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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
25/25

☆1-11☆ 真夜中の強制転移

男子寮は要塞のような威圧感を漂わせている一方で、内部は快適に整えられており、大きな窓から光が差し込む明るい廊下や、各階に設けられた談話室が、生徒たちの交流の場となっていた。浴場には温度を一定に保つ魔法が施され、洗濯室では水と風の魔法具が自動で衣服を洗い上げる仕組みになっている。ルーベ村の自宅で、冬の朝などは井戸水で顔を洗うだけでも覚悟が必要だったノエルにとって、この学院寮の設備はまさに別世界のような快適さだった。


ただし──


「何だ、これは」


共同生活の快適さは、設備だけでは決まらない。


アルベルトは部屋の中央で立ち尽くし、その翡翠色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。視線の先には、ノエルの荷物があった。いや、正確には、荷解きの途中で部屋中へ広げられた荷物の残骸である。着替え、剣の手入れ道具、木製の櫛、黒パンと干し肉、使いかけの薬草、紐、針、用途不明の小石、妹のリーナから持たされた手紙、大量の菓子。そして、なぜ持ってきたのか本人にも分からない、少し曲がった木の匙。それらが机、椅子、床、窓枠、ベッドの上へ無秩序に置かれいて、その中心で、ノエルは荷物の山を前に腕を組んでいた。


「荷物だけど」


 ノエルは、まるで天気の話でもするかのように、あっさりと答えた。その声には悪気も焦りもなく、ただ事実を述べているだけの軽さがあったが、その一言が火種となる。


「見れば分かる!」


アルベルトの怒声が寮の一室に響き渡り、額には青筋が浮かんでおり、寮生活初日とは思えないほどの疲労感が、その表情にははっきりと滲んでいる。


「僕が聞いているのは、なぜ荷物が部屋全体へ侵攻しているのかということだ!」


「侵攻って大袈裟だな」


ノエルの首をかしげるその反応は、心底不思議そうで、問題の重大さを理解していない顔だった。アルベルトのこめかみがぴくりと動く。


「すでに僕の机の半分まで占領されている!」


彼は机の上を指差しながら、明らかに苛立ちを隠せない様子だった。そこにはノエルの荷物の一部が堂々と置かれており、布袋の上に小箱が積まれ、そのさらに上に謎の紐が絡まっていた。


「そこ、アルベルトの机だったのか」


ノエルは悪びれもなく荷物の山を見やった。まるでそれが最初から“共有スペース”であるかのような、あまりにも自然な口ぶりだったため、アルベルトは一瞬、言葉を失った。


「部屋へ帰ってきた時に説明しただろう!」


 返された正論に、ノエルは一瞬だけ視線を逸らす。窓の外へ逃げるように目を向けるその仕草は、明らかに記憶の曖昧さを示していた。


「似たような机が二つあるから」


「左右で分けた!」


アルベルトはきっぱりと言い切った。その声には、これ以上の混乱を防ごうとする強い意志が込められており、寮生活初日でありながら、すでに秩序維持の戦いが始まっていた。


「それで、右が俺だっけ?」


「左だ!」


「じゃあ、そっちに置けばいいのか」


「今から移動するつもりなのか?」


アルベルトはこめかみを押さえる。

二人が寮の部屋へ戻った時、机と収納棚の使い分けについては一応その場で決めたはずだった。窓側のベッドは昼間のじゃんけんでノエルが獲得している。なのでアルベルトは「せめて机と収納だけは明確に分けよう」と提案したのである。ノエルも頷いたため、アルベルトはそれで合意が成立したものだと考えていた。だが、ノエルにとっての頷きは必ずしも内容を完全に理解した上での同意を意味するわけではないらしかった。


