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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第16-05話

 晴れやかな顔だった。

 試合はまだ終わっちゃいないが、やれることはやったという充実感がみんなの顔から溢れ出して止まらない。

 15回の裏、五塚最後の攻撃。

 そしてこれが……最後の、俺たちの攻撃。

 国体出場のお呼びは掛かるかも知れないけど、今のところはとりあえず最後。

 最後。

 最後。

 ……最後。

 何度繰り返してみても終わらない、変わるはずの無い事実だけど、どうしても、あと3アウトの内に全てが終わると考え出したら冷静ではいられない。


 得点は2対6、五塚高校4点のビハインド。

 15回の表、伊東を討ち取った直後に力尽きた俺は、五番打者に痛打を浴びて決勝点を奪われたばかりか、次の打者にも駄目押し打まで許して夢は潰え掛けている。せめて五番のヒットだけにでも抑えておけば……という後悔も今は空しく、こうしてベンチに座って『その瞬間』を待つのみ。

 ベンチに居るみんなが立ち上がり、ダグアウトから身を乗り出さんばかりに声援を送っていた。

 そうしている内に二番の尾曽が倒れ、三番の黒沢が倒れ……打席には藤間が向かう。

 俺は、このイニングが始まる前の藤間との会話を思い出していた。


『自分は……本当は加藤さんと真剣勝負してみたかったんです、投手と打者として、そして敵として』

 敵として?

『はい。あの時……中学の時、加藤さんのボールを間近で見て震えが来ました。あんな凄いピッチャーがこの世に居るものかと。自分の手で打ってみたい、血が沸騰するような真剣勝負がしたい、とその瞬間に思いましたよ』

 中学の時って……あの県予選か。

-伊東と初対決した、中学の軟式野球時代だ-

『はい』

 ってことは、お前もあの大会に出てたのか

『……はい。伊東さんと同じチームで』

 ……ひょっとして、お前達の付き合いってその頃からだったのか?

『そうです。考えてみれば、そんな純粋な気持ちを見透かされ、逆に利用されていたのかも知れません』

 しかし、一年の時から出場しているなんて、やっぱりお前は凄いんだな

 -今更言うまでもなく、中学時代の一学年差は大きい。基本的に体格差が激しいからな-

『いえ……』

 藤間

『何です?』

 このイニング、お前に打席が回ってくるけど、次の打者に繋ごうなんて考えるなよ

『……!!で、でも……』

 今更何をやったって焼け石に水だ。それよりも……最後にドデカい花火を一発、打ち上げて来いや。自分の事だけ考えて良い

『……』

 そのセリフは、去年の県大会、当時キャプテンだった大塚さんがカベに伝えたのと同じようなニュアンスである。功労者に最大の報いを。今の今まで、一年生ながら五塚を支えてくれた藤間にとっての最大の報いとは、繋ぎの意識を捨てた藤間本来の豪快なバッティングを許すことだと判断したんだ。藤間には来年も、再来年もある。今までの不遇、そしてこれからの事を全て打席に込めて精一杯自分をアピールしてこい、つまりはそういうことだ。

 藤間は何を考え、そしてどう受け止めたのか……その答えは、今、出た。

 三球目、低めの変化球を豪快にすくい上げ、舞い上がった打球はレフトスタンド最上段へ。滞空時間の長い、胸のすくような大ホームランだ。相変わらずとんでもないバッティングの持ち主だ。こんな弱小高に縛られていなければ、もっと大騒ぎされただろうに。

 沸き立つベンチとスタンドをよそに、俺は只一人冷静に、それだけを考えていた。




 午後四時。

 一日中俺等を容赦なく射続けた太陽という名の責め苦もその勢いを弱め、明らかに短くなった日は、四時という、盛夏では昼間の範疇に入る時間帯でさえ快晴の空を夕焼けに染めかけている。

 その空の下、オレンジ色に染まったグラウンド内で、やはりオレンジ色に染められた五塚ナインと横浜ナインは、ホームを挟んで儀式だけの礼を交わす。

 

 ……俺たちの夏は終わった。短いようで、実はとんでもなく長かった斗いはこの瞬間、終わりを遂げた。

 せめてもの救いは、せいぜい決勝戦まで勝ち進んだ報酬として勝者も敗者も同じ瞬間に夏を終えられることぐらいかも知れない。それでも、準優勝という名の残念賞を与えられる、真紅の大優勝旗授与という場に居合わせられるだけで、こんなにも敗北感が和らぐものかと思った。

