第16-10話
旅行から帰ってきて。
俺と真理の仲は進展……するはずもない。まずお互い同じ屋根の下に暮らしているからという遠慮があるし、そもそもそれもごく当たり前の心掛けだ。正面切ってイチャつくのも、姉である由紀さんの心境も慮ればとてもやれた事じゃない。
ならば出来ることと言えば……
こうして真夜中、姉さんが寝静まってから俺の部屋で二人、他愛もないことをお喋りするくらいしかない。
……気持ちが通じ合っているし、それに、その……取り敢えず……取り敢えずという言い方も変だが、とにもかくにも恋人同士なのだし、キス……くらいはしていいのかな、なんて戸惑ったりもしちまって……そりゃ『あの時』に幾らでもしたが、あれはあれで『知識を試す』以上のキスではなかったしな。……それとも、あの時、俺と瑞穂さんは確実に身も心も通わせていたのだろうか……いやいや、何であの時のことなど考えるんだ!と頭を振ってみても、俺の今までの短い人生の仲で、女性と密接に(方法はどうあれ)接した経験なんて他にないから予想も出来ない。
「でね、その先輩ったら、後片付けに没頭して、気がついたら10時になっちゃってたんだって。帰る時間を一時間もオーバーしてたのに気がつかないなんて凄い集中力だよね」
「そりゃあ集中力云々ってより生真面目すぎるんじゃ……後でワーカホリックにならなきゃいいが」
ここで真理の言う『先輩』とは、学校ではなくバイト先の先輩の事を指す。バイトでの経験を楽しそうに話す時に決まって出てくる、人が良すぎて損をしてしまう類の、超が付くほどの好人物らしい。おっとりしているように見えて、実は人を見る目が確かな真理が気に入っているのだからさぞかし大した人間なんだろ。
「もうこんな時間か」
「え?あ、ホントだ」
別に真理との会話を切り上げたい訳じゃないが、流石に午前二時では眠る時間だろう。誰だ、午前二時なんてまだ宵の口なんて言ってるのは。よい子ちゃんじゃないな。
「……」
「……」
とは言ったものの、二人とも去りがたい。これも『恋人同士』、特にその関係に成り立ての二人には付きものの状態なのではなかろうか。
ちら、と真理を見ると……
目がばっちり合ってしまって、お互いに目を逸らす。
どき。
どき。
どき。
過剰に意識しなければいい、と強く思えば思うほど、心臓は反比例して元気よく鼓動する。心臓だけじゃなくて、全身を巡る血液の脈動、そのごーっという音が全部耳に届いてくるかのようだ。
どうしたら……いいんだろう。
「じゃあ、ね、お兄ちゃん」
「あ……」
居たたまれなくなったのか、真理はそそくさと腰を上げ、止める間もなく部屋を出て行ってしまった。俺が引き留めなかったという方が正しいかも知れない。何故なら、引き留めたところで何を話して良いか分からなかったから。
ばたん、と真理の部屋のドアが閉まる音を確認してから、ふーっと息を吐いてベッドに寝転がる。奇しくも、そこはさっきまで真理が腰掛けていた場所だ。
……良い香りがする……
おっとと、コレじゃまるで変態だ。そもそも、何回こんな変態的行為を無意識にやったのだろう。残り香を嗅いで悦に入るなんて変態以外の何物でもないよな。それで自己嫌悪していれば世話無いけど……
とにかく、この気持ちをどうすればいいのだろう。どうすればもっと真理との距離を縮めることが出来るのだろうか。
それから。
真理と目一杯遊ぼうと思ったものの、真理も律儀にバイトのシフトを入れているからなかなか遅くまで遊び倒すことができない。あいつの性格から言って、忙しい夏休みの間くらいは皆のサポートをこなしたい、だからシフト回数を増やしてるんだろうな。立派な心がけには違いないが、俺の持論だと、一所懸命に働くのは『働いている間だけ』で良いと思うんだよなぁ。社員でもないんだから……ひょっとして、こういうのが良くある『すれ違い』って奴だろうか!?