「後でやる」


「今やれ」


「風呂上がりなんだから、少し休ませてくれよ」


 ノエルは自分のベッドへ腰掛けた、その瞬間、アルベルトの眉間に深い皺が刻まれる。


「濡れているではないか!」


「何が?」


「髪だ!」


ノエルのダークブラウンの髪は浴場から戻ったばかりで、まだ水分を多く含んでいた。普段はやや跳ね気味の髪も今は頬や首筋に張りついている。白い寝間着の襟元には濡れた毛先から落ちた雫が染みを作り、湯上がりのため頬も僅かに赤く染まっている。元々童顔で中性的な顔立ちはいつもより柔らかく見えていたが、本人にその自覚はなく、自分の姿を気にすることもないまま、首に掛けていた布で適当に頭を拭いていた。


「乾かしてるだろ」


「それは乾かしているとは言わない。水滴を床へ移動させているだけだ」


「そのうち自然に乾く」


「寝具まで濡れる!」


「少しくらい平気だろ」


「平気ではない!」


アルベルトが一歩踏み出した勢いのまま近づこうとしたところで、突然その足が止まった。目の前には、浴場から上がったばかりのノエル。まだ熱の残る空気のせいか、普段よりも肌の色はわずかに明るく見え、長い睫毛には水滴がいくつも残っている。

本人が布で乱暴に髪を拭くたびに濡れた前髪が揺れ、その隙間から大きな瞳がふと覗く。


それはまるで───


「どうした?」


ノエルは首を傾げると、濡れた髪が頬を滑り落ちる。


「顔が赤いぞ」


「赤くない!」


 アルベルトは反射的に顔を背けた。


「大声を出すからだ!」


「いや、さっきまで普通だったけど」


「風呂場から戻ったばかりで、僕も暑いのだ!」


「アルベルト、だいぶ前に風呂から上がってなかったか?」


「部屋が暑い!」


「窓、開いてるぞ」


「うるさい!」


アルベルトは窓へ視線を向けると、確かに開いていた。夜風が薄いカーテンを揺らし、室内へ涼しい空気を運んでいる。言い逃れとしては最悪だった。


『動揺してる』

『かなり動揺してる』


 菓子の袋へ半身を突っ込んだソルとルナが淡々と告げる。


「誰が動揺している!」


『アルベルト』

『他にいない』


「君たちは菓子を食べながら余計なことを言うな!」


アルベルトが二人へ振り返った。その瞬間、彼は別の問題に気づく。机の上、床、本の表紙──至るところに、小さな菓子の欠片が散らばっていた。


「今度は何だ、これは!」


『焼き菓子』

『蜂蜜入りの甘い菓子』


「種類を聞いているのではない!」


アルベルトは机の上へ歩み寄った。そこには蜂蜜を練り込んだ焼き菓子が入っていた袋が置かれていたが、正確には「置かれていた」というより、何かに襲撃された後のような有様だった。袋の口は大きく裂けるように開き、中に入っていた菓子は半分以上が消えている。