 目前で行われている式典を見ていると、今まで全ての斗いが、自分が経験し通過してきたイベントではないような気がして、未だ甲子園の土の上に立てているというのに現実感が希薄だった。

 ふと周りを見ると、皆晴れ晴れとした、どこかホッとした面持ちで式典を見つめている。それもそうだろう、長い間『一敗すればそれでお終い』という極限状況に身を置いていたのだから、緊張からの解放という安堵感は小さい筈がない。

 

 大優勝旗を受け取っているのは伊東ではなく、横浜学院投の三本柱の一柱、主将(キャプテン)(なにがし)。伊東はキャプテンの器じゃないだろうし、推挙するにせよ立候補するにせよヤツに票を入れる人間など居まい。

 その伊東はというと……マウンド後方で優勝旗授与に立ち会っているフリをしつつ、虚ろな瞳で、定まらない視線をどこかの空間に向けただひたすらに透過させている。

 その姿は、まるで魂の入っていない精巧なマネキンが立ちつくしているかのようで、あまりの不気味さに正視出来ないほどだった。




 その夜。

 宿舎は半ばヤケクソ気味のどんちゃん騒ぎで賑わっていた。どうやら、宿舎の主人が勝手に優勝イベントを当て込んでいたらしく、『別に優勝でも準優勝でも良いじゃないか、どっちも全国で一つだけなんだし』と至極真っ当且つ負け惜しみにしか聞こえない意見を言いながら生徒全員によく冷えたビンビールを進めていた。無論飲めないけど。正直言って浴びるように飲みたかったが、なんとか耐える事に成功したのは奇跡としか言い様がない。


 目の前に広がっていた、この宿に到着した当初の印象からは考えられないくらいのご馳走も殆どみんなの胃袋の中に収まり、これまた宿のランクに似つかわしくない、豪華な皿のきめ細かな表面が油と食べかすに塗れて無惨な姿を晒していた。

「加藤さん」

「おお、どうした」

 喧噪を背に、今までのカロリーを消費した分とばかりに揚げ物を摂った代償としてむかつきかかっている胃を休めるべく、縁側に脚を投げ出し座っていた俺に、藤間がわざわざ隣に座ってから話しかけてきた。

「その……どうもありがとうございました」

「何が」

「いえ、その……ただお礼が言いたくて」

「俺は礼を言われるような事、してやった覚えはないけどな」

 言いたいことは分かる。無論、スパイの件を許したことに決まってる。でも……その辺りの事情を詮索したらキリがないどころか、出てくる『ホコリ』がものすごいことになるだろうし、そうなったら藤間の地位もこれからも危ういことになる。伊東は俺一人を標的としたのだから、俺が見過ごせばいいだけだ。……もっとも、藤間の弟の行く末までは流石に面倒見切れないが……

「それでも、言わせてください。ありがとうございました」

「……」

 面と向かって人から感謝されたことのない俺にとって、頭を下げられるというのは非常に照れくさいものだと今分かった。

「藤間、お前……俺と対戦したかったって言ってたよな」

「はい」

「とうことは、あの試合にお前も出てたって事か。やっぱりキャッチャーで」

「そうです。加藤さん自身には全く覚えがなかったでしょうけど、自分は当時一年でレギュラーを取ってたもんだから、割と天狗になってたところがあったんですよ」

「信じられねぇな、お前が思い上がるなんて」

「へへ……」

 藤間は鼻の頭を照れくさそうに引っ掻いた。この男がやるとただ不気味なだけだな、悪いけど。『愛すべき下級生』という意味では可愛いが。

「それを粉々に打ち砕いてくれたのが加藤さんなんですよ。その意味でも感謝しなくちゃいけませんね」

「だからぁ、そんなの自分の心がけ一つだろ?誰かさんみたいに討ち取られて逆恨みするような不心得者も居ることだし」

 言って、吹き出してしまった。憎悪を剥き出しにしてまで逆恨みして、結局本気の勝負では全く歯が立たなかったと言って良いだろう誰かさんの事を考える度に、挫折を発憤の材料に変えていける藤間の心の強さに感心するしかなかった。