そうか、こういう事が積み重なって、『俺と仕事のどちらが大切なんだ!』と攻め寄っちゃったりして、答えあぐねた真理を更に……いやいや、俺と真理に限ってそんな事はない筈だ。……多分。しかも、そんな悩みは俺らが本格的に社会に出て働き出してからすればいい問題だ。だって、俺たちは……一緒の家に住んでいるのだから。時間はある。
しかし、それだけでは我慢できないのも事実で、……
「済みません、コーヒーをもう一杯」
「かしこまりました」
雨の日だから迎えに行くという名目の元、真理の姿を拝みたくて、こうしてファミリーレストラン『ブラウフォーゲル』までついつい足を運んでしまうのだった。傍目から見て、『妹想いのお兄ちゃん』と見られているのかどうかは定かではないが、コーヒーが旨いのもまた事実だからな……そうか、それも一応ここに通う言い訳の内の一つになるわけだ。……言い訳ってなんだ?何で言い訳なんてしなけりゃならんのだ。
例の、可愛いメイド風ユニフォームに身を包んだウェイトレスさんが離れてゆく。ネームプレートには何と書かれていたかな。正直に言って、真理以外の子はどうでもいい。それでも、あのユニフォームを着たウェイトレスさん全員が良いセン行ってるのは喜ばしいことだ。……本当に真理以外はどうでもいいんだぞ。どうでも良いが、やっぱり可愛い子には何を着せても可愛いのだから仕方がない。
しかし、俺も何を遠慮しているのか知らないが、真理目当てなのだから真理にお代わりを頼めばいいのにわざわざ同僚に頼んでいる。テレが多分にあることは否めないが、あんまりやりすぎても真理の反感を買うだけかも知れない。
ちら、と客席の衝立の間から真理が見えた。職務遂行中の表情は、柔らかくも自信とやる気に満ちあふれ、ある種の神々しさまで備えている。こりゃ、俺ならずとも声を掛けたくなってしまうのは無理ないかもな。悪い客にちょっかいを出されて泣いている姿なんて見たくないぞ。
その心配への対処ということでもないだろうが、ホールには男性のウェイターも二人入っている。一人は明らかに店長格のおじさん……といっても、飲食業界は出入りが激しいらしいので三十歳代だろうが……と、俺たちと同い年くらいの、
背の高い、
さらさらの髪を真ん中から、これ見よがしの清潔感とともに分けた、
しかも非常にツラの良い、
逆三重苦を幸か幸か背負ってしまった優男がいそいそと動き回っている。……俺の見間違いか?そいつの後ろ姿をウェイトレスさん連中が目で追いかけているぞ。しかもかなり熱っぽい視線で。……あれだけのいい男だったらそれも致し方ないというか……少なくとも外見だけでは潔く白旗を上げたくなるような、とにかく超が付くほどの美男子が俺の目を引いた。同姓である俺の目を引くんだから、女性の反応は……ウェイトレス連中の視線が物語ってるよな。
いや、他のこの事などどうでもいい。問題は……
(真理が気を惹かれやしないか……?)
