幕間☆1.5-3☆出発
男子寮の廊下には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。
窓から差し込む薄明るい光が、磨かれた床の上へ細長く伸びている。遠征出発前の早朝ということもあり、寮内は普段より静かだった。
その静寂を破るように、ノエルとアルベルトの部屋の扉が勢いよく開く。
「おーい! 二人とも起きてるかー?」
元気な声とともに、フィンが部屋へ入ってきた。栗色の髪は少し跳ねているものの、顔色は悪くない。歩き方にもふらつきはなく、むしろ朝から散歩にでも出かけていたような軽やかな足取りだった。
その後ろから、シャスールも静かに入ってくる。
彼はフィンとは対照的に、いつも通り落ち着いた様子だった。ピンクブロンドの髪を三つ編みにまとめ、眠そうな様子も、筋肉痛に苦しんでいる様子もない。
部屋の中では、ノエルがベッドの上で仰向けになり、天井を睨んでいた。
隣のベッドでは、アルベルトが掛け布団に半ば埋もれている。
二人とも、起きているというより、かろうじて意識を保っているだけだった。
フィンはそんな二人を見比べ、心配そうに眉を下げる。
「二人とも大丈夫か?」
「なんでお前元気なんだよ……」
ノエルは首だけを動かしてフィンを睨んだが、そのわずかな動作だけで首筋に痛みが走り、顔を歪めた。
「いや、痛いは痛いぞ?」
フィンはそう言いながら、両腕をぐるぐると回した。肩を回し、腕を伸ばし、腰をひねるたびに、制服の布地が擦れ、関節が軽く鳴る。
「でも動ける」
「それを元気って言うんだよ!ぐっ……!」
ノエルは腹部を押さえてベッドの上で丸くなり、隣ではアルベルトも苦痛に顔をしかめていた。
「大声を出すな、ノエル……。筋肉が……」
「お前も同じじゃねえか!」
「僕は冷静に苦しんでいるだけだ!」
「苦しんでる時点で一緒だろ!」
フィンは二人のやり取りを見て、困ったように笑った。
「昨日、二十八日分の訓練を凝縮されて身体に刻まれたからなあ」
「分かってるなら、もう少し心配しろよ!」
「心配してるぞ?」
「顔が楽しそうなんだよ!」
「そんなことないって」
フィンは笑顔のまま答えたが、その表情がノエルには妙に不安を覚えさせた。
一方、シャスールは部屋の隅に置かれていた椅子を引き、何事もなかったかのように腰を下ろした。静かな室内に、椅子の脚が床を擦る音が響く。彼は背筋を伸ばし、窓から差し込む朝日を眺めていた。
やがて、机の上に置かれたアルベルトの水差しへ、何気ない仕草で手を伸ばす。
「勝手に飲むなよ」
「喉が渇いたから」
「自分のを持ってこい」
「取りに戻るのが面倒」
「君は本当に自由だな……」
シャスールは水を一口飲むと、何事もなかったかのように水差しを元の場所へ戻した。
ノエルは、フィンとシャスールを交互に見やる。フィンは身体を動かせるだけでなく、見るからに元気そうだった。シャスールに至っては、いつもと変わらぬ平然とした様子である。
一方、自分とアルベルトは、全身の骨を砕かれたかのような痛みに苛まれ、ベッドへ沈み込んでいた。
あまりにも対照的な二人の姿を前に、ノエルは信じられないものを目にしたような表情を浮かべた。
「……お前ら、おかしいだろ」
シャスールは少しだけ首を傾けた。
「……エルフだから」
「便利だな、その言葉!」
ノエルのツッコミが部屋に響く。
アルベルトも布団の中から顔だけを出した。
「それで全てを説明したつもりになるなよ、シャスール……」
「実際、エルフだから」
「反論しづらいのが腹立つ!」
シャスールは特に悪びれた様子もなく、椅子の背へ身体を預けた。
その横で、フィンが突然、何かを思い出したように手を打つ。
「あ。そうだ!俺がツボ押しと全身の整体をしてやるよ!」
フィンは満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、シャスールの顔から血の気が引いた。普段ほとんど表情を変えない彼が、誰の目にも明らかなほど青ざめている。揺れる金色の瞳を伏せ、両手を胸の前で静かに合わせた。
まるで、これから訪れる惨劇を悼むかのように。
「安らかに」
「待て……なぁ、シャスールの反応なに?」
「何が?」
「普段あんまり表情変わらない奴が、誰が見ても分かるぐらい青ざめてるんだけど!?」
ノエルが指差すと、シャスールは合掌したまま静かに視線を逸らし、アルベルトも不審そうな目をフィンへ向けた。
