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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第08-04話

 暦は既に11月。公立校の悲しさか、完全試合を成し遂げてから半月、試合のチャンスが無かった。他校の都合がつかないのか、それとも手続きをサボっているのか、はたまた五塚との試合を嫌がっているのか……俺には、真相を知る由も無いが。


 そんなこんなで、俺とカベの例の特訓は、未だに……それでも最近は、たまに進んで休みをくれる事から(部の練習自体を休んでいいと言っている訳ではない)、週に4~5度だ……続いている。先の試合で、徐々に身に付きあると思ったコントロールも、やはりそう甘くは無かったようで、特訓開始当初から比べれば多少はマシ、といった程度のものだったらしい。あの時はたまたまコントロールの調子が良かっただけだ。


「よし、今日はここまでにしとくか」

 俺の球が、自分の要求したとおりのコースに収まったのを確認してから、カベが腰を上げた。それを見て、俺もアンダーシャツで汗を拭い、グローブを外した。今日の投球数は、おおよそ200球。それだけの球を連日投げても、その後に疲れ果てて眠るということが全く無くなった。コントロールの身につき方とは違い、こちらは目に見えて効果が上がっているから、その点では真に身になる練習といっていい。何しろ、このチームの陣容では、俺は完投が義務付けられている様なものだから、スタミナは事の外重要だ。

「なあカベ、久し振りにお好み焼き食っていかないか?」

 充実した練習の後は、何故かお好み焼きが欲しくなる。俺達は今、育ち盛りなのだ。「済まんな、今月はもう小遣いが無いんだ」

 カベは、道具をてきぱきと片付けながら、つれないご返事。

「今月って……まだ11月は始まったばかり……」

「おっと間違えた、まだ今月は小遣いを貰ってないんだ」

「水臭い事いうなよ、俺が出すからさ」

「オレは他人の施しは受けない」

 ……今まで、結構こまごまとした物は御馳走していたはずだが……

「じゃあ、カベに小遣いが入ったら返してもらう。それでいいよな?」

「……いや、今日はそれでも都合が悪い。家の都合がある」

 家の都合を持ち出されてしまったらそれまでだ。

「じゃあ仕方が無いな……色々と相談したい事があったんだけど」

「どうしても今日はダメなんだ。また今度、な」

 カベの断り方に何となく不自然さを感じつつも、納得するしかない。そのうちに、カベはそそくさと部室を後にした。

 一応チームメイトに挨拶して、俺もさっさと校門を出ようとする。多量の汗をかいた後に夕方の空気にあたると、肌寒さすら覚える程に季節が進んでいる。四季の移り変わりを実感する度、どうしても焦りが身体中を這い回るような気がしてならない。

「加藤、君……」

 そこで急に声を掛けられたものだから、驚いた事この上ない。声の主は、勿論黒木だ。そういえば、つい最近にもこんな場面があったよな。

「黒木……何か用か?」

 用があるんだから待っていたんだろうに。前と同じ受け答えをしてしまう俺は、ピッチング面では成長しても、人への思いやりは全く成長しないのが悲しかった。

 案の定、悲しそうな顔に転じる黒木。そう言えば、一緒に野球を見に行った帰り、彼女が家の中に入り際に見せたあの涙は……一体何なのか。俺にはさっぱり理解不能だったその涙の訳を知ってみたい。でも、俺にそこまで踏み込む権利と度胸があるのかといったら……ないと言わざるを得ない。

「あの……少し、時間……いいですか?」

「ああ……いいけど」

 この前の時のような世間話の話題も出てこず、ただただ一緒に歩くだけ。もう11月だから、日が沈むのが二ヶ月前と比べて異様に早い。これからさらに遅くなって……真冬に転じると思うと、それだけで寒気がしてくる。本当に勘弁して欲しい。部活の終わる時間も日没と同時だ。

 五塚の丘の周りは只でさえ民家が少ないのに、この季節と時間を合わせると、隣を歩いているハズの黒木の顔でさえ認識が難しくなっている。が、相変わらず悲しそうな顔をしているのは間違いないだろう。