という点に尽きる。外見だけで言い切るのも何だが、常に人当たりの良さそうな微笑みを浮かべているしな。このイケメンに微笑みかけられて気分を害する人間など、葬式帰りの人間くらいのものだろう。
ふと、その男と真理が話しているのが目に止まった。しかも、楽しそうに、忙しい合間を縫って親しげに言葉を交わす二人は、悔しい、とても悔しいがお似合いに見えた。身体の小さな真理があいつと話すときは、首をかなり上の方に向けなければならないからちょっとだけ大変そうだ。……この事から見て、男の背丈はカベと同じくらいは有るのだろう。真理がカベと話しているときの体制とほぼ一緒だったから。ってことは、身長180センチ後半か……羨ましいの一言に尽きるな。俺にあの体格があったら、一体球速に何?の上積みが出来るのだろうか。
そんな事よりももっと癪に障るのは、楽しくお喋りしている(仕事しろっ!)二人が、傍目から見たらとってもお似合いな事だ。気にくわない。そもそも真理と口を利いて良い男など、この世に俺一人しか存在してはいけないのに!……とマジで考えたくなるほど、つまり俺はあいつに劣等感を抱いてしまった、瞬間的に。
はぁ、と溜息を一つ。つくづく、自身の度量の狭さがイヤになってくるぜ。外に目を向けると、台風が来ているらしく土砂降りと形容しても良いくらいの降りっぷりで、遠くに見えるはずの繁華街のビルが見えないほどだ。とにもかくにも迎えに来た回はあるってもんじゃないか。
「お兄ちゃん、もうちょっと待っててね、あとちょっとだけお仕事が残ってるから」
「おう」
目の前の、空のコーヒーカップをトレイの上に乗せた真理は、大きな瞳を片方瞑ってウィンクをした。……くそ、それを他の男の前でやるんじゃねぇぞ。一発で惚れられちまうからな。
しかし、何処で話を聞いていたものか
「真理ちゃん、後は僕が片付けておくから上がって良いよ」
と、件の男が真理に声を掛けた。だから仕事しろ!と言いたいところだが、生憎と繁忙期は過ぎているようで、何人かは早くも〆の準備に取りかかっていた。
「でも、まだ……」
「それは僕の方でやっておくから。お迎えも来てることだし、それに真理ちゃんはいつもマジメにやってるからね、これくらいどうって事無いよ。雨も降ってるし、ね?」
優しく諭されても真理はしばらく思案していたが、
「じゃあ、甘えちゃいます」
と、男にぺこりと一礼してからキッチンの方へと歩いていった。男は、その後ろ姿を何とも言えない、温かい視線で見送っている。一瞬腹が立ったが、こんなことでいちいち立腹してても胃に穴が開くだけだ。
男は、俺に向き直ると誰でも好きになりそうな極上の甘い笑顔をこちらに向け、一礼した。
「初めまして。……真理ちゃんのお兄さんですよね?」
「……ああ」
お前にお兄さん呼ばわりされる筋合いなど無いっ!と叫びたいのをぐっと堪えて、適当に相づちを打っておく。
「僕、お兄さんの大ファンなんです。甲子園の試合もずーっと見てました」
「そりゃどうも」
大方、俺が有名になってからのファンだろ?そんなのは、逆に言えば『熱が冷めれば簡単に俺の名前を忘れて思い出しもしない』類の、一種の野次馬みたいなもんだ。
「実は僕、お兄さんとは野球で対戦したことがあるんです」
「……ホントか?」
思わず身を乗り出した。野次馬ファンとは成り立ちが違うって事か。
「はい、僕は西大井でしたから」
つまり、中学時代の県大会決勝、伊東と同じチームだったって事だ。あの時は、やっぱり伊東にばかり注意が行っていたから、他のバッターへのマークが疎かになりがちだったっけ……だから他の選手の顔など尚更覚えちゃいない。それにしても、もう三年以上も前の話になるのか。
「なるほど、ね」
何がなるほどなのか分からないが、一応感心しておく。
「僕、あの時から凄い投手だなって密かに注目してたんです。あれだけの投手ですから、きっと高校でも名を成すに違いないって信じてました」
「でも、一年の頃から活躍してなかった……はおろか、どっかの無名の高校に入っちまったから、事実上何処に行ったか分からなくなったって?」