「フィン、君は一体何をするつもりなんだ?」
「普通の整体だぞ?」
「普通の整体で、どうしてシャスールが死者を弔うような姿勢になるんだ!」
「そんなに怖くないって」
シャスールが静かに首を横へ振る。
「普通じゃない」
「そんなことないって」
「今朝のことは忘れない」
シャスールの声は淡々としていたが、その瞳には明らかな恐怖が宿っている。
「僕、自分の骨が全部砕けたと思った」
「大袈裟だなあ!今朝、ベッドから動けなかったシャスールを、今動けるようにしてあげたのは俺のおかげだろー?」
フィンが笑いながら両手を腰に当てた瞬間、ノエルとアルベルトの表情が同時に引きつった。部屋の空気が凍りつき、ノエルはゆっくりとシャスールへ視線を向ける。
「おい、さっき、お前エルフだからって言ってたよな……?」
シャスールは答えず、ただそっと視線を逸らした。窓の外、机の上、壁、そして最後には床へと、落ち着きなく視線をさまよわせる。
「……あの恐ろしい記憶を、無かったことにしていた……」
「忘れてたのかよ!」
「忘れたかった」
「都合よく記憶を封印するな!」
アルベルトは布団の中で身を起こそうとしたが、腰に走った激痛に耐えきれず、すぐに身体を沈めた。
「くっ……!」
「アルベルト、大丈夫か?」
「大丈夫ではない!」
「じゃあ整体しようか!」
「結構だ!」
フィンが一歩近づくと、ノエルとアルベルトは同時に身を引こうとした。逃げたい。猛烈に逃げたい。だが、二人の身体は思うように動かない。
ノエルはベッドの端に手をつき、上半身を起こそうとした。しかし、腰から背中にかけて鋭い痛みが走り、視界が白く染まる。隣ではアルベルトも身をよじったが、脚が震えるばかりで、立ち上がることすらできなかった。
「ま、待てフィン! 話し合おう!」
「何を?」
「こういうのは本人の同意とか、そういう手順が必要だろ!」
「友達だろ?」
「友達なら尚更聞けよ!」
フィンはノエルの言葉を聞き流し、彼のベッドの横へ回り込んだ。
「じゃあ、ノエルから始めるぞ!」
「待て!」
「アルベルトはノエルの後でやるから、楽しみにしてて!」
「楽しみではない!」
アルベルトが叫ぶ中、フィンはまずノエルの右腕を掴み、肘を軽く曲げた。
「力抜いて」
「お前の言うことは信用できない!」
「大丈夫だって」
フィンはノエルの腕を胸元へ引き寄せ、肩甲骨の位置を確かめるように指先で押し込んだ。
その瞬間、ノエルの背中が反射的に跳ね、身体がぎしりとベッドの上で軋んだ。
「ちょっと待て、その姿勢は何だ!?」
「大丈夫。ゆっくりと深呼吸をして…痛いのは一瞬だけだから…」
フィンはノエルの腕をさらに引いて肩を後ろへ回し、次の瞬間、ゴキュ、と骨の鳴る音が響いた。
「ぎゃああああああああああ!?」
ノエルの絶叫が男子寮中へ響き渡った。
───しばらくして、部屋の中には、荒い息を吐いてぐったりするノエルとアルベルト、そして満足そうに手を叩くフィンの姿があった。
「よし。終わり!」
ノエルはベッドの上で呆然としていた。先ほどまで全身を覆っていた痛みが、嘘のように薄れている。
恐る恐る右手を握って開き、肩や首を回す。腰を浮かせても痛みは走らなかった。
ノエルはゆっくりとベッドから足を下ろし、床に立ち、膝を曲げ、腰を伸ばしてみると、身体が、驚くほど軽かった。
「ほんとだ……身体が軽くなってる」
フィンが満足そうに胸を張った。
「だろ?」
隣では、アルベルトも複雑な表情で腕を回している。痛みは消え、魔力の流れも先ほどより滑らかに感じていた。
「……感謝はする…だが、もう二度と体験したくない……!」
「また痛くなったらやるぞ?」
「断る!」
「俺も絶対に嫌だ!」
「でも治っただろ?」
「治るかどうかと、受けたいかどうかは別だ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
『絶叫が面白かった』
『ノエルの声はよく響く』
「お前ら助けろよ!」
『害はなかった』
『むしろ治った』
「そうだけど!」
『フィンは有能』
『ノエルは叫んでる姿も世界一可愛い』
「叫んでいる姿が可愛いってどういうこと!?」
シャスールは、そんなノエルたちを同情するような目で見た。
「生きててよかったね」
「お前も受けたんだろ!?」
男子寮の部屋に、ノエルの叫び声が再び響き渡った。
☆
