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第29話 景頼との再会(前編)


     ◇


 甲斐武田氏。


 武田氏は本姓は源氏であり、河内源氏かわちげんじの一門であったみなもとの義光よしみつを始祖とする氏族である。

 まあ甲斐国に土着した甲斐武田氏が有名ではあるけれど、他にも若狭国や安芸国などにも元を同じくする武田家が存在していたりする。


 とはいえそれも、今は昔のこと。

 現在、その武田家は勢力を大きく減退させた。

 というか、徳川家の家臣に成り下がってしまっている。


 ちなみに生前のわたしと武田家は縁が深い。

 かつて朝倉色葉と名乗っていた頃のわたしは、いわゆる朝倉家の当主ではなかったけれど、それを牛耳る存在ではあった。


 が、その実わたしは朝倉家と何の縁も無い。

 朝倉家最後の当主であった朝倉義景の従兄弟、朝倉景鏡(かげあきら)を養父として経歴を詐称し、一度は織田家に滅ぼされた朝倉家を再興させたわたしは、その存続のために武田家と同盟して当時の武田家当主であった武田勝頼(かつより)の弟、仁科盛信にしなもりのぶを夫として迎えた。


 盛信は朝倉家に入る際に朝倉晴景と名を改めて、のちにその当主となる。

 そしてその婚姻同盟の際、政略の一環として朝倉家からは景鏡の嫡男が武田家へと入り、諏訪すわ景頼かげよりとしてかつて勝頼が当主を務めていた諏訪家の名跡を継いだのである。


 その後、武田家は滅亡。

 わたしと晴景は相談し、景頼に武田家の名跡を継承させることとした。

 つまり、武田景頼はわたしの義弟おとうとだった人物、ということになる。


 武田家が滅亡した際、その遺領は織田家や北条家に蹂躙されていた。

 わたしはそれを取り戻し、その遺領の大半を景頼に統治させたわけだが、その後間もなくして本能寺の変が勃発。

 わたしも晴景も死んでしまった、というわけである。


 これにより朝倉家は滅亡。

 景頼はわたしが与えていた甲斐や信濃を中心に、割拠することになったという。


 その当時、真田昌幸こと武藤むとう昌幸もわたしの家臣となっていて、飛騨国を支配していた。

 昌幸はずっと武田家臣であったもののわたしのお気に入りの一人で、朝倉領であった飛騨を統治させるという破格の待遇をし、さらに景頼の弟が昌幸の娘が嫁いでいたため、朝倉家と武藤家は縁戚、という関係でもあった。


 昌幸にしろ景頼にしろ、武田家が滅ぶまでは同じ武田家臣であったし、親戚でもある。

 わたしが滅んだ後は協力しても良さそうだったのであるが、そうはならなかった。


 その頃、昌幸の実兄であり真田家の当主であった真田昌輝(まさてる)が病死し、昌幸がその遺領もろとも真田家の家督を継承すると、飛騨だけでなく北信にも影響力を持った昌幸と、景頼の間で対立が生じたという。


 結果、戦になってしまったらしい。

 昌幸は信濃全域の支配を目論み、武田領に侵攻。

 景頼は敗れて信濃を失い、その後徳川家康を頼るようになったとか。


 この後、勢力を拡大させた羽柴秀吉と、徳川家康の間で板挟みになっていくのであるが、結局景頼にしろ昌幸にしろ家康にしろ秀吉に臣従を余儀無くされて、とりあえずは天下統一、となったわけだった。


 この間に昌幸は飛騨、信濃の所領を安堵されて勢力を守ったものの、景頼は家康の与力大名とされて改易され、駿河するがなどの所領は失って甲斐一国のみの小大名に転落してしまった、という次第である。


 ともあれ、今でも武田家はほぼ徳川家の家臣となって甲斐一国を辛うじて支配し、存続している。

 家康にとって武田家は、何度も煮え湯を飲まされた相手だ。


 かの武田信玄には元亀げんき三年十二月の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでぼろ負けし、その子・勝頼にはとうとう徳川家を滅ぼされてしまう始末であったからだ。

 この時に家康は、嫡男・信康を失っている。


 とはいえ家康は北条家に身を寄せ、その北条に攻め寄せた勝頼の軍勢を第二次三増峠(みませとうげ)の戦いにて返り討ちにすることで、仇をとった。


 そのような因縁の間柄ではあったものの、家康個人は信玄のことを尊敬していたようで、武田家という存在の存続には前向きだったといえる。

 史実の話ではあるが、武田一門であり、これを裏切った穴山梅雪あなやまばいせつを厚遇してその名跡を継がせるつもりであったことからも、それは伺える。


 ちなみに梅雪はわたしの死後、雪葉に殺されたらしい。

 当時のわたしは梅雪のことを嫌っていたし、そのことで梅雪もわたしのことを恐れていたはずだ。


 そして本能寺の変。

 わたしが死んだことを喜んだ梅雪であったが、その時に目の前にいた雪葉が、それを見過ごすわけがなかった――とまあ、そんな感じである。


 その時にけっこうえげつない死に方をしたらしく、当時その場にいた徳川の重臣達はその時のことを今でもはっきりと覚えているという。


 本能寺の変の際、上方にいた家康は命辛々脱出を果たしたわけだけど、雪葉が護衛していたことでこれに成功したことは疑いようもなく、随行していた徳川の重臣たちの多くの命を救ったことにもなった。


