第84話 旅の目的
/色葉
延元の反応を見るに、わたしの推理もそう的外れなものではなかったらしい。
まあ推理というのもおこがましいか。
正直に告白すれば、偏見に基づく決めつけである。
あの男ならやりかねない。
いやきっとやる。
そういう類の偏見だ。
「今でこそ黒田家は筑前を領しているが、以前は豊前中津だったからな。豊前のことは勝手知ったる何とやら、だったことだろう。関ヶ原の折には孝高の奴、まんまと小倉城を奪ってもいるしな」
何が言いたいかといえば、つまり平家の連中との関係である。
今回の件、まずは平家の亡霊どもと時の統治者との間に友好的な関係がなければ、なかなかうまくいくものでもない。
その平家どもだが、怨霊であり、源氏の縁者と見れば襲い掛かる困った輩というのが、まあ一般的な見方だろう。
しかし本当にそうなのか。
「――いかに妖や怨霊とはいえ、話の通じる相手であるのならば、それなりの関係は築けるというものだ。むしろお互いの為に、積極的に関係の構築を図るんじゃないのか?」
伊予でもそうだったが、あの化け狸どもは伊達家と持ちつ持たれつの関係であった。
こういう関係性は、恐らく全国的に存在するのだろう。
この豊前においても。
「統治者にしても、亡霊や妖などに暴れられては治安もくそもないし、統治もしにくくなる。一方で妖らにしても、好き勝手していては討伐の対象にされてしまう。実際に討伐されている輩も歴史上に多く見られるが、そんなものはごく一部なんだろう。大抵の連中は、意外に仲良くやっているというわけだ」
ある意味、山賊や野盗などよりも、話の分かる相手なのかもしれない。
「しかし亡霊と仲良くしているというのも、あまり良い風聞でもないからな。だからこっそりとした関係に終始するしかないんだろう。その場合、源氏嫌いというのは実にいい隠れ蓑だな?」
細川家は遡れば確かに源氏である。
それを平家が嫌っていることも、まあ事実であり、嘘でもなんでもないのだろう。
だが例え嫌いあった相手であったとしても、利害から手を組むことなど、よくある話である。
しかも壇ノ浦から実に四百年以上。
薄く、しかし大いに広まってしまった源氏の血筋に拘泥することなど、もはや意味が無いとすら思っていたのかもしれない。
「まあ答え合わせは簡単だ。――海御前、延元の前任者の名前を言ってみろ」
「……栗山利安殿にございまする」
「――なんと」
やはり、な。
その名に、友信は目を見開く。
栗山利安といえば、黒田家における家臣筆頭の名で、孝高の側近中の側近だった人物だ。
わたしも生前、会ったことがある。
「ちなみにその前は?」
「毛利勝永殿でした」
毛利勝信の子か。
なんともはや、そうそうたる面子である。
「そして今は沼田延元、というわけか」
こうやって次々に統治者に憑りついて、乗り換え、命脈を保っていたということだろう。
いや、命脈を保つという言い方は語弊があるかもしれないな。
この前、酒盛りに行って分かったことだが、あの連中は今でこそ怨霊だの亡霊だのになってしまったが、実際の所は誰かに供養をしてもらいたがっているのだ。
だからこそ琵琶法師などを傍に置き、自らの物語を語り聞き、涙して、自らを弔っているのだろうから。
きっと無縁仏になることこそを、何よりも恐れているのだろう。
何とも人間臭い幽霊どもである。
「で、話は戻るが、そういうわけでこの辺りの事情は孝高も知り得ていた。だからこそ、今回の計画に組み込めたんだろうしな」
人だろうが妖だろうが亡霊であろうが、利用できるものは利用する。
そんなあの男に対して思うのは一つだけ。
このわたしも利用された一人だったのかどうか。
今回のわたしの旅の目的の一つは、まさにそれを知りたかったから、というものもあった。
黒田孝高。
今では黒田如水と名乗る男。
それに会うために、わたしは九州まで来たのである。
◇
慶長九年三月二十日。
黒田孝高の命日である。
しかし現在は、慶長十年五月二十八日だ。
本来ならば一年以上も前に、孝高はこの世を去っているはずである。
ところがこの世界では未だ存命している。
本来ならば五十九歳にて死ぬはずだった孝高が、未だに生きている理由。