学院の南端、広大な敷地の一角に造られた飛行場には、早朝の冷たい風が吹き抜けていた。空はまだ完全には明るくなく、東の地平線だけが淡い橙色に染まり、夜と朝の境目をゆっくりと押し広げている。
その薄明の中、巨大な影が浮かんでいた。
ノエルは思わず口を半開きにし、空を見上げる。それは、巨大な飛行船だった。船体は深い紺色の木材と銀色の金属板で覆われ、左右には鳥の翼を思わせる大型の浮遊装置が取り付けられている。船体の下部では、幾重にも組み合わされた魔法陣が淡い光を放ち、推進器が低い唸り声を響かせていた。
ルーベ村にいた頃、空を飛ぶ乗り物など、絵本や物語の中でしか見たことがなかった。鳥でも竜でもない。そんな巨大なものが空に浮かんでいる光景に、ノエルは不思議な感動を覚えていた。
「本当に飛ぶんだよな?」
横にいたアルベルトが呆れる。
「ここまで浮いていて何を疑ってるんだ」
「落ちない?」
「落ちない」
「絶対?」
「……事故が起きなければ」
「今、一気に不安になったんだけど」
その隣でフィンが笑う。
「大丈夫だぞ。俺、何回も乗ったことあるから」
「そうなのか?」
「家族旅行とか商売の手伝いで」
「家族旅行……十四人兄妹で?」
「父さんと母さんたちも一緒だから、もっと多いぞ」
「貸し切りだろ、それ」
アイリスが腕を組む。
「朝から騒がしいですわね」
「お前は筋肉痛大丈夫なのか?」
「もちろん痛みはございますわ」
アイリスは背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま答えた。
「ですが、その程度で姿勢を崩すなど美しくありませんもの」
「根性論だ」
「根性も美徳の一つですわ」
シャスールが淡々と、
「さっき、階段で一回止まってたよね」
アイリスの眉が動いた。
「シャスール?」
「秘密にした方がよかった?」
「当然ですわ!」
ノエルは笑った。昨日、二十八日間にも及ぶ地獄のような訓練を終えたばかりだというのに、こうしてくだらない話をしていると、いつもの学院生活と何も変わらないような気がする。
ふと飛行場を見渡すと、教師陣や学院生、生徒会のメンバーだけでなく、遠征に参加しない生徒たちまで集まっていた。見送りにしては、あまりにも大袈裟な人数である。
「人気者じゃのう、ノエル!」
「うわ」
振り向いた瞬間、黄白色の髪をなびかせた小柄な少女──学院長ディオーネが、見た目からは想像もつかない勢いで両手を広げ、まるで弾けた雷光のように突進してきた。
「ノエルぅ!」
「待っ──」
「はい、そこまで」
アミュが一瞬でディオーネの背後へ回り込み、首根っこを掴んだ。飛びかかっていた小さな身体は、勢いを残したまま空中でぴたりと止まり、髪と衣服だけが遅れて翻った。
「離せぇ!」
「朝から生徒に飛びつかないで下さい」
「別れの抱擁じゃ!」
「必要ありません」
「必要じゃ!」
「ありません」
「お主が決めるな!」
アミュに首根っこを掴まれた学院長は、宙に吊り下げられたまま、頬をぷくりと膨らませ、眉を吊り上げていた。小さな手足をじたばたと振り回し、靴先まで忙しなく空を蹴っているが、アミュの腕はびくともしない。怒っているのか駄々をこねているのか分からない表情で、「離せぇ!」と叫び続けるその姿は、まるで捕まえられた子猫のようだった。その滑稽な様子に、ノエルは思わず苦笑した。
アミュがそのまま学院長を運んでいった。
「ノエルぅぅぅぅ!」
声が遠ざかり、ローザが小さくため息をついた。
「学院長のことはお気になさらず」
「うん。慣れた」
「それはそれで学院として問題がございますわね」
ローザはノエルたち五人を順番に見渡す。
「無茶をしてはいけませんことよ。危険と勇敢は同義ではございません。撤退すべき時には、迷わず撤退なさい」
「分かった」
「はい」
「承知しておりますわ」
「はーい!」
「うん」
その後ろからアドモンが顔を出した。
「あと、珍しい素材があったらお願いします」
「先生?」
「アリーナルムルの砂漠には特殊な鉱石や薬草が多いんですよ」
「今の流れでそれ言う?」
「研究者なので」
さらにヒストリアが隣から話に入ってきた。
「遺跡は全部撮影してください!」
「全部!?」
「壁画、碑文、石像、柱、床、天井、扉、可能なら砂の層も!」
「要求多い!」
そこへ他の教師たちまで加わる。
「ご当地のお土産楽しみにしてる!」
「お茶に合う菓子をお願いしますね」
「珍しい茶葉があるそうなので、ぜひ!」
「共和国の香辛料も有名よ!」
「ご当地の干し肉も!」
