第35話 関ヶ原の前哨戦
/色葉
江戸城にあったわたしの元にも、三成が挙兵したという報せは届いていた。
案の定、である。
七月二十四日には家康の知るところになったようで、二十五日には進軍先の小山にて評定を開き、一致団結して謀反人・石田三成を討つべく軍勢を取って返すことが決定された。
目指すは三成の居城・佐和山城である。
この辺りは史実通りだな。
ともあれ大坂で挙兵した軍勢を西軍とすれば、家康率いる軍勢は東軍となる。
日ノ本が二つに分かれるこの様に、諸国においても東と西に分かれ、その対立が鮮明になっていった。
西進といっても、まず全ての徳川方の手勢が西に向かったわけではない。
真っ先に進軍したのは、黒田長政や田中吉政、藤堂高虎といった西国に所領を持つ東軍諸大名である。
これらは七月中に西に向けて進発していた。
またこの頃、北陸の方でも東西両軍の動きが活発化する。
七月二十六日には、五大老の中で家康に味方した前田利長が金沢城を出陣し、大坂目指して進発していた。
家康にあれこれやられ、利長の父親である前田利家が健在な頃は唯一家康にまともに対抗できた勢力と権力を持っていた前田家は、今回東軍に与することになる。
これは別段、意外なことでもなかった。
加賀征伐が噂された際に前田家は徳川家に屈服しており、すでに利長の生母であるまつが、人質として江戸に差し出されていたからである。
そのため西軍諸将にしても、前田家が東軍に加担することは予想の内だったはずである。
実際、あの大谷吉継もそのように対応した。
吉継は早くから北陸の諸将に対し、西軍への勧誘工作を行っていたのである。
さすがは噂に名高い大谷刑部。
その手際はなかなかどうして見事なもので、北陸の諸将の大半は西軍となってしまった。
早い話、前田家が領しない加賀南部から越前の諸大名は、全て西軍と化してしまったのである。
当然このことに対し、利長は危機感を抱いた。
北陸の諸将がまとまる前にこれを制圧すべく、二万五千という大軍を率いて西進を開始したのである。
真っ先に狙われたのが、加賀小松城だ。
この小松を領していたのが、丹羽長重である。
ちなみに長重とわたしは縁がある。
あれは元々わたしの小姓の一人だったこともあり、色々教育してやったことがあるからだ。
その後、どうやらまともに成長したらしく、堅固で知られる小松城と相俟って、前田勢はこれを包囲するものの落とすことが叶わなかったという。
ちなみに城に篭る兵力は三千であった。
このため利長はこれの攻略を諦めて、小松城を捨て置き、僅かな兵を牽制に残して更に西に進むことになる。
そのため次に目標となったのが、山口宗永が守る大聖寺城だ。
大聖寺城は、加賀と越前の国境に構える城で、わたしも以前はこれを攻め、籠っていた一向一揆どもを残らず焼き殺したことがあったので、よく覚えている。
これもなかなかの堅城だったな。
城兵は約二千。
八月二日には包囲が開始され、結論からいえば大聖寺城は落城した。
利長は小松城を置いて進軍を急いだため、宗永は十分な準備をすることができなかったのである。
また北ノ庄の青木一矩や小松城の丹羽長重らに救援を要請したものの、これも間に合わなかった。
どうも山口勢は迎撃の構えをとったらしく、宗永の嫡男・山口修弘がこれを指揮して前田勢を迎え撃ったという。
だが前田方とてひとはいる。
前田家臣・山崎長徳がこれを討ち破り、城方に籠城戦を余儀なくしたところで、前田家臣の長連龍らも参戦して激戦となったという。
山口父子は奮戦したものの及ばず、ついには降伏。
しかし前田方はこれを許さなかったらしい。
どうやら山口勢の反攻により前田勢も手勢を少なからず失っており、それが怨恨となってしまっていたからだった。
戦闘は継続され、大聖寺城は蹂躙される。
そして追い詰められた山口宗永とその子・修弘は自刃。
大聖寺城は落城したのである。
北陸方面の中心人物は大谷吉継ではあったものの、吉継は上方で指揮を執っていたこともあって、即座に北陸方面に対して軍事行動を起こせなかったといっていい。
だが八月三日には越前国敦賀へと入り、六千ほどの軍勢を整えることになる。
これでは前田勢には敵わない。
そこで知恵者の吉継は、流言飛語を用いた。
前田勢に対し、上杉勢が越後に侵攻したとか、畿内一帯は全て西軍の手に落ちたとか、吉継が援軍として北ノ庄に向かっているとか、その吉継の別動隊が海路をもって金沢城を急襲すべく向かっているなど、そんな噂を流したのである。
これに前田勢は引っかかってしまった。