 さらに、ソルの着物の袖には粉がべったりと付着し、ルナの頬にも小さな欠片がいくつも貼りついていた。


「なぜこんなに散らかす!」


 机の上には、食べかけの菓子の欠片や包装の破片が散らばっていた。小さな妖精たちが食べた痕跡である。


『体が小さいから』

『口も小さい』


「ならば一口をもっと小さくしろ!」


『菓子が硬い』

『ノエルの選択が悪い』


「それ、俺のせいか?」


「君の召喚獣だろう!」


「召喚獣というより家族みたいなものだけど」


 ノエルは少し困ったように言い返す。


『妾たちは家族』

『ノエルは妾たちの大切な子』


「ソルとルナが保護者側なのか?」


『ノエルが産まれる前から見守ってきた』

『ノエルは大切な愛子』


「年齢の感覚がおかしくなるからやめてくれ」


 ノエルは頭を抱えながらため息をつく。


「話を逸らすな!」


 アルベルトは、散らばった菓子の欠片を一つずつ丁寧に拾い集めていく。机の上に落ちた粉も指先で払い、袋の口をきっちりと閉じた。


「食べたなら片づけろ、袋の口を閉じろ。机の上へ粉を落とすな。最低限の礼儀だろう!」


『細かい』

『姑のよう』


「誰が姑だ!」


 そのやり取りを聞きながら、ノエルはふと真剣な表情で口を開いた。


「アルベルト」


「何だ」


「姑って何だ?」


「君はそこからなのか!」


『夫の母親』

『嫁へ細かく注意する人』


「なるほど。じゃあ、アルベルトは俺の母親じゃないから違うな」


「当たり前だ!」


『でも細かい』

『かなり細かい』


「僕が細かいのではない。君たちが雑なんだ!」


アルベルトは床に落ちていた菓子の粉を、無言で布を使って丁寧に拭き取っていた。几帳面な性格ゆえに、乱れているものをそのまま放置することができないのだろう。

 彼の荷物はすでにすべて収納棚へと整然と収められており、衣服も一分の乱れなく畳まれ、剣も決められた位置に正確に置かれていた。

 それに対してノエル側の空間は、まるで対照的だった。部屋の一角では、まるで小規模な災害でも起きたかのように物が散乱し、秩序という概念が完全に崩壊している。


「君は村でもこのような生活をしていたのか」


 アルベルトの問いは、呆れと確信が半分ずつ混ざっていた。


「そんなことないぞ」


「本当か?」


「母さんとリーナが片づけてくれてた」


「自分ではしていないではないか!」


「父さんも時々やってくれた」


「家族総出ではないか!」


『ノエルは料理もできない』

『片づけも苦手』


「料理はできる」


『できない』

『食材を犠牲にする』


「火が少し強かっただけだろ」


『鍋が溶けた』

『少しではない』


「何を作ったら鍋が溶けるんだ!」


「煮込み料理」


「煮込み料理で鍋を溶かすな!」


「だから、ちょっと失敗しただけだって」


『村では料理禁止』

『台所への立入制限』


「召喚士ではなく災害指定を受けるべきではないか?」


「そこまで言うか!」


 ノエルはむっとしたまま、濡れた髪を乱暴に拭いた。水滴が周囲へ飛び散り、その一滴がアルベルトの頬に当たる。アルベルトの動きがぴたりと止まり、同時にノエルもまた、気まずそうに動きを止めた。


「……今、飛んだ?」


「飛んだ」


「悪い」


「座れ」


「座ってるけど」


「動くなという意味だ!」


アルベルトは収納棚を開き、中から片手で持てる筒状の魔法具を取り出した。銀色の筒には、小さな風の魔石と熱の魔石が組み込まれている。


「何?それ」


 ノエルは、見慣れない小型の魔導器を指差した。金属と魔石が組み合わさった簡素な構造だが、内部には複雑な魔法陣が刻まれている。


「乾燥用の魔法具だ」


 アルベルトが当然のように答える。


「乾燥用……?」


 ノエルは首を傾げながら、装置の吹き出し口へ顔を近づけた。


「風が出るのか?」


「温風が出る仕組みだ」


「へえ、便利だな」


「学院の浴場にも備えつけられていただろう」


 アルベルトは呆れたように視線を向ける。


「そうなのか?気づかなかった」


「説明書きもあったはずだ」


「文字が多かったから読まなかった」


「読む気はあったのか?」


「一応、開いた」


「開いただけか!」


 アルベルトは額を押さえる。


「学院へ何をしに来たんだ、君は……!」


アルベルトは魔法具の魔石へ指を触れると、低い作動音とともに筒の先から温かな風が吹き出した。


「ほら、こちらを向け」


「自分でできる」


「君に任せると、髪ではなくカーテンを乾かし始めそうだ」


「そこまで不器用じゃない」


「なら荷物を片づけろ」


「それとこれとは別だ」


「別ではない!」


 ノエルは不満そうにしながらもベッドの端へ座り直すと、アルベルトが背後に立ち、濡れた髪へ温風を当てた。


「熱くないか」


「平気」


「近すぎれば髪を傷めるから、少し離して使うのがコツだ」


「詳しいな」


「身だしなみは貴族の基本だからな」


「毎日やってるのか?」


「当然だ」


「大変そうだな」


「君が無頓着すぎるだけだ」



アルベルトは片手でノエルの髪を軽く持ち上げた。指の間を、柔らかな髪が滑る。想像していたよりも細く、濡れていた時には頬へ貼りついていた髪が、温風を受けて少しずつ本来の形へ戻っていく。