自嘲気味に行った。当時でも西大井ってのは公立のクセにいっちょまえの名門気取りだったらしい。一説には、有名シニアに行きそびれた選手が集まっているらしいとか。そんな学校に居たんだから、この男もかなりの腕前の持ち主の筈だ。
「……否定はしません。でも、去年の夏の大会で名前を見たときは……嬉しかったですね、他人事ながら。昔から目を付けていた選手が活躍する快感、とでも言いましょうか」
ふん。
「そういや、そっちは野球は?」
何気なしに聞いたはずなのに、男の眩しい微笑みに影が差した。
「……あー悪かった、聞かなかったことにしてくれ」
向こうがあまりにも俺のことを知っているような素振りを見せるものだから、不公平とばかりについつい余計なマネを……
「いえ、お気になさらずに」
苦笑いも良くできてる。ともすれば嫌みになりそうな表情なのに、全体の空気が全てを柔らかく見せている。
しかしこの男、物腰その他から非常に厳しく躾けられているのが垣間見えるな。発する涼しげな空気もどことなく上品だし、生まれが良いのか。はいはい、俺は成り上がりプログラマーの息子だよ。別に生まれの貴賤にコンプレックスが有るわけじゃないし、実害を受けたわけでもない。生まれの差が如実に出る欧米じゃ有るまいし。……ひょっとして、真理のバイト話によく出てくる『度が過ぎるお人好しの先輩』なんじゃなかろうか。その確率は高い。
「ところで、真理はよく働いてる?迷惑とか掛けてなけりゃ良いけど」
「いえ、とんでもない。人一倍働くんで、みんなとっても助かってますよ」
「そうか……そりゃ良かった」
もとより、あいつの性格から言って真面目に働いてるとは思ったが、やっぱり。
「お待たせ、お兄ちゃん」
その時、真理が制服に着替えてやってきた。
「あれ、お前制服だったのか」
「うん、学校に用事があって、直接こっちに来たの。……じゃあダイジさん、今日はありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。その仕草があまりにも可愛らしくて……二人して微笑んでしまい、顔を見合わせる。ちっ、こいつと気が合うとはな。
「ううん、じゃあね、真理ちゃん」
「はいっ」
惚れ惚れするようなイケメンの微笑みに、誰もがとろけてしまうような美少女の微笑みか。全く、画に描いたような美少年美少女だな。……一体何にイラついてるなんだ、俺は。
「行くぞ」
「あん、待ってよ」
車の中。
信号待ちをしている途中、ちらりと隣の真理を見る。特に変わったところは見られない。
ちなみに、車は家の車庫に収まりきるギリギリサイズのシボレー・タホ。大きくて扱いづらい車だが、この時のように真理を迎えに行く時には、自転車を余裕で積み込めるので重宝と言えば重宝している。オヤジに『真理の自転車を乗っけられる位の大きさの車を調達してくれ、真理のためだ』と頼んだら、あっさりとアメリカンサイズの車を寄越して来やがった。あの人は加減ってモンを知らないのか。
「……」
「……?」
俺の雰囲気を察してか、真理が怪訝そうな表情を浮かべる。そう、俺はさっきから何故だか分からないが面白くない。それが顔に出ちまってる……マウンドの上のポーカーフェイスは得意中の得意だが、日常生活ではまだまだガキってこった。
「どうしたの?お兄ちゃん……機嫌悪いけど、もしかして……」
気付かれたか?
「私の着替えが遅かったから怒ってるの?」
「違う」
「じゃあ何が原因?」
「だから怒ってなんかないって」
「嘘ばっかり……お兄ちゃんが怒ると顔に出るから、すぐに分かっちゃうんだよ?」
「……」
気にしているところを看破され、益々慌ててしまった俺は
「だから、何も無いって言ってるだろっ」
思わず、怒鳴ってしまった。
一括された形の真理は、口を開けてしばらく衝撃を持てあましていたようだが……ぷい、と横を向いてしまった。原因が自分に有ると考えない、いつもの真理らしくない態度だ。珍しい。俺の初めて見る表情(素振り)かも知れない。
「……今日のお兄ちゃん、変」
「悪かったな」
変、か。確かに変かも知れない。いつからおかしくなったのかと思い出してみると……大体分かっちまった。
「お前、あの男と親しいみたいだな」
真理は虚を突かれたように、急にこっちに振り向いた。