「そっか、だから練習の時対戦をせがんだんだな。その時くらいしか機会がないから」

「はい」

「でも、あの時のお前は緊張でガチガチ、ほいでもって打てなくてベソかいたりしたっけな」

「止めてくださいよぉ」

 確か、最初の三球は緊張でまともにスウィングが出来なくて、文字通り泣きのもう一打席をカベに認めてもらったんだっけ。

「結果的に、加藤さんとの対戦はあれだけでしたけど……満足でした。最後にとんでもないボールを見せてくれましたし」

「はは、ありゃマグレだ。試合中には一球もあんなボールは無かったぜ」

「でも、それでも加藤さんが投げた球に相対できて嬉しかったです」

 言葉通り藤間の表情には、満ち足りた人間だけが醸し出すことの出来る、得も言われぬ幸福感、充実感、恍惚、その全てが浮かんでいた。

「そうかい」

「そうです」

「……」

「……」

 それっきり二人して黙り込んでしまった。俺と藤間が出会ったのはほんの四ヶ月前、期間にしてたった四ヶ月だというのに、与えられたインパクトだけは大きい各種の思い出が走馬燈のように駆け巡る。……死を間際に迎えた人間かってーの、俺は。

「真壁さん……大丈夫でしょうかね?」

 居たたまれなくなったのか、藤間が絶対に俺の興味を外さない話題を振ってくる。その意図も意味もよーく分かったから、会話を途切れさせてしまった自分にちょっとだけ反省した。

「大丈夫だろ?さっき聞いたら、ただの過労だって言ってたし。……過労が『ただの』って言ってる時点で異常だけどな」

「なら、良いんですけど……」

「……」

「……」

 再び廊下に沈黙が訪れる。今度は、カベの身体を慮って。あいつだって人間だ、無理すれば倒れることだってある。その一因としての負担を強いた自分への後悔はあるが、今はもう後悔としての意味しかない。

 急に宴会場……もとい、俺たちの部屋が賑やかになった。仲間達の肉親等関係者が駆けつけてきたらしい。試合にも親御さん等が多数見に来ていたようだが、この時間になって顔を出すとは。今の今まで色々と大人同士で片付けなければならない仕事が山ほどあったのだろう。

 ……。

「藤間、お前の」

 言った瞬間に、藤間は寂しそうな申し訳なさそうな、基本的には『困った顔』としか形容できない複雑な表情でゆっくりと首を振った。……家族については触れない方が良さそうだ。何だか、俺の周りにはちょっとした(・・・・・・)家庭環境の輩が多いみたいだな。

「そっか」

 気まずい思いで頷くと、

「加藤さんは、その……ご家族は?」

 と、気まずい思いをさせてしまったのが自分の責任だとでも思ったか、相当に冷や汗をかきながら質問してくる。コイツの事だ、きっと俺の家族構成を誰かから聞いて、当たり障りが無いと分かった上での質問だろう。

「今日、スタンドに座ってるのを見たよ。試合の途中っから忘れてたけどな。心のどこかでは頼り切ってた部分はもちろんあると思うけど」

「美人ですよね、妹さん」

「まあ……な」

「珍しいですよね」

「何が」

「普通、身内を誉められたら『そんなことない』とか言って否定しません?」

「しょうがないだろ?あの外見だ、否定する方が嘘臭ぇ」

「はは、確かに」

 藤間ら一年の間じゃアイドルなんて言葉ですら生温い崇め奉られ方なんだろうな、あいつ。

「ま、外見の良いところなんて一目で分かるけど、あいつの本当に優れたところは中身だ。あんな性格の人間がどうやったら生まれ出てくるのか不思議でしょうがないよ。とりあえず、中身と外見が高次元でお互いを高めあってるのは間違いないけどな。優しさとか、真面目さとか、聡明さとか……根底からして違う」

 あいつと接していると、自分が惨めになる場面なんていくらでもある。矮小さ、度量の狭さ……そのどれもが真理にとって縁遠い単語だからな。ややもすると、その完全な人間性に嫉妬すら覚えるかと思ったが、相手が完璧すぎると逆にどうでも良くなって惹かれるしかないらしい。