利長は動揺し、何より金沢を急襲されることを恐れてしまったのだ。
そのため撤退を決意するが、ここで問題となってくるのが捨て置いていた、小松城である。
早い話、退路に敵が控えているようなものである。
利長はそれでも撤退を強行したが、この動きは当然小松城の長重も気づいた。
そしてそんな好機を見逃すはずもない。
とはいえ敵は大軍である。
長重は小松城近くの浅井畷という畷において、前田勢を迎撃する構えをとる。
畷というのは縄のように細い筋になっている道のことで、その周辺は泥沼が広がっており、大軍が進むにはいかにも難儀する場所であった。
前田勢の優位は大軍であることであり、まずは地の利を得てその優位性を失わせたのである。
ここで待ち伏せしていたのが、丹羽家臣・江口正吉だったという。
丹羽家のことしか考えていない男で、以前のわたしがどうにか直臣にした武将でもある。
話によればわたしの死後、何だかんだ言いながら朝倉家が滅亡するまでその責務を全うしたらしい。
その後は晴れて丹羽家に仕えることができて、今に至っているというわけか。
そして八月九日。
両軍を激突した。
世にいう、浅井畷の戦いである。
これは北陸の関ヶ原とも呼ばれた決戦で、丹羽勢の勝利で終わった。
多大な被害を受けた前田勢は、しかし連龍や長徳の奮戦により突破に成功し、金沢へと退却している。
長重や正吉にしても、連龍や長徳にしても、かつては朝倉家臣でわたしの配下だった者たちだ。
それがこうして相争っているのであるから、何ともはや、である。
ともあれ北陸情勢は、西軍優位で進んだといっていい。
やや遡って八月五日。
この日になって、家康は江戸城に帰還した。
ちなみに同日に、三成も佐和山城に入ったらしい。
この頃には西進していた東軍諸将が尾張や美濃へと駒を進めている。
これは西軍にとっても同様で、居城である尾張清州城に入った東軍方の福島正則に対し、西軍は説得を開始していた。
西軍にしてみれば、これに成功すれば一気に三河方面に進出するつもりである。
八月八日には、吉川広家と安国寺恵瓊が率いる一万の軍勢が伊勢へと進出。
また美濃岐阜城には織田秀信がおり、三成はこれと連携して尾張方面へと兵を進めていた。
西軍はこの時、総大将である毛利輝元率いる三万の兵力をもって、西進してくる家康を浜松あたりで迎撃する予定であったという。
この時、家康は未だ江戸を動かず、である。
背後の上杉を警戒してのことであるが、池田輝政などは家康の到着を待たずに二十二日、木曽川を越えて織田勢との戦闘に及んだ。
美濃岐阜十三万石を有する織田秀信は、今は亡き織田信忠の子であり、あの織田信長の孫である。
その手勢は約六千。
秀信にしてみれば、東軍の木曽川越えを阻止したいところである。
だがどこから東軍が渡河をするか読めなかった織田方は、陣を複数個所設け、薄く引き伸ばして待ち構えるしかなかった。
これを突破したのが、池田勢である。
一方、福島正則勢も木曽川の突破を目論んでいたが、これは容易に成功せず、下流に迂回しての渡河を果たしていた。
その後、秀信配下・杉浦重勝が竹ヶ鼻城にて福島勢に対して敗北すると、秀信は岐阜城に追い詰められることになる。
秀信は大垣城や犬山城に援軍を要請。
自身は岐阜城に籠城し、後詰の到着まで耐え忍ぶ覚悟を決めた。
だが秀信にとって残念なことに、犬山城からの援軍は無かったのである。
犬山城城主の石川貞清は当初西軍に与していたものの、この時点ではすでに東軍に寝返る算段をしていたからだ。
大垣城からは三成の増援が岐阜城を目指していたものの、黒田長政や藤堂高虎の迎撃にあって敗走することになる。
これによって孤立無援となった岐阜城では、絶望的な戦いを強いられることとなった。
この時の東軍の軍勢は、およそ三万五千。
秀信は最後まで抵抗したものの、僅か一日での落城となった。
岐阜城は言わずと知れた堅城である。
しかしこれは寄せ手の池田輝政が、かつて岐阜城主を務めており、その構造はよく心得ていたためでもあった。
ともあれ岐阜城は、祖父の織田信長と同じく秀信をも守ることは叶わなかったのである。
この岐阜城の戦いがあっさりと決着がついたことは、三成にとっても想定外だったらしい。
当然ながら、戦略の見直しを迫られたのである。
八月二十四日。
我が父親である徳川秀忠に対し、出陣の命が下った。
それまで秀忠は宇都宮におり、命を待っていたのである。
目指すは予想通り、離反した真田領信濃の上田城であった。
ここまでは、わたしの知る史実とほぼ同じ展開である。
問題はこの後だった。