思わずコンラッドが額を押さえる。
「教師陣、要求多くない?」
「引率なんだからコンラッド先生が持って帰ればいいじゃん」
「僕の荷物を増やす提案をしないでくれる?」
「収納袋あるぞ」
「そういう問題じゃない」
ノエルの腰には、先日生徒会から贈られた収納袋が提げられていた。内部には広大な収納空間が広がっており、収めた物の重量が外側へ影響することもない。契約を結んだ四体の古代守護機兵も、その中に収納されている。
さらに一行は、地図の表示や通信、撮影、映像記録など、さまざまな機能を備えた最新式の魔道具、鏡晶石も携帯していた。
「あら、そうそう!忘れるところでしたわ!皆様、こちらにアレを!」
女性教師の一人であるアイビーが声を上げると、数名の女性教師が大きな箱を持ってきた。
「こちらの制服をどうぞ」
「制服?」
ノエルが首を傾げていると、女性教師たちは静かに箱の蓋へ手をかけた。留め具が外され、蓋がゆっくりと開かれる。中から姿を現したのは、学院制服の意匠を受け継ぎながら、遠征用に仕立てられた特別な衣服だった。
「アイビー先生特製の遠征用学院制服ですわ」
アイビーは学院教師の一人であり、その優美で落ち着いた佇まいは、戦場とは無縁の貴婦人を思わせる。だが、彼女は上級星壱に列せられる実力者でもあった。
称号【縫華紡命】を持つアイビーは、針と糸に特殊な魔力を宿し、布そのものへさまざまな性質を与える技術に秀でている。ひとたび戦場に立てば、繊細な糸と針を自在に操り、敵の急所を寸分違わず貫く暗殺者へと変貌する。
その凄みを微塵も感じさせず、アイビーはただ穏やかに微笑んでいた。
「学院制服の基本デザインを残しながら、遠征向けに仕立て直しました」
ノエルは自分用の上着を持ち上げる。
「軽い」
「特殊繊維なのよ。さらに、一定の物理攻撃と魔法攻撃に耐えられますわ。防水、防炎、耐熱、通気性。砂漠環境での温度変化にもある程度対応します」
「そんなに?」
「私の最高傑作の一つです」
その言葉に、周囲の女性教師たちが興奮したように続ける。
「アイビー先生の作品はとても貴重なのよ!」
「非常に珍しく、実用性も高い称号をお持ちですもの」
「世界中の貴族や商人から依頼が殺到しているんですのよ」
「ハンカチ一枚でも高値がつくの!」
「貴族であっても、簡単には手に入らないわ」
ノエルたちの手が止まった。
「……これ、汚したら怒られる?」
「遠征用ですから、汚しても構いませんわ」
アイビーは微笑みながら説明を終えると、一歩後ろへ下がった。入れ替わるように、レオンが前へ出る。昨日とは違い、いつもの軽い笑みを浮かべてはいるものの、その目には真剣な光が宿っていた。
「さて、昨日の訓練結果を伝えるぞ。まずはノエル。基礎体力と肺活量が大きく向上した。何より目覚ましいのは、魔力循環の改善だ」
ノエルは自分の手を見つめた。まだ完全ではないものの、血液や呼吸のように魔力が体内を巡る感覚を、はっきりと捉えられるようになっていた。
「短時間なら、脚や腕、反応速度といった必要な部分へ魔力を集めて、瞬間的に強化できるようになった。召喚しながら剣を使った時の負荷も減っている。だが、使いすぎるなよ。お前はまだ、身体が魔力に追いついてねえんだからな」
「分かった」
「次、アルベルト」
「はい」
「氷雪魔法の効率が上がった。特に無駄撃ちが減ったな」
アルベルトが少しだけ視線を逸らす。
「……以前が酷かったような言い方ですね」
「酷かったぞ?」
「即答しないでください!」
「感情に任せて魔力ぶっぱしてたじゃん」
「…………」
「図星か」
ノエルが笑うとアルベルトが睨んだ。
「君も人のこと言えないだろ!」
「俺は元々制御できてないだけ!」
「それはもっと悪い!」
「喧嘩すんな」
レオンが笑いながら続ける。
「攻防の切り替えが早くなったな。魔力探知も伸びてる。相手が魔法を撃つ前の動きまで拾えるようになった。…次はアイリスだ。元々完成度は高かったが、基礎体力と速度がさらに伸びたな」
「ありがとうございます」
「今の五人なら、純粋な速さはトップクラスだ」
ノエルがアイリスを見る。
「やっぱ速かったんだ」
「当然ですわ」
「砂漠で何回も置いてかれた」
「あなたが遅かっただけでは?」
「言い方!」
「剣技の正確さも上がってる。特に長期戦で崩れなくなった。それと光魔法の出力調整。無駄が減った」
「さらに研鑽いたしますわ」
「次はフィン」
「はい!」
「お前は面白い伸び方したな」
「そうですか?」