「加藤さん」

「なんだ」

「さりげなくノロけてるの、気付いてますか?」

「う……わ、分かってるよ」

 指摘するまで気が付かなかったけどな、というのはもちろんナイショだ。

「自分、妹さんと同じクラスなんですよ」

「そうだったのか、初耳だ」

「人気あるんですよね、めっちゃ。クラスの野郎どもの間ではでは話題にすら昇らないんですよ、あの子可愛いね、とかいった類の」

「ほう、何故だ?」

「みんなが当たり前のように良いな、と思ってるからです。草花や風景の綺麗さを語るまでもない事と一緒、ですかね」

「なるほどな」

「心配じゃないんですか?」

「全く気にならん……といえば嘘になるが、いちいち気にしていたらキリがないし」

 藤間は何が可笑しいのか、顔を背けて肩を奮わせた。

「す、済みません」

「……どうせ俺は素直じゃねぇよ」

「いえ、ホントに済みません」

 涙拭きながら謝罪されたってちっとも心に響かねぇぞ、こら。

「で、ご家族は宿舎には?」

「分かんねぇ……一応、式典が終わった後に保護者連中で相談してたみたいだから、宿舎の場所は知ってると思うけど」

 言い終わるや、やっぱりニヤニヤした藤間の細い目が、何か言いたげに見つめている。

「な、何だよ」

「本当は探しに行きたいんじゃありませんか?多分来てると思いますよ、宿舎に」

「うるせぇな……どうせ帰ればイヤでも顔を付き合わせるんだ、今はゆっくりしてたいんだよ……それより藤間、お前キャラ変わりすぎ」

「本当はコレくらいが地なんです。色々と安心してしまいましたから……確かに、先輩に対して馴れ馴れしすぎましたね、済みませんでした」

 素の表情に戻った藤間は、深々と頭を下げた。本当に、コイツという漢は根っからの体育会系なんだな。

「別に……良いけどよ。マスクを被って俺の球を受けてもらっていた時点で、何もかも見透かされたような気になったのは確かだからな」

「……捕手はそんなに万能じゃありませんよ」

「そんな気がするだけさ……さて、言われたから素直になったんじゃないが、姉妹連中を迎えに行くか」

「それが良いですよ。久しぶりですしね」

「……」

「……」

 藤間の視線がどうしても気になる。こいつ、一体どんな家庭の境遇で暮らしてきたのかは分からないが、瞳の色は……見る方向によって輝きの違う水晶のような、真理とは方向性が違うがやっぱり正視出来ないほどの深さと輝きを湛えた目だった。あんな行為( ・・・・・)を受け容れておきながら目が腐ってない。調子が良いと言えばそれまでだが、何しろ俺が許したことでもあるんだし、根底から野球を愛していることにも変わりはないんだろう。それだけに、藤間から野球を奪うような真似だけはしたくない。奴自身には、今までの苦悩を肝に命じてくれれば良いだけのことだ。

 宴会場となっている襖を開けると、そこに広がっていたのは……

 阿鼻叫喚のどんちゃん騒ぎ地獄……かと思ったらそうでもなかった。宴はとうに引けていたらしく、そこら中に疲れ果てた骸が大イビキをかいて転がっている。今までの疲れも重なってる事だし、親御さん達も飲み疲れて眠ってしまったんだろう。

 ……そして、そんな骸に戦場の看護婦よろしくタオルケットを優しく掛けている女性達こそ……我が愛しき姉妹達だった。

 その姿を認めた瞬間、胸がいっぱいになった。今まで感じたことのない、不思議な、形が無いのにぱんぱんに張り詰めたものが一杯に膨らんで堪えきれなくなった。それが溢れ出る前に急いで外に出る。……藤間が怪訝そうな顔をしたが、構わずに廊下を突っ切って厠へ。こんな顔、誰にも見られたくない。

 

 こちらも宿舎の年季の入り具合に似つかわしくない真新しい洋式便器に腰掛け、備え付けのトイレットペーパーで涙を拭いて鼻をかむ。ペーパーは格に相応しく安いもののようでごわごわ、鼻が痛かったが、逆にその痛さが心地良かったりもする。何より俺の頭をすっきり覚醒させてくれた。

 ……俺って、こんなに家族の存在に依存してたんだな。たかだか半月逢えなかったくらいで……その……まあなんだ、それだけ斗いに集中してた、緊張してたって事なんだろうな、そう言うことにしておこう。

 

 落ち着いた頃を見計らって宴会場に顔を出すと、ここはオマハビーチかと見紛うほどそこら中に転がっていた骸が、きれいさっぱり片付けられている。襖の向こうから大音響のイビキ……もとい騒音が鳴り響いてくるところから察するに、全員が床に移されたようだ。でも、その光景だけは見たくないな……