 ノエルは大人しく座っていた。時折、風の向きに合わせて目を細める。湯上がりの赤みがまだ頬に残り、首筋には細かな水滴が光っていた。


アルベルトは無意識に息を止める。


(髪を乾かすだけなのだから、他意などない!)


…ないはずなのに、どうにも落ち着かない。

ノエルが叔母のカナリアに似ていると村人から言われていることも、本人が女顔を気にしていることも、アルベルトはまだ詳しく知らない。ただ見た目だけなら、同年代の令嬢たちよりも整っている。それが妙に腹立たしかった。


(こいつは男だ。しかも荷物を散らかし、髪も乾かさず、召喚獣に菓子をこぼさせている生活能力の低い男だ。動揺する理由など、どこにもない!)


『忍耐、頑張れ』

『アルベルトはよく耐えている』


「何に耐えているんだ?」


『ノエルは無自覚』

『無自覚だから心配』


「俺に耐えてるのか?」


「違う!」


アルベルトの手が僅かに跳ねた瞬間、温風がノエルの耳へ直撃した。


「あつっ!」


「すまない!」


 すぐさま謝罪の声が飛ぶが、その動きには明らかに焦りが混じっており、視線はどこか落ち着かないままだった。


「今の絶対わざとだろ!」


「違うと言っている!」


 否定は早いが声の勢いだけがやけに強く、しかし魔力制御は微妙に揺れており説得力は薄かった。


『動揺した』

『かなり動揺した』


「君たちは黙れ!」


 制止の声が飛ぶが、その反応自体がすでに余裕のなさを物語っていた。


「だから何に動揺してるんだよ」


 呆れたような問いを投げながら、乾かされているノエルは髪を軽く振りながらそちらへ視線を向ける。その態度にはまだ疑いが残っていた。


「君には関係ない!」


 即答は強い拒絶であるがその間も、魔力の風は微妙に揺れ続けている。


「俺の髪を乾かしながら言う言葉か?」


冷静な指摘が返る。状況としては完全に矛盾しており、乾かす側と乾かされる側の距離は近く、逃げ場もなかった。


「なら自分でやれ!」


 苛立ち混じりの声が飛ぶ。魔力の制御が一瞬乱れ、風が再び強くなる。


「途中で投げるなよ!」


「君が文句を言うからだ!」


『二人とも仲良し』

『まるで新婚のよう』


「「違う!」」


 アルベルトの声とノエルの声が重なりながら、二人は同時にソルとルナを見ると、彼女たちは無表情のまま、残っていた菓子を一口ずつ齧る。すると、ぽろりと新たな欠片が机へ落ちていき、アルベルトの眉が引きつった。


「今、落としたな」


『落ちた』

『すべて重力が悪い』


「自然現象のせいにするな!」


アルベルトの怒号が部屋に響いた。

それから三十分ほどかけて、部屋はどうにか人が暮らせる状態へと整えられた。正確には、アルベルトがノエルの荷物を手際よく分類し、ノエルがそれを言われるまま収納棚へと収めていった結果である。

 ソルとルナは散らばっていた菓子の粉を片づけようと奮闘したが、二人の小さな体では布を引きずるのが精一杯で、結局はアルベルトが最後に拭き直すことになった。

 そうしてようやく整った室内は、窓側のベッドにノエル、扉側のベッドにアルベルトが配置され、机は左側がノエル、右側がアルベルトという、妙に規則正しい対称構造へと落ち着いていた。