「天千眼を接近戦に組み込めるようになったな。筋肉の隙間や神経、関節の位置を見極め、相手の弱点を正確に突く。獣人の血を引くお前の柔軟で優れた身体能力とも相性がいい。純粋な力比べなら、お前より強い奴はいくらでもいる。だが、急所を見抜いて正確に打ち抜けるなら、話は別だ」
フィンは訓練中、クレムとの戦いを通じて、硬い防御を正面から破るのではなく、防御の隙間や力の流れが途切れる箇所、動きの要となる急所だけを正確に狙う戦い方を初めて掴んだ。
「鎧を着ていても、中身まで鉄になるわけじゃないからな。急所を突けば、どんな相手でも倒せる。だからこそ、人体に使う時は絶対に加減しろ。お前の急所攻撃は、本気で危ねえからな」
「分かりました」
「最後、シャスール。お前は元々強い」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
レオンが腕を組む。
「感情に流されず相手を見極め、急所を狙い、次の動きを読む。そういう戦い方なら、お前は五人の中で一番完成度が高い。だが、何もかも一人で背負うな。今回の訓練で、お前は仲間を信じて任せることを覚えた。それが、お前にとって一番大きな成長だ」
シャスールが僅かに目を細めた。
レオンは全員を見る。
「お前らは確かに強くなった。だが、勘違いするな。たかが数日の訓練で、何十年分もの経験や力が身につくわけじゃねえ。昨日お前らが得たのは、これから強くなるための土台だ。現場は訓練とは違う。死んだら、それで終わりだ」
ノエルの脳裏に、カティアの笑顔と、砂のように指の間から消えていった彼女の姿が浮かんだ。
「……だから無茶すんな。どんな手を使ってでもいい。必ず生きて帰ってこい。約束しろ」
「…うん、約束する!」
「僕もです」
「当然ですわ」
「帰ってくるよ!」
「僕も」
五人の言葉にレオンは満足そうに笑った。
────
───
──
「では、遠征について最終確認をするよ。今回の引率は僕が担当する」
今度はコンラッドが前へ出た。
普段どおり柔らかな微笑みを浮かべているものの、その表情には一年A組の担任ではなく、遠征責任者としての真剣さが滲んでいた。背後では飛行船の推進器が低く唸り、出発を待つ魔法陣が淡い光を放っている。
これから始まるのは、学院行事の延長ではない。その空気を、誰もが感じ取っていた。
───その緊張感に、真っ先に耐えられなくなった者が一人いた。
「先生って砂漠行ったことある?」
ノエルが勢いよく手を挙げた。張り詰めかけていた空気が、わずかに揺らぐ。
何人かの生徒が「そこ?」という顔をし、後方ではカルムが吹き出しそうになるのを堪えていた。レオンは腕を組んだまま、すでに何かを察したように口元を歪めている。
コンラッドは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐにいつもの穏やかな笑みへ戻った。
「あるよ」
「暑い?」
「暑い」
「どれぐらい?」
「昼間に金属へ素手で触ったら、ものによっては火傷する程度」
ノエルの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「帰りたい」
周囲から小さな笑いが漏れた。
「まだ出発してないよ」
「だから今なら間に合う」
ノエルが真剣な顔で飛行船を振り返る。
そのあまりにも本気の反応に、アルベルトは額へ手を当て、フィンは腹を抱えて笑い始めた。シャスールはいつもの無表情のまま、ほんの少しだけ目を細めている。
アイリスが横から冷ややかな視線を向けた。
「先ほど生きて帰ると格好良く宣言したばかりでしょう」
「死にたくないからこそだよ!」
ノエルの叫びが飛行場に響き、見送りに来ていた同級生たちからも笑い声が上がる。
コンラッドは肩を揺らして笑った。
「心配しなくても、砂漠での生活設備は整ってるよ」
「本当に?」
「本当だよ。水も食料も、休める場所も用意されている」
「なら最初からそう言ってくれよ!」
「君が聞いたのは暑さについてだったからね」
「そこは察して!」
張り詰めていた空気が、わずかにほぐれた。
しかし、コンラッドが笑みを収めると、その変化を察した周囲の者たちも、自然と口を閉ざした。
「主目的は六芒獣ダリア・ラージュに関する調査」
先ほどまでの軽いやり取りが嘘のように、声が静かに響いた。風の音が、やけに大きく聞こえる。