何となくだが、察しはついていた。
史実であるならば天正六年十月に、孝高は有岡城にて約一年に渡って幽閉されることになる。
これは織田信長に対して謀反した荒木村重を説得するために単身、有岡城に乗り込んで失敗し、捕らわれてしまった結果によるものだ。
当然この世界でも同じように幽閉されていたが、しかし早々にわたしが助け出していたこともあって、史実のように左足に障害が残ることもなかった。
思うにこれが、長生きしている理由だろう。
歩行が困難になったことで、のちの人生の間に身体に負担をかけ、寿命を縮めていた可能性は高い。
何より一年間の土牢での投獄生活こそ、身体を壊す原因になったはずだ。
しかしこの世界ではそれが無い。
つまりそういうことなのである。
何の勝負かはともかくとして、生前のわたしは孝高に負けたと思っている。
そんな孝高に、こうして生まれ変わったことでもあるし、機会があるのならば一度会ってみたいとは常々思っていたものだ。
関ヶ原の折には孝高の嫡男である黒田長政に会う機会があり、わたしの存在をほのめかしてもおいた。
本当に機会があれば、と思っていたのだが……あれ以来、孝高からの目ぼしい反応を得ることはできなかったと言っていい。
史実同様、関ヶ原の戦い以降は完全な隠居生活に入り、筑前福岡に引きこもってしまったのだ。
それでも史実では福岡と上方を行ったり来たりしていたそうだが、この世界ではそれすらないほどの、徹底したものだった。
というのもわたしが摂津大坂城に入ったのは周知の事実であり、孝高の縁のある摂津有馬温泉にすら近づかないのだから、余程だったのだろう。
完全に避けられていると思ったものだ。
これがまあ、唯一の反応らしい反応だったのかもしれない。
孝高のことだから、刺客くらい差し向けて来るんじゃないかと思っていたんだがなあ……ううむ。
そしてそうこうしているうちに、命日である慶長九年三月二十日を過ぎてしまった。
現世では縁が無かったかと思ったが、ところが後から耳にした話では、未だ黒田如水死なず、という。
思わぬことだった。
その理由は察しがついたものの、まだ生きているのなら機会はあるというもの。
しかし待っていても孝高の奴が近づいてくる気配が無いものだから、業を煮やしたわたしはついに自ら行くことに決めたのだ。
もちろん、純粋に旅を楽しむ目的もあったのだが、わたしが筑前国を目指した主な理由はまさにそれだった。
このわたしに足労させたのだから、首を洗って待っていろ、である。
『――このようなことを尋ねるのは実に奇妙な話であるのだが。わしは以前、千姫様にお会いしたことがあったような気がするのだ。そのお姿のせいもあって、そう勘違いしているのかもしれぬが……』
あの日の夜。
母里友信は最後にそんなことを尋ねてきた。
別に勘違いでも何でもない。
わたしは有岡城で友信に会っている。
というか友信らに協力して、孝高を有岡城から引っ張ってきたというある意味恩人なのだから、その時のことを忘れるなど言語道断だ。
『ん、本人だぞ?』
わたしは事も無げにそう答え、かつての恩を返せと要求し、孝高への面会とその道案内を友信に申し付けたのだった。
というわけでわたしたち一行は、豊前国から筑前国へと入り、福岡城を目指すのかと思いきや、友信が案内したのは太宰府天満宮だったのである。
ここはかの有名な怨霊伝説を残した菅原道真《すがわら の みちざね》を祀る、天満宮の一つである。
同じようなものは京にも北野天満宮として残っているが、こちらは天神様のお膝元ともいわれ、京のものに負けない格式のある場所だ。
どうやら孝高の奴、この天満宮の一角に草庵を構えて隠居生活を満喫しているらしい。
場所が分かればこっちのもの。
手順などそっちのけで、問答無用で押しかけるのがわたしである。
というか下手に事前に連絡を入れさせたことで、雲隠れされたり妙な策を練られたりしても困るしな。
そういうわけで今日この日。
すでに日も暮れた時間であったが、わたしは友信が用意してくれていた宿をこっそりと一人抜け出すと、大宰府天満宮へと向かい、孝高の元へと至ったのである。