 そして、アルベルトが紙へ書き出した共同生活の規則は、全部で十三項目になっていた。

菓子は必ず蓋つきの箱へ入れること、濡れた布をベッドへ置かないこと、脱いだ衣服を椅子の背へ積まないこと、剣は鞘へ収め、壁際へ立てて保管すること、夜中に歌わないこと、勝手にアルベルトの机を使用しないこと、そして、ソルとルナは食事の後に必ず口元を拭くこと等々、どれも一見すると当たり前のようでいて、この場にいる面々を思えば、むしろ必要不可欠な注意事項ばかりだった。


「多くないか?」


 ノエルは、手にした注意事項がびっしりと書き込まれた紙をじっと見つめながら呟いた。


「すべて君たちが原因だ」


ノエルは机に共同生活規則を置き、自分のベッドへ潜り込んだ。窓の外では月が静かに部屋の中を照らしている。

 今朝の時点では、まだ王都へ行くという実感すら薄かったはずなのに、たった一日で状況は一変していた。正門では問題児扱いされ、受付を済ませ、クラス分けを受け、寮の案内と同室者が決まり、コンラッドの幻術の穴に放り込まれ、魔物と戦い、穴へ落ちかけ、さらには見知らぬ教師らしき人物に契約紋を反応させるという出来事まで起きている。

 普通なら一週間分はあるはずの出来事が、この一日にすべて詰め込まれていた。


「学院って、毎日こんな感じなのかな」


 その声は静かな部屋に溶けるように落ちた。隣のベッドではアルベルトが燭台の火を指先で軽く弾き、明かりを少し落とす。


「そんなわけがあるか」


 アルベルトは呆れを含んだ声を漏らしながら、枕の位置を整え、淡々と続けた。


「毎日あの授業なら、卒業までに精神が壊れる」


「そんなにか?」


「そんなにだ」


 ノエルは天井を見たまま、少し考えるように間を置く。


「明日は入学式だよな」


「そうだ」


 アルベルトは短く答えたが、その声にはどこか諦めにも似た疲労が混じっていた。


「退屈らしいぞ」


「コンラッド先生の言葉を信じるのか?」


「退屈ってところだけは本当そうだった」


「そこだけ信じるな」


 アルベルトはため息をつき、枕に頭を沈める。


「学院長の訓示もある。寝るなよ」


「寝ない」


『絶対寝る。断言する』

『ノエルは座ると同時に眠る』


「眠らない!」


 枕元でソルとルナが、淡々とした声で追撃する。その様子をアルベルトは横目で見やり、さらに深くため息をついた。


「今日も説明中に三回ほど目を閉じていただろう」


「考え事をしてた」


「口が半開きだったぞ」


「呼吸だ」


「人間は口を閉じても呼吸できる!」


 即座に突っ込まれると、ノエルは布団を握りしめた。その横で、ソルとルナは淡々と続ける。


『寝言も言う』

『寝相も悪い』


「やめろよ、俺の評判が崩れるだろ」


 ノエルが抗議するが、二人はまったく動じない。むしろ事実確認でもするかのような淡々とした口調で受け流している。アルベルトは枕に顔を埋めかけながらも、その興味を抑えきれずに問いかけた。