「五千年前の封印反応が、アリーナルムル共和国の砂漠地帯で観測されている。現地政府からも正式な協力要請が来ているし、砂漠周辺では魔物の異常行動が増えている。遺跡内部の魔力反応にも変化が確認された。そして──金糸雀挽歌の関与が強く疑われている」
空気が変わった。
先ほどまでの笑い声が消え、飛行場全体が冷たい静けさに包まれる。ノエルの表情からも笑みが消え、ニグルム、金糸雀挽歌、そしてカティアの名が胸の中で複雑に渦巻いた。
アイリスは静かに目を伏せ、アルベルトは拳を握りしめる。フィンからも笑顔が消え、シャスールは遠く砂漠のある方角へ視線を向けた。
「この遠征は普通の授業じゃない。……君たちは学生だ。危険だと判断したら、僕の命令に従って撤退してもらう。……いいね?」
最初に頷いたのはアルベルトだった。
「分かった」
「承知しましたわ」
「はい!」
「うん」
アイリス、フィンに続き、シャスールも静かに同意を示した。ノエルは少し遅れて、力強く応じた。
「分かった」
その返事を聞いたアルベルトが、ちらりとノエルを見る。
「……ノエルは本当に分かってるのか?」
「なんで俺だけ確認されるんだよ!」
「一番無茶するからだ!」
「俺だって最近はちゃんと考えてる!」
「考えた上で無茶をするから問題なんだ!」
フィンが横から手を挙げる。
「俺もアルベルトに賛成!」
「フィン!?」
「ノエルは危ないところを見ると、すぐ飛び込むからな!」
「仲間を助けるためだろ!」
「それが無茶なんだよ!」
シャスールも淡々と頷いた。
「僕もそう思う」
「シャスールまで!」
周囲の教師たちから、堪えきれない笑いが漏れた。レオンはとうとう声を上げて笑い、アイリスは呆れたように目を細めている。
コンラッドは楽しそうに肩をすくめた。
「全会一致だね」
「先生まで!」
ノエルの抗議が、再び早朝の飛行場へ響き渡った。
「それじゃあ最後に、全員鏡晶石を出して、起動できるか確認してみよう」
コンラッドに言われ、五人はそれぞれ鏡晶石を取り出し、透明な水晶面へ指を触れた。淡い光が走ると、登録済みの連絡先一覧が表示される。教師陣や生徒会、学院、緊急連絡先が並ぶ中、ノエルの端末に四つの小さな記号が浮かび上がった。
収納袋に収められた、古代守護機兵たちのものだ。
あらかじめプログラムの一部を鏡晶石へ複製していたため、彼らは本体が収納されていても、端末内部で簡易人格として稼働できる。
その直後、一号機の表示が点灯した。
《遠征任務を確認。最優先事項──契約者ノエル・メレディスの生存》
「俺だけじゃなくて、みんなも守ってくれ」
《命令を更新。同行者五名および引率者を保護対象へ追加》
「ありがとう」
二号機が割り込む。
《なお、契約者が無謀な行動へ出る確率78.4パーセント》
《過去行動記録から算出。妥当》
二号機の言葉を補足するように三号機が続く。
「どの過去行動!?」
《現時点での撤退を推奨》
四号機が告げる。
「まだ出発してない!」
《最も安全》
「そりゃそうだけど!」
周囲から笑いが起こる騒がしいやり取りの中、少し離れた場所でグレイシアが無言のままフィンを見つめた。
フィンも彼を見返し、小さく親指を立てるとグレイシアはほんの少しだけ頷いた。
それだけのやり取りだったが、二人の間には妙に通じ合うものがあった。その様子を見たアルベルトは、怪訝そうに眉を寄せる。
「兄上とフィン、さっきから何をしてるんだ?」
フィンは満面の笑み。
「友情を深めてる」
「いつの間に!?」
「一昨日ぐらい」
「どういう経緯で!?」
後方では、カルムが口元を押さえて肩を震わせ、フローラが面白そうに眺めていた。その隣でコールは鏡晶石を操作しながら、「良い商談ですね」と呟いた。
「商談?」
「いえ、何も」
コールは笑顔を浮かべ、グレイシアはすでに視線を逸らしていた。その一方で、シャスールだけは事情を察したような表情でアルベルトを見つめた。
「アルベルト、遠征中は寝顔に気をつけた方がいいよ」
「何故!?」
「秘密」
「秘密にするな!」
☆
出航準備を告げる鐘が鳴ると、見送りに来ていた人々は少しずつその場を離れていった。ノエルは鏡晶石を見下ろし、端末に記録したカティアの手紙を開く。
手紙そのものは、遠征先で収納袋を失うなどの事態に備え、男子寮の自室にある引き出しの奥へ大切にしまってある。鏡晶石には、いつでも読み返せるよう写真を入れていた。
ノエルは画面を指で送り、何度読み返したか分からない手紙の最後の部分へ目を向けた。