 ようやくゆっくり出来ると安堵し、テーブルの上にあった急須から冷めたお茶を湯飲みに注ぎ一口啜ると、途端に睡魔が襲ってきた。いかんいかん、こんなところで眠ったら風邪を……引いても別にいいのか。もう斗いは終わったのだから。そう言えば、半月前は風邪で寝込まなければいけないような体調だったんだっけ……疲れてるときは素直に休む方が良いかな。

 冷めた安茶を一気に飲み干すと、立ち上がり……かけたところで、廊下から重そうなせんべい布団を抱えてきた姉さんがやってきたのを認め、腰を降ろし直す。

 そして姉さんは俺の顔を見るなりこう言うのだ、

「聖くん、眠そうね」

 と、例の女神の微笑みを浮かべて。

 ……

 やばい、またじんわりと来そうだ。だって、あんまりにも人に平穏を誘うような笑顔なんだぜ?例え今が錐揉み墜落中で狂乱に陥る飛行機の中でさえ、この笑顔を見せられたら安堵しちまう。

「い、いや、泣いてなんかいないッスよ」

「……??」

 しどろもどろになりながら、さりげなく眠気を拭うフリをして……多分気付かれてるだろうけど……目をこする。ああ、しかし良い声だ。これぞ癒しヴォイス。

「それはそうと、お疲れ様」

 姉さんは布団を敷き終わると俺の正面に正座した。ベージュのストッキングに包まれた、肉付きが良くもすらりと引き締まっている脚が目に飛び込んできて、非常に精神衛生上宜しくない。すっかり忘れていたが、半月も間隔を空けてた( ・・・・・・・・・)んだ。毎日毎日疲れていてそれどころ( ・・・・・)じゃなかった。

「うん……疲れたと言えば疲れたけど、気が張ってたから……多分、本当に疲れが出るのは明日か明後日くらいだと思う」

「そう。緊張しっぱなしだったものね……今はまだ身体から緊張が抜けきっていないのかしらね」

苦笑いする表情も美しい。今更何を……でも、半月も見てなければ新鮮と表現するに値するのではないか?

「……」

「……」

 さりげなく辺りを見回すが……やっぱり姉さんには見破られていたらしく、

「真理なら、美奈津と一緒にコンビニに行ってもらってるわ」

「あ、そ、そう」

 と、にこやかに、しかしそれ以上の追求はせずに流してくれた。……どうも、俺が『さりげなく』や『何気なし』を装ってやることは、他人から見るとモロバレの類に属するらしいな。自分でも隠し事は上手い方じゃないとは判っていたが。

「でもどうしてコンビニに?」

「ちょっとしたデザートでも買いに行ってもらおうかと思って。甘いもの、食べたくなったんじゃない?」

「ああ……そう言えば確かに」

 甘いものが嫌いではない俺だが、今だったら『制限時間内に食べきったら賞金進呈!』的な、それこそ洗面器のような大きさの容器に盛りつけられたパフェなり何なり、全てを一人で平らげられる自信がある。

「疲れた時には甘い物が一番よ。今日はとにかく詰め込んじゃってからゆっくりしなさいな」

「うん……そうする」

 姉さんの顔を見て、本当に顔を見たい人にはまだ会ってもいないのに急に瞼が重くなってきた。自分自身で眠気をコントロール出来ないくらいに疲れてる。

「そういえば……真壁くんの事、聞いたわ」

 姉さんが形の良い眉毛を寄せながら言った。その言葉で、いっぺんに眠気が吹き飛ぶ。そうだ、一人で充実感を味わってる場合じゃないぞ。

「どこの病院に入院してるか聞いたの?」

「ついさっき。明日、帰る前に寄ってこうかなと思ってる」

「そう、それが良いわね」

 カベは、負けてしまった俺にどんな言葉をかけてくれるだろうか。内容が内容だけに、手放しで誉めてくれるとは思えないけど。

「姉さん達は?」

「私達も明日の午後帰るわ。他のご家族の方と一緒になるんじゃないかしらね」

「つまり、俺たちとほぼ一緒に帰るってことか」

「みなさん、午前中は大阪観光するって言ってたわね。折角ここまで来たんだからそれもいいかなと思ってるけど、聖くんはどうするの?」

「病院の面会時間次第だけど……帰りの新幹線に乗る前で良いかなって」

「そうね。真壁くんもすぐには帰れないだろうし、挨拶だけしておくのも良いかもね」

 話している内に、コンビニの袋を下げた真理と美奈津が顔を出した。心構えをしていなかっただけに戸惑いが大きかったが、それでも真理の大きな、やや下がり気味の(まなじり)を認めるにつれ、胸の中にじんわりと、不思議としか表現方法を持たない暖かさが広がってゆく。それは瞬く間に頭の方へ頭の方へ移動して……今日何度目か、鼻の奥の方をツンと刺激しやがった。だからぁ、格好悪いし隠すのが大変だから止めてくれよぉ……