「さすがに寝相は普通だろ」


『普通ではない』

『横へ回転する』


「回転?」


『朝には向きが逆』

『枕に足がある』


「そんな馬鹿なことするか!」


 ノエルは即座に否定する。


「待て」


アルベルトが起き上がる。燭台の光に照らされたその顔には、真剣な表情が浮かんでいた。


「向きが逆になるとは、どの程度だ」


『頭と足が反対』

『時々、床に落下』


「なぜ床へ落ちる!」


「知らないよ。寝てるんだから」


 ノエルは肩をすくめ、アルベルトは額を押さえた。


「僕の側へ転がってくるなよ」


「そんなに遠くまで行かないだろ」


 二人のベッドは部屋の左右に並んでいる。間には数歩分の空間があるだけで、普通に考えれば移動する距離ではない。

 だが、ソルとルナは静かに断言した。


『ノエルなら可能』

『過去に部屋を出た』


「寝ながら部屋を出たのか?」


 アルベルトの声が一段低くなる。


『廊下でリーナが発見』

『毛布を抱えていた』


「嘘だろ……」


 アルベルトの顔が引きつり、ノエルは気まずそうに視線を逸らした。


「昔の話だ」


「何歳の時だ」


「十四くらい」


「最近ではないか!」


 アルベルトが即座に叫ぶ。その声は寮室に響き、廊下の静けさをわずかに揺らした。

 ソルとルナはさらに追い打ちをかける。


『朝、鶏小屋にいたこともある』

『鶏と眠っていた』


「それは十歳の時だ!」


 ノエルが慌てて訂正するが、アルベルトは完全に頭を抱えていた。


「十分おかしい!」


アルベルトは自分のベッドから立ち上がり、ノエル側の床を確認した。危険な物がないかを確かめるためだ。剣は壁際に立てかけられ、椅子は机の中へ収められている。荷物も先ほど整理したから、寝相で転がったとしてもすぐに怪我をするような物は見当たらなかった。


「何してるんだ?」


「君が夜中に床へ落ちても怪我をしないように確認している」


その言葉に、ノエルは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ笑った。


「心配してくれてるのか」


「違う!!同室者が初日に怪我をすれば、僕の監督責任を疑われるからだ!」


 言い切る声はやけに早く、やけに強い。だがその視線は、どこか落ち着かずノエルのベッドの位置を何度も確認している。


「同級生に監督責任はないだろ」


「気分の問題だ!」


 理屈ではなく、完全に感情で押し切る宣言だった。ソルとルナは、ノエルの枕の側からその様子を眺めていた。


『優しい』

『面倒見が良い』


「違うと言っている!」


 アルベルトは反論するが、二人の妖精はまったく気にしていない様子で、淡々と評価を続ける。ノエルはそのやり取りを見ながら、枕に頭を預けて笑った。


「アルベルトって、意外といい奴だな」


「意外とは何だ!」


 返ってくる怒声には、いつもの鋭さよりも少しだけ力が抜けている。


「最初はもっと嫌な奴かと思ってた」


「君は本当に失礼だな!」


 アルベルトは眉間に皺を寄せるが、ノエルは気にせず続ける。


「今は半分くらいしか思ってない」


「まだ半分残っているのか!」


 その言葉に、ソルとルナが小さく頷いた。


『半分は減った』

『成長した』


「何の成長だ!」


 アルベルトの叫びが部屋に響く。だがその声も、どこか夜の静けさに溶けていくように柔らかくなっていた。ノエルは笑いながら毛布へ潜り、布団の中から顔だけを出して目を細めた。


「おやすみ」


「話を途中で終わらせるな!」


 アルベルトはまだ何か言おうとするが、ノエルはすでに半分眠りかけている。


「明日も早いぞ」


「君に言われたくない!」


 そのやり取りを見下ろしながら、ソルとルナが静かに声を揃えた。


『おやすみ』

『アルベルトも早く寝た方が良い』


「君たちまで勝手に終えるな!」


 最後の抗議は、もはや怒りというより諦めに近いものだった。やがて部屋には再び静寂が戻り、ノエルの小さな寝息だけが静かに響き始める。アルベルトはしばらくその様子を見つめていたが、やがて小さくため息を吐いた。燭台の火がゆっくりと消され、最後の光が揺らめいた末にふっと闇へと溶けていく。窓から差し込む月明かりだけが、二つのベッドと整えられた室内を淡く照らしていた。その静かな光の中で、アルベルトは視線をわずかに逸らし、小さく何かを呟くように息を吐くと、静かに自分のベッドへと腰を下ろした。




            ☆


深夜、寮全体は静寂に包まれていた。

 遠くで夜間巡回を知らせる鐘が一度だけ鳴るだけで、廊下には人の気配もない。窓の外では風が木々を揺らし、葉の擦れる音だけが低く響いている。

 アルベルトは規則正しい寝息を立てていた。公爵家で育ったためか、その寝姿まで整っている。仰向けで、毛布は胸元まできちんとかけられ、両腕は体の横に揃えられていた。昼間の大きな声が嘘のように、静かな眠りの中に沈んでいた。