 僅かな外灯を頼りに夜道を歩く。丘を下りきったところで、どこか腰を落ち着けて話が出来る場所を探す。……もう暗いし、寒くもなってきたから、どこかお茶でも飲めるところがいいな……丁度いいところに某ドーナツ屋があった。店の前まで行くと、自動ドアが開いて客が出てくる所だった。……それにしても、俺はこのコーヒーとドーナツの混ざった香りがとても


ぐううううぅぅぅ。


 腹が先に答えてくれたが、大好きだ。あれだけの練習をこなした後だから、身体が糖分を欲しがって仕方がないのは当然だが、それ以前に俺にはドーナツへの憧れがある。

 幼い頃は田舎で育った俺だから、家の周りにドーナツ屋などという小洒落た店などある筈もない。食いたければ作ってもらうしかないが……一緒に暮らしていたのはじいちゃんだ。当然、ドーナツなど望むべくもなく、結局初めて口にしたのは神奈川に出てきてからだ。

 現在だったら、あんな田舎でもコンビニはあるだろうし、そこに幾らでも売っているんだろうけど。


「ここでいいか?」

「はい」

 黒木がどんな食べ物が好きなのかは分からないが、まぁドーナツなら間違いはあるまい。ドーナツが嫌いな人間など聞いた事がないしな。


 奥の方の席に座ると、自然に他の席が目に入る。……女性同士か、そうでなかったら男女仲良く、という客が多いな……俺たちも、こうして向かい合わせで座っていたら、少しはそれらしく見えるのだろうか?

 俺はチョコが掛かった、いかにも甘そうなドーナツとブラックのコーヒー、黒木はごくオーソドックスなものとカフェオレを注文した。

 いざコーヒーを啜りながら、こうして黒木と向かい合っていると……今更ながら、どこを見ていいのか分からない……。やはり、女の子と会話している以上、その子の顔を見ながら話すのが当然なんだろうな。そう思って、ちらりと黒木を見ると……向こうも俺の顔を見ていた。

 目が合ってしまい、恥ずかしい事この上ない。慌てて目を逸らすが……これ、冷静に考えると、黒木を避けているようにも受け取られはしないだろうか?

 ……こういう誤解されやすい行動は慎んだ方がいいよな、うん。

 と言うわけで、以後はしっかりと黒木を見据え、話をする事にしよう。……しかし、今度は彼女の方が俯いてしまっている。どうにも……噛み合わない。

 それからどのくらい無言のままで居たろうか……恐らく、結構な時間が経っていたんだろう、周りの客がどんどん入れ替わっていた。

 しかし、黒木はなんら話をする様子がない。……俺は、相手から話を引き出すのが上手な方じゃないから、聞き手に回る事が殆どなのだが……こういう状況は実に困る。かと言って、退屈だからと一方的に席を立つほど身勝手じゃない。相手が話を切り出しにくいのは、基本的に相手がそれなりの話をしようとしていると考えているから……ではこの場合は、黒木は俺にとって、どれほど重要な事柄を伝えようとしてるんだろう?

「あの……」

「ん?」

「退屈じゃないですか?私とこうして座っているだけ、なんて」

 踊りをやっているからか、女の子には珍しく綺麗に切り揃えられた爪が美しい指先を弄りながら、そう言った。

「いや、むしろ、どっちかといったら、こうして落ち着いている方が好きではあるんだが……」

 あるんだが何なんだ。なまじその続きがあるような事を言ってしまうから、曖昧な言葉や行動は避けるべきと、さっき自分に言い聞かせたばかりなのに。

「そう……なんですか」

 ……俺はバカに違いはないのだが、女の子を悲しませるようなバカは全くもって許されない……自分の事ながら。

「やっぱり、出ようか」

 静かだと思った店の中だが、こう二人に会話がないと、特に雑音が気になってくるし、周囲の目も気になる。黒木の方も、言いにくい事も、人気がないところなら……。

「はい……」

 会話がない事が自分の責任だと思ったのだろうか、黒木は終始俯き加減で俺の後に付いてくる。店を出る前に時計を見ると、6時半……結構時間が経ったと思っていたけど、実際には30分少々か。こういう時間が過ぎるのは極めて遅い。


 辺りはもう真っ暗だから、外でゆっくり出来る場所と言うのも限られている。しばらく歩いて川べりの遊歩道に設けられているベンチに黒木を誘った。外灯も付いているから、疚しい事をする絶好の場所になる、という事もない。