“どうか彼らにも、「救い」という形をお与えいただけませんでしょうか”
「…………」
金糸雀挽歌は世界の滅亡を企て、多くの罪を重ねてきた組織だ。カティアも例外ではない。ルーベ村を危険に晒し、学院へ潜入し、数え切れない人々を傷つけた。その罪を、簡単に許すことはできない。
それでも最期の彼女は、生きたいと願っていた。明日も皆と笑っていたいと、心から願っていた。
ノエルは空を見上げる。薄明だった空は、いつの間にか朝の光に満ちていた。
「一人で何してるんだ」
アルベルトが立っており、その後ろにはアイリス、フィン、シャスールの三人がいた。
「ちょっとな」
ノエルは鏡晶石を閉じようとしたが、アルベルトは画面を見て察した。
「……カティアの手紙か」
「うん」
誰も「忘れろ」とは言わなかった。誰も「もう終わったことだ」とも言わない。ただアルベルトが、静かにノエルの隣へ立った。
「君一人で背負うな」
「カティアさんが託したのは、あなた一人ではありませんわ」
「俺たちも聞いたからな」
「難しいお願いだけどね」
アイリスが言葉を継ぐと、フィンは笑いながら同意し、シャスールも空を見上げたまま静かに口を開いた。
「そうだな。すっげえ難しいと思う」
ノエルは笑った。
罪を犯した者を救うなんて、綺麗事なのかもしれない。救おうとすることで、かえって傷つく人もいるだろう。許せないと思う人がいるのも、当然のことだった。
「俺、悪いことした奴を全部許そうなんて思ってない。傷つけられた人に、許してやれとも言いたくない。…それは違うと思うから」
ノエルは、最後にあんなにも幸せそうに笑いながら「ありがとう」と言ったカティアを思い出した。
「でもさ、そいつ自身がもう一度生きたい、変わりたいって思えるなら、その道まで奪う必要はないと思う。だから俺は、振り払われるまでは手を伸ばしたい!」
ノエルは胸元を強く握りしめ、決意を込めて宣言した。すると、その場に一瞬の沈黙が落ち、アイリスが静かに息を吐いた。
「相変わらず甘いですわね」
「悪かったな」
「誰が悪いと言いましたの?」
アイリスは薄く笑う。
「生徒会長の言葉を繰り返すことになりますが…その甘さを貫きたいのでしたら、それに見合う強さを身につけなさい」
「うん」
アルベルトも腕を組む。
「敵を救おうとして、自分や仲間が死んだら本末転倒だからな」
「分かってる」
「…君の場合、本当に分かっているのか怪しい」
「またそれ!?」
「でも、五人なら何とかなるかもしれないぞ」
「一人じゃ難しいけど」
フィンの言葉にシャスールも小さく頷く。
ノエルは四人を見つめた。
学院へ来る前は、これほど大切な仲間に出会えるなど、想像もしていなかった。
「じゃあ、五人でやるか」
「当然ですわ」
「僕も付き合う」
「俺も!」
「僕も」
胸の奥に広がる温かな感情を噛みしめ、ノエルは静かに笑った。
☆
「搭乗開始!」
飛行場に声が響き渡る。
巨大飛行船の側面から伸びた搭乗橋を、ノエルたちは一人ずつ渡り、船内へ乗り込んでいった。
最後に乗り込むノエルが振り返ると、飛行場には教師陣や生徒会、学院生たちが集まり、彼らへ向かって手を振っていた。
「行ってくる!」
ノエルが大きく手を振る。
「いってらっしゃい!」
「気をつけて!」
「土産忘れるなよ!」
「そっち!?」
レオンが腕を上げる。
「死ぬなよ!」
「約束しただろ!」
「お気をつけて」
「素材、よろしくお願いしますね!」
「遺跡の撮影を!」
「最後までそれかよ!」
「ノエルー!」
アミュに腰を掴まれたディオーネが、まだ暴れていた。
「帰ったらわしと二人で──!」
「はい学院長、仕事」
「離せぇぇぇぇぇ!」
飛行船の扉が閉じると、低い駆動音が響き、床がわずかに震えた。巨大な船体はゆっくりと高度を上げ、学院や王都の建物、見送る人々の姿が少しずつ遠ざかっていく。
ノエルは客室の窓へ額がつきそうなほど近づき、眼下へ小さくなっていく学院を見つめていた。胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが込み上げる。
ルーベ村を旅立った時とは違う。
いつの間にか、この学院もまた、帰りたいと思える場所になっていたのだ。
「ノエル」
「ん?」
フィンが窓の外を指差しながら笑う。
「アリーナルムル、いいところだぞ!」
飛行船はすでに王都の上空を抜け、雲海の向こうへ進んでいた。眼下には緑の大地が広がり、ところどころに銀色の川が細く光っている。遠くには山脈が連なる。