 一方、ノエルはすでに枕から半分ほどずり落ちていた。毛布は片足で蹴り飛ばされ、右腕はベッドの外へだらりと垂れている。寝返りのたびに乱れた髪が額にかかり、無防備な寝相のまま深く眠り込んでいた。

 枕元には、ソルとルナが小さな籠の中で静かに眠っている。学院側が召喚獣用に用意した簡易寝床で、二人は並んで目を閉じていたが、その無表情ゆえに眠っているのか起きているのか判別がつかない。ただ、穏やかな気配だけがそこにあった。

 全員が熟睡している最中、ノエルの右手の甲が淡く光った。陽と陰、二つの契約紋が浮かび上がる。昼間、アミュの結界に反応した時よりもはるかに強く、まるで脈を打つように一度、二度、三度と明滅した。暗い部屋の中に、金色と青白い光が交互に広がっていく。


『……ソル』


 ルナの目を開く。


『起きている』


 ソルも籠の中で体を起こし、二人の視線がノエルの右手へと向いた。


『呼ばれている』

『下の方から』


学院地下、地上の校舎よりもさらに深い場所。厚い岩盤と、幾重もの封印結界に隔てられたその空間から、細い魔力の糸が静かに伸びていた。その糸は学院全域を覆う結界へ触れないよう、まるで呼吸を殺すように慎重に隙間を縫っている。普通の魔術師であれば、そこに“何かがある”と認識することすらできないほど微弱な接触。しかし、そのわずかな揺らぎに、ノエルの契約紋は確かに反応した。

 陽と陰の妖精王であるソルとルナ。その二つの存在へ向けて、地下のさらに奥から、何者かが静かに呼びかけていた。


『ノエル起きて』

『目を覚まして』


 ソルとルナがノエルの頬を容赦なく叩き、起こそうとする。


「……ん、あと少し…、りーな……鶏を部屋に入れるな……」


『夢を見てる場合じゃない』

『もっと頬を叩くしかない』


ソルとルナがノエルの頬を叩こうとしたその時、契約紋の光が強まった。ノエルの腕から肩へと細い魔力の線が走り、金色と青白の二色の光が全身を包み始める。


『強制転移』

『止める』


二人同時に陽の光と陰の光の魔力を放った。

 しかし、地下から伸びた術式は、ソルとルナの魔力に触れた瞬間、その形を変えた。拒むのではなく、受け入れるように…まるで最初から、二人の力を鍵として待っていたかのように…


『これ、知っている術式』


『うん、とても古い術式』


ソルとルナの声に、僅かな動揺が混る。

 ベッドの周囲には、円形の魔法陣が浮かび上がった。それは床に描かれたものではなく、空中へ幾重にも重なって展開された立体術式。古代文字が、ゆっくりと回転しながら浮かび上がる。それと同時に、部屋の温度が急激に下がり、空気そのものが震え始めた。収納棚の扉が音を立てて揺れ、机の上に置かれていた紙が一斉に舞い上がる。


「何だ!」


アルベルトは跳ね起きると、寝起きとは思えない速さで周囲を確認し、光に包まれたノエルを見つけた。


「ノエル!」


 鋭い声が、静まりかけた空間を切り裂いた。


「ん……?」


 ようやく意識が浮上し、ノエルはゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、自分の身体を包み込む淡い光だった。それは魔力の奔流というより、何かに呼応するような不安定な輝きで、魔法陣と連動して脈打っている。