「お兄ちゃんっ!」

 でも、真理はそんなことにもちろん構わず俺に駆け寄る。

「お兄ちゃんっ!」

「真理……」

「う……」

「ん?」

「ぐす……ひっく……」

 何なんだ、いきなりしゃくり上げ始めやがった。俺がベソかいてる場合じゃないぞ。

 立ち上がり、とりあえず震える小さな肩に手を置いてやると、素直に頭を胸の中に預け、しばらくそのままにしていた。甘い髪の薫りが鼻腔をくすぐる。同時に、俺の心も。そのまま頭を撫でてやっていると、真理はなすがままにされていた。しかし、妙な視線に気付いて顔を上げると……

「な、何だよ……」

 美奈津がチェシャ猫もかくや、と思えるほど程嫌みったらしくニヤニヤしていた。姉さんは苦笑いを浮かべているだけ。どちらも真理の姉には変わりがないし、妹のことを大切にしていることも間違いないが、結局二人とも楽しんでいるらしい。

「いや……久しぶりに二人の顔を見てみたら、そんな関係になってるとはねぇ」

「そんな関係とはどんな関係だ」

「さあねぇ」

 そういえば美奈津の顔を見るのも久しぶりだな。室内競技のバスケを専攻しているだけに肌こそ白いが、強豪校で揉まれていることもあってか表情が引き締まっている。見慣れたはずのツリ目に、「自分の好きな物に情熱を燃やしている最中」という充実感の中に身を置く者特有の鋭さがあった。

「連絡も寄越さねぇから驚いちまったじゃねぇか」

「ナイショにしてた方が驚くかと思ってさ。実際効果はあったみたいだし」

「小学生かっつーの、まったく」

 それでも、嬉しかった。わざわざ俺の投げるところを見に来てくれた。家族揃って、俺の為に。

「とりあえずあたし等はお邪魔みたいだから、少しの間消えてようか?」

 相変わらず小憎たらしいニヤニヤを浮かべながら、しかし有り難い提案をしてくれる。俺が返事をするより早く、由紀姉の背中を押して部屋を出ていった。……はいはい、ありがとさん。

「……」

「……」

 真理は顔を上げると、今までの自分の体勢を思い出したのか、ぼっ!と音が出そうな程瞬間的に頬を紅潮させた。ははは、柔らかそうな耳たぶまで真っ赤に染まってるぜ。

「ご、ごめんね」

「いや……だけど何で泣くんだよ」

「……分かんない。ほんと、何でだろ」

 俺から身体を離し、ぐしぐしと手の甲で目を拭う。濡れた頬を親指でぬぐってやると、満更でもなさそうなくすぐったそうな顔をして身を任せている。殆ど無意識のうちの行動だった。

 ……やっぱり、可愛いな。

 どうしようもないほど。

 そうか。

 簡単な話じゃないか。

 その存在を待ち焦がれて、こうやって話をしているだけで満ち足りる。挙げ句の果てには姿を見た瞬間に安堵で涙腺が潤んじまう……こんな気持ち、この世に一つしか存在しないだろうに。俺は何を迷っていたんだ。

「お兄ちゃん?」

 未だに潤み、少し充血した上目遣いの瞳が俺を見据える。

 ……ああ、たまらない。出来ることなら、このまま抱きしめてしまいたい。

 精神的にも、肉体的にも求めている。

 答えは簡単。


 恋。


 口に出すのは気恥ずかしいが、それ以外に言葉が見つかるはずもない。それも当然、他に代用する言葉も存在しないのだから。


 俺は、この義妹に恋している。


 一端認めてしまえば楽になる……とは行かなかった。妹として接するべきか異性として接するべきか迷ってしまったからだ。それとも、分別を付けることすらおかしいか。しかしその辺りの結論は先送りになりそうだ。何故かと言うと……