「いい男だよな、お坊ちゃんっぽいし、背は高いし、いい顔してるし」
「お兄ちゃん……ダイジさんとなにか話してたの?」
「ダイジってのか」
「山内大治さんっていうの。お兄ちゃんが言うように、結構いいとこの息子さんみたいなんだけど、社会勉強の一環としてアルバイトしてるんだって」
「……詳しいんだな」
「だって……信頼できる同僚だもん。大治さんとシフトが一緒だと仕事がとっても捗るんだよ」
「……なるほど、そりゃ真理のお気に入りになるわけだ」
「お兄……ちゃん?」
いかん、歯止めが利かなくなってきた。一端ヒビの入ったダムがあっという間に決壊するが如く、言葉が溢れ出す。
「ダイジとか言ったっけ?女の子はああいった爽やかなタイプかさぞお好みなんだろうよ。背も高いし、生まれも育ちも完璧とくりゃ文句はねぇよな」
「お兄ちゃん……何……言ってるの?」
「……」
何を言う、か。俺は否定して欲しかったんだと思う。思いが通じたもの同士として、言葉で『私にはお兄ちゃんしか居ない』と。ダイジとは単なる仕事上の付き合いだけって事も頭では分かってる。だけど……俺のありとあらゆるコンプレックスを刺激せずにはいられないあの立ち居振る舞いが、ちっぽけな自尊心……真理を自分の恋人にした……を揺すぶり続ける。
はは、俺って最悪だな。勝手に嫉妬して、真理の信頼を試すようなマネまでして。
でも、はっきり言って欲しい。
私には貴方しかいない、と。
「……」
「……」
無言。
どこをどう運転したか分からぬまま、気がつけば家の前までやってきていた。よく事故に遭わなかったものだ……ひょっとしたら右脳で運転していたのかもしれない。
車庫の前に車を止め、真理を見る。
……俯いていた。
俺のせいだな。
全部俺が悪い。真理の悲しそうな姿を見て我に返るなんて遅すぎるというのに。しかも原因が俺の一方的な嫉妬だというカッコ悪さ。どうしようも無ぇ。
「ごめんね」
「……何でお前が謝るんだよ」
「でも」
「謝らなくちゃならんのは俺の方だ。お前を信じてやろうとも思わないで、そんな事有るはずもないのに色んな事考えちゃって……」
……
真理がバイト先の倉庫か何かで、背伸びをしながら捜し物をしている。
後ろから歩み寄り、真理に抱きつくダイジ。
「あん、ダメですよダイジさん、まだお仕事中なんですから」
「ちょっとだけ……ね?」
ダイジは、普段見せないような甘えた瞳と声で真理に訴えかけ、指がウジ虫のように蠢き真理の身体をまさぐる。
「だめですって……あ、ん……」
口ではそういっているが、声は艶を帯び表情はだんだんと恍惚に支配されて行って……
こんなイメージ。
思い切り頭をがしがしかきむしる。
あああああーーーーーダメだダメだ!どこの三流ポルノ小説だよ!何を考えてるんだ俺は!こんな事を考えていると言うことは、即ち俺も同じような事をしたいと心の底で考えているっていう裏返しなんじゃないだろうか。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
真理が顔を上げた。吸い込まれるように瞳を見る。……涙が光っていた。結局、俺は真理と出会ってからこいつを何回泣かせたんだろう。
「信じて。私……疑われるようなマネしないから」
「疑われるようなマネって……なんだよ」
「……」
他の男と話さないとかか?無理に決まってる。そもそもの問題は、そうしているだけで嫉妬を抱く俺自身なのだ。真理が気に病む必要などどこにもないというのに。
「俺が悪かった」
「お兄ちゃん……」
謝ることしかできない。俺が一方的に悪いのだから。
それ以上何も言えずに、車を頭から車庫に突っ込む。エンジンを切ると、途端に辺りが静寂に包まれる。最近の車は遮音が優れてるから、じっとしていると耳鳴りがするくらい外の音が入ってこない。
「……」
「……」
二人して車を降りようとしない。ここで降りてしまったら、何か重要なことを言えずに終わってしまう様な気がしてならないんだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