 先ず俺が先に座り、隣に誘う。俺と並んで座るなんて嫌がるかもと思ったが、案外素直に腰をおろした。2人で会話をしようというのだから、距離が開いているのもおかしいし、それに少しは積極的に口を開いてくれるようになってくれればいいのだが。

 それでもしばらくは無言でいたが……とうとう根負けしたかのように、黒木が重い口を開いた。

「私……加藤君の家にお邪魔した時、日舞の事について言いましたよね?」

「ああ……自分が日舞を好きなのかどうか分からなくなって来てる、ってやつか」

 頷く黒木。その瞳は、俺に何かを真剣に訴えかけて来ているように見えた。

「はい。そこで……」

 黒木はがさごそと自らのカバンをまさぐり……何かのプリントを差し出した。前と同じパターンだな。

それには、「日本舞踊 華彩流・清彩会発表会」と書いてある。

 発表会のプログラムの様だ。場所は……市民センター。街中にある、公立の多目的ホールだ。 

「勝手なお願いであることは重々承知の上で言います。どうか……私の踊りを見に来て頂けませんか?その感想を聞かせて欲しいんです」

 今にも涙が零れ落ちそうなほど、切迫した瞳だった。女の涙は信じるに値しない、が俺の信念だったが、彼女が偽りの涙を流せるような人間でない事は、今までの黒木の人となりを見ていれば判断できる。

「感想といっても……俺は日舞の事なんてまるで分からないし、評価のし様がないぞ」

「採点してくれという訳ではなくて……私が、楽しく、気持ち良く舞っているかどうか、それだけでもいいんです。自分でも散々悩んだんですが、それでも答えが出なくって……」

 完全に素人の俺に頼んでいるという事は、それを承知した上で、俺からの感想を仰ぐ事に何かしらの意味を感じ取ったからだろう。それに、こうまで切迫した面持ちなのは……きっと、お母さんに「跡を継ぐのか継がないのかはっきりしろ」と求められているんだろう。高校2年も残りあと4ヶ月少々、高校生活全体でも残り半分という辺りだから、有り得る話だ。

「……分かった、見に行くよ。時間は……日曜日の4時からか、ま、何とかするか」

「あ、ご、ごめんなさい!部活があったんですよね?」

「いいさ、いつもより集中的に練習して、早めに一日のノルマをこなすだけだから。それより、1つ約束して欲しい」

「え?」

「その日は、自分の全身全霊をぶつける事。ひょっとしたら、それが最後の舞いかもしれないと覚悟するんだ。そう思えば、一回くらい迷いを捨てて入魂するのも楽だろう?それだけだ」

 そう、嫌々渋々なぜなぜ……そんな負の感情を持ったままじゃ、何をやったって上手く行くはずが無い。当然、そんなものを見ても正確な判断が下せる訳はないし、厳しい言い方をすれば時間の無駄だ。

「……分かりました。私の今までの最高の舞いを見せる事を約束します」

 黒木は、ぺこりと頭を下げた。それでいい。

 その代わり、俺も大きなものを背負い込む事になったんだが……承知してから、大変な任務を仰せつかった事に気付く。言うなれば、俺の言葉が他人の人生を変えるかもしれないのだ。俺が人生を変える権利があるのかどうかは怪しいところだが、引き受けてしまった以上……よくよく身を引き締めて掛からねばなるまい。

 俺の真剣な想いを理解したのか、黒木も、力強く頷くのだった……



 あっという間に時間は過ぎて、発表会当日。練習を早めに切り上げたいと申し出た俺に、カベは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに何かに気付いたように納得して、

「まったく、色気づきやがって……」

 意地悪そうな顔で、肘で俺の腹をつついて……いつものちょっぴり不機嫌そうな顔に戻り、いつもの練習に入っていった。

 そんな訳で、いつもの特訓に比べ、格段のペースでノルマを終え、各部活共同のシャワーでざっと汗を流すと、急いで市民センターへ向かう。


 11月でも汗ばむほどのペースで歩いた結果、市民センターに到着したのは開演時間ギリギリだった。黒木の出番は4番目だから、もう10程は余裕があったのだが、取りあえず日舞というものがどんなものか、目を慣らしておかないといけないからな。