「……美奈津、前々から趣味が良くないとは思ってたが、立ち聞きとはいよいよもって悪趣味だぞ」

 閉じられた襖の隙間から、ぎらぎらと何かしらの期待に輝く眼差しを発見してしまったからだ。これからは、明かりが必要になったら美奈津に恋愛話を振るに限るな。懐中電灯など要らないくらい瞳を輝かせて食いついてくるに違いない。

「バレたか」

 へへへ、と一応は恐縮しながら部屋に入ってくる美奈津だが、まずおどけているようにしか見えないな。

「って、姉さんまで一緒に何やってたんだよっ!」

 姉さんもばつが悪そうな顔をして頭を掻きながら、美奈津の後からのっそりと出てきた。

「ほら、一応可愛い妹の事だし……ね?」

 嵌められたとはいえそれを持ち出されると、俺の方に言い返す言葉などない。

「分かったよ、今日はみんなで楽しく……甘いものパーティでも開こうか」

 見れば、テーブルの上に妹たちがコンビニで購入した甘味がごろごろ転がっている。こんなに一杯食うつもりか?ま、美奈津が大半を喰っちまうだろうし、俺も……食事は別に摂ったはずなのに、チョコレートプリンに手が伸びていた。

「やーねぇお兄、スウィーツパーティーって言ってくれなくちゃ」

「それもどうかと思うが……とにかくいただきます」

 家に帰ればいつでも……なんだよな、そうだよ。顔を見て安心しちゃったし、何より彼女らに、ひょっとしたら一世一代の晴れ姿を見てもらえただけでも良かったんだ。

 そう考えると、気持ちは既に明日へと飛んでいた。カベとの面会……一体何を話そうかな。カベは俺にどんな言葉をかけてくれるのか。(ねぎら)ってくれるか、それともいつものように苦言を呈されるか……多分後者だろうけど。

 とにかく、明日が楽しみだ。その為にも、今日はしっかり喰ってしっかり眠るとするか。

「う、ぐぐぐ」

「やだ、ちょっとお兄、ほらコーヒー!」

 詰め込んだまんじゅうが喉に引っかかったが、糖分が脳に身体に染みこんでいく感覚が非常に気持ちが良かった。




 で。

 午前中はチームメイト・家族揃っての大阪観光。でも、メインはもちろん大阪道頓堀。まだ昼と呼ぶにも早い時間から飲食店に入ってメシをかき込んで、その空気を胸一杯に吸い込んで|(地元の人から見たら何事かと思うだろうが)……

 あっという間に時間は過ぎた。今までが緊張の連続だったせいか、気を抜いているときの時間経過が恐くなるほど早い。楽しい時間だからこそ早いのかもな。


 新幹線の時間から逆算し、丁度良い時間を見計らってとある病院へ。大勢で押しかけるのも何だし、チームメイト等が気を利かせてくれたのか、見舞いには俺一人で行くことを皆から勧められた。姉妹達とも別れて新大阪駅で待ち合わせることに。心細いが、それも俺に気を遣ってのことらしい。


 病院は、かなり大きな所だった。白衣を着た先生方がぞろぞろと廊下を行進して総回診を行う、あんなイメージだ。カベがどんな様子なのか不安だが、面会を受け付けてくれるのなら大したことはないんだろう。そう思いこんで、白く清潔な、しかし単調なデザインの廊下を歩む。

 ……病院というものは中に居るだけで気が滅入るな。只でさえ飾り気がないし、例え自分が罹患していなくとも、この中で多数の生死のドラマがあると思うと、今の俺にそれを受け止めるだけの度量も覚悟もない。誰のドラマを背負うかにもよるけどな。

 指示された病室の前で立ち止まり、ネームプレートを確認する。


 真壁大成様


 うん、確かにここだ。右手に持った花|(もちろん姉さんの見立てだ)と、左手に持ったケーキ|(こちらは美奈津)を確認して、病室へ。何と個室だ。

 ……かくして、白い花畑をイメージさせるふかふかのベッドの上に、望んだ姿はあった。

 上半身だけ身体を起こし、開けた窓から外を眺めている角張った横顔を見た瞬間……俺の中に、訳の分からない、それこそ言葉でも形容できない、しかも今度は理論立てて『その気持ちが存在する』事の証明も出来ない、訳が分からなくて髪をかきむしり悶えそうになるほどの想いがこみ上げてきた。

