乱すか、
全く動けなくなるか、だ。
よろめいた俺を背後から支えてくれたのは、今度は姉さんだった。見れば、顔が険しい。
「何を……何を言っているんですか!大切な息子さんが亡くなったんですよ?他に言うことは幾らでもあるんじゃないですか!?」
そして、俺が今まで見たことのない剣幕でまくし立てた。驚いた。常に微笑みを浮かべ、春の日差しのような柔らかさで兄妹たちを見守ってくれていたその根源は、『強い人間愛』だったのだろう。それだけに、人間としての価値を限定したような言い方に我慢が出来なかったのだと思う。
「うるさいわね。あたしが産んだ子だ、あたしに還元してもバチは当たらないよ」
「なっ……!」
「そもそもあの子が言ってたんだ、『もう少しで楽になるから』って。そんだけ期待させといてこの有様だよ。悪態も付きたくなるってもんさ」
おばさんは横を向き、タバコを取り出しぷかぷか喫りだした。これが……俺が信じた『親の愛』の姿か。
「……分かりました」
姉さんは、おろおろするばかりの真理の肩を抱き、おばさんを無視して棺の傍へ。俺も……それに倣う。棺に開けられた顔見用の扉が開いている。真理と姉さんはその顔を見て……口を押さえた。
棺の中のカベはどんな顔をしているだろう。よもや、俺が来たからといって小説のように死に顔が変わるわけではあるまい。第一、俺は霊安室で安らかな顔とやらを散々見たから、もう沢山だ。あの観念しきったような表情が、カベの『やり残したことがない』という気持ちを代弁しているようで、安心すると同時に少し腹立たしくあったのは今も変わらない。
姉さんが俺の方を怪訝そうに振り返る。『顔を見てあげないの?』と問いかけているようだ。首を振って意思を示すと、真理も姉さんも棺から離れた。
「行こう」
「ええ……」
俺たち三人は、やりきれない、どうしようもない思い気分で会場を離れた。……カベよ、お前はあんな人のために命を掛けていたのか?それにどうして……そんなになるまで俺に黙っていたんだ。俺は信頼の置けない人間だったか?いや、確かに信頼などされようはずもない人間だと自分でも思っている。
だけど、だけど……
どうしてもやるせない。
行き場のない言い知れない思い。この訳の分からない胸のつかえが取れる日は一生来ないかも知れない。それくらい……真壁大成という人間を喪失した意味はとてつもなく大きかった。
会場を出る寸前に振り返ると……おばさんは未だに無表情でタバコを吹かしていた。