 それにより徳川家中で主だった者の中に雪葉に対して侮る者はおらず、またその時の縁もあって、今の地位にいるといっても過言ではない。


 ……まあ、ここまで計算して家康のいわゆる伊賀越えを助けたわけではないだろうけど、結果としてわたしが秀忠の娘として誕生したのだから、運命とは分からない、というものである。

 ちょっと余談が過ぎたな。


 話を戻すが、そんな感じで現在の甲信は、信濃に真田家、甲斐に武田家があって以前の経緯から反目している――そんな感じらしい。

 少なくとも周囲はそう思っているとか何とか。


 つまり、真実はやや違うのである。


「お久しぶりです。義姉上あねうえ


 そう雪葉へと挨拶をするのは、武田景頼その人である。

 どうやら景頼は未だに雪葉のことを義姉としているらしい。


 もちろんこれは、雪葉がわたしの義妹だったことに由来する。


「景頼様、面を上げて下さい」

「はっ」


 顔を上げた景頼を、雪葉の隣に座っていたわたしはまじまじと見返した。


 年の頃は三十半ば。

 最後に会ったのが十代後半だったのだから、様相も変わるというものである。


「……立派になったな」


 つい、そんな感想が漏れてしまった。

 わたしからすれば自然な感想だったけれど、景頼からすれば違和感しか覚えない発言だったことだろう。

 何しろこっちは齢三歳程度の小娘どころか幼子である。


 やや戸惑った景頼はさて置いて、景頼もまた今回の家康からの動員に応じて江戸に参集していた。


 ちなみに景頼は徳川の親族衆の一員である。

 驚いたことに、景頼は家康の長女である亀姫かめひめを側室に迎えていた。


 史実であるならば、亀姫は奥平貞昌おくだいらさだまさの正室になるはずだったのであるが、生前のわたしのせいで立ち消えになってしまっていたからである。


 というのもかの長篠ながしのの戦いで、わたしが貞昌を討ち取ってしまったからだ。

 婚約の話まではいっていたのだろうけど、実際に嫁ぐことはなかった、というわけである。


 で、紆余曲折を経て景頼に嫁ぐことになったらしい。

 もちろん、わたしの死んだ後の話であるけれど。


 またまた余談ではあるが、それなりに子だくさんらしく、娘などは大久保忠常(ただつね)に嫁いでいるとか。

 忠常は大久保忠隣の嫡男であり、忠隣は秀忠の側近であって、雪葉を秀忠の正室に推したのも忠隣であった。


 そして忠隣は相模小田原を治める徳川家の重臣でもある。

 また忠常はとても知勇に優れた人物であるらしく、秀忠や家康にも気に入られているとか。


 そんな大久保一族に加え、武田家。

 つまるところ、雪葉にその気があったかどうかは別として、徳川家中に雪葉の後ろ盾となる一定の勢力を得ることに成功している、ということになるだろう。


「このような時に、お呼びたてして申し訳ありません。ですが、どうしてもお会いしたいという方がいらっしゃったのです」


 景頼を相手に話す時も、雪葉は柔和なものである。

 かつての朝倉家にあった頃を思い出す感じだ。


 まあ雪葉や朱葉は徳川家に入るまで、景頼に庇護されていたはずだからな。

 色々世話になったはずで、当然といえば当然の反応ではある。


 とはいえその優しさの一部でも、我が父にも与えてあげればいいのにと思うのだが、まあかつて横暴を極めていたわたしが言うな、だな。

 頑張れ、秀忠。


「義姉上のお呼びであれば、労を厭うものではありませぬが。そのお方というのは……?」


 この部屋には雪葉とわたし、そして隅に控えた朱葉しかいない。

 ある意味身内だけである。


「もちろん、姫様です」


 その言葉に、景頼の表情が変わった。

 どうやら雪葉が「姫様」と呼ぶ存在がたった一人しかいないことを、ちゃんと弁えているらしい。


「まあ、そういうわけだ。驚け」


 と、わたしはふんぞり返ってそう言ってやる。

 しばしぽかんとなった景頼は、わたしと雪葉を何度も見比べて、やがて一つの結論に至ったらしい。


「まさか……まさか、本当に……姉上なのですか」

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