「何だ、これ」


『地下から呼ばれている』


 ソルの声はいつも通り淡々としているが、その内容は穏やかではない。


『強制転移する』


「先に言ってくれ!」


『今、起きたから言った』

『ノエルを起こしたのに寝ていた』


「俺のせいなのか?!」


 理不尽なやり取りが成立する間にも、魔法陣の光は徐々に強さを増していく。まるで意思を持つかのように、ノエルの存在を中心へと引き寄せていた。


「動くな!」


 アルベルトがベッドから飛び降りる。

 床へ足が触れた瞬間、魔法陣はそれに反応するように一段と輝度を上げ、空間そのものが軋むような圧力を放ち始めた。


「待て、何が起きている!」


「俺にも分からない!」


「分からないまま光るな!」


「俺の意思じゃない!」



 ノエルの体が、ゆっくりとベッドから浮き上がっていく。まるで重力そのものが失われたかのように、背中が宙へと持ち上がり、掛けられていた毛布が力を失って床へと滑り落ちた。


「うわっ!」


 ノエルの声が、驚きと焦りに揺れる。


「ノエル!」


アルベルトは迷いなく踏み込むと、ノエルの左腕を強く掴んだ。


「離せ、アルベルト!」


「何を言っている!」


 アルベルトは一歩も引かず、むしろ力を込めて引き戻そうとした。


「巻き込まれるぞ!」


「なら、なおさら離せるか!」


アルベルトは一切の迷いなく即答した。


「何でだよ!」


「同室者が目の前で消えたら、僕が説明を求められる!」


 アルベルトは真顔のまま言い切った。それは緊迫した状況の中で、あまりにも現実的すぎる理由だった。


「今それか!」


『心配してる』

『素直ではないツンデレ』


 その声音は淡々としているが、どこか呆れにも似た響きを含んでいた。


「君たちは黙っていろ!」


魔法陣が回転速度を増し、空間そのものが歪み始めた。壁も天井も窓も、すべてが水面越しの景色のように揺らめく中、アルベルトはノエルの腕を強く掴んだまま、空いた手で床へ氷を広げる。


「氷の楔よ──《氷縛杭(ひょうばくくい)》!」


 足元から氷の杭が次々と生成され、鋭い音を立てながら床へ深く突き刺さっていく。アルベルトはその氷杭を支点にして踏ん張り、ノエルの腕を掴んだまま、引き戻そうと力を込める。しかし、魔法陣から溢れ出す異常な魔力は、物理的な拘束を嘲笑うかのように膨張し続けていた。

 氷の表面に細かな亀裂が走る。それは一瞬で広がり、まるで限界を迎えたガラスのように不気味な音を立てた。


「何だ、この魔力は!」


『学院の地下から』

『古い契約』


「説明が短い!」


 アルベルトは歯を食いしばりながら叫ぶ。状況の深刻さに対して、あまりにも情報が足りなさすぎる。


「ソル、ルナ! 止められないのか!」


『無理』

『妾たちの力が使われている』


「最悪だ!」


 その瞬間、足元を支えていた氷杭が限界を迎え、音を立てて崩壊した。

 支えを失ったアルベルトの身体が、ノエルと同じように空間へ引き上げられるように浮き始め、重力の感覚が曖昧になり、床との距離が一気に遠のいていく。


「アルベルト、手を離せ!」


「嫌だ!」


 必死に掴んだ手をアルベルトは、決して離そうとしない。魔力の奔流の中で、指先に込められた力だけが唯一の現実だった。


「お前まで強制転移するぞ!」


「だから何だ!」


 翡翠色の瞳が、まっすぐノエルを見た。昼間の試験の時と同じ、あの視線だった。ノエルがカティアへ手を伸ばした瞬間と重なる。危険だと分かっていても、合理性を無視してでも、目の前の相手を放さない──そんな強い意志が、その瞳には宿っていた。


「君は今日、同じ班だからカティアを助けたと言っただろう!なら、僕は同室だから助ける!」


 アルベルトは腕に力を込めた。


「理由が雑だ!」


「君に言われたくない!」


『似てきた』

『良い傾向』


「今は褒めるな!」


二色の光が弾けた次の瞬間、二人と二体の姿は部屋から消えていた。机の上に浮かんでいた紙だけがゆっくりと床へ落ち、最後に空中へ残っていた魔法陣も小さな光の粒となって静かに消滅した。

 

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