見れば、真理は真摯な瞳で俺を見つめている。普段ならこちらから目を逸らしたくなるような無垢な瞳なのに、今ばかりはその瞳の中に住む情熱の炎がはっきりと見えた、その瞬間。
「……!」
ほんの一瞬だけだったけど、確かに……真理は助手席から身を乗り出し、俺と唇を重ねていた。幅の広いアメ車だけに、助手席からではかなり無理な体勢だろう。だからこそ瞬間的になったのかも知れないが余計に現実感が希薄だ。でも、これが夢の類じゃないことは、事後の真理の顔が火を噴きそうな程真っ赤だったことからも窺い知れる。
「信じて……くれる?」
それは、真理なりの精一杯の釈明だったんだ。好きでもない相手に唇を許す気など無いだろう真理の、最大限の。
効果はてきめんで、俺の心にくすぶっていたつまらんコンプレックスが音を立てて吹き飛んだような気がした。また、簡単に吹っ飛ぶようなものでもあったのだ。それとも、真理の唇の威力の方が大きかったのか。
「もちろん信じる……しかないだろ」
「良かった……」
胸をなで下ろす真理。『まだ信じられない』と言われる可能性があるとでも思っていたのだろうか。
本当にごめんな、真理……俺のせいで色々気を揉ませてしまって。挙げ句の果てに唇まで差し出させるハメになろうとは。でも、これで自信がついた。口で言われるよりずうっっっっと心に染みこむ。
玄関で、
「ありがとな」
と靴を脱いでいる最中の真理に小さく言うと、
「……うん」
と、自分の唇を小指でなぞりながら、短く頷いたのだった。
一応、『雨降って地固まる』って奴でいいのかな。雨を一方的に降らせていたのは紛れもなく俺なんだけど……結果的に真理の気持ちを量るような形になってしまったな。全く俺って奴は……
でも、自分の中にこれほど強いコンプレックスと嫉妬が存在するなんて知らなかった。それは一度タガが緩めば歯止めが利かなくなるくらい強い。二度とこんな気持ちを抱かないように真理を信じ、己を律しよう。
……真理。
本当にありがとう。
それから。
夏休みの最終日。
たまった宿題は殆ど手を付けておらず、もはや諦め状態の中、真理は相変わらずバイトに勤しんでいた。一応午前中は一緒に遊びにも行ってるし、バイトのシフトが午前からだった場合は午後から、とそれなりに充実した毎日を送っている。
いよいよ明日から二学期か……と考えると、この夏を失いたくないという無理な願いに今更ながら気付いて、切なくなった。窓から見える青空も日増しに高くなっている。夏の最中は暑くてたまらなく、とっとと秋になってくれと思ってはいても、こうして秋の足音が聞こえてくると妙な焦燥感だけが襲ってくるからたまらない。
姉さんも、夏休み中でも大学に通っていて大変なようだし……サークルなのか、それとも学業に勤しんでいるのかは分からないがとにかく忙しそうだ。
現在、午後5時。ブラインドを下ろしていないにも関わらず自室は既に薄暗く、日の短さを否応なく思い知らされる。それは同時に夏の終わり、秋の始まりを告げる前触れでもある。
椅子から立ち上がり外を見ると、暗雲が広く立ちこめていて今にも雨が降り出しそうだ。道理で日の長さ以上に暗い訳だ。天気予報の通りだな。雨上がりの青空は死ぬほど好きな俺だが、雨は死ぬほど嫌いだから、予報など正直に当たらなくとも良いのだが。
突然、階下で電話が鳴った。
俺の携帯に直接掛ってこないところを見ると、俺個人へ当てたものではないだろう。……もっとも、電話番号を教えてある人間など、チームメイトの他にはごく少数だが。
急いで電話口に出る。姉さんがいないのをすっかり忘れていた。
……受話器から聞こえてきたのは聞き覚えのない男の声。しかし、声質などどうでも良い。問題は……彼の話している内容だった。俄には信じがたい話を告げる言葉が、その衝撃度合いとは裏腹に、ヤケにぼんやりとしてしか俺の頭に入ってこない。
会話が終わり、受話器を置くと……取るものも取り敢えず靴を引っかけ、外に出た。いつの間にか雨が降ってきていたが、傘など差していられない。正直に言うと、家を出る前に傘を差すのも忘れてしまったほどの内容だったのだ。
足下に跳ねる水たまりに気を払うこともなく、ただひたすらに目的地に向けて走り出した。