 制服姿のままホールの中へ入ると、周り中のオバサン率の高さに参ってしまう。でも、俺とそう歳の違わない女性の姿もちらほらといるにはいて、何故だか少しだけ安心。黒木のお母さんの流派は、割と規模が大きいようで、それだけ年齢層も幅広いらしい。

 年齢層がどうあれ、取りあえず回りが女性だらけというのが緊張してしまうが……今ははっきり言ってそれどころではない。

 適当に空いている辺りを見つけ、椅子に座ると、丁度一番手のオバサンが舞いを披露する所だった。

 勿論、内容の良し悪しなど分からない。演じられている曲目も、演目も、舞いのどこに着目すればいいのかすらも……少しは下調べをしてくるべきだったと今更ながらに後悔するが……

 一応、どんな事でも見逃さないように、目を皿にして舞いを見届ける。

……

…………

………………

 確かに、日舞の事は何も分からない俺だが、それでも、1つだけ分かった事がある。それは……

「本当に好きなんだな」

 独り言が思わず出てしまった。慌てて周りを見渡すが、これだけ広い空間の上に音楽が鳴っているのだから、そう簡単には聞こえないようだ。

 

 そう、そのオバサンは、素人目にも分かるほど動きが拙いが……目が、真剣な中にも、舞いを舞っている自分が充実しているという気持ちに溢れていた。好きでやっている踊りを、この様な衆人環視の中で披露し、晴れ舞台とする。その感情が、溢れんばかりに伝わってきていた。

 ……俺は、こんなにも他人の感情を理解できるほど、繊細な人間だったろうか?それとも、俺の感性如何ではなく、オバサンの充足感が溢れんばかりなのだからだろうか?これなら、黒木がどういう気持ちであれ、俺でも何かを感じる事が出来そうだ。


 順番は回って、いよいよ黒木の番のようだ。舞台の袖から登場した黒木は、美しい着物に身を包み、髪を結って、いささか緊張した面持ちでステージの正面に立った。

 俺が来ているかどうか、観客席を探そうともしない態度には、残念どころか感服した。なまじ俺の姿を見てしまうと、緊張していつもの力を出せないかもしれない……よく考えたら、これは試合なんかじゃないから、緊張して悪い結果が出ても、誰が被害を被る訳でもない。……いや、ひょっとして、師匠であるお母さんの顔に泥を塗る事になりかねないのかも知れないが。

 

 黒木が舞い始めた。

 それから数十秒もしないうちに、俺の杞憂は徒労に終わる。

「………………!!」

 圧倒された。

 その舞いから発せられる、心意気……と言うと男臭すぎるから、要するに気持ちが……舞台からやや離れている俺の席まで、ばしばし伝わってきていた。

 俺がそういう目で見ているから、という訳では決してない。今黒木は、俺が望んだ通りに今までやってきた事の全てを注ぎ、どんな結果になっても後悔しないように、全力で舞っている。そして、その姿から……俺は確信した。黒木がきちんと舞ってくれたからこそ、確信する事が出来た。


 そして、優雅なひと時の終わりがやってくる。

 黒木が舞っていた時間は、時間にすればほんの数分かもしれないが、舞いが与えた影響は計り知れない。しかしそれは、周りの観客にではない。

 舞というものに限らず、芸術性のあるものはすべからく人生経験を積まねば、表現の幅は出ないと俺は思っている。だから、いかに今の黒木の演技が手本のように正確でも、彼女は俺と同じくまだ17歳なのだから、練達のお師匠様のような人から見れば、児戯に等しいかもな。

 だが俺に取っては……

 楽屋口に周り、関係者に黒木を呼んで来て貰う。彼女が話を通しておいてくれたらしく、疑いもせずに黒木を連れてきてくれた。その関係者は、どういう深読みをしたのか、わざわざ気を利かせて、俺達を使われていない楽屋に案内したのだった。

 さして広くもない楽屋だが、こうして2人きりになると、意外と広く見える。黒木は、まだ着替えをしておらず、今さっきまで待っていた衣装のまま、俺の目の前に立っていた。

「……」

「……」

 黒木が、俺の感想を聴こうか聴くまいか迷っているのは明確だった。自分の舞いに自信が持てていないのか?でも、聴かねば先に進めない、一歩を踏み出せないのは分かっているはずだ。