まだ砂漠は見えないが、ノエルは窓へ近づき、フィンの指差す先を目で追う。
「そうなのか?」
「砂漠もあるし、飯もうまいし、遺跡もいっぱいある。それから俺の家族もいる!」
『珍しい菓子もいっぱい』
『楽しみ』
フィンは胸を張った。故郷の話をする彼の表情は、いつもの笑顔よりもさらに明るい。紫色の瞳には、遠く離れていた故郷へ帰れる喜びが浮かんでいた。
アルベルトが首を傾げた。
「確か君は十四人兄妹だったか?」
「うん! あと父さんと、母さんが六人!」
フィンは指を折りながら、家族の人数を数え始める。
「姉さんが二人、弟が五人、妹が六人。俺を入れて十四人兄妹で、父さんが一人、母さんが六人!」
「……今さらだけど、とんでもない家族だな」
ノエルは改めてフィンを見る。
フィンは大家族の中で育ったせいか、人との距離が近い。誰かが困っていればすぐに手を差し伸べ、誰かが落ち込んでいれば隣に座る。
その理由が、少しだけ分かった気がした。
常に誰かの声があり、誰かの気配があり、誰かと食卓を囲む生活。それがフィンにとっての当たり前だったのだろう。
「みんな仲いいぞ!」
フィンは自信満々に答えた。
「六人のお母さんが?」
「うん!」
「喧嘩とかしないのか?」
「するよ?」
「するんだ」
あまりにも迷いのない返答に、ノエルは思わず聞き返した。
フィンは窓の外を眺めながら、楽しそうに笑う。
「母さんたち、料理の味付けとか、誰が一番早く起きたとか、父さんが誰の誕生日を忘れたとかでよく喧嘩する」
「最後のは父親が悪いだろ」
アルベルトが即座に突っ込んだ。
「うん。だから父さんが一番よく怒られてる」
「それはそうでしょうね」
アイリスも頷く。
「でも晩ご飯には仲直りしてる」
「早い」
「母さんたちは切り替えが早いんだ」
「切り替えというより、夕食を一緒に食べるために無理やり終わらせてないか?」
ノエルが尋ねると、フィンは少し考えた。
「たぶん、それもある」
「あるんだ」
フィンはさらに身振りを交えて続ける。
「父さんが謝って、母さんたちが許して、姉さんたちが父さんをからかって、弟たちが便乗して、妹たちが父さんの膝に乗る」
「父親の逃げ場がない」
「でも父さん、嬉しそうだぞ?」
「それはもう、家族が好きで仕方ないんだろうな」
ノエルは苦笑した。フィンの話を聞いているだけで、彼の家の食卓が目に浮かぶようだった。
大きな食卓には大量の料理が並び、あちこちから声が飛び交う。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが料理を取り分け、誰かが皿を落とす。きっと、静かな食事とは無縁なのだろう。
そんな光景を想像していると、隣にいたシャスールが窓の外へ視線を向けた。
「楽しみだね」
飛行船の影が雲の上を滑り、遠くの大地へ細長く伸びていた。眼下では、砂漠に覆われた大地が少しずつ近づいている。そこはフィンにとっての故郷であり、ノエルたちにとっては、これから足を踏み入れる未知の国だった。その二つが重なることに、ノエルは不思議な縁を感じていた。
「フィンの実家にも寄る?」
ノエルが尋ねると、フィンは勢いよく頷いた。
「もちろん!」
「十四人兄妹と六人のお母さんかぁ……」
ノエルは、玄関を開けた瞬間に十四人の兄妹が一斉に振り返り、その背後から六人の母親と父親まで現れる光景を想像した。誰が誰なのかも分からないまま次々と抱きつかれ、食事を勧められ、名前を覚えるよう迫られる――そんな状況を思い浮かべただけで、少し疲れてしまう。
隣では、アルベルトも同じように遠い目をしていた。
「僕は人数を把握できる自信がない」
「大丈夫。名札つけてもらえば」
『ノエルも覚えれないから仲間』
『確かに名札があれば便利』
「家族に名札を要求するな!」
アルベルトの叫び声が客室に響き渡り、フィンは腹を抱えて笑った。シャスールは窓の外を眺めたまま、かすかに口元を緩めている。アイリスも呆れたように息をつきながら、わずかな笑みを浮かべていた。
そんな五人を見つめながら、コンラッドは静かに息を吐く。
六芒獣、魔物の異常、古代遺跡、そして金糸雀挽歌、砂漠の国で彼らを待ち受けるものは、決して穏やかではないだろう。
それでも今は、この騒がしくも穏やかな時間が、少しでも長く続けばいいと思った。
飛行船は朝の光を受け、雲海の彼方へと進んでいく。その先に広がる、砂色の地平線へ。