「何泣いてるんだよ」

 言われてみて初めて自分の頬に伝う涙に気がついた。

「いやあー元気そうで何よりだなHAHAHA」

 涙を流しておいてごまかすことも出来ないが、さりとてカベも特に突っ込みを入れることはないのは有り難かった。結果的に俺の空元気な挨拶が浮いてしまう形になるのは難点だが。

 いつものポーカーフェイスに見えたカベは、俺の顔を見るなり僅かに唇の端っこを上げ、そして戻した。恐らく、これがカベの一番の笑顔なのだろう。

「まあ、そこそこには、な」

 ……顔が青白い。やはりまだまだ疲労が抜けきっては居ないのか。

「……」

「……」

 見つめ合う。

 本当だったら、膝にすがって泣きたかった。色んな安堵をごちゃ混ぜにして、カベに溶かして欲しかった。……昨日の夜と今日と、涙腺が弱くて困る。疲労で涙腺の弁も緩んじまっているようだ。

「カベ、優勝できなかったよ」

「知ってる。ラジオで聞いてた」

 傍らの机の上に置いてある小さなラジオを顎で差し示しながら言った。誰が持ってきたのかは知らないが、とにかくやっぱり聞いていてくれたんだ。

「どうだった?」

「……」

 ごくり。

 一瞬、カベが横を向いた。その横顔に何かの憂いがあるようで……何を言われるのかと身構えていたら。

「まだまだ、だな」

 がくっ。

「やっぱりそうですか……」

「明らかに途中からスタミナ切れしてただろうが。まだまだ鍛え方が足りない証拠だろ?」

「はは……」

 案の定、だな。もとより優しい言葉など期待していなかった……正直に言えばちょっとだけ期待してた……けど、それがカベってもんだ。安易に誉め言葉など使わない、そんな漢こそ俺の師匠且つ恋女房に相応しい。


 ……それから。

 限られた時間で何を話そうかと思ったが、余りにありすぎて迷ってしまい……それでも藤間の件は一番最初に報告しておいた。さしものカベも一瞬、ほんの一瞬だけ驚いたような素振りを見せたような気はしたが、もしかしたら勘違いかも知れない。大体に於いてカベの表情の変化なんてあんまり見たことがないからだ。


「聖、時間はいいのか?」

「お……っと、もうそんな時間か」

 最後の試合の事をひとしきり話し込んだ後だから、やっぱりあっという間に時間は過ぎた。カベの顔色も良くないし、ここは一つ……

「じゃ、俺はそろそろ」

「……そうか」

「……?」

 その瞬間、カベの顔にまた未知なる(かお)が浮かんだのを見逃さなかった。無論、それがどの感情であるかは判別が付かない。

 極力個性を廃した、おおよそ人を楽しませるという事を配慮していない、無機質で白ずくめの部屋を出ようとしたところで、あることを思いだして首だけカベの方に向ける。

「カベ、神奈川にはいつ帰ってくるんだ?」

 単純な質問だ。地元に戻ったら、カベを加えて再び残念会の二次会を開かなくちゃならん。その時はたっぷり美味い物を喰わせて、太らせて、過労なんて一発で治っちまうような宴を開くんだ。

「そうだな」

 カベはしばらく考え込むような仕草をした。何をそんなに考え込む必要があるんだ?

「とりあえず、戻る時がその時(・・・)だ、とだけ言っておこうか」

「……はぁ????」

「今は分からなくていい」

 首を捻るが答えが見つかるはずもない。

「まあいいや、じゃあな」

 今度こそ病室を出ようとすると、

「聖」

 今度はカベに呼び止められた。振り返ってみると……

「……」

 カベが、今まで見たことのない……しかし確実に『穏やかな笑顔』と断言できる、とても落ち着いた、まるで解脱した仏様のような……顔でこちらを見ていた。その表情があまりにも柔らかかったものだから、言葉を発するのも忘れて見入ってしまった。いや、引き込まれた。

 どのくらいそうしていただろうか、耳が痛くなるくらいの静寂が狭い空間を支配したあとで、ただ一言


「良くやったな」


 とだけ、短く、俺を誉めてくれたのだった。


「……あ、ああ」

「さ、早く行け。遅れたらコトだぞ」

 促されるままに病室を出る。最後まで視線をカベに向けたまま。

 カベはいつまでもその微笑みを絶やさないでいた。





    

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