「教えてください。私の舞いは……どうでしたか?」

 幾らか迷った内に、とうとう聴いてきた。この辺り、大人しそうに見えて、割と肝は据わっている様だ。

「率直に言っていいんだな?」

「はい、お願いします」

 ぐっと、俺の目を見据える。俺の言葉を、一言も聞き逃すまいと、その瞳が語っている。こんな状態では、目線が合って恥ずかしいなどと言ってはいられなかった。

「……」

「……」

 そのまま、何となく見つめあった。黒木からしてみれば、某司会者のようなもったいぶりと感じたかも知れないが、今は、黒木が俺の言葉を受け止める覚悟があるのかどうか、恐らくはロクなものじゃない俺の観察眼で見定めていた。


 ……きっと、大丈夫。


 今の黒木なら、俺がどんな結果を口にしても、きっと、受け止めてくれる。舞い終わった後の、やや紅潮しつつも充実した表情を見るに付け、そう思った。


「素晴らしかったよ」

 黒木が大きく目を見開き、口を押さえた。

 最大限の笑顔と共にその言葉を送ったはずだが、黒木から見て、本当に自分の顔が笑顔なのかは自信が無い。

「本当に良かった。舞っている時の黒木、すごく綺麗だったし、楽しそうだった。自分でももう気付いているんだろう?自分が、どれほど日舞を愛しているのかという事に」

 あの舞いは、とても自分のやっている事に迷っている人間のものではない。好きで好きでたまらない、そんな気持ちが溢れていた。

 黒木は、もう涙を止める事は出来ていない。全身全霊を傾けた舞いを終え、安心して気が抜けてしまったのもあるのだろう。

「結局さ、人間なんてのは、どんなに好きだと思っている事や人でも、一時は飽きが来ると思うんだよな。そして、それから離れてみて、初めてそれがどんなに自分にとって大事か分かるんだ。俺も……そうだったから」

 俺はあの時、野球から身を置いて、初めて自分の中の空虚さに愕然とした。俺の場合は、それ迄の時間が長すぎたから、残された時間が少なくなり、こうして焦っている。

「黒木は、日舞から距離を置こうとして、やっと自分の気持ちに気付いたんだろう?良かったな、それが早めで」

「……はい」

 メイクが崩れるのも構わず、瞳を拭う黒木は、とても愛おしかった。小さい肩が震えているが、それは安堵と、道が開けた事への安心感からくるものだ。それすらも可愛く見えてしまう黒木が、そこに居た。

「加藤君、有難うございます。私、もう迷いません」

「良かったよ、俺が少しでも貢献できて。俺、自分が他人の為に何かが出来るなんて思ってもみなかったから、ちょっと驚いているけど……とにかく良かった」

 俺の胸の中で、うんうんと頷く黒木。結われた、艶のある黒髪から香る髪が、俺の昂ぶった心に、戸惑いをプラスする……って、いつの間に俺は黒木を抱いていたんだ!?というより、黒木の方から飛び込んできたんだ……

 でも、俺は不思議と、抱き返すような気分にはならなかった。自分でも不思議なくらい冷静だったのは何故なのか。目の前には、憎からず思っている可愛い子が、自分に感謝して泣きじゃくっている……望めば、そういう関係になる確率は高いと思うが……それは明らかに俺の妄想か。

 そっと身体を離すと、明らかに黒木はがっかりした顔になったが……すぐに笑顔になり、もう一回大きく頭を下げた。

「さ、戻ろうか。そろそろ戻らないと、あらぬ誤解を受けかねないからな」

「私は別に……」

「ん?」

「何でもないです。行きましょう」

 最後の言葉が良く聞こえなかったが、全てはこれで良し、だ。

 ともかく、これで黒木は、今までやってきた事を無駄にせず、迷いを払拭できた。それに俺が関わったのだ……ちょっと前まで、誰の人生にも関わらず、影響を与えずにいた俺が、今はこうして一人の人間の道を照らす立場になった。これも一重に、野球がもたらしてくれた恩恵だ。

 俺は、野球というスポーツが、自分と、自分の係わり合いのある人間にどれほどの影響を与えたかを考えると、心底再開して良かったと思った、晩秋の夕方だった